第十二話 舞姫、会いたかった
桜桃は壁に背をつけた。
息が荒い。左腕が熱い。
「見せろ」
昊夜の声が、微かに鋭く震えていた。
見れば、彼の端正な顔は凍りついたように強張っている。
着物の肩口が裂け、白い肌に鮮やかな赤が滲んでいた。
昊夜がその場に膝をつき、至近距離で腕を確認する。
「……掠っただけだ。深くない」
「はい」
声が少し掠れた。自分でも気づかなかった。
昊夜は懐から白い布を取り出すと、傷口に当てて巻き始めた。
桜桃は、その手元から、目が離せなかった。
昊夜の手は、驚くほど細やかに、丁寧に動いていた。決して傷口を刺激しないよう、痛みを増やさないよう、指先が壊れ物を扱うように繊細に震えている。
いつもは厳しい現実を突きつけるこの男が、今、至近距離で、自分のためにこんなにも必死に手を動かしている。その事実が、桜桃の心を激しく揺さぶった。
「痛むだろう」
視線は腕に落としたまま、静かに言う。
「……少し」
「少しじゃない顔をしている。……すまない」
「……え?」
驚いて見上げると、昊夜もまた、すっと視線を上げて桜桃を見た。
その瞳の奥には、いつもなら絶対に表に出さない、剥き出しの苦渋と、彼女を傷つけられたことへの悔恨が揺れている。
襲いかかってきた白刃。肉を切り裂き、身をすくませた矢の風切り音。
間近で直面した暴力への恐怖と、昊夜の熱い吐息、そして彼の瞳の奥の深い熱に、桜桃の心臓は痛いほど脈打った。恐怖のせいか、傷の痛みのせいか、それとも彼へのときめきなのか、もう何も判別がつかなかった。
「大丈夫、です……本当に、昊夜様」
「……強情だな、お前は。いつも、そうやって私の前で強がる」
呆れでも、怒りでもない。それは穏やかで、少し切ない響きだった。
巻き終わった腕から、昊夜の手が離れる。
けれど、離れる直前――彼の手のひらが、桜桃の頬のすぐ近く、汗で濡れた髪を一瞬だけ、そっと指先でなぞった。気のせいだと思えないような、名残惜しそうな手の動きだった。
「行くぞ」
昊夜が立ち上がる。
桜桃の呼吸は恐怖と混乱で限界まで張り詰めていた。震えそうになる膝を、必死で押さえつける。
その胸を締め付けるような恐怖と苦しさに、少しだけ逃げ出したくなる。
思い浮かぶのはこの先にいる、あの人の姿。
幼い頃からどんな自分も知っていて、正論も義務も抜きにして、ただただ無条件に自分を甘やかし、全肯定してくれた、あの安心感。
昊夜に向ける胸の痛いほどのときめきとは違う。
あの静かな場所に帰って、一度張り詰めた心をほどきたい。
(朝凪……。早く、会いたい……)
痛む腕を抱えながら、桜桃は涙を堪えるようにして一歩を踏み出した。
広場の奥に、朝凪がいる。
疾風が、民が待っている。
昊夜が切り開いてくれた道の先へ、桜桃はまっすぐに走り出した。
昊夜と桜桃が蘇原の中心部である広場へと滑り込んだのは、周囲の雪が夕暮れの朱色に染まり始めた頃だった。
広場に一歩足を踏み入れた瞬間、桜桃の足がぴたりと止まった。
避難してきた多くの民の間を忙しなく動き回りながら、的確に周囲の兵へと指示を出している人影が見える。
その、見紛うはずもない背中を目にした瞬間、喉の奥にずっと仕えていた何かが、一気にほどけていくのが分かった。
「朝凪」
声が勝手にこぼれ落ちていた。自分が思っていたよりも、ずっと大きな声だった。
朝凪が弾かれたように振り返る。
――目が、合った。
いつも冷静な彼の目が、大きく見開かれ、そして安堵したような表情に変わっていく。
桜桃は、気づいたときにはもう歩き出していた。歩いていたのに、途中から、恐怖も肩の痛みも忘れて、ただひたすらに走っていた。
全力で駆け抜け、朝凪の目の前まで来ても、どうしても止まることができなかった。
朝凪が力強く一歩踏み出した。
しなやかな長い腕が迷いなく伸びてきて、気づいた瞬間には、桜桃は彼の胸の中に包み込まれていた。
朝凪の胸元に、深く顔を埋める形になる。
広い。そして、温かかった。
武州に向かってからずっと、どこかに張り続けていたものが、一気に解けた。
桜桃は彼の確かな体温に圧倒されて、指一本動かすことができなかった。
朝凪の腕に、少しだけ力が籠った。
「怪我は」
「掠っただけ」
「……よかった」
耳元に響いたのは、掠れた声だった
いつもは、静かで、感情の読みにくい彼の声だが、
今日のその声は違っていた。わずかに、震えていたのだ。
桜桃はそれを聞いて、目が熱くなった。
「……朝凪」
「はい」
「会いたかった」
朝凪はしばらく何も言わなかった。
ただ、腕の力が、更に少しだけ強くなった。
「……私も」
それだけだった。
けれど、今の桜桃にとっては、その一言だけで十分すぎるほどだった。
二人の周囲にだけ、まるで別の時間が流れているかのようだった。それが一体どのくらい続いた頃だろうか。
「――おい。いつまでやっている」
すぐ近くから、不機嫌そうな声が降ってきた。
桜桃がハッとして朝凪の腕の中で顔を上げると、すぐ目の前に昊夜が立っていた。
腰に手を当て、眉間に深い皺を寄せて二人を睨みつけている。
危険な戦場から、桜桃を守り抜き、この広場まで送り届けたのは、他ならぬこの男だった。
それなのに、自分が送り届けた瞬間、別の男の胸へ迷わず飛び込んだのだ。さすがに面白くなかった。
朝凪は表情を変えず、けれど桜桃を腕の中に抱き込んだまま、すっと昊夜を見据える。
「……送り届けていただき、感謝いたします、近衛中将」
「感謝している男の腕の角度ではないな。離せ」
昊夜は唇を引き結び、二人の抱擁に不満げな目を向けた。無事の再会を邪魔するつもりはないようだが、不機嫌さは隠しきれていない。
「そこまでにしろ。私の前で勝手に他人の腕に収まるなと言っている」
昊夜は朝凪を明確に「他人」と言い放ち、一歩踏み込むと、朝凪の腕から離れた桜桃の肩を、後ろからぐっと自分の方へ引き寄せた。強くはないが、確かな力だった。
「お前をここまで安全に連れてくるのが、どれほど大変だったと思っている。……私の傍を離れるなと言っただろう。これは命令だ」
少し拗ねたような台詞。
朝凪の胸に飛び込まれたのがよほど悔しかったのか、いつもより少し距離が近い。
それに対して朝凪も、一歩も引かずに静かな視線を昊夜の手に送っている。
「中将、六花が窮屈そうにしていらっしゃいます。手を離されては」
「断る」
雪の舞う広場の片隅で、子供のように火花を散らし始めた二人の男に挟まれ、桜桃は、肩に触れる昊夜の指先の熱さにどきどきしながらも、思わず心の中で(何これ……)と突っ込んで、少しだけ息を整えた。
「……刹那は、まだ来ていませんか」
桜桃が気にかけるように呟くと、昊夜は鋭い視線を広場の入り口へと向けた。
「まだだ」
「そうですか……」
昊夜はそのまま、警戒を怠らない歩調で広場の入り口の方へと向かった。
ただ待つのではなく、いつでも加勢に出られるよう、刹那の帰還をそこで待つつもりらしかった。
桜桃はその背中を静かに見つめた。
そこへ、周囲の状況をまとめていた疾風が、こちらに気づいて駆けてきた。
「昊夜兄上! 食糧は、食糧はどうなりました!?」
「少し持ってきた。他は神祇官の荷とともに、北の旧水路から運び込まれる」
「よかったぁ……! 本当によかった……!」
疾風は、緊張が一気に抜けたように、心底安堵した顔をして胸をなでおろした。これで明日からの飢えは凌げる。
それから、彼は昊夜の傍らに立つ桜桃へと視線を移した。
「そちらが、噂の神祇官の方ですか?」
「……初めまして、六花と申します」
「こんな場所まで、わざわざ来てくださったんですか。……道中、大変じゃなかったですか?」
「……少し」
「少し?」
疾風の視線が、桜桃の右肩へと落とされる。
そこに巻かれている白い応急処置の布には、じわりと生々しい赤黒い血が滲み出ていた。
桜桃はきまずそうに、少しだけ目を逸らした。
本当は、少しどころではない恐怖と痛みに襲われていたのだが、ここで大騒ぎして周囲を余計に不安にさせるわけにはいかないという、彼女なりの気遣いだった。
そんな桜桃の健気な様子を察したのか、疾風はふっと表情を和らげ、ぽつりと突然の告白を口にした。
「俺、今日、避難してきた子供に思いっきり泣かれました」
「え……?」
「なんか良かれと思って話しかけたら、最初は顔が怖かったのか、すごく泣かれて。……でも、根気強く声かけを続けていたら、最後は、ちっちゃい手で俺の服を掴んで笑ってくれたんです」
「……そう、だったんですか」
「はい。それだけで……何て言うか、俺、もう少しここで頑張れる気がしてきました」
そう言って笑う疾風を、昊夜は静かに見つめていた。
普段なら「くだらん」と一蹴するかもしれないような、戦場における小さな一幕。だが、昊夜は何も言わなかった。
ただ、その言葉の重みを認めるように、静かに、深く頷いた。
疾風は兄のその沈黙の肯定を見て、少しだけ照れたように頬を掻き、嬉しそうな顔をした。張り詰めた蘇原の広場に、ほんの一瞬だけ、確かな温もりが灯ったようだった。
***
刹那が広場に入ってきたのは、それからしばらくしてのことだった。
大勢の反乱兵を一人で引きつけていたはずの男は、まるで近所へ散歩にでも行っていたかのような、涼しい顔をして現れた。
「お待たせ、無事に届いたみたいで何より」
気だるげに言った刹那だったが、桜桃の肩の血に気づくと、眉をひそめた。
「……怪我したのか。大丈夫か?」
「大丈夫。掠っただけ。――刹那こそ、怪我は?」
「ないない。あの程度、俺にかかれば赤子の手をひねるようなもんだよ」
「本当に?」
「……まぁ、ちょっとだけ掠った」
「ちょっとって……」
「大したことないって」
刹那はそう言いながら、右腕を庇うように動かした。衣の袖が黒く濡れており、容赦なく斬り結んだ痕跡を物語っている。
「手当てします」
「いや、いい」
「します」
「…………はい、お願いします」
桜桃の有無を言わせぬ強い視線に押され、刹那は観念したように大人しく従った。
朝凪はその様子を遠くから静かに見つめていたが、彼が生きていることを確認すると、そっと目を逸らした。
広場の端では、昊夜がすでに地図を広げていた。次の動き、この包囲網をどう破るかを計算している。
桜桃がいる。刹那がいる。疾風がいる。
朝凪は静かに辺りを見渡した。全員、無事だった。
――少なくとも、今日は。
朝凪は静かに目を伏せた。胸の重苦しさが、少しだけ和らいでいくのを感じていた。




