第六話 皇女、侍女になる
帝都・天澄は、かつての華やかさが嘘のように荒み果てていた。
大火で焼け出され、住処を失った民が道端にうずくまり、うつろな目でこちらを見つめている。
配給が滞っているせいか、あちこちから子供の泣き声や、男たちの殺気立った怒鳴り声が聞こえ、いつもなら巡回しているはずの衛兵の姿も満足にない。
一歩路地に入れば、身ぐるみを剥がされかねないほどの、刺々しく危険な空気が帝都を覆っていた。
そんな治安のどん底にある街にあって、宮廷の裏門だけは、朝の仕事始めに合わせて開かれる。
「侍女の募集が出ている」という話は、街のどこへ行っても聞こえてくるほどだった。謀反の後処理で人手が足りない、あそこに行けば飯にありつけるのだと、誰もが藁をも掴む思いで噂し合っている。
裏門の前には、泥に汚れた衣服をまとった女たちが、すがるような目をして長蛇の列を作っていた。
桜桃は顔を隠すように深く頭衣をまとい、その長い列の最後尾に静かに並んだ。
「次の方」
女官が顔を上げずに声をかけた。桜桃は一歩前に出て頭衣を取る。
「名前は」
「六花と申します」
「姓は?」
「……」
桜桃は一瞬、言葉に詰まった。
六花の姓は朱明。この国で最も家格が高い四大貴族の一つである。その朱明の名を、何の説明もなく名乗るわけにはいかない。
「……ありません」
女官は筆を止め、訝しげに桜桃を見た。
「姓がないの?」
「はい」
「孤児なのね」
その言葉に、桜桃は少しだけ目を伏せた。
「……はい」
女官はそれ以上尋ねなかった。書きかけの帳面に何かを書き加え、次の問いを口にする。
「読み書きは」
「少しできます」
女官が顔を上げて、桜桃を上から下まで見る。品定めをするような目だったが、嫌な感じはしない。ただ、必要なものを確認しているだけの目だった。
「少しって、どのくらい?」
「帳面の整理や、書類の仕分けならできると思います」
「ふうん」
女官は桜桃の手を見た。少し荒れている。宿で働いていた痕跡が、まだ残っていた。
「……いいでしょう。明朝から来なさい」
あっさりと採用が決まった。
こんなに簡単に、入れるものか。桜桃は頭を下げながら、少しだけ拍子抜けした。
それから、すぐに思い直した。人手が足りないというのは、本当のことなのだろう。
***
翌朝、桜桃は宮廷の門をくぐった。
懐かしい匂いがした。石と、木と、水の匂い。ここは、この匂いだけは変わらない。
でも、以前とは違う場所に自分は立っている。
桜桃は息を整えて、歩き出した。
回廊を歩いていると、ふといつもの気配を探して振り向いてしまう。
いつも三歩後ろにいた、守護の気配。
けれど、そこには誰もいなかった。
冷たい風だけが吹き抜ける空間にぽっかりと空いた胸の隙間を埋めるように、桜桃は少しだけ目を伏せ、そして再び前を向いた。
廊下の角を曲がろうとした、そのとき。不意に、視界の端を捉えた気配に足が止まる。
濃灰の長上衣に、腰に差された刀。長い髪を後ろで束ねた、見慣れた軍装の影。
その瞬間、桜桃の胸が激しく跳ねた。呼び慣れた名前が、喉元までせり上がる。
(――朝凪、っ……)
期待で熱を帯びた瞳が、まっすぐにその姿を捉える。
――だが、次の瞬間、凍りついたように息が止まった。
違う。
背丈も、歩き方の癖も。何より、髪の色さえも違う。
すれ違ったその男の横顔は、人を寄せ付けない冷淡なものだった。朝凪の持つ、あの静かな温度の籠もった眼差しのかけらもない。
(……何を期待しているの)
自嘲の痛みが、跳ねた胸を鋭く突き刺す。
すれ違いざま、男の襟元が、桜桃の視界に飛び込んできた。
(……!)
そこに刻まれていたのは、鈍く光る二つの桜の階級章。
近衛の地位――中将職を示す証だった。
謀反の前、朝凪がその襟元を飾っていたものと、まったく同じ紋章。
かつては自分を命がけで守る盾であり、最も身近にあった誇り高き階級章が、今は見知らぬ男の襟を飾っている。
朝凪が退いたその場所に、この男が代わりに収まったのだという現実を、突きつけられた気がした。
男と一瞬目が合った気がした。
気のせいだったのだろうか。男は回廊をまっすぐに歩いて、通り過ぎた。
すれ違った瞬間、白檀の香りが、鼻腔を満たした。
(……この香り)
どこかで触れた記憶だけが、微かに引っかかる。
振り返りかけて、やめた。
残された白檀の香りは、すでに回廊の空気へと消えていた。
朝凪のはずがないのに、そんな分かりきった幻影に心を揺らされたことが、どうしようもなく情けなくて、切なかった。
桜桃は無理やり気を取り直して、また歩き出した。
けれど、侍女部屋へ向かうはずだった足は、気づけば別の道を選んでいた。
一度だけ、確かめておきたいことがあった。
***
人の行き交う回廊を離れるにつれて、辺りから声が消えていく。やがて辿り着いたのは、宮廷の奥にひっそりと設けられた一角だった。
皇族の墓所。
死んだ皇族の名が、石に刻まれている。ここに記されるのは、皇族の血を引く者のみ。
桜桃はゆっくりと歩み寄る。視線が、ある一点で止まった。
父の名。
そして、その隣に――自分の名。桜桃。
その二つの名の前にだけ、まだ新しい香が残っていた。
誰かが炊いてくれたのだろうか。
指先が自然と伸びる。石に刻まれたその文字をなぞる。
冷たい。当然だ。石なのだから。それなのに、妙に現実を帯びていた。
自分の名前が、ここに刻まれている。死んだことになっている。
「……名を失くして生きる者と」
ぽつりと、零れる。
「名前だけが生きる者」
指が止まる。刻まれた名の上で。
「……どちらが、ましでしょうね」
問いかけるように。答えなど、あるはずもない問い。
「それは、どちらとも言えませんね」
静かな声が、背後から落ちた。
桜桃が振り返ると、白髪混じりの男が、瞳に鋭い光を宿して立っていた。
青陽清明。父・星河帝の臣下だった。
どこから来たのか、気配すら感じなかった。それなのに、そこにいる。まるで最初からいたように。
桜桃は目を見開き、驚きを飲み込むようにして息を吐いた。
「……あなたが、まだここにいてくれるのなら、安心だわ」
清明は、表情を変えずに一礼する。
「そう言っていただけるほどの働きは、まだできておりませんが」
淡々とした声。だが、その眼差しは柔らいでいた。
「清明様、ほかの方々は? 父に仕えていた方々は、今も宮廷にいるの?」
「……謀反の後、八省卿の顔ぶれも大きく変わりました。中務卿と宮内卿はあの夜に亡くなり、民部卿、兵部卿、大蔵卿はあの夜以来出仕しておりません。今は別の者が就いております」
「日向、兵部卿を辞めたの?」
「ええ。近衛の方も。宮廷には一度も戻っておられません」
「……無事なのかしら」
「生きておられますよ」
その言葉に、桜桃は安堵の息を漏らした。
こうして父のことを知る人と話せるだけで、胸の奥にあった心細さが、ほんの少し和らいだ気がした。
けれど、聞かなければならないことがある。
「教えて、清明様」
桜桃は視線を墓碑へ戻した。
「あの日――謀反を起こしたのは、誰? 宮廷の誰が、父をあんな目に遭わせたの」
間を置かずに問う。ここまで来て、遠回りをする気にはなれなかった。
「首謀者は、皇位継承権が下位の者……玉座に目が眩んだ、愚かな皇族です」
抑えた声で、事実だけを告げる。
「ですがその者は、すでに日向の手によって討たれています。あの日、すべてが闇に葬られたかのように」
「……首謀者は、死んだ」
桜桃はその言葉を繰り返す。胸の奥が、冷たい怒りで満ちていく。
「けれど、それは『引き金を引いた者』でしょう? 私が知りたいのは……帝を、私の父を実際にその手で殺した者よ。それは、その首謀者とは別なの?」
清明は小さく、しかし明確に頷いた。
「別です」
迷いなく。
桜桃は視線を上げる。清明の目を真っ直ぐに見据えた。
「では、本当の仇は誰? 父をあの場所で殺したのは誰なの?」
清明はすぐには答えない。だが、その沈黙は否定ではなかった。何かを測るような、凍りついた間があって、やがて重い口を開く。
「……現場にいた者、としか。未だ宮廷の闇を這い回る、正体不明の影でございます」
短い言葉。それ以上は、清明の口からも語られない。
――まだ、この人でさえ掴みきれていないのだ。
桜桃は爪が肉に食い込むほどに、きつく拳を握る。
「新帝は? 今、あの玉座に座っている者は、どうやって決まったの」
「首謀者死亡の混乱の中、四大貴族の当主たちによる合議で選出されました。残った皇族の中から、最も扱いやすい神輿として」
四大貴族――青陽、朱明、白蔵、玄英。
「名は、虚空」
桜桃の表情が揺れる。
「……虚空」
繰り返す。遠い記憶の中に、その名がある。幼い頃、父の傍らで耳にした覚えがあった。
「その方には、息子がいるわね」
「ええ。宮廷でもすでに頭角を現している男です」
清明は深く頷く。
「長男は、昊夜、と」
空気が変わる。
──昊夜。
その名は、父が生前に定めてくれた自分の婚約者候補とまったく同じ名だった。
あの燃え盛る夜のせいで永遠に失われた、「あの夜に」会う予定だった存在。
それが、今や仇敵とも言える新帝の息子として、この同じ皇居の中、すぐ近くに存在している。
「……首謀者は死んだ。そして、新しい帝が立ち、その息子が私のすぐ傍にいる……」
小さく呟く。誰に聞かせるでもなく。
「なら――私は、何のために死んだことになっているの?」
その先は言葉にならない。桜桃は拳を握りしめたまま目を伏せていた。喉の奥からせり上がる、理不尽への怒りに耐えるように。
「桜桃殿」
やがて、清明が静かに口を開く。
「あなた様はこれから、どうなさるおつもりですか。このまま侍女『六花』として、他人の名前の陰で静かに余生を過ごされますか? それとも……」
問い返す。逃げ場のない、刃のような問い。
桜桃は、一瞬だけ息を詰めた。だが、すぐに顔を上げ、清明を睨みつけるようにして言った。
「虚空帝がこの国を立て直してくれるなら、私はこのまま影に隠れて生きていってもいい。けれど、もしあの一族もまた、自分の欲のために玉座を汚すというのなら」
一拍置いて、桜桃は退けない覚悟を口にした。
「私が帝になる。父の遺したこの国を、私が引き継ぐわ」
迷いのない声音。
けれど――清明の濁りのない眼は、それをそのまま受け取らなかった。
「……本気ですか」
冷徹なまでに、静かに。
「ただの義務感や、行き場のない怒りで言っているのではありませんか? 玉座に座るとは、この国すべてを背負うということ。その覚悟が、本当にあなたにありますか?」
言葉が深く突き刺さる。桜桃の指先が震えた。自分の心の脆い部分を、すべて見透かされたような気がした。




