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狂桜華《きょうおうか》~亡国の姫は、名を捨て帝を目指す~  作者: 澪
第一章 桜、散る夜に【帝都崩落編】

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第五話 近衛中将、姫を探す

 帝都・天澄《あますみ》の外れ。朝の光が、宿の裏手に差し込んでいた。


 桜桃は桶を抱えたまま、井戸の前で立ち尽くしていた。水を汲むという、ただそれだけのことが、うまくできない。


 桶の縁を握る手に、じわりと力が入る。引き上げようとするたびに、水面が揺れて中身が半分こぼれる。三度目だった。


「六花」


 店主の女が、奥から顔を出した。


「遅いよ。どうした」


「……すみません、今行きます」


 桶を抱えて歩き出す。一歩ごとに水が揺れる。こぼさないようにと思うほど、腕に変な力が入る。


 厨房の入口で、ぐらりと傾いた。


「あっ」


 中身を半分、床にこぼした。


 店主が見ている。


 桜桃は慌てて布を取ろうとして、棚の端に肘をぶつけた。器が一つ、落ちる。割れる音が響いた。


 しばらく沈黙が落ちた。


「……六花」


「申し訳ありません」


 桜桃は膝をついて破片を拾い始める。


 手が震えていた。情けないとも思わなかった。ただ、何も考えられなかった。


 昨日も同じことをした。一昨日も。毎朝、同じところで躓いている。


「怪我はないかい」


 店主の声は、思ったより穏やかだった。


「……はい」


「ならいい」


 店主は桜桃の隣にしゃがみ、黙って破片を拾い始めた。責める言葉はない。ため息もない。ただ、一緒に拾う。その静けさが、かえって沁みた。


「最初はそんなもんだよ」


 破片を紙に包みながら、続ける。


「あんた、こういう仕事したことないだろう」


 否定できなかった。


「分かってて置いてるんだからね。気にしなくていい」


 店主は立ち上がり、桶を取り上げた。


「水はこう持つ。脇を締めて、重心を下げる。やってみな」


 桜桃はもう一度桶を持つ。言われた通りにやると、さっきより揺れが少ない。こぼれない。


「そう。それでいい」


 店主はそれだけ言って、奥へ戻った。


 桜桃はしばらく、その背中を見ていた。


 桶を持ったまま、動けなかった。泣きそうだった。泣く理由が、水の汲み方を教えてもらっただけのことなのに。


 でも、そういうことではなかった。親切にされることに、まだ慣れていなかった。


 夜、宿の裏手に、桜桃は一人で座っていた。


 空には星が出ている。宮廷の空と同じ星なのに、ずいぶん遠く見えた。


 手のひらを見る。


 指の付け根が赤くなっていた。明日にはもっと痛くなるだろう。


 六花の手は、こんなではなかった。荒れてはいたが、こんな荒れ方ではなかった。


 いつも柔らかくて、大きな傷などはなかった。それでいてどんな仕事も丁寧にこなしていた。


 桜桃は今日初めて、あの手がどれだけのものを積み重ねてきたのかを知った気がした。


「……六花」


 声に出すと、喉が詰まった。


 ふと、ずっと昔のことを思い出した。


『姫様、どうなさいました?』


 庭の隅で膝を抱えていた幼い桜桃の前に、六花がしゃがみ込んだ。


『……お母様がいないの。まだ、ご療養なんですって』


 幼い桜桃には、療養という言葉の意味などよく分からなかった。ただ、母が今日も来ないということだけは分かっていた。


『みんな、お母様はお身体が悪いから仕方ないって言うの。でも……寂しいの』


 六花は困ったように眉を下げた。慰める言葉を探しているらしく、しばらく黙っていたが、やがて何かを思いついたように顔を上げた。


『私がいますよ! それに朝凪も!』


『……朝凪も?』


 目を丸くする桜桃をよそに、六花は庭の向こうへ顔を向けると、大声で朝凪を呼んだ。


『朝凪ー! 姫様がお呼びですよー!』


『六花、だめ! お仕事中かもしれないでしょう!』


 慌てて止めた桜桃だったが、ほどなくして聞こえてきたのは、朝凪の声ではなかった。


『桜桃。私も呼んでみろ』


 振り返れば、回廊の向こうから星河帝が楽しそうに歩いてくる。その後ろから、書状を抱えた日向が小走りで走ってくるのが見えた


『お父様、と呼べば、私もすぐに来るぞ』


『陛下は最初からここにいらしたでしょう』


『細かいことを言うな』


『そもそも、仕事中になぜここにいるんです』


『そういうお前は、なぜここにいる』


『……俺はあんたを探しに来たんだよ』


 日向が呆れたように返すと、星河は一瞬黙った。


『……見つかったな』


『ええ。ですから戻りますよ、陛下』


 そんな二人の向こうから、今度こそ朝凪が姿を現した。


『……お呼びでしょうか、姫様』


『本当に来た』


 桜桃が笑うと、朝凪は当然のように頷いた。


『お呼びになれば参ります』


『日向。朝凪はよくて、私は駄目なのか』


『朝凪は桜桃様の侍従でもあります』


『私は父親だぞ』


『そして帝でもあります』


 六花が吹き出し、桜桃もつられて笑った。


 あの頃は、本当にそうなのだと思っていた。


 母がいなくても、六花がいる。朝凪もいる。父は忙しいと言いながら、呼びもしないのに顔を出した。


 いつだって、誰かがそばにいた。

 ずっと、そうなのだと思っていた。


 風が吹く。星が揺れて見えた。揺れているのは星ではなく、目が滲んでいるせいだと分かっていた。


 桜桃は膝を抱えて、しばらくそのまま空を見ていた。


 泣いても、夜は明ける。そのことだけを、今は信じることにした。


 ***


 それから数日。桜桃の手は、少しずつ仕事を覚えていった。

 桶の持ち方。皿の重ね方。客への頭の下げ方。最初は何もかもがぎこちなかった。でも、やればやるだけ身体が覚えていく。


 朝、水を汲む。昼、客に食事を運ぶ。夕方、棚を拭く。

 単純なことの繰り返しだった。考える隙間がないほど忙しい日もあった。そういう日は、夜になると何も考えないまま眠れた。それが、少しだけありがたかった。


 その日も、桜桃は通りを歩いていた。市場の端を抜けて、宿への道を戻る。いつもの道。いつもの景色。


 炊き出しの列が見えた。

 そこに並ぶ人々の顔は、桜桃が知っていた宮廷の顔とは違った。疲れていて、痩せていて、それでも静かに順番を待っている。


 少しだけ視線を向ける。

 あの中にも、自分と同じように、名も身寄りもない者がいるのだろう。


 桜桃は立ち止まらずに通り過ぎた。足を止めれば、考えてしまうから。


 ***


 炊き出しの列を、ひとり青年が見ていた。

 青年──朝凪は一人ずつ、その顔を見ていく。


 いない。


 次の路地。


 いない。


 別の宿の裏。


 いない。


 左の脇腹に巻かれた布が、歩くたびに滲んでいた。三日前に替えたばかりなのに、もう赤い。本来なら横になっていなければならない傷だと、自分でも分かっている。

 深く息を吸うと、肺の底に鈍い痛みが走る。それでも足を止める気にはなれなかった。


 懐に、一枚の布がある。

 宮廷を出る前に、桜桃が使っていた肩巾《ひれ》だった。別に持ってくるつもりはなかった。気づいたら、手の中にあった。それだけのことだ。


 朝凪は立ち止まり、その布を取り出した。何度も折り畳まれて、端が少し毛羽立っている。


「……ここにもいないか」

 

 低く零れる声に、わずかに落胆が滲む。


「……いや」


 すぐに打ち消す。


「……無事でいるはずだ」


 自分に言い聞かせるように。


 肩巾を指先でなぞる。丁寧に、繰り返し。まるでそうしていれば、まだ繋がっているような気がして。


「……食べているのか」


 誰に向けるでもなく。


「……怪我は」


 言いかけて、止まる。


 自分が問うべき言葉ではなかった。自分こそが、まだ傷を抱えたまま歩いている。脇腹の痛みが、皮肉のように応えた。


 深く息を吸い、ゆっくりと吐き出す。

 朝凪は布を懐に戻した。


「……必ず見つけます」


 誰にも届かない程の小さな声でそう言って、踵を返した。その歩き方は、やはりわずかに左を庇っていた。だが迷いはどこにもなかった。


 その頃、桜桃は別の通りを歩いていた。

 荷を抱え、足早に。呼ばれた声に応じながら、日常の中へ戻っていく。


 振り返ることはない。気づくこともない。すぐ近くに、探していた人がいたことを。


 その人が、滲む傷を押さえながら、まだ自分を探し続けていることを。


 ***


 昼のざわめきが通りに戻っていた。

 荷車の軋む音と人の声が重なる。桜桃は裏口から表へ出ると、ふと足を止めた。いつもより人が多い。何かを囲むように、小さな人だかりができている。


「何かあったんですか」


 近くの者に声をかけると、男はちらりとこちらを見た。


「ああ、知らないのか。帝が替わった」


 一瞬、言葉の意味が入ってこない。


「新しい帝が立ったんだよ。ほら、宮廷もあの騒ぎで壊れただろ。帝都も立て直しで大わらわらしい」


 軽い調子で続けられる。まるで、遠い国の話のように。


「……そう、ですか」


 それだけを返す。それ以上、言葉が出なかった。


 人々の会話は止まらない。


「謀反だなんだって噂もあるがな」


「まあ、俺たちには関係ないさ」


「治安が早く落ち着いてくれればそれでいい」


 笑い声が混じる。


 桜桃は静かにその場を離れ、店に戻った。

 胸の奥がざわりとする。押さえ込んでいたものが、ひび割れるように。


 ──帝が、替わった。


 その言葉だけが、何度も反芻される。

 あの夜の光景が蘇る。血の色。倒れた影。崩れゆく宮廷。父の、最後の声。


 息を吸う。それ以上、思い出すのを拒むように。

 

 もう、自分には関係のないことだと。そう決めたはずなのに。


「宮廷で人を集めてるらしいね」


 店を閉める支度の中で、店主がぽつりと呟いた。手は止めずに、何気ない調子で。


「人手が足りないんだとさ。あの騒ぎで、だいぶ逃げたらしい」


「……そう、なんですね」


 桜桃は皿を拭きながら答える。


「侍女も足りてないって話だ」


 その一言に、桜桃の手がほんの一瞬だけ止まった。けれど、それを悟られないようにすぐに動かす。


「六花」


 名を呼ばれる。


「行ってみな」


 桜桃が顔を上げる。店主は、こちらを見ていない。いつもの調子で、布を絞っているだけだ。


「ここで食いつなぐのもいいけどね。どうせなら、もう少しまともな飯が食える場所の方がいいだろう」


 桜桃は何も言わなかった。ただ、手を動かし続ける。水の音が、静かに響く。


 店主は、何も聞かなかった。どこから来たのか、なぜここで働いているのか、本当の名前は何なのか。何も聞かずに置いてくれた。その代わりに、水の汲み方を教えてくれて、破片を一緒に拾ってくれた。


 だからこそ、この一言が重かった。


 ──行ってみな。


 それは、追い出しではない。背中を押す言葉だった。


「まあ、決めるのはあんたさ」


 それだけ言って、店主は奥へ引っ込んだ。

 桜桃はしばらく、皿を持ったまま立っていた。



 その夜、桜桃は宿の一室で、膝を抱えていた。


 窓の外には宮廷の方角がある。灯りは見えない。でも、確かにそこにある。


 戻る理由を、数えようとした。

 いくらでも出てくる。父の死の真相を知りたい。六花への申し訳なさ。「残せ」という最後の言葉。朝凪が、まだ生きているかもしれない。


 逃げる理由も、数えようとした。

 これもいくらでも出てくる。危険だ。正体がばれる。また誰かが死ぬかもしれない。


 ただ、宮廷に戻ったからといって、すぐに正体を見破られるとは限らなかった。


 皇女は成人の儀を迎えるまで、公の場に姿を見せることはほとんどない。


 桜桃も帝家が住む八重御所の外へ出る機会は少なく、顔を知る官吏は父が信頼を置いていた臣たち、ほかには、身辺を守っていた近衛と、日々の世話をしてくれた帝家付きの侍従たちくらいだ。


 ふと、あの夜のことが思い出された。


『逃げて、生き延びよ』


 自分が命じた者たちは、無事に宮廷を離れられただろうか。


 あれほど多くの者が命を落とした夜だ。全員が逃げ延びたとは、とても思えない。それでも、誰か一人でも生きていてくれたなら。


 彼らともし宮廷で再会することがあれば、きっと桜桃だと気づくだろう。


 けれど、それを恐ろしいとは思わなかった。あの者たちなら、たとえ正体を知っても、決して誰かに明かしたりはしない。


 問題は、彼ら以外の者たちだった。


 自分の顔を知らない者ばかりだとしても、何がきっかけで正体を疑われるか分からない。



 どちらが多いかなんて、数えても意味がない。


 桜桃はゆっくり息を吐いた。


 窓の外を見る。暗い闇が広がり、何も見えない。


 でも、足だけはずっと前から、宮廷の方を向いていた。考えるより先に、ずっと向いていた。気づいていたのに、気づかないふりをしていた。


「……行かなければ、分からないことがある」


 声に出すと、少しだけはっきりした。

 答えは出ていない。覚悟もまだ完全ではない。怖い。また誰かを巻き込むかもしれない。また誰かが、自分のせいで。


 でも。


 父上は言った。残せ、と。


 六花は言った。あなたが生きることに意味がある、と。


 朝凪は言った。真っ直ぐ進め、と。


 三人とも、同じ方向を指していた。


 桜桃は膝から手を離した。


 足は、決まっていた。


 翌朝、桜桃は店主の前に立った。


「行ってきます」


 短く、それだけを言う。

 店主は一度だけこちらを見て、鼻で笑った。


「落ちて戻ってくるんじゃないよ」


「……はい」


 わずかに口元が緩む。


 振り返らずに、外へ出る。


 宮廷へ。六花として。もう一度、あの場所へ。



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