第五話 六花として、生きる
血の匂いは、まだ消えていなかった。
崩れた回廊の奥、粗末に並べられた遺体のひとつに、武官たちの視線が集まっていた。
「――こちらが、皇女殿下のご遺体だ」
低く確認したのは、武官・翠陰飛燕だった。軍の直垂を纏っており、宮廷の文官とも近衛とも違う空気を持っていた。
背筋を伸ばしたまま遺体を見下ろしている。乱れた様子はない。戦場を幾度もくぐり抜けてきた者の、無駄のない立ち方だった。
顔は半ば損なわれている。衣は裂け、血に濡れていた。だが、その身にまとっていた装いと、周囲の証言が、それを「皇女」とするには十分だった。
飛燕は一歩、近づいた。しばし見下ろし、やがて静かに言い放つ。
「……間違いあるまい」
周囲の兵が息を呑む。
「しかし……確認を――」
「不要だ」
遮る声は冷徹だった。
「今、この場に必要なのは"確定"だ。疑いではない」
飛燕はわずかに視線を落とす。その亡骸の胸元――深く、ためらいなく入った傷に。あまりにも正確で、あまりにも無駄がない一撃だった。戦場の混乱でついた傷ではない。
一瞬だけ、その目が止まった。それからすぐに、視線を外す。
「皇女殿下はここで亡くなられた。それでよい」
その声に感情はなかった。ただ、必要なことを告げているだけのようだった。
同じ場に、もうひとりの男がいた。
高官、青陽清明である。白髪交じりの髪、深く刻まれた皺。その年齢を感じさせる顔に、しかし眼だけが若いままのように鋭かった。
彼は少し離れた位置から、そのやり取りを黙って見ていた。やがて、静かに歩み寄った。覆いをわずかにめくる。
――瞬間。
わずかに、眉が動く。
「……そうか」
小さく、誰にも聞こえぬ声で呟いた。
決定的に違うものを、清明は知っていた。
――手だ。
皇女の手は、あれほど荒れてはいない。これは侍女の手だ。働く者の手。
清明は覆いを戻した。
「……間違いないでしょう」
飛燕は満足げに頷いた。
「これで、ようやく話が進む」
その言葉に、清明は何も返さない。ただ、わずかに目を細めた。
――皇女は、死んでいない。
そう確信した。
同時に、もう一つの事実も理解する。
(生きておられる)
清明は静かに踵を返す。
次に考えるべきは、その命をどう守るかだった。
***
朝の光が、宿の裏手に差し込んでいた。
桜桃は桶を抱えたまま、井戸の前で立ち尽くしていた。水を汲む。ただそれだけのことが、うまくできない。
桶の縁を握る手に、じわりと力が入る。引き上げようとするたびに、水面が揺れて中身が半分こぼれる。三度目だった。
「六花」
店主の女が、奥から顔を出した。
「遅いよ。どうした」
「……すみません、今行きます」
桶を抱えて歩き出す。一歩ごとに水が揺れる。こぼさないようにと思うほど、腕に変な力が入る。
厨房の入口で、ぐらりと傾いた。
「あっ」
半分、床にこぼした。
店主が見ている。桜桃は慌てて布を取ろうとして、棚の端に肘をぶつけた。器が一つ、落ちる。割れる音。
しばらく沈黙が落ちた。
「……六花」
「申し訳ありません」
桜桃は膝をついて破片を拾い始める。手が震えていた。情けないとも思わなかった。ただ、何も考えられなかった。
昨日も同じことをした。一昨日も。毎朝、同じところで躓いている。
「怪我はないかい」
店主の声は、思ったより穏やかだった。
「……はい」
「ならいい」
店主は桜桃の隣にしゃがみ、黙って破片を拾い始めた。責める言葉はない。ため息もない。ただ、一緒に拾う。その静けさが、かえって沁みた。
「最初はそんなもんだよ」
破片を紙に包みながら、続ける。
「あんた、こういう仕事したことないだろう」
否定できなかった。
「分かってて置いてるんだからね。気にしなくていい」
店主は立ち上がり、桶を取り上げた。
「水はこう持つ。脇を締めて、重心を下げる」
見本を見せる。簡単そうに見えた。
「やってみな」
桜桃はもう一度桶を持つ。言われた通りにやると、さっきより揺れが少ない。こぼれない。
「そう。それでいい」
店主はそれだけ言って、奥へ戻った。
桜桃はしばらく、その背中を見ていた。
桶を持ったまま、動けなかった。泣きそうだった。泣く理由が、水の汲み方を教えてもらっただけのことなのに。
でも、そういうことではなかった。
親切にされることに、まだ慣れていなかった。
夜。宿の裏手に、桜桃は一人で座っていた。
空には星が出ている。帝都・天澄の空と同じ星なのに、ずいぶん遠く見えた。
手のひらを見る。
今日一日で、指の付け根が赤くなっていた。明日にはもっと痛くなるだろう。
六花の手は、こんなではなかった。
荒れてはいたが、こんな荒れ方ではなかった。いつも柔らかくて、大きな傷などはなかった。それでいてどんな仕事も丁寧にこなしていた。桜桃は今日初めて、あの手がどれだけのものを積み重ねてきたのかを知った気がした。
「……六花」
声に出すと、喉が詰まった。
泣くつもりはなかった。でも、目が熱くなる。
あの人は今、どこにいるのだろう。
いや、分かっている。分かっているから、それ以上考えるのをやめた。考えたら、ここに座っていられなくなる。
「六花として、生きる」
言い聞かせるように呟く。
昼間も言った。夕方も言った。これで何度目かも分からない。繰り返すほどに、その言葉が自分のものになっていく気がした。
まだ完全には信じられていない。でも、言い続ければいつか本当になるかもしれない。
そう思うことにした。
風が吹く。
星が揺れて見えた。揺れているのは星ではなく、目が滲んでいるせいだと分かっていた。
桜桃は膝を抱えて、しばらくそのまま空を見ていた。
朝凪のことを考えた。六花のことを考えた。父上のことを考えた。考えるたびに、胸の奥が引き攣れるように痛んだ。
それでも、空を見続けた。
泣いても、夜は明ける。
そのことだけを、今は信じることにした。




