第八話 侍女、代わりに舞う
宴の準備は、それから数日で一気に進んだ。
謀反から日が経ちすぎると、何かと不都合が生じる。そういう理由で開かれる宴なのだと、時雨はこっそり教えてくれた。
「新帝のお披露目も兼ねているのよ。季節外れの花を取り寄せてまで、ずいぶん盛大にするみたい」
「……そこまでしなくてもいいのに」
「そうね。でも、今の宮廷には必要なんでしょうね。何もかも元どおりになったって、皆に見せたいんじゃないかしら」
時雨はそう言って、運び込まれていく花飾りへ目を向けた。
桜桃もその後を追うように視線を動かした。
色鮮やかな花々は、これから八重御所へ運ばれるのだという。
八重御所。
その名を聞くたび、胸の奥がかすかに強張った。
あの夜以来、一度も足を踏み入れていない場所だった。
宴の当日、桜桃はほかの侍女たちとともに、八重御所へ向かった。
紫宸殿の前庭で催される宴のため、朝から多くの女官や侍女が出入りしている。酒や膳を運ぶ者、花を飾る者、客を案内する者が行き交い、御所の内は久しく失われていた賑わいを取り戻していた。
けれど、門をくぐった瞬間、桜桃の足はわずかに鈍った。
見慣れたはずの景色が、ひどく遠いものに思えた。
回廊の柱には、まだ黒く焼け焦げた跡が残っている。
屋根の一部は新しい木材で補われていたが、隣の軒には炎に炙られて歪んだ飾り金具がそのまま残されていた。
庭石の傍には崩れた築地の欠片が積まれ、かつて花木が植えられていた一角には、むき出しの土が広がっている。
その傷跡を隠すように、柱には色とりどりの布が掛けられ、庭には大きな花器が並べられていた。
華やかな飾りの向こうに、焼け落ちた御所が透けて見える。
「六花、そちらの花をお願い!」
「あ……はい!」
呼びかけられて、桜桃は慌てて顔を上げた。
両手で花器を抱え、指示された場所へ運ぶ。回廊の角を曲がるとき、ふと目に入った柱の傷に息が詰まった。
あの夜、炎に追われながら駆け抜けた回廊だった。
燃え落ちる御簾。響き渡る悲鳴。自分の手を決して離さなかった朝凪の温もり。
桜桃は足を止めかけ、すぐに歩き出した。
ここで立ち尽くしているわけにはいかない。今の自分は、皇女ではなく侍女の六花なのだから。
桜桃は裏方に回り、客の誘導や酒の補充、飾りの調整に追われた。
忙しさは、かえってありがたかった。次々と仕事を言いつけられている間は、御所の傷跡を見つめずに済む。
やがて、庭の一角から娘たちの笑い声が聞こえてきた。
舞の準備をしているらしい。色鮮やかな装束をまとった娘たちが集まり、衣の裾を整えたり、髪飾りを確かめたりしている。
その傍を通りかかったとき、桜桃は地面に何かが落ちているのに気づいた。
拾い上げると、繊細な細工を施した簪だった。先端には小さな花があしらわれている。
「失礼いたします。こちらを落とされた方はいらっしゃいませんか」
「あっ!」
娘の一人が振り返った。
「それ、私の!」
駆け寄ってきた娘の顔を見て、桜桃は目を瞬かせた。
(あ、あのとき昊夜様の話をしていた……!)
数日前、中庭を通りかかった際、昊夜について話していた二人の娘。そのうちの一人だった。
「よかった……! どこで落としたのか分からなくて、ずっと探していたの。ありがとう」
「いいえ。お役に立てて何よりです」
桜桃が簪を差し出すと、娘はほっとしたように受け取り、大切そうに掌へ収めた。
「花梨、見つかったの?」
もう一人の娘が近づいてきた。
「ええ。この方が拾ってくださったの」
「あら、よかったじゃない。あれがないと困るって、さっきから大騒ぎしていたものね」
「椎香ちゃんったら」
二人が笑い合うのを見て、桜桃はそっと頭を下げた。
「それでは、私はこれで……」
「ねえ、ちょっと待って」
立ち去ろうとした桜桃を、花梨が呼び止めた。
「あなた、お名前は?」
「……六花と申します」
「六花ちゃんね。私は花梨。こちらは椎香ちゃんよ」
「よろしくね、六花」
「こちらこそ、よろしくお願いいたします」
桜桃が礼をすると、花梨はなぜかじっとその姿を見つめた。
「……ねえ、六花ちゃん。少しお願いがあるのだけれど」
「何でしょうか」
「今夜の舞に、一緒に出てもらえないかしら」
「……え?」
あまりにも突然の申し出に、桜桃は思わず顔を上げた。
「実は、舞うはずだった娘が一人、急に出られなくなってしまったの。代わりを探しているのだけれど、なかなか見つからなくて」
「ですが、私は……」
「舞の経験があるでしょう?」
花梨は確信を持ったように尋ねた。
「どうして、それを……」
「前にちらっと見かけたときから思っていたの。歩くときに芯がぶれないし、身のこなしに無駄がないもの。さっきも人の間をすり抜けてきたでしょう? 衣の裾を乱さずに歩くのって、案外難しいのよ」
桜桃は言葉に詰まった。
花梨が自分を見ていたことにも驚いたが、何より、ほんのわずかな仕草から舞の経験を見抜かれたことに驚いていた。
「……少しだけ、習ったことがあります」
「やっぱり!」
花梨の顔がぱっと明るくなった。
「だったら、お願いできないかしら。端のほうで構わないの。私たちが合わせるから」
「ですが、急にそのようなことを言われても……」
「もちろん、無理にとは言わないわ。ただ、どうしても人数が足りなくて」
花梨は困ったように微笑んだ。
桜桃は返事をためらった。
舞えないわけではない。
幼い頃から、六花に幾度となく教わってきた。足の運びも、袖の扱いも、楽の調べに合わせて身体を動かすことも。
『違う、そうじゃない。足はこう』
『急いではいけません。流れを止めないように』
六花はいつも、そう言って桜桃の手を取った。
彼女の舞は美しかった。無駄がなく、静かで、それでいて凛とした強さがあった。
自分は、まだあの舞には届かない。
けれど、教えられたことは今も身体に残っている。
「……目立ってしまいます」
桜桃は小さく答えた。
それが、何よりも恐ろしかった。
六花として宮廷へ戻ったのは、皇女であることを隠すためだ。ましてここは八重御所。自分の顔を知る者が、どこにいるとも限らない。
花梨は少し考えてから、穏やかに言った。
「大勢で舞うのだから、あなた一人にばかり目が向くことはないと思うけれど……」
隣で話を聞いていた椎香が、ひょいと顔を覗き込んできた。
「できるのにやらないの、もったいないじゃない」
「椎香ちゃん」
「だって、そうでしょう? 花梨がここまで言うんだから、きっと上手なのよ。私だって見てみたいわ」
椎香は屈託なく笑った。
その言葉に、桜桃はもう一度、花梨へ目を向けた。
花梨は急かすことなく、返事を待っている。
ふと、六花の姿が浮かんだ。
舞を教えるとき、六花はいつも楽しそうだった。上手くできずに俯く桜桃の手を取り、何度でも同じ動きを繰り返してくれた。
その六花の名を、今は自分が名乗っている。
桜桃は懐に収めた香袋へ、そっと指を添えた。
「……分かりました」
顔を上げる。
「私でよろしければ、代役を務めさせていただきます」
「本当?」
花梨が嬉しそうに手を合わせた。
「ありがとう、六花ちゃん! 本当に助かるわ」
「ほら、やっぱりできるんじゃない」
椎香が楽しそうに笑う。
桜桃も小さく微笑んだが、胸の奥に残る緊張は消えなかった。
***
紫宸殿の前、宴の中央の上座に虚空帝が座っていた。その隣に、新しい皇后装束を纏った女が静かに座っている。
新皇后・未散だった。
艶やかな装束は、この場の誰よりも整っている。
だがその目だけが、宴の華やかさとわずかにずれていた。盃を手に、舞い散る花びらを眺めている。
誰もが新帝の即位を祝い、笑い、語り合っている。その中で、未散だけがどこか遠くを見ているようだった。
「不思議なものですね」
ふいに零れた言葉に、虚空が視線を向ける。
「何がだ」
「人の運命です」
未散は薄く微笑んだ。
「ほんの数か月前まで、私は末席の皇族の妻に過ぎませんでした」
花びらが盃へ落ちる。
未散はそれを静かに見つめた。
「けれど、あの夜を境にすべてが変わった」
その声音には喜びも悲しみもない。ただ事実を語るような静けさだけがあった。
「運命とは、時に残酷ですね」
そう言って微笑む横顔を見て、虚空はなぜか何も言えなかった。
花びらが、盃の中でゆっくりと沈んでいく。
***
同じ頃、皇居の一角、光の差し込む回廊の端に、ひとりの男が長い影を落としていた。
墨を溶かしたような色の髪が、肩から背へと流れている。纏っている狩衣の衿が、春の終わりの、少し強くなってきた陽光をはね返していた。
本来なら首元をきっちりと留めるはずの狩衣だが、男はその留め具を外し、衿を折るように首元を大きく寛げている。覗く首筋が、皇族としての気品の中に、どこか型破りな色気を放っていた。
整った顔立ちは、ただ前を見つめている。だが、その目は眼前の庭園ではなく、もっと遠い場所を捉えているようでもあった。
近づきがたい冷たさがあるのに、どうしてか目を離せない。そういう佇まいだった。
「昊夜様」
背後から、控えめな声がかかる。従者が平伏していた。
「宴の時間でございます。皆様、殿下をお待ちかねです」
昊夜はすぐには動かなかった。ただ、若葉の匂いを孕んだ温い風が回廊の隅へ運んできた。
へつらいと、腹の探り合い。父親が新帝の座についてからというもの、どこへ行ってもそんな視線ばかりが群がってくる。
今の昊夜にとって、それは億劫以外の何物でもなかった。不快感が胸の奥に澱のように沈んでいく。
ゆっくりと振り返る。狩衣の裾が、静かに揺れた。
その動きに合わせて、凍てつくように冷ややかで、けれど高貴な白檀の香気がふわりと回廊に広がる。
「そうか」
低く、落ち着いた声。感情の起伏が全く見えない、あまりにも淡白な響きに、従者はかえって気圧されたように小さく肩を揺らした。
昊夜は視線を少しだけ落とす。
「ようやく、か」
誰にともなく呟く。その声音には、避けては通れない義務を淡々と片付けに行こうとする平坦さがあった。
一歩、踏み出す。
昊夜は表情を変えないまま、長い影を引き連れて、退屈な熱気の満ちる方へと歩き出した。




