第四話 真っ直ぐ、進む
挿絵あり
朝凪は桜桃の手を離さなかった。走りながらも、その歩みは一度も乱れない。
どこをどう曲がっているのか、桜桃には分からない。ただ朝凪の背中だけを追う。それだけが、今できることだった。
少し進んだ先、朝凪が扉の前で足を止めた。
古い木の扉だった。壁と同じ色をしていて、知らなければ見落とすような場所にある。帝と忠臣しか知らない隠し通路だと、後になって気づく。
「ここから外へ出られます」
朝凪は扉に手をかけたまま、一瞬だけ言葉を切った。何かを言おうとして、やめたような間だった。
それから、迷いのない動きで桜桃を抱き寄せた。一瞬だけ、強く。けれど壊れないように。朝凪の心臓の音が聞こえた気がした。速かった。いつも静かなこの人の、初めて聞く音だった。
「姫様」
声は、いつもより少しだけ柔らかかった。
「真っ直ぐ進んでください」
桜桃は何か言おうとした。名前を呼ぼうとした。でも声が出ない。喉が詰まって、何も出てこない。
遠くで鐘が鳴った。宮廷の時を告げる鐘。
毎日当たり前のように聞いていた音だった。
けれどその夜だけは、終わりを告げる音のように聞こえた。
朝凪はすでに背を向けていた。それ以上振り返る気配はなかった。
背中を押されるように、桜桃は隠し通路へと押し込まれる。重い扉が閉じる。
「朝凪……!」
叫びが響く。だが扉は容赦なく閉ざされた。
カチリ、と音がした。鍵がかかる。
桜桃は扉に縋りついた。拳で叩く。叩いても、何も変わらない。冷たい木の感触だけが手に残る。
そのとき、視線が落ちた。
鍵穴。
小さな穴の向こうに、炎の光が見える。揺れている。赤い。
朝凪が見えた。剣を握り、敵の中に立っている。刃が交わる。火花が散る。その動きはまだ速いが、左腕をわずかに庇っていた。どこかで傷を負っている。それでも退かない。
炎が大きく揺れた。しばらく、何も見えなくなる。
桜桃は鍵穴に目を押し当てたまま、息を詰めた。
見えない。何も見えない。煙が廊を満たしていく。
やがて、炎が揺れ直した。
しばらくして、朝凪が誰かを抱えるようにして、廊の端へ向かっている。
六花だった。
薄桜色の袿が、血で濡れている。自分の足では立てないのか、朝凪の腕にほとんど体重を預けたまま運ばれていく。
朝凪は、六花を廊の壁際まで連れていき、そっと座らせる。六花の顔が、一瞬だけこちらを向いた気がした。
「六花……!」
声が裂ける。届かない。扉一枚が、どこまでも遠い。
朝凪が立ち上がる。六花に背を向け、敵に向き直る。剣を構え直す。
その動きが、さっきより重い。左腕だけではない。体全体が、少しずつ限界に近づいているのが、鍵穴越しでも分かった。
刃が交わる音が続く。
一度、体勢が大きく崩れた。膝をつきかける。それでも立ち直る。
また刃が来る。今度は、かわしきれなかった。深く、入った。
朝凪の体が、ゆっくりと傾く。それでも六花の前から動かない。最後まで、そこに立とうとしている。
「やめて……お願い……」
何も届かない。何も変えられない。
やがて、朝凪の口が動いた。音は聞こえない。でも、何を言っているか分かった。
「……真っ直ぐ……」
それだけだった。
炎が、視界を覆う。すべてが赤く染まり、やがて何も見えなくなる。扉の向こうは、沈黙だった。
桜桃はその場に崩れ落ちた。
膝が冷たい石に当たる。その痛みだけが、妙にはっきりしていた。涙が止まらない。呼吸ができない。息を吸うたびに、喉が引き攣れるように鳴る。
動かない六花。
膝をつく朝凪。
どちらも、もう見えない。時間だけが、過ぎていく。
どのくらいそうしていたのか、分からない。
冷たい石の上に座ったまま、桜桃は動けなかった。膝を抱えて、額を扉に押し当てて、ただ息をしていた。息をすることしか、できなかった。
やがて、胸の奥で何かが浮かぶ。声だった。
『真っ直ぐ進んでください』
朝凪の声。いつもより少しだけ柔らかい声で。まるで、大丈夫だと言い聞かせるように。
『あなたが生きることに、意味があります』
六花の声。袖を離しながら、それでも確かに言った言葉。
桜桃はゆっくりと顔を上げた。
涙を拭う。袖が濡れる。また滲む。それでも、拭う。
震える手を、握る。
立ち上がろうとして、足に力が入らない。膝が笑っている。もう一度、力を込める。立てた。
「……行く」
声はまだ震えている。暗い通路に、情けないほど小さく響く。
「真っ直ぐ、進む」
胸の痛みは変わらない。二人のことを考えれば、今すぐまた崩れ落ちそうになる。でも、崩れたら終わる。崩れることが、二人への裏切りになる気がした。
一歩、踏み出す。
足元は暗い。先が見えない。それでも、まっすぐに続いているはずだと信じて、歩く。
(私が……ここにいる意味。それがあるなら)
震える手で、胸元を握る。
いつもそこにあるはずの感触が、なかった。
どこかで落としたのだろう。気づかなかった。気づく余裕が、なかった。
ゆっくりと、息を吸う。
「……私は」
声はまだ小さい。でも、確かに形を持ち始める。
「私は……六花として、生きる」
その言葉が、静かに通路に溶けた。
桜桃という名が、遠くなる。
代わりに残るのは――六花。ただ一つの、生き延びるための名前。
「……待っていて」
誰にも届かない声で言って、前を向いた。足は、止まらなかった。
どれほど歩いただろう。
湿った土の匂いが薄れ、前方に微かな光が見えた。隠し通路の出口だった。押し開けた扉の向こうから、冷たい夜風が流れ込む。
桜桃は外へ踏み出した。
振り返る。木々の隙間の向こう、天澄京の空が赤く染まっていた。
炎が揺れている。あの場所に、六花がいる。父がいる。朝凪がいる。生まれてからずっと暮らした宮廷がある。
けれど――もう戻れない。
桜桃は唇を噛みしめた。そして何も言わず、再び前を向く。
夜の闇は深かった。
だが、その先へ進むしかなかった。
手の中に、桜の花びらはもう、ない。
幸せはいつも
花びらのように
手のひらからこぼれ落ちていく。
今年ももうすぐ春が終わる。
──そして同時に、その夜、ひとつの時代が終わった。
***
宮廷の一角、神祇殿に一人の男がいた。
遠く炎の色が、窓を染めている。怒号が聞こえる。刃の音が聞こえる。やがてそれも遠のいて、ただ火の粉だけが夜空に舞っていた。
神祇官は縁に立ったまま、その空を見ていた。
懐に、亀甲がある。
謀反の報が届く少し前、神祇官は一人でそれを読んでいた。熱した鏝を当て、走る亀裂を読んだ。
都が、揺れる。
そう読んだ。
そして──ひとつだけ。
細く、真っ直ぐに残るものがあった。
神祇官は空を見上げた。
火の粉が、風に流されていく。
「……希望が、ひとつ」
声に出すと、ひどく小さかった。
この夜の炎の前では、吹き消えてしまいそうなほど。
だが神祇官は目を逸らさなかった。
燃える空を、ただ見ていた。




