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狂桜華《きょうおうか》~亡国の姫は、名を捨て帝を目指す~  作者:
第一章 桜、散る夜に

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第八話 六花の香袋

 侍女部屋は、八人が使う細長い部屋だった。

 案内してくれた女官は、部屋の前まで来るとそれだけで去っていった。説明も、挨拶もない。


(……忙しいのだろう)


 そう思うことにした。


 部屋の中には先客が二人いた。どちらも黙って自分の荷を整えている。目が合うと、片方が軽く頭を下げた。もう片方は見なかったふりをした。


 桜桃は空いている棚を見つけて、荷を置いた。

 部屋の隅に、使いかけの蝋燭が転がっていた。誰かが置き忘れたものだろう。片付けられていない。


 謀反の前の宮廷は、こんなではなかった。侍女部屋はいつも整えられていた。新しく入る者には必ず先輩の侍女がついて、部屋の使い方から仕事の順番まで丁寧に教えてくれた。今は、それをする余裕がないのだと分かる。


「新しく入ったの?」


 声がして振り返ると、小柄な侍女が立っていた。くるくるとした目をしている。警戒でも好奇心でもない、ただ確認するような目だった。


「はい。六花と申します」


「鈴。よろしく」


 鈴はそれだけ言って棚に荷を押し込んだ。


「固くならなくていいよ。みんな似たようなもんだから」


「似たような、とは」


「寄せ集め」


 あっさりと言う。


「謀反の後で人が足りなくなって、あちこちから集めた感じ。知り合いなんて誰もいないし、仕事のやり方もバラバラだし」


「そう……ですか」


「慣れればどうってことないけど、最初はびっくりするよね」


 鈴は部屋を見渡した。片付いていない棚。説明書きひとつない壁。誰のものか分からない荷が隅に積まれている。


「ここも片付いてないし、説明もないし。ちゃんと教えてくれる人もいないし」


「……前にいた方たちは」


 鈴の手が、少しだけ止まった。


「逃げた人もいるらしいよ」


 軽い声だったが、続く言葉は少し低くなる。


「捕まった人も、いるって話」


 桜桃は黙った。


「詳しくは知らないけど」


 鈴は荷を整えながら続ける。


「なんか、謀反に関わってたとか関わってなかったとか。そういう話でごちゃごちゃしてるみたい」


「……今も、捕まったままなんですか」


「さあ。そこまでは」


 鈴は肩をすくめた。


「あたしたちには関係ない話だし」


 関係ない、とは言えなかった。


 捕まった侍女たちの中に、知っている顔があるかもしれない。謀反に関わっていない者が、巻き込まれているかもしれない。生きているなら、解放されるべきだ。

 でも今の桜桃には、それを動かす力がない。名前も、立場も、何もない。


「……どうしたの?」


 鈴が覗き込んでくる。


「いいえ」


「顔色悪いよ」


「大丈夫です」


「ならいいけど」


 鈴はそれ以上聞かなかった。桜桃は棚に視線を戻した。


(必ず)


 まだ何もできない。でも、いつか必ず。

 その思いだけを、胸の奥にしまった。


***


 最初の三日で、桜桃は宮廷の大まかな構造を掴んだ。


 宮廷の中に帝一家が暮らす「しょ」が位置し、塀で囲まれている。御所から少し離れた場所に各皇族が暮らす御殿が立ち並んでいる。

 その一帯は皇居と呼ばれていた。


 皇女として生きていた頃の桜桃は、御所の敷地からほとんど外へ出たことはなかった。


 皇居の外は、侍女が動ける区域。文官が詰める区域。上位の者だけが入れる区域。それぞれの境界は扉でも壁でもなく、習慣と空気でできていた。


 謀反の傷跡は、まだ随所に残っている。柱が焦げたまま放置されている廊下もある。修復中の壁の前に、目隠しの布が張られている場所もある。それでも宮廷は動き続けている。人が来て、人が去って、仕事が積まれて、消えていく。


 その流れに混じりながら、桜桃は少しずつ情報を集めようとしていた。


(謀反の夜、何があったのか。誰が、何のために)


 答えへ続く糸を、まだ掴めていない。

 


 宮廷を歩いていると、未だに、誰かが後ろに立った気がして振り返ることがある。


 もちろんそこにいるはずもなかった。


(朝凪は……)


 考えかけて、止まった。

 あの扉が閉まった瞬間のことが、頭から離れなかった。

 膝をついた背中。倒れていく姿。それ以上思い出すのをやめた。考えたら動けなくなる。それだけは分かっていた。


 ただ。


 朝凪が死ぬところを、うまく想像できなかった。


 いつも一歩後ろにいた。桜桃が転びそうになる前に、もう手が伸びていた。怒っているのか笑っているのか分からない顔で、不器用な冗談を言った。桜の花びらを、愛おしそうに風に逃がした。


 そういう人が、あの扉の向こうで死ぬところを——想像しようとしても、できなかった。


 根拠なんてない。


 ただ、どこかで息をしている気がした。


(……生きているなら、必ずまた現れる)


 そう思うことにした。


 そう思わなければ、今夜は眠れない気がした。



 その夜、桜桃は薄暗い部屋にいた。


 他の侍女たちはまだ戻っていない。部屋の隅に、ひとつだけ場違いな箱があった。整えられた寝台や衣桁と違い、それは少しだけ奥に寄せられ、主張を避けるように置かれている。使われていなかったわけではない。けれど、誰かに見せるためのものでもなかった。


 桜桃は、しばらくそれを見つめた。

 六花のものだと、すぐに分かる。


 几帳面な彼女は、物の置き方に癖があった。人目につかぬ場所に寄せながら、しかし取り出しやすい位置に置く。整えられているのに、どこか生活の気配が残る。それを知っている。知っているはずだった。

それでも、すぐには手を伸ばせなかった。


 静かな部屋に、衣擦れの音だけが落ちる。

 やがて桜桃は膝を折り、箱に触れた。軽い。中身は多くない。


 蓋を開くと、整然と収められた小物が現れた。櫛、細い紐、使い込まれた布片。どれも六花らしい、質素で、無駄のないものばかりだ。

 指先が、ひとつの包みに止まった。

 布にくるまれた、小さなもの。見覚えがある、と先に思った。理由は分からない。ただ、形が指先に馴染むように感じられる。


 そっと取り上げる。軽く、柔らかい。その重さに、胸の奥がわずかに揺れた。

 包みをほどく。

 現れたのは、こうぶくろだった。


 桜桃の指が止まる。

 似ている。かつて持っていたものと。幼い頃からいつの間にか手元にあって、当たり前のように持ち歩いていたもの。謀反の夜に失くしてしまった、あの香袋と。

同じ形。似た仕立て。手に収まる感触も、ほとんど変わらない。

 だが。


 ゆっくりと、息を吸う。

 香りが立つ。白檀に似ている。それは間違いない。けれど、どこかが違う。やわらかく、奥に沈むような香り。わずかに混じる、別の気配。


(蘭、だろうか)


 自分のものは、もっと違う香りが混じっていた気がする。でも、もう手元にない。確かめようがない。

思考が言葉になるより先に、指先の力が抜けた。落としはしない。だが、強く握ることもできない。


(どうして、ここにあるのか)


 六花も、同じものを持っていたのだろうか。それとも、何か別の理由があるのだろうか。


 掴めない。そのことだけが、確かだった。

 

 やがて桜桃はそっと香袋を包み直し、箱の中へ戻した。


 少し考えてから、また取り出す。


 失くしてしまった自分のものの代わりに、持ち歩いてもいいだろうか。

 六花なら、きっと怒らない。

 そう思った。


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