第七話 再び宮廷へ
昼のざわめきが、通りに戻っていた。
荷車の軋む音と、人の声が重なる。桜桃は裏口から表へ出ると、ふと足を止めた。いつもより人が多い。何かを囲むように、小さな人だかりができている。
「何かあったんですか」
近くの者に声をかけると、男はちらりとこちらを見た。
「ああ、知らないのか。帝が替わった」
一瞬、言葉の意味が入ってこない。
「新しい帝が立ったんだよ。ほら、宮廷もあの騒ぎで壊れただろ。帝都も立て直しで大わらわらしい」
軽い調子で続けられる。まるで、遠い国の話のように。
「……そう、ですか」
それだけを返す。それ以上、言葉が出なかった。
人々の会話は止まらない。
「謀反だなんだって噂もあるがな」
「まあ、俺たちには関係ないさ」
「治安が早く落ち着いてくれればそれでいい」
笑い声が混じる。
桜桃は、静かにその場を離れ、店に戻った。
胸の奥が、ざわりとする。押さえ込んでいたものが、ひび割れるように。
──帝が、替わった。
その言葉だけが、何度も反芻される。
あの夜の光景が、わずかに蘇る。
血の色。倒れた影。崩れゆく宮廷。父の、最後の声。
息を吸う。それ以上、思い出すのを拒むように。
もう、自分には関係のないことだと。そう決めたはずなのに。
「宮廷で人を集めてるらしいね」
店を閉める支度の中で、店主がぽつりと呟いた。手は止めずに、何気ない調子で。
「人手が足りないんだとさ。あの騒ぎで、だいぶ逃げたらしい」
「……そう、なんですね」
桜桃は皿を拭きながら答える。
「侍女も足りてないって話だ」
その一言に、桜桃の手がほんの一瞬だけ止まった。けれど、それを悟られないようにすぐに動かす。
「六花」
名を呼ばれる。
「行ってみな」
桜桃が顔を上げる。店主は、こちらを見ていない。いつもの調子で、布を絞っているだけだ。
「ここで食いつなぐのもいいけどね」
淡々とした声で続ける。
「どうせなら、もう少しまともな飯が食える場所の方がいいだろう」
桜桃は何も言わなかった。ただ、手を動かし続ける。水の音が、静かに響く。
店主は、何も聞かなかった。どこから来たのか、なぜここで働いているのか、本当の名前は何なのか。何も聞かずに置いてくれた。その代わりに、水の汲み方を教えてくれて、破片を一緒に拾ってくれた。
だからこそ、この一言が重かった。
──行ってみな。
それは、追い出しではない。背中を押す言葉だった。
「まあ、決めるのはあんたさ」
それだけ言って、店主は奥へ引っ込んだ。
桜桃はしばらく、皿を持ったまま立っていた。
その夜。桜桃は宿の一室で、膝を抱えていた。
窓の外には宮廷の方角がある。灯りは見えない。でも、確かにそこにある。
戻る理由を、数えようとした。
いくらでも出てくる。父の死の真相を知りたい。六花への申し訳なさ。「残せ」という最後の言葉。朝凪が、まだ生きているかもしれない。
帝都・天澄は、かつての華やかさが嘘のように荒み果てていた。
大火で焼け出され、住処を失った民が道端にうずくまり、うつろな目でこちらを見つめている。配給が滞っているせいか、あちこちから子供の泣き声や、男たちの殺気立った怒鳴り声が聞こえ、いつもなら巡回しているはずの衛兵の姿も満足にない。一歩路地に入れば、身ぐるみを剥がされかねないほどの、刺々しく危険な空気が帝都を覆っていた。
そんな治安のどん底にある街にあって、宮廷の裏門だけは、朝の仕事始めに合わせて厳重に開かれる。
「侍女の募集が出ている」という話は、街のどこへ行っても聞こえてくるほどだった。謀反の後処理で人手が足りない、あそこに行けば飯にありつけるのだと、誰もが藁をも掴む思いで噂し合っている。
裏門の前には、泥に汚れた衣服をまとった女たちが、すがるような目をして長蛇の列を作っていた。
桜桃は顔を隠すように深く頭衣をまとい、その長い列の最後尾に静かに並んだ。
「次の方」
女官が顔を上げずに声をかけた。桜桃は一歩前に出て頭衣を取る。
「名前は」
「六花と申します」
「読み書きは」
「少しできます」
女官がようやく顔を上げた。桜桃を上から下まで見る。品定めをするような目だったが、嫌な感じはしない。ただ、必要なものを確認しているだけの目だった。
「少しって、どのくらい?」
「帳面の整理や、書類の仕分けならできると思います」
「ふうん」
女官は桜桃の手を見た。少し荒れている。宿で働いていた痕跡が、まだ残っていた。
「……いいでしょう。明朝から来なさい」
それだけだった。
こんなに簡単に、入れるものか。桜桃は頭を下げながら、少しだけ拍子抜けした。それから、すぐに思い直す。人手が足りないというのは、本当のことなのだろう。
門をくぐる。
懐かしい匂いがした。石と、木と、水の匂い。ここには何度来ても、この匂いだけは変わらない。
でも、以前とは違う場所に自分は立っている。
桜桃は息を整えて、歩き出した。




