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狂桜華《きょうおうか》~亡国の姫は、名を捨て帝を目指す~  作者:
第一章 桜、散る夜に【帝都崩落編】

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第八話 六花の香袋

 回廊を歩いていると、ふといつもの気配を探して振り向いてしまう。

 いつも三歩後ろにいた、守護の気配。


 けれど、そこには誰もいなかった。


 冷たい風だけが吹き抜ける空間に、ぽっかりと空いた胸の隙間を埋めるように、桜桃は少しだけ目を伏せ、そして再び前を向いた。


 廊下の角を曲がろうとした、その時。不意に、視界の端を捉えた気配に足が止まる。


 濃灰の長上衣に、腰に差された刀。長い髪を後ろで束ねた、見慣れた軍装の影。


 その瞬間、桜桃の胸が激しく跳ねた。呼び慣れた名前が、喉元までせり上がる。


(――朝凪、っ……)


 期待で熱を帯びた瞳が、まっすぐにその姿を捉える。

 ――だが、次の瞬間、凍りついたように息が止まった。


 違う。

 背丈も、歩き方の癖も。何より、髪の色さえも違う。


 すれ違ったその男の横顔は、人を寄せ付けない冷淡なものだった。朝凪の持つ、あの静かな温度の籠もった眼差しのかけらもない。


(……何を期待しているの)


 自嘲の痛みが、跳ねた胸を鋭く突き刺す。


 すれ違いざま、男の襟元が、桜桃の視界に飛び込んできた。


(……!)


 そこに刻まれていたのは、鈍く光る二つの桜の階級章。

 近衛の地位――中将職を示す証だった。


 謀反の前、朝凪がその襟元を飾っていたものと、まったく同じ紋章。

 かつては自分を命がけで守る盾であり、最も身近にあった誇り高き階級章が、今は見知らぬ男の襟を飾っている。


 朝凪が退いたその場所に、この男が代わりに収まったのだという現実を、突きつけられた気がした。


 男と一瞬目が合った気がした。


 気のせいだったのだろうか。男は回廊をまっすぐに歩いて、通り過ぎた。


 すれ違った瞬間、白檀の香りが、鼻腔を満たした。


(……この香り)


 どこかで触れた記憶だけが、微かに引っかかる。


 振り返りかけて、やめた。

 残された白檀の香りは、すでに回廊の空気へと消えていた。


 朝凪のはずがないのに、そんな分かりきった幻影に心を揺らされたことが、どうしようもなく情けなくて、切なかった。


 桜桃は無理やり気を取り直して、また歩き出した。


***


 最初の三日で、桜桃は宮廷の大まかな構造を掴んだ。


 宮廷の中に帝とその家族が暮らす「八重御所」が位置し、塀で囲まれている。御所から少し離れた場所に各皇族が暮らす御殿が立ち並ぶ。


 その一帯は皇居と呼ばれていた。


 皇女として生きていた頃の桜桃は、御所の敷地からほとんど外へ出たことはなかった。


 皇居の外は、侍女が動ける区域。文官や武官が詰める区域。上位の者だけが入れる区域。それぞれの境界は門で隔てられていた。


 謀反の傷跡は、まだ随所に残っている。柱が焦げたまま放置されている廊下や、修復中の壁の前に、目隠しの布が張られている場所がある。それでも宮廷は動き続けている。人が来て、人が去って、仕事が積まれて、消えていく。


 その流れに混じりながら、桜桃は少しずつ情報を集めようとしていた。


(謀反の夜、何があったのか。誰が、何のために)


 答えへ続く糸を、まだ掴めていない。


 その夜、桜桃は薄暗い侍女部屋に入った。他の侍女たちはまだ戻っていない。


 部屋の隅に、ひとつだけ場違いな箱があった。整えられた寝台や衣桁と違い、それは少しだけ奥に寄せられ、主張を避けるように置かれている。使われていなかったわけではない。けれど、誰かに見せるためのものでもなかった。


 桜桃は、しばらくそれを見つめた。


 六花のものだと、すぐに分かる。

 

 几帳面な彼女は、物の置き方に癖があった。人目につかぬ場所に寄せながら、しかし取り出しやすい位置に置く。整えられているのに、どこか生活の気配が残る。それを知っている。


 桜桃は、すぐには手を伸ばせなかった。


 静かな部屋に、衣擦れの音だけが落ちる。


 やがて膝を折り、箱に触れた。軽い。中身は多くない。


 蓋を開くと、整然と収められた小物が現れた。櫛、細い紐、使い込まれた布片。どれも六花らしい、質素で、無駄のないものばかりだ。


 指先が、ひとつの包みに止まった。


 布にくるまれた、小さなもの。見覚えがある、と先に思った。


 そっと取り上げる。軽く、柔らかい。その重さに、胸の奥が微かに揺れた。形が指先に馴染むように感じられる。包みをほどく。


 現れたのは、香袋だった。


 かつて持っていたものと似ている。幼い頃からいつの間にか手元にあって、当たり前のように持ち歩いていたもの。謀反の夜に失くしてしまった、あの香袋と。


 同じ形。似た仕立て。手に収まる感触も、ほとんど変わらない。


 ゆっくりと、息を吸う。


 香りが立つ。白檀に似ている。それは間違いない。

けれど、どこかが違う。やわらかく、奥に沈むような香り。わずかに混じる、別の気配。


(蘭、だろうか)


 自分のものは、もっと違う香りが混じっていた気がする。でも、もう手元にない。確かめようがない。


 ──回廊ですれ違った男も、白檀の香りがした。


(……なぜ今、そんなことを思い出したのか)


 思考が言葉になるより先に、指先の力が抜けた。


(どうして、ここにあるんだろう)


 六花も、同じものを持っていたのだろうか。それとも、何か別の理由があるのだろうか。


 掴めない。そのことだけが、確かだった。


 やがて桜桃はそっと香袋を包み直し、箱の中へ戻した。


 少し考えてから、また取り出す。


 失くしてしまった自分の香袋の代わりに、持ち歩いてもいいだろうか。


 六花なら、きっと怒らない。そう思った。

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