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狂桜華《きょうおうか》~亡国の姫は、名を捨て帝を目指す~  作者:
第一章 桜、散る夜に

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第六話 星のない夜

 それから数日。

 桜桃の手は、少しずつ仕事を覚えていった。

 桶の持ち方。皿の重ね方。客への頭の下げ方。最初は何もかもがぎこちなかった。でも、やればやるだけ身体が覚えていく。


 朝、水を汲む。昼、客に食事を運ぶ。夕方、棚を拭く。

 単純なことの繰り返しだった。考える隙間がないほど忙しい日もあった。そういう日は、夜になると何も考えないまま眠れた。それが、少しだけありがたかった。


 その日も、桜桃は通りを歩いていた。市場の端を抜けて、宿への道を戻る。いつもの道。いつもの景色。

 炊き出しの列が見えた。

 そこに並ぶ人々の顔は、桜桃が知っていた宮廷の顔とは違った。疲れていて、痩せていて、それでも静かに順番を待っている。


 少しだけ視線を向ける。

 あの中にも、自分と同じように、名も身寄りもない者がいるのだろう。


 桜桃は立ち止まらずに通り過ぎた。足を止めれば、考えてしまうから。


***


 炊き出しの列を、ひとりの男が見ていた。

 朝凪は一人ずつ、その顔を見ていく。


 いない。


 次の路地。


 いない。


 別の宿の裏。


 いない。


 左の脇腹に巻かれた布が、歩くたびに滲んでいた。三日前に替えたばかりなのに、もう赤い。本来なら横になっていなければならない傷だと、自分でも分かっている。

 深く息を吸うと、肺の底に鈍い痛みが走る。それでも足を止める気にはなれなかった。


 懐に、一枚の布がある。

 宮廷を出る前に、桜桃が使っていた肩巾ひれだった。別に持ってくるつもりはなかった。気づいたら、手の中にあった。それだけのことだ。


 朝凪は立ち止まり、その布を取り出した。何度も折り畳まれて、端が少し毛羽立っている。


「……ここにもいないか」

 

 低く零れる声に、わずかに落胆が滲む。


「……いや」


 すぐに打ち消す。


「……無事でいるはずだ」


 自分に言い聞かせるように。

 肩巾を指先でなぞる。丁寧に、繰り返し。まるでそうしていれば、まだ繋がっているような気がして。


「……食べているのか」


 誰に向けるでもなく。


「……怪我は」


 言いかけて、止まる。


 自分が問うべき言葉ではなかった。自分こそが、まだ傷を抱えたまま歩いている。脇腹の痛みが、皮肉のように応えた。


 深く息を吸い、ゆっくりと吐き出す。

 朝凪は布を懐に戻した。


「……待っていろ」


 誰にも届かぬ声で、そう言って、踵を返した。その歩き方は、やはりわずかに左を庇っていた。だが迷いは、どこにもなかった。


 その頃、桜桃は別の通りを歩いていた。

 荷を抱え、足早に。呼ばれた声に応じながら、日常の中へ戻っていく。振り返ることはない。気づくこともない。


 すぐ近くに、探していた人がいたことを。

その人が、滲む傷を押さえながら、まだ自分を探し続けていることを。


***


 昼のざわめきが、通りに戻っていた。

 荷車の軋む音と、人の声が重なる。桜桃は裏口から表へ出ると、ふと足を止めた。いつもより人が多い。何かを囲むように、小さな人だかりができている。


「何かあったんですか」


 近くの者に声をかけると、男はちらりとこちらを見た。


「ああ、知らないのか。帝が替わった」


 一瞬、言葉の意味が入ってこない。


「新しい帝が立ったんだよ。ほら、宮廷もあの騒ぎで壊れただろ。帝都も立て直しで大わらわらしい」


 軽い調子で続けられる。まるで、遠い国の話のように。


「……そう、ですか」


 それだけを返す。それ以上、言葉が出なかった。


 人々の会話は止まらない。


「謀反だなんだって噂もあるがな」


「まあ、俺たちには関係ないさ」


「治安が早く落ち着いてくれればそれでいい」



 笑い声が混じる。


 桜桃は、静かにその場を離れ、店に戻った。

 胸の奥が、ざわりとする。押さえ込んでいたものが、ひび割れるように。


 ──帝が、替わった。


 その言葉だけが、何度も反芻される。

 あの夜の光景が、わずかに蘇る。

 血の色。倒れた影。崩れゆく宮廷。父の、最後の声。


 息を吸う。それ以上、思い出すのを拒むように。

 

 もう、自分には関係のないことだと。そう決めたはずなのに。


「宮廷で人を集めてるらしいね」


 店を閉める支度の中で、店主がぽつりと呟いた。手は止めずに、何気ない調子で。


「人手が足りないんだとさ。あの騒ぎで、だいぶ逃げたらしい」


「……そう、なんですね」


 桜桃は皿を拭きながら答える。


「侍女も足りてないって話だ」


 その一言に、桜桃の手がほんの一瞬だけ止まった。けれど、それを悟られないようにすぐに動かす。


「六花」


 名を呼ばれる。


「行ってみな」


 桜桃が顔を上げる。店主は、こちらを見ていない。いつもの調子で、布を絞っているだけだ。


「ここで食いつなぐのもいいけどね」


 淡々とした声で続ける。


「どうせなら、もう少しまともな飯が食える場所の方がいいだろう」


 桜桃は何も言わなかった。ただ、手を動かし続ける。水の音が、静かに響く。


 店主は、何も聞かなかった。どこから来たのか、なぜここで働いているのか、本当の名前は何なのか。何も聞かずに置いてくれた。その代わりに、水の汲み方を教えてくれて、破片を一緒に拾ってくれた。


 だからこそ、この一言が重かった。


 ──行ってみな。


 それは、追い出しではない。背中を押す言葉だった。


「まあ、決めるのはあんたさ」


 それだけ言って、店主は奥へ引っ込んだ。

 桜桃はしばらく、皿を持ったまま立っていた。



 その夜。


 桜桃は宿の一室で、膝を抱えていた。


 窓の外には宮廷の方角がある。灯りは見えない。でも、確かにそこにある。


 戻る理由を、数えようとした。

 いくらでも出てくる。父の死の真相を知りたい。六花への申し訳なさ。「残せ」という最後の言葉。朝凪が、まだ生きているかもしれない。


 逃げる理由も、数えようとした。

 これもいくらでも出てくる。危険だ。正体がばれる。また誰かが死ぬかもしれない。


 どちらが多いかなんて、数えても意味がない。


 桜桃はゆっくり息を吐いた。


 窓の外を見る。暗い闇が広がり、何も見えない。でも、足だけはずっと前から、宮廷の方を向いていた。考えるより先に、ずっと向いていた。気づいていたのに、気づかないふりをしていた。


「……行かなければ、分からないことがある」


 声に出すと、少しだけはっきりした。

 答えは出ていない。覚悟も、まだ完全ではない。怖い。また誰かを巻き込むかもしれない。また誰かが、自分のせいで。


 でも。


 父上は言った。残せ、と。


 六花は言った。あなたが生きることに意味がある、と。


 朝凪は言った。真っ直ぐ進め、と。


 三人とも、同じ方向を指していた。


 桜桃は膝から手を離した。


 足は、決まっていた。


 翌朝。


 桜桃は店主の前に立った。


「行ってきます」


 短く、それだけを言う。

 店主は一度だけこちらを見て、鼻で笑った。


「落ちて戻ってくるんじゃないよ」


「……はい」


 わずかに口元が緩む。


 振り返らずに、外へ出る。足は、迷わなかった。


 宮廷へ。六花として。もう一度、あの場所へ。


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