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狂桜華《きょうおうか》~亡国の姫は、名を捨て帝を目指す~  作者: 澪
第一章 桜、散る夜に【帝都崩落編】

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第三話 近衛中将、来る

 桜桃がきつく目をつぶった──次の瞬間、前方を塞いでいた気配が、音もなく霧散した。

 そして肉を裂く鈍い音と、鋭い金属音が遅れて重なり合って響く。


 闇から現れた青年が、静かに血に濡れた刀を振り払うと、赤褐色の髪と濃灰の長上衣が翻しながら、ゆっくりと振り返った。その瞳に宿っていた鋭い光がふっと消え、静かな安堵が揺れていた。


「遅くなり申し訳ございません、姫様」


 聞き慣れた、けれどいつもよりずっと低い声が響く。


「朝凪……!」


 桜桃の口から、張り詰めた息が漏れ出た。


 しかし次の瞬間、一人の刺客が朝凪の横をすり抜け、桜桃へ斬りかかってきた。


 朝凪は桜桃の腰を引き寄せると、刺客の刃を右手の刀で受け止め、そのまま斬り返した。


 桜桃を腕の中に庇ったまま、朝凪の目が桜桃に向く。


「怪我は」


「……ないわ」


「よかった」


 朝凪は桜桃の全身に視線を走らせて怪我がないかを確かめると、すぐに鋭い眼差しで周囲へ視線を巡らせる。


「姫様を中央へ! 立て直せ!」


 その一声だけで、崩れかけていた四人の近衛が、息を吹き返すように隊列を組み直した。


 朝凪は躊躇なく桜桃の腕を取る。


「こちらです」


 引き寄せるその手には、絶対に彼女を死なせないという強い意志が籠っていた。


「陣を崩すな。西回廊へ一気に抜ける」


 朝凪の命令に、近衛たちは桜桃を中心に据えて走り出した。


 十字の交差部に差し掛かる。


「挟撃! 前方に四、左右から四、三!」


 敵の気配を察知した朝凪の声が、回廊を切り裂いた。


 前方の通路だけでなく、左右からも底知れぬ殺気を纏った黒装束の群れが音もなく現れる。


「護陣!」


 近衛たちは桜桃と六花を囲み、四方へ向けて刀を構えた。

 四方から容赦なく斬りかかる刺客を、近衛たちが凄まじい気迫で迎え撃つ。


 だが、敵の数はあまりに多い。倒しても倒しても、新たな刺客が回廊の奥から現れ、包囲は狭まるばかりだった。


 朝凪は敵の動きを一瞥し、迷いなく決断を下す。


「右から突破する。私が道を開く」


「御意!」


 近衛たちが一斉に呼吸を合わせ、刀を一段低く構え直す。


 踏み込んだ朝凪の足元から、重い音が響く。敵の群れへと躍り出たその背中は、迷いも恐れもない。


 六花は駆けてゆく朝凪の背中を見送ってから、桜桃に向かい合った。


「……姫様」


 静かな、けれどはっきりとした声だった。いつもの柔らかい響きとは違う。決意を秘めた声。


「私が、囮になります」


 桜桃は、心臓が止まりそうになった。


「だめ……! 絶対にだめ!」


 桜桃の声が震えた。


 六花はほんの少しだけ微笑んだ。いつもの優しい笑顔だった。でも今は、目が少し潤んでいて、それでも必死に笑おうとしているのが分かった。


「……私は、姫様の影ですから」


 六花はそう言いながら自分の薄青の袿を脱ぐと、桜桃に差し出した。


「姫様、この衣を着てください」


「でも……」


「姫様のお姿ではすぐに見つかります」


 六花は薄青の袿を脇に抱え、桜桃の薄桜色の表着に手をかけた。指先が震えていた。


「もし名前を聞かれたら──六花と」


「六花……?」


 二人の衣を、素早く交換する。桜桃の華やかな表着が、六花の細い体に掛かる。


「私の名を使ってください。生きるために」


 六花はさらに桜桃の髪へ手を伸ばし、桜の簪をそっと抜くと、自らの束ねた髪に簪を挿す。


 桜桃の長い黒髪が、背中へさらりと流れ落ちた。


 六花はその姿を一度だけ確かめると、桜桃の両肩をそっと掴んだ。


「あなたが生きることに、意味があります」


「六花……やめて、お願い……!」


 涙が溢れ、声が掠れる。


 六花は桜桃の肩を掴んだまま、自身の額を軽く桜桃の額に押し当てた。


「……私、ずっと楽しかったですよ。姫様と一緒にいられて。朝凪が真顔で変なことを言うたび姫様と笑うのも、桜の花びらを追いかける姫様を見るのも」


 六花はそこで額を離し、深く息を吸った。涙を堪えるように目を細め、それから明るく微笑んだ。


「──だから、行ってください」


「六花──!!」


 桜桃は走り出した六花の背に手を伸ばすが、その手は届かない。


 六花は戦う近衛たちの間をすり抜け、敵の中へと飛び出していった。


 朝凪は、視界に飛び込んできた桜桃の薄桜色の袿に息を呑んだ。


(姫様——!?)


 思わず足を踏み出しかけるが、身のこなしが違うことに気付く。


 すれ違いざま、朝凪と六花の視線が一瞬だけ交差する。


 朝凪は胸が裂かれるような思いを押し殺して叫んだ。


「二名は六花を援護! 残りは姫様を連れて離脱!」


「御意!」


 朝凪は敵を見据えたまま桜桃の元へ駆け戻る。


 六花は一度だけ、肩越しに振り返った。

 その瞳に宿っていたのは、確かな「生きて」という強い想いだった。 


「皇女だ!」


 敵の叫びが響き渡る。

 その声に引きずられるように、視線を奪われた敵が、六花へと標的を変えて殺到した。


 すかさず朝凪の切っ先のような声が響く。


「離脱!」


 朝凪は桜桃の腕を掴むと、そのまま引き寄せた。


「行きましょう」


「でも六花が──!」


「行きましょう!」


 朝凪の声は絞り出すように力強かった。その掴んだ手に、微かな震えがある。


 桜桃は引きずられるように回廊を進みながら、何度も何度も後ろを振り返った。


 炎と煙の向こうで、六花の姿が次々と群がる影と刀の中に飲み込まれていく。


「六花……っ!」


 声は炎にかき消された。


 御簾が燃えていく。

 春になるたび花見をした庭も、幼い頃に隠れた回廊も、炎の向こうに霞んでいる。


 涙が視界を滲ませる。拭う暇もないまま、ただ朝凪に手を引かれて走った。後ろを二人の近衛が守っている。


「中将、後方!」


 背後の近衛が叫ぶ。


 朝凪が振り返ると、炎の向こうから追いついた黒装束が、最後尾の近衛へ斬りかかっていた。


「ぐっ……!」


 刃を受けた近衛が崩れた。


「――!」


 桜桃が足を止める。その一瞬を逃さず、黒装束の刃が桜桃へ真っ直ぐ向かう。


 朝凪は桜桃を背後に庇い、刀で斬撃を受け止める。


 激しい金属音が響いたその瞬間、バキッ、と乾いた音がした。左にあった柱が、炎に耐えきれず爆ぜた。


「姫様!」


 朝凪は咄嗟に桜桃を右へ突き飛ばした。


「……っ!」


 桜桃が床へよろめく。直後、焼けた木片が黒装束へ襲いかかり、男が呻き声を上げた。


 細かな木片と火の粉が朝凪の左腕を掠める。裂けた袖の下から、赤い血が滲んでいた。


「朝凪……! 腕……!」


「問題ありません」


「でも──」


「姫様!」


 強い声に、桜桃は動きを止めた。朝凪が真っ直ぐに桜桃を見る。


 炎も、倒れた近衛も、迫る敵も、その一瞬だけは視界から消えたように思えた。


「私だけを見て、走ってください」


 桜桃は唇を引き結び、そして、大きく頷く。


「……はい!」


 桜桃はもう振り返らなかった。ただ朝凪の背だけを見つめ、そのあとを追って走った。


 人気《ひとけ》のない渡殿を抜けると、先ほどまで背後に迫っていた怒号も剣戟も、遠くなっていた。


 少し進んだ先、朝凪が扉の前で足を止めた。

 壁と同じ色をしていて、知らなければ見落とすような古い木の扉だった。


「ここから外へ出られます」


 朝凪は扉に手をかけたまま、ふと動きを止めた。それから、桜桃の腕を引き、抱き寄せた。一瞬だけ強く腕に力を込める。けれど壊れないように。


 朝凪の心臓の音が聞こえた気がした。速かった。いつも静かなこの人の、初めて聞く音だった。


「姫様」


 耳元で落ちた声は、いつもより少しだけ柔らかかった。


「真っ直ぐ進んでください」


 桜桃は何か言おうとした。名前を呼ぼうとした。でも声が出なかった。喉が詰まって、何も出てこない。


 遠くで鐘が鳴った。宮廷の時を告げる鐘。

 毎日当たり前のように聞いていた音だった。


 けれどその夜だけは、終わりを告げる音のように聞こえた。


「中将! 敵が来ます!」


 近衛の切迫した声に、朝凪は短く頷く。


 朝凪が名残惜しそうに離れると、桜桃はそのまま隠し通路へと押し込まれた。重い扉が閉じる。


「朝凪……!」


 叫びが響く。しかし、扉は容赦なく閉ざされた。


 カチリ、と音がした。鍵がかかる。


 桜桃は扉に縋りついた。拳で何度も叩くが、叩いても何も変わらない。冷たい木の感触だけが手に残る。


 扉の向こうで、刃がぶつかり合う凄まじい音が響いた。


「朝凪……っ」


 桜桃の視線が、かすかに光る扉の鍵穴へと落ちた。


 恐る恐る覗くと、小さな穴の向こうに、炎と血が見えた。


 赤い。信じられないほど赤い。


 「……やめて」


 刀がぶつかり合い、火花が散る。


「……お願い」


 朝凪は敵を斬り伏せると、そのまま桜桃のいる扉から遠ざかっていった。


「朝凪……?」


 朝凪が自分を置いていくことに、桜桃は心細さを覚えた。


「行かないで……っ!」


 煙が流れ込み、鍵穴の向こうまで覆い尽くし、見えなくなる。


 桜桃はさらに目を近づけた。


「朝凪……待って……!」


 しばらくして、不意に風が抜け、煙が揺らいだ。


 煙の向こうから、歩いてくる朝凪の姿があった。


「……朝凪」


 桜桃の表情に安堵が浮かぶ。だが、すぐにその腕の中にいる者へ気づいた。


 薄桜色の衣。

 力なく垂れた腕。

 血に濡れた長い髪。


「……六花?」


 朝凪は六花を横抱きにしていた。六花の頭は朝凪の肩口へ預けられ、顔は桜桃からはよく見えない。


「六花……!」


 扉を叩いても、声が届いているのか分からなかった。


「早く……早く、開けて……!」


 朝凪がこちらへ近づいてくる。あと少し。もう少しで扉まで辿り着く。


 そのとき、回廊の向こうから、一人の黒い衣の男が歩いてくるのが見えた。


 朝凪は足を止め、ゆっくりと振り返った。


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