第十三話 舞姫、祈る
広場の隅に、刹那が腰を下ろしていた。
桜桃はその前に膝をつき、慣れない手つきながらも一生懸命に腕の傷へ白い布を当てていく。
「痛い?」
「大したことない」
「大したことある傷よ、これ。血が止まってないじゃない」
「慣れてるからな」
「慣れてていい傷なんてないわよ」
刹那は珍しく反論せず、されるがままになっていた。
彼の視線は、手当てをする桜桃を通り越し、少し遠くの景色を捉えていた。
広場の向こう。
昊夜と朝凪がいる。二人は近くにいるが、言葉は一切交わしていない。
昊夜は鋭い目で地図を凝視し、朝凪はその斜め後ろで、刀を手入れしている。
刹那はそれをぼんやりと眺めながら、ふっと薄く息を吐き出した。
(あいつらといると、嫌でも昔を思い出すな……)
血と硝煙に塗れた、かつての戦場。
今より少し若くて、三人で互いの背中を預け合い、ただひたすらに前へ進んでいた頃。
あの時も、昊夜と朝凪は必要最低限の会話しかしなかった。昔から決して仲が良かったわけではない。
ただ、互いの背中だけは、自分の命以上に信用していた。
それだけの、言葉のいらない関係。
今も、根底にあるものはきっと変わっていない。
ただ――。
刹那はもう一度、その二人の男を凝視した。
(……いや、それにしちゃ、なんか空気が重すぎるな)
昔の戦場の緊迫感とは、明らかに質の違う「重さ」だった。
何が原因なのか、刹那には大体の察しがついた。
視線を、目の前で一生懸命に包帯を巻いている少女へと落とす。
姫がいるからだ。
あの二人の間に、姫という一人の存在が介在してから、男たちのまとう空気が変わっている。
やれやれ、と刹那は心の中で苦笑した。
「痛い?」
桜桃が包帯の端をきゅっと結びながら、心配そうに顔を覗き込んできた。
「平気平気」
刹那は視線を桜桃へと戻した。真剣に手当てをしてくれた彼女。少し寄った眉が、どれほど自分を心配してくれていたかを物語っている。
刹那の口元が、自然と緩んだ。
「大丈夫だ、姫」
「何が?」
「――俺たちが、ここに来たんだから」
桜桃はハッとして手を止めた。
見上げた刹那の顔は、相変わらず飄々としていた。けれど、その双眸だけは、決して揺らぐことのない絶対的な強さを秘めて真っ直ぐに向けられていた。
桜桃は少しだけ視線を落とした。不意に胸を突くほどの、圧倒的な頼もしさ。
「……うん」
桜桃が小さく頷くと、刹那は満足そうに笑った。
***
刹那は立ち上がると、手当てされた右腕を一度大きく回し、馴染ませるように傷の具合を確かめた。
それから、独特の足取りで、昊夜と朝凪のいる場所へとゆっくり歩み寄っていく。
作戦地図を凝視する昊夜と、その斜め後ろに佇む朝凪。その二人の間に、刹那はひらりと割り込んだ。
「相変わらず、お前ら二人で並ぶと空気の重さが尋常じゃねぇな。少しは言葉ってものを交わしたらどうなんだ?」
刹那の軽薄とも取れる物言いに、まず朝凪が静かに視線を向けた。
「……無事に戻ったなら、軽口を叩く前に総大将へ報告しろ」
「手厳しいねぇ。昊夜、お前からも何か言ってやれよ」
昊夜は地図から視線を上げ、刹那の傷に巻かれた包帯を一瞥した。
「無駄口を叩く余裕があるなら、まだ動けるな」
「手厳しいのはお前もか」
刹那は肩をすくめて苦笑したが、次の瞬間、その瞳からふっと色が消えた。
一歩、二人の距離へと踏み込む。
「まぁ、いいや。――挨拶代わりに、昔の勘を取り戻そうぜ」
刹那は一切の躊躇なく、右腕を昊夜の肩に、左腕を朝凪の肩へと同時に回し、二人をぐっと力強く引き寄せた。
「昊夜、朝凪。姫が心配してる」
芯の通った声。
二人の視線が、同時に刹那へと注がれる。
「――さっさと終わらすぞ」
短く、それだけだった。
そこには、幾多の死線を共に潜り抜けてきた者たちにしか分からない、絶対的な共鳴があった。
昊夜はフッと不敵に唇の端を上げ、静かに、深く頷いた。
朝凪は何も言わなかった。ただ、双眸を細め、無言の闘志をその瞳の奥に灯らせた。
***
食糧を携えた、後発の神祇官たちがようやく広場へと到着した。
しかし、安堵が広がるのも束の間、蘇原の空が血のような夕暮れに染まり始める頃、犠牲となった者たちの弔いが静かに始まった。
瑛が桜桃の衣を整える。
「大丈夫ですか、六花様」
「ええ」
桜桃は深く頷き、広場に顔を向けた。
広場に、物言わぬ姿となった死者たちが横たえられている。
その死に顔は一様に凄惨な戦火に晒されたものだったが、遺体はどれも泥を拭われ、衣服を整えられ、驚くほど整然と、丁寧に並べられていた。
――すべて、朝凪が自ら手配し、彼の手で整えられたのだと、桜桃は後から知った。彼なりの、民への、そして生者への静かな配慮だった。
桜桃は、死者たちの前へと一歩踏み出した。
だが、そこで足が、凍りついたように止まってしまう。
間近で見る戦の爪痕は、あまりにも凄惨だった。
今にも、彼らの無念の叫びが聞こえてきそうだった。
あまりの恐ろしさと哀しさに、目を背けたくなった。
けれど、背けてはいけない。自分は彼らの魂を導く神祇官なのだと分かっていた。
分かっていても、胸が締め付けられ、喉の奥が引き裂かれそうなほどに詰まって、涙が溢れそうになる。
(しっかりして、私……。この人たちのために、今、私がここにいるのだから――)
桜桃は、震える胸に静かに息を吸い込んだ。
冷たい冬の空気が肺を満たす。もう一度、深く吸った。
それから、溢れそうになる涙を必死に堪え、ゆっくりと、確かな足取りで歩き出した。
一人ずつの前に立ち、死者たちの手を見つめながら、そっと自らの手を合わせる。
そして、小さな唇を開いて、声を出した。
――それは、魂を鎮める舞を捧げる前の、短くも、どこまでも優しい祈りの言葉。
最初、その声はひどく震えていた。恐怖に、そして目の前のあまりに理不尽な死への憤りと悲しみに、か細く震えていた。
けれど、桜桃の祈りは決して止まらなかった。一人、また一人と祈りを重ねるうちに、彼女の声は死者たちの魂をそっと包み込むような、深く、温かい強さを帯びていく。
その健気で清らかな祈りの声は、夕闇に沈みゆく広場に、傷ついた生者たちの心をも静かに癒やすように、どこまでも優しく響き渡っていた。
暁は、薄暗くなり始めた広場の端に佇み、厳かに執り行われる弔いの様子をじっと見届けていた。
神祇官の娘が、並べられた死者の前に立ち、一心に祈りを捧げている。
その小さな身体は、寒さと恐ろしさに確かに震えていた。けれど、彼女の紡ぐ清らかな祈りの声は、決して止まることはない。
暁はその痛々しくも気高き横顔を、静かに見つめていた。
ふと、暁の視線が別の場所へと動く。
少し離れた場所から、朝凪がその娘を見つめていた。
彼は周囲の兵たちに絶え間なく指示を出し、戦況を統率している。にもかかわらず、その目の端は、片時もあの娘の姿を離さず、ずっと追い続けていた。
朝凪という男は、いつも静かで、その顔に滅多なことでは感情の陰影が浮かばない。
それなのに、あの娘を前にしたときだけ、わずかに、しかし決定的に違う眼差しをする。
暁は、奇妙な胸騒ぎを抑え込むように、静かに息を吐き出した。
――六花。
あの神祇官の娘の名。
確か、桜桃元皇女の最も身近な侍女であった日向の娘も、同じ「六花」という名だったはずだ。
指定された任務を淡々とこなし、いつも波一つない湖のように静かなあの朝凪が、なぜこれほどまでに彼女の傍に寄り添っているのか。
かつて桜桃元皇女の絶対的な盾として、その最期まで護衛を務めていたあの男が。
暁は、ゆっくりと視線を足元へと落とした。
(……日向殿の娘、か?)
胸の奥底へ、静かに重い問いが落ちていく。
もちろん、今ここで答えなど出るはずもなかった。出すべきでもない。
暁は思考を強制的に打ち切り、再び顔を上げた。そして、夕闇と黒煙が混ざり合う雪空の下、静かに魂を鎮める彼女の舞を、ただ黙って見つめ続けていた。
***
翌日、静寂を切り裂くようにして、息を切らせた伝令が広場へと駆け込んできた。
「ほ、報告いたします! 後発隊の展開、すべて完了しました! これをもちまして、反乱兵に対する外側からの包囲網、完全に完成しております!」
その報せが落ちた瞬間、広場に走った緊張感は昨日までのそれとは一線を画していた。
暁が迷いのない動作で静かに立ち上がる。
「最後の戦いだ。全員、それぞれの持ち場へ」
その一言で、兵たちが一斉に動き始める。
緊迫した足音が雪を踏みしめて響く中、朝凪が桜桃の前にすっと立った。いつもと変わらない、波一つない静かな、しかし確固たる意志を宿した眼差し。
朝凪ははっきりと、言い聞かせるように告げた。
「六花は、絶対にこの広場から出ないでください」
桜桃は、その静かな瞳を真っ直ぐに見返した。
「……分かってる」
朝凪は満足したように一度だけ小さく頷くと、音もなく踵を返し、自らの戦場へと向かっていった。
そこへ、疾風が自分の部隊を率いるために勢いよく走ってきた。桜桃の前を通り過ぎる瞬間、白い息を吐きながら声を上げる。
「行ってきます!」
「疾風」
その背中に、横から昊夜が、重みのある一言を投げかけた。
「……怪我をするな」
疾風の足が、一瞬だけ止まった。それから、少しだけ照れくさそうに顔を上げ、嬉しさを噛み締めるように短く答えた。
「――はい!」
疾風は今度こそ、弾かれたように前線へと走っていった。
入れ替わるように、昊夜が桜桃の前に歩み寄る。
彼は何も言わなかった。ただ、一度だけ、桜桃の瞳を射抜くように強く、深く見つめ、風のように去っていった。
最後に、刹那がひらひらと手を振りながら桜桃の横を通り過ぎた。
「大人しくしてろよ、姫さん」
「……する」
「ほんとに?」
「ちゃんとするってば」
「……まぁ、一応信じておくか」
刹那はいつもの飄々とした調子で軽く笑うと、瞬時に戦い手の鋭い気配をまとって、戦火の渦へと消えていった。
***
男たちが去った広場に残されたのは、身を寄せ合う民と、彼らを支える神祇官たちだけだった。
やがて、遠くから、そして近くから、激しい剣戟の音が響き始めた。
地を震わせる怒号、刃と刃が噛み合う鋭い金属音。
民たちは恐怖に肩を震わせ、互いの身体を固く抱きしめ合っている。
幼い子供の泣き声が響き、老人は崩れかけた壁に凭れたまま、祈るように静かに目を閉じていた。
桜桃は、じっとしていられなかった。
痛む肩を堪えながら、広場の中をゆっくりと歩き始める。
恐怖に震えている母親の前に、そっと目線を合わせてしゃがみ込んだ。
「大丈夫です」
努めて穏やかな、芯のある声を出した。
「もうすぐ、すべて終わりますから」
信じてほしかった。そして何より、自分自身でもそう信じたかった。
泣きじゃくる子供の小さな頭を優しく撫でる。その小さな身体は冷え切っていた。桜桃自身の手も凍えるように冷たくなっていたが、それでも、少しでも温もりが伝わるようにと何度も何度も撫で続けた。
壁際に座り込む老人の傍らに、そっと腰を下ろす。
「寒くないですか」
「……神様が、神様が来てくださった」
老人が、掠れた声で小さく呟いた。
「神様じゃありませんよ」
「神祇官様じゃろ?」
「ただの、神祇官です」
「同じじゃよ……我らにとっては、同じじゃ」
老人の皺だらけの手に包まれ、桜桃は少しだけ切なそうに目を伏せた。
自分には、彼らの代わりに刀を振るって敵を倒すことはできない。
けれど。
桜桃は、再びしっかりと立ち上がった。
木戸の向こうからは、依然として激しい戦の音が鳴り響いている。まだ、終わっていない。
桜桃は寒空の下、広場をどこまでも歩き続けた。
怯える人、傷ついた人、一人ひとりの前に進み出ては、優しく、語りかけるように声をかけ続けた。
――みんな、どうか無事で。
朝凪も、昊夜も、刹那も、疾風も。ここにいる民たちも、全員。
その願いを声に出してしまえば、張り詰めた涙が決壊してしまいそうだったから。
桜桃はただ、一歩一歩を血の滲む大地に刻みながら、胸の中で、祈るようにその言葉をずっと、ずっと繰り返し続けていた。




