第四話 皇女は死んだ
迫り来る男は顔の下半分が布で覆われていた。
朝凪は六花の身体を左胸へ抱き込んだ。背から腰へ左腕を回し、その身体を支える
「朝凪……!」
桜桃の声とほとんど同時に、横合いから、別の刃が六花へ迫る。
朝凪は、六花をさらに深く胸へ抱き込み、自らの右半身を前へ差し出す。
刃が右肩口を掠めた。軍装が裂け、血が飛ぶ。
「朝凪!」
朝凪の身体が大きく揺らいだ。それでも、六花を抱く腕だけは緩まなかった。
鞘に収められた刀を右手で引き抜くと、そのまま刀を翻す。黒装束が床へ倒れた。
朝凪は荒く肩を上下させている。
裂けた軍装から流れた血が、腕を伝って指先から落ちた。
「朝凪……!」
朝凪は六花を左手で抱いたまま、布で顔を覆った男を見据える。
燃え上がる炎が、一瞬だけ男の目元を照らした。
「皇女を渡せ」
「断る」
男の目が、朝凪の腕の中へ向いた。
「いくら守っても、もう死んでいるんだろう? 近衛中将」
「……!」
桜桃は息を呑んだ。
──今、何と言った。
朝凪の目から、温度が消えた。
「……その口を閉じろ」
桜桃は鍵穴へ縋りつく。
「六花!? ねえ、朝凪。六花は……」
朝凪が、ふとこちらを見た。ほんの一瞬、扉の向こうにいる桜桃を、確かめるように。
そして、その唇が動いた。
『真っ直ぐ──』
「朝凪……?」
朝凪は六花を両手で抱え直すと、隠し扉の前へ静かに膝をついた。
腕の中から、その身体を下ろす。まるで眠っている者を起こさないように、そっと。六花の背を扉へ預けさせる。
「……!」
薄桜色の衣が、鍵穴を塞ぎ、何も見えなくなる。
桜桃は扉を叩いた。
「六花! ねえ、返事して……!」
返事はない。
扉の向こうで、朝凪が立ち上がる気配がした。
「退け、お前まで死ぬぞ」
短い沈黙ののち、やがて、朝凪は口を開いた。
「桜桃皇女には、指一本触れさせない」
「……っ」
桜桃は口元を押さえた。
次の瞬間、幾つもの足音が一斉に動いた。
激しい金属音が扉を震わせる。何かが壁へ叩きつけられ、鈍い音が響いた。
「朝凪!」
すぐ近くで刀がぶつかった。扉そのものが震える。
荒い足音が行き交い、刀が床へ落ちる音がした。
桜桃は息を詰めた。
「……朝凪?」
扉へ耳を押し当てる。
「……六花?」
再び怒号が上がり、誰かが走っていく。別の誰かが叫んでいる声が聞こえるが、もう、誰の声なのかも分からない。
桜桃はその場に崩れ落ちた。
膝が冷たい石床に当たる。涙が止まらない。呼吸ができない。息を吸うたびに、喉が引き攣れるように鳴る。
どのくらいそうしていたのか、分からなかった。
扉の向こうは、いつの間にか何も聞こえなくなっていた。
やがて、胸の奥から声が浮かび上がってきた。
『真っ直ぐ進んでください』
朝凪の声。いつもより少しだけ柔らかく、まるで、大丈夫だと言い聞かせるように。
『あなたが生きることに、意味があります』
六花の声。震える手で袿を脱がしながら、それでも確かに残していった言葉。
桜桃はゆっくりと顔を上げた。
涙を拭う。袖が濡れる。また滲む。それでも、何度も拭う。
震える手を、ぎゅっと握る。立ち上がろうとしたが、足に力が入らない。膝が細かく震えている。もう一度、力を込めると、今度は立てた。
「真っ直ぐ、進む」
声はまだ震えていた。情けないほど小さく響く。
二人のことを考えれば、今すぐまた崩れ落ちそうになる。でも、崩れることが、逃がしてくれた皆への裏切りになる気がした。
桜桃は一度だけ扉を振り返った。
「六花」
扉の前の六花の名を呼ぶ。
「……行くね」
震える手で、胸元を握る。
いつもそこにあるはずの感触が、なかった。
どこかで落としたのだろう。気づかなかった。気づく余裕さえ、なかった。
ゆっくりと、深く息を吸い込む。
「……私は」
声はまだ小さい。けれど、確かに形を持ち始める。
「私は……六花として、生きる」
その言葉が、静かに通路の闇に溶けた。
「……待っていて。必ず戻ってくる」
誰にも届かない声で呟いて、踵を返し、足を踏み出した。
しばらく歩くと、湿った土の匂いが薄れ、前方に微かな光が見えた。隠し通路の出口だった。
押し開けた扉の向こうから、冷たい夜風が流れ込む。
振り返る。木々の隙間の向こう、帝都の空が赤く染まっていた。
あの場所に、六花がいる。星河帝がいる。朝凪がいる。
生まれてからずっと暮らした宮廷がある。
けれど──もう戻れない。桜桃は唇を噛みしめた。
そして何も言わず、再び前を向く。夜の闇は深かった。だが、その先へ進むしかなかった。
手の中に、桜の花びらは、もうなかった。
幸せはいつも
花びらのように
手のひらからこぼれ落ちていく。
──その夜、ひとつの時代が終わった。
***
宮廷の奥、薄暗い神祇殿のなかに、一人の男が佇んでいた。
遠くから届く炎の色が、格子窓を赤く染め上げている。風に乗って怒号が響き、刃のぶつかり合う鈍い音が重なる。
それらもやがて引き波のように遠のいていき、あとにはただ、無数の火の粉だけが昏い夜空へと舞い上がっていた。
男は板敷きの縁に立ち尽くしたまま、その変わりゆく空を見つめていた。
衣服の懐には、まだ熱を帯びた亀の甲羅がある。
謀反の知らせがこの場所に届く少し前、男は一人静かに、それと向き合っていた。熱した鉄を当て、甲羅の表面を走る細い裂け目の形を、じっと目で追う。
──この都が、大きく揺れる。
ひび割れは、その行く末をはっきりと告げていた。
だが──もうひとつ。
激しい割れ目の隙間に、細く、真っ直ぐに伸びて残る線があった。
男は再び、頭上の空へと視線を戻した。
赤く乾いた火の粉が、夜風に流されて消えていく。
「……希望が、ひとつ」
口からこぼれた呟きは、ひどく小さかった。
すべてを焼き尽くそうとする炎の前では、一瞬で吹き消されてしまうほどに、儚い。
それでも、男はそこから目を逸らさなかった。
ただ静かに呼吸を整えながら、赤く燃え盛る空を、いつまでも静かに見つめ続けていた。
***
血の匂いは、まだ消えていなかった。
崩れた回廊の奥、粗末に並べられた遺体のひとつに、武官たちの視線が集まっていた。
「──こちらが、皇女殿下のご遺体か」
低い声で確認したのは、武官・翠陰飛燕だった。
朝廷軍の陣羽織を羽織っており、宮廷の文官とも近衛とも違う空気を持っていた。背筋を伸ばしたまま遺体を見下ろしている。
戦場を幾度もくぐり抜けてきた者の、無駄のない立ち方だった。
寝かされた遺体の覆いをめくる。顔には小さな白い布がかけられていた。
「肩から上は火傷が酷く、顔の判別ができません」
兵が困ったように飛燕に声をかける。
飛燕はその遺体をしばし見下ろした。
遺体の衣は裂け、血に濡れていた。だが、その身にまとっていた装いと、周囲の証言が、それを「皇女」とするには十分だった。
やがて静かに言い放つ。
「……皇女で間違いあるまい」
「しかし……確認を――」
「不要だ」
遮る声は冷徹だった。
「今、この場に必要なのは"確定"だ。疑いではない」
飛燕はわずかに視線を落とす。その亡骸の胸元──深く、ためらいなく入った傷。
あまりにも正確で、あまりにも無駄がない一撃だった。戦場の混乱でついた傷ではない。一瞬だけ、そこに目が止まった。
それからすぐに、視線を外し、覆いを被せる。
「皇女殿下は亡くなられた。それでよい」
その声に感情はなかった。ただ、必要なことを告げているだけのようだった。
同じ場に、もうひとりの男がいた。
高官、青陽清明である。白髪交じりの髪、深く刻まれた皺。しかし眼だけが若いままのように鋭かった。
彼は少し離れた位置から、そのやり取りを黙って見ていた。やがて、静かに歩み寄り、覆いをめくる。
──瞬間。微かに、眉が動く。
「……そうか」
小さく、誰にも聞こえないような声で呟いた。
決定的に違うものを、清明は知っていた。
──手だ。
皇女の手は、あれほど荒れてはいない。これは侍女の手だ。働く者の手。
清明は覆いを戻した。
「……間違いないでしょう」
飛燕は満足げに頷いた。
「これで、ようやく話が進む」
その言葉に、清明は何も返さない。ただ、わずかに目を伏せた。
──皇女は、死んでいない。
そう確信した。
(生きておられる)
清明は静かに踵を返す。次に考えるべきは、その命をどう守るかだった。




