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狂桜華《きょうおうか》~亡国の姫は、名を捨て帝を目指す~  作者:
第一章 桜、散る夜に

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第三話 炎の廊

 回廊には、倒れた影がいくつかあった。軍装だった。帝の護衛として詰めていたはずの者たちだ。刃を向けた側か、向けられた側か、今となっては分からない。


 足元では石が崩れ、上からは梁が落ちてくる。熱と煙が肺を焼く。廊は暗く、どこへ続いているのかも分からない。六花の手だけが、唯一の現実だった。


「姫様、離れないでください!」


「わかってる……!」


 でも、声は震えていた。

 逃げ道が塞がれている。複数の気配。闇に紛れて容赦なく剣が抜かれる音が重なった。

桜桃の足が止まった。


息が上がっている。足が痛い。どこかで切ったのか、肌がじりじりと熱い。それでも走り続けてきた。走り続ければ、どこかへ抜けられると信じていた。


なのに。


(ここまで、か)


一瞬だけ気力が抜けそうになったが――桜桃はすぐに、顎をぐっと引いた。


「姫様……」


六花の声は掠れていた。

恐怖に震えながらも、桜桃を背に隠すように立っている。


影が一歩、踏み出した。


桜桃は逃げなかった。震える六花の肩に手を置き、前へ踏み出す。

まっすぐに影を睨みつけ、鋭い声を突きつけた。


「――そこを退きなさい」


その毅然とした、一歩も退かぬ美しさに、暗殺者たちの動きが一瞬、怯んだように止まった。


──次の瞬間、逃げ道を塞いでいた気配が、音もなく霧散した。

そして肉を裂く鈍い音と、鋭い金属音が遅れて重なり合って響く。


 闇から現れた青年が、鋭い目をしたまま静かに剣を振り払った。


「相変わらず、あなたは私の心臓に悪いことばかりしますね」


赤褐色の髪と濃灰の長上衣が翻る。青年が、ゆっくりと振り向く。

その瞳に宿っていた鋭い光がふっと消え、静かな安堵が揺れていた。


「遅くなり申し訳ございません、姫様」


聞き慣れた、けれどいつもよりずっと低い声が響く。


「朝凪……!」


桜桃の口から、張り詰めていた息が震えながら漏れ出た。絶望に支配されかけていた視界に、彼という確かな光が戻ってくる。


朝凪は一瞬だけ桜桃の全身に視線を走らせて怪我がないかを確かめると、躊躇なくその腕を取った。引き寄せるその手には、絶対に彼女を死なせないという強い意志が籠っている。


「こちらです」


短い命令。

まだ周囲に潜む刺客の気配を警戒しながら、彼は桜桃を庇うようにして、再び闇の先へと走り出した。


曲がり角を抜けたその先——さらに敵がいた。


「……っ」


 桜桃の足が止まる。前にも、後ろにも。炎の中で、完全に囲まれていた。朝凪が剣を構えるが、数が多い。このままでは——


「……姫様」


 六花が、一歩前に出た。

 静かな、けれどはっきりとした声だった。いつも桜桃をからかうような柔らかい響きとは違う。決意を秘めた、凛とした声。


「私が、囮になります」


 心臓が、止まりそうになった。


「だめ……! 絶対にだめ!」


 桜桃の声が震えた。六花は振り返り、ほんの少しだけ微笑んだ。あの、桜桃をいつも優しくからかう時の笑顔だった。

 でも今は、目が少し潤んでいて、それでも必死に笑おうとしているのが分かった。


「大丈夫です。……私は、姫様の影ですから」


 六花はそう言いながら、桜桃の薄桜色の袿に手をかけた。指先がわずかに震えていた。桜桃は初めて、六花の手が震えるのを見た。


「あなたが生きることに、意味があります」


 袿を脱がせ、自分の薄青の上衣と素早く交換する。桜桃の華やかな衣が、六花の細い体に掛かる。そして、六花は桜桃の両肩をそっと掴んだ。


「六花……やめて、お願い……!」


 涙が溢れ、声が掠れる。六花は額を軽く桜桃の額に押し当てた。短い、けれど温かい時間。


「……私、ずっと楽しかったですよ。姫様と一緒にいられて。朝凪の不器用な冗談をからかうのも、桜の花びらを追いかける姫様を見るのも」


 声が、少しだけ湿っていた。


「だから、行ってください」


 六花はそこで一度、深く息を吸った。涙を堪えるように目を細め、それから明るく微笑んだ。いつもの、桜桃を安心させるための笑顔。


「六花——!!」


 桜桃の叫びを背に、六花は敵の方へ駆け出した。


 薄桜色の袿が、炎の中で激しく翻る。桜桃のものを纏った背中が、遠ざかっていく。六花は一度だけ、ほんの一瞬だけ肩越しに振り返った。

 その瞳に、確かに「生きて」という強い想いが宿っていた。

 朝凪の手が、桜桃の腕を強く掴んだ。


「行きましょう」


「でも六花が——!」


「行きましょう!」


 朝凪の声は低く、しかし力強かった。その手に、微かな震えがあった。いつも冷静な彼の、初めて見せる動揺。


 桜桃は引きずられるように暗い通路へ進みながら、何度も後ろを振り返った。炎の向こうで、六花の姿が影と剣の中に飲み込まれていく。


「六花……っ」


 声は炎にかき消された。


 御簾が燃えていく。

 春になるたび花見をした庭も、幼い頃に隠れた回廊も、炎の向こうに霞んでいる。


 もう二度と戻れない。

 その予感だけが、胸の奥へ静かに沈んだ。

 涙が、視界を滲ませる。拭う暇もないまま、ただ走った。

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