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狂桜華《きょうおうか》~亡国の姫は、名を捨て帝を目指す~  作者: 澪
第一章 桜、散る夜に【帝都崩落編】

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第七話 婚約者候補、評判が悪い

「だったら……!」


 押し殺していた声が、ついに揺れ、弾ける。


「私にどうしろというの!?  これ以上、何を奪われれば気が済むの!?」


 押し込めていたものが、一気に溢れ出す。


「父を殺され、自分の名前を奪われ、死人として生きることを強要されて……!  私が今、ここで息をしている理由はどこにあるの!?  皇女に戻ることも許されずに、ただ大人しく運命に従えというの!?」


 問いは、血を吐くような叫びだった。


 だが、清明は一歩も引かない。その佇まいは、恐ろしいほどに動じなかった。


「生きる理由など、他人に乞うものではありません。あなたがどう生きたいのか。それだけです」


 ただ、氷のように冷たく、けれど確かな重さを持った言葉を返す。


「私が、どうしたいかですって?」


 桜桃は笑う。乾いた、壊れたような笑いだった。


「言えばいいの?  あなたの望むような答えを言えば満足するの!?」


 一歩、清明に向かって踏み出す。


「父や、六花を殺した者を探し出し、この手で仇を討つと!  私から全てを奪った新帝を、あのきらびやかな玉座から引きずり落としてやると!」


 言葉が、どす黒い鋭さを帯びていく。


「私の胸にある、この醜い憎しみを……!  あなたにぶちまければいいの!?」


 墓所の重苦しい間が、真っ二つに裂ける。


 桜桃は肩を激しく上下させ、清明を睨みつけた。清明は、ただその嵐のような感情を静かに受け止めていた。


 やがて、桜桃はふっと視線を落とし、冷え切った声で呟いた。


「……でも、いいわ。私は、もう止まらない」


 静かに、落とした。その言葉は、先ほどまでの激昂よりも、ずっと低く、ずっと重かった。


 瞳の奥の涙は乾き、そこには冷たい光だけが灯っている。迷いは、もう完全になくなっていた。


 桜桃は清明に背を向ける。その足音は、二度と振り返らない強さで、迷いなく遠ざかっていく。


 残された清明は、長い影を落としたまま、しばらく動かなかった。


 やがて、静かに目を閉じる。


「……憎しみもまた」


 誰にともなく、ぽつりと呟く。


「奇麗事よりも深く、人を突き動かし、生きる糧にはなり得る」


 それが、たとえ破滅へと向かう道だとしても。


 星河帝の遺児が、ついに牙を剥いた。その事実だけを厳かに受け入れるように。


 白髪交じりの頭が、静かに下がった。まるで、闇の中へと消えていく気高き主の背中に、見えないところで臣下の礼を捧げるように。



『あなたが、どう生きたいのか。それだけです』


 墓所を離れてからも、清明の静かな声は桜桃の耳の奥に残り続けていた。


(……私が、帝になる)


 口にした言葉を、もう一度胸の内で確かめる。


 けれど、今の自分には兵もなければ、臣下も、名さえない。


 今から戻る場所は、玉座でも、かつて暮らした御所でもない。侍女部屋だった。


 ***


 侍女部屋は、八人が使う細長い部屋だった。


 部屋の中には先客が二人いた。どちらも黙って自分の荷を整えている。目が合うと、片方が軽く頭を下げた。もう片方は見なかったふりをした。


 桜桃は空いている棚を見つけて、荷を置いた。


 部屋の隅に、使いかけの蝋燭が転がっていた。誰かが置き忘れたものだろう。


 八重御所では、こうしたものが放置されていることはなかった。


 朝になれば部屋は整えられ、必要なものはいつも決まった場所に用意されていた。新しく仕える者がいれば、年長の侍従が付き添い、仕事を一つずつ教えていた。


 それが宮廷のどこでも当たり前のことだと、桜桃は思っていた。


「新しく入ったの?」


 声がして振り返ると、落ち着いた雰囲気の侍女が立っていた。


「はい。六花と申します」


「六花? 桜桃様付きだった侍女と同じ名前ね」


「……そうなんですか」


「ええ。私は時雨。よろしくね」


 時雨はそれだけ言って、棚に荷を押し込んだ。


「そんなに固くならなくていいわよ。今は新しく入った人がほとんどだから」


「そうなんですか?」


「ええ。謀反の後で人が足りなくなって、あちこちから集められたの。仕事のやり方もばらばらだし、私も誰が誰だか、まだ覚えきれてなくて」


 時雨は困ったように笑った。


「前はもっと、ちゃんとしてたんだけどね」


「……前にいた方たちは」


「帝家付きの侍従たちは、ほとんど逃げたって」


「……そうなんですか」


 桜桃は胸の奥が緩むのを感じた。


(逃げられたんだ……)


 あの夜、宮廷にいた者たちが逃げられたことが今の桜桃には救いだった。


「捕まった人もいるけどね」


 時雨はそう付け加えると、それまでの明るい表情が一瞬だけ曇る。


「……今も、捕まったままなんですか」


「ええ。謀反に関わっていたんじゃないかって疑われている人もいるみたい。詳しいことはよく分からないけど」


 時雨はそう言って、再び荷を整え始めた。けれど、その手つきは先ほどよりも幾分ゆっくりになっていた。


 桜桃はしばらくその横顔を見つめていた。


 謀反に関わっていない者が巻き込まれているかもしれない。生きているなら解放されるべきだ。


 でも今の桜桃にはそれを動かす力がない。名前も、立場も、何もない。


「……どうしたの?」


 時雨が覗き込んでくる。


「いいえ」


「顔色悪いよ」


「大丈夫です」


「ならいいけど」


 時雨はそれ以上聞かなかった。桜桃は棚に視線を戻した。


 まだ何もできない。でも、いつか必ず。


 その思いだけを、胸にしまった。


 ふと、部屋の隅に置かれた箱が目に入った。


 整えられた寝台や衣桁と違い、それは少しだけ奥に寄せられ、主張を避けるように置かれている。使われていなかったわけではない。けれど、誰かに見せるためのものでもなかった。


 桜桃はしばらくそれを見つめた。


 六花のものだとすぐに分かった。


 六花にも、この侍女宿舎には部屋が与えられていた。ただ、皇女付きの侍女として八重御所に仕えていた彼女は、御所内に設けられた小部屋で過ごすことが多く、こちらへ戻ることは滅多になかった。


 けれど、この箱だけは、確かに彼女のものだった。  几帳面な彼女は、物の置き方に癖があった。人目につかない場所に寄せながら、しかし取り出しやすい位置に置く。整えられているのに、どこか生活の気配が残る。

 桜桃はその癖をよく知っていた。


 すぐには手を伸ばせず、静かな部屋に衣擦れの音だけが落ちる。


 やがて膝を折り、箱に触れた。軽い。中身は多くない。


 蓋を開くと、整然と収められた小物が現れた。


 櫛、細い紐、使い込まれた布片。どれも六花らしい、質素で、無駄のないものばかりだ。


 指先が、ひとつの包みに止まった。


 布にくるまれた、小さなもの。見覚えがある、と先に思った。


 そっと取り上げる。軽く、柔らかい。その重さに、胸の奥が微かに揺れた。形が指先に馴染むように感じられる。包みをほどく。


 現れたのは、香袋だった。


 かつて持っていたものと似ている。幼い頃からいつの間にか手元にあって、当たり前のように持ち歩いていたもの。桜桃が謀反の夜に失くしてしまった、あの香袋と。


 同じ形。似た仕立て。手に収まる感触も、ほとんど変わらない。


 ゆっくりと、息を吸う。


 香りが立つ。白檀に似ている。それは間違いない。


 けれど、どこかが違う。やわらかく、奥に沈むような香り。わずかに混じる、別の気配。


(蘭、だろうか)


 自分のものは、もっと違う香りが混じっていた気がする。でも、もう手元にない。確かめようがない。


 ──回廊ですれ違った男も、白檀の香りがした。


(……なぜ今、そんなことを思い出したのか)


 思考が言葉になるより先に、指先の力が抜けた。


(どうして、ここにあるんだろう)


 六花も、同じものを持っていたのだろうか。


 やがて桜桃はそっと香袋を包み直し、箱の中へ戻した。


 少し考えてから、また取り出す。


 失くしてしまった自分の香袋の代わりに、持ち歩いてもいいだろうか。


 六花なら、きっと怒らない。そう思った。


 桜桃は香袋を掌の中で一度だけ握り、それを懐へ収めた。


 その時、廊下の向こうから、ぱたぱたと足音が近づいてきた。


「ねえねえ、聞いた?」


 弾んだ声とともに、侍女が二人、部屋へ入ってきた。


「何を?」


 荷を片付けていた時雨が振り返る。


「昊夜様の話」


 その名を聞いた瞬間、桜桃の胸がどきりと跳ねた。


「……昊夜様?」


「そう。最近、侍女を一人ずつお部屋に呼んでいるんだって」


「一人ずつ?」


「尚服局の子や御膳所の子。しかも、みんな若い侍女ばっかりなの」


 時雨が不思議そうに眉を上げた。


「何のために?」


「だから、みんな言ってるの。もしかして、お手付きにする子でも探してるんじゃないかって」


「えっ」


 思わず声が出た。


 三人が一斉に桜桃を見る。


「……六花、どうしたの?」


「い、いえ。何でもありません」


「何でもないにしては、ずいぶん驚いたわね」


 時雨が不思議そうに首を傾げる。隣にいた別の侍女が時雨に目を向けた。


 「時雨は前から宮廷にいたのよね? 昊夜様って、どんな方なの?」


「私? 私は別の方にお仕えしていたから、あまり詳しくないの。昊夜様も朝廷軍にいらして、宮廷にはあまりお戻りにならなかったし」


「そうなの……」


「でも、お手付きにする子を探すような方には見えなかったけど……」


 侍女たちが顔を見合わせる。


「一人ずつ呼んでいるのは本当らしいよ」


「怖い顔をして、案外そういうところは普通の男だったりして」


「ちょっと、聞かれたらどうするのよ」


 くすくすと笑い声が上がる。

 桜桃は曖昧に笑いながら、そっと懐へ手を添えた。


(……そんな方だったの……?)


 別に、昊夜が侍女を何人呼ぼうと、今の自分には関係のないことだ。


 かつて婚約者候補だったとはいえ、それもすべて、あの夜より前の話なのだから。


「……少し、外へ行ってきます」


 誰にともなく告げ、桜桃は洗濯する衣を抱え、侍女部屋を出た。


(考えるのは、やめよう)


 そう決めて、桜桃は仕事へ戻るために足を速めた。


 いくつかの回廊を抜けると、開けた中庭へ出た。


 近くの殿舎から、笛と琴の音が聞こえてくる。数日後に催される宴を前に、舞や楽の稽古が行われているらしい。


 桜桃が庭の脇を通り抜けようとしたとき、舞の休憩していた娘たちの話し声が耳に入った。


「ねえ、昊夜様は宴にいらっしゃるのかしら?」


 桜桃の足が止まった。


(……また!?)


 考えたくないのに、嫌でもその名が耳に滑り込んでくる。 


「さあ。お忙しいみたいだから、どうかしらね」


「そうよねえ。あの方、怖いって評判だものね。冷徹無比な宮廷の剣だの、歩く氷山だの、そんなふうに呼ばれているんでしょう?」


「お仕事に厳しいだけよ」


「そうかしら。戦場では、女子供にも容赦しなかったって聞いたけど」


「それは噂でしょう?」


「でも、『一人残らず斬れ』って命じたこともあるそうよ」


 ──一人残らず、斬れ。


 その言葉だけが、妙にはっきりと耳に残った。


「……そんなこと、本当におっしゃったのかしら」


「さあ。私だって人から聞いただけだもの」


 娘はあっさりと肩をすくめた。


 娘たちはそれ以上深刻に受け止める様子もなく、別の話題へ移っていった。


 桜桃はその脇を静かに通り過ぎた。


 侍女部屋では、お手付きの相手を探しているという噂を聞いたばかりなのに、今度は、冷徹無比な宮廷の剣に、歩く氷山。


 父から婚約者候補だと聞かされていた人が、いったいどんな人物なのか、ますます分からなくなる。


 宮廷の誰もが、当たり前のように昊夜のことを話している。


 けれど桜桃は、その人の声さえ知らなかった。

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