第六話 星のない夜
それから数日。
桜桃の手は、少しずつ仕事を覚えていった。
桶の持ち方。皿の重ね方。客への頭の下げ方。最初は何もかもがぎこちなかった。でも、やればやるだけ身体が覚えていく。
朝、水を汲む。昼、客に食事を運ぶ。夕方、棚を拭く。
単純なことの繰り返しだった。考える隙間がないほど忙しい日もあった。そういう日は、夜になると何も考えないまま眠れた。それが、少しだけありがたかった。
その日も、桜桃は通りを歩いていた。市場の端を抜けて、宿への道を戻る。いつもの道。いつもの景色。
炊き出しの列が見えた。
そこに並ぶ人々の顔は、桜桃が知っていた宮廷の顔とは違った。疲れていて、痩せていて、それでも静かに順番を待っている。
少しだけ視線を向ける。
あの中にも、自分と同じように、名も身寄りもない者がいるのだろう。
桜桃は立ち止まらずに通り過ぎた。足を止めれば、考えてしまうから。
***
炊き出しの列を、ひとりの男が見ていた。
朝凪は一人ずつ、その顔を見ていく。
いない。
次の路地。
いない。
別の宿の裏。
いない。
左の脇腹に巻かれた布が、歩くたびに滲んでいた。三日前に替えたばかりなのに、もう赤い。本来なら横になっていなければならない傷だと、自分でも分かっている。
深く息を吸うと、肺の底に鈍い痛みが走る。それでも足を止める気にはなれなかった。
懐に、一枚の布がある。
宮廷を出る前に、桜桃が使っていた肩巾だった。別に持ってくるつもりはなかった。気づいたら、手の中にあった。それだけのことだ。
朝凪は立ち止まり、その布を取り出した。何度も折り畳まれて、端が少し毛羽立っている。
「……ここにもいないか」
低く零れる声に、わずかに落胆が滲む。
「……いや」
すぐに打ち消す。
「……無事でいるはずだ」
自分に言い聞かせるように。
肩巾を指先でなぞる。丁寧に、繰り返し。まるでそうしていれば、まだ繋がっているような気がして。
「……食べているのか」
誰に向けるでもなく。
「……怪我は」
言いかけて、止まる。
自分が問うべき言葉ではなかった。自分こそが、まだ傷を抱えたまま歩いている。脇腹の痛みが、皮肉のように応えた。
深く息を吸い、ゆっくりと吐き出す。
朝凪は布を懐に戻した。
「……待っていろ」
誰にも届かぬ声で、そう言って、踵を返した。その歩き方は、やはりわずかに左を庇っていた。だが迷いは、どこにもなかった。
その頃、桜桃は別の通りを歩いていた。
荷を抱え、足早に。呼ばれた声に応じながら、日常の中へ戻っていく。振り返ることはない。気づくこともない。
すぐ近くに、探していた人がいたことを。
その人が、滲む傷を押さえながら、まだ自分を探し続けていることを。
***
昼のざわめきが、通りに戻っていた。
荷車の軋む音と、人の声が重なる。桜桃は裏口から表へ出ると、ふと足を止めた。いつもより人が多い。何かを囲むように、小さな人だかりができている。
「何かあったんですか」
近くの者に声をかけると、男はちらりとこちらを見た。
「ああ、知らないのか。帝が替わった」
一瞬、言葉の意味が入ってこない。
「新しい帝が立ったんだよ。ほら、宮廷もあの騒ぎで壊れただろ。帝都も立て直しで大わらわらしい」
軽い調子で続けられる。まるで、遠い国の話のように。
「……そう、ですか」
それだけを返す。それ以上、言葉が出なかった。
人々の会話は止まらない。
「謀反だなんだって噂もあるがな」
「まあ、俺たちには関係ないさ」
「治安が早く落ち着いてくれればそれでいい」
笑い声が混じる。
桜桃は、静かにその場を離れ、店に戻った。
胸の奥が、ざわりとする。押さえ込んでいたものが、ひび割れるように。
──帝が、替わった。
その言葉だけが、何度も反芻される。
あの夜の光景が、わずかに蘇る。
血の色。倒れた影。崩れゆく宮廷。父の、最後の声。
息を吸う。それ以上、思い出すのを拒むように。
もう、自分には関係のないことだと。そう決めたはずなのに。
「宮廷で人を集めてるらしいね」
店を閉める支度の中で、店主がぽつりと呟いた。手は止めずに、何気ない調子で。
「人手が足りないんだとさ。あの騒ぎで、だいぶ逃げたらしい」
「……そう、なんですね」
桜桃は皿を拭きながら答える。
「侍女も足りてないって話だ」
その一言に、桜桃の手がほんの一瞬だけ止まった。けれど、それを悟られないようにすぐに動かす。
「六花」
名を呼ばれる。
「行ってみな」
桜桃が顔を上げる。店主は、こちらを見ていない。いつもの調子で、布を絞っているだけだ。
「ここで食いつなぐのもいいけどね」
淡々とした声で続ける。
「どうせなら、もう少しまともな飯が食える場所の方がいいだろう」
桜桃は何も言わなかった。ただ、手を動かし続ける。水の音が、静かに響く。
店主は、何も聞かなかった。どこから来たのか、なぜここで働いているのか、本当の名前は何なのか。何も聞かずに置いてくれた。その代わりに、水の汲み方を教えてくれて、破片を一緒に拾ってくれた。
だからこそ、この一言が重かった。
──行ってみな。
それは、追い出しではない。背中を押す言葉だった。
「まあ、決めるのはあんたさ」
それだけ言って、店主は奥へ引っ込んだ。
桜桃はしばらく、皿を持ったまま立っていた。
その夜。
桜桃は宿の一室で、膝を抱えていた。
窓の外には宮廷の方角がある。灯りは見えない。でも、確かにそこにある。
戻る理由を、数えようとした。
いくらでも出てくる。父の死の真相を知りたい。六花への申し訳なさ。「残せ」という最後の言葉。朝凪が、まだ生きているかもしれない。
逃げる理由も、数えようとした。
これもいくらでも出てくる。危険だ。正体がばれる。また誰かが死ぬかもしれない。
どちらが多いかなんて、数えても意味がない。
桜桃はゆっくり息を吐いた。
窓の外を見る。暗い闇が広がり、何も見えない。でも、足だけはずっと前から、宮廷の方を向いていた。考えるより先に、ずっと向いていた。気づいていたのに、気づかないふりをしていた。
「……行かなければ、分からないことがある」
声に出すと、少しだけはっきりした。
答えは出ていない。覚悟も、まだ完全ではない。怖い。また誰かを巻き込むかもしれない。また誰かが、自分のせいで。
でも。
父上は言った。残せ、と。
六花は言った。あなたが生きることに意味がある、と。
朝凪は言った。真っ直ぐ進め、と。
三人とも、同じ方向を指していた。
桜桃は膝から手を離した。
足は、決まっていた。
翌朝。
桜桃は店主の前に立った。
「行ってきます」
短く、それだけを言う。
店主は一度だけこちらを見て、鼻で笑った。
「落ちて戻ってくるんじゃないよ」
「……はい」
わずかに口元が緩む。
振り返らずに、外へ出る。足は、迷わなかった。
宮廷へ。六花として。もう一度、あの場所へ。




