第二話 夜が裂けた
その日の夜、桜桃は縁に腰を下ろし、空を見上げていた。隣で六花も腰を下ろしている。
互いに言葉は多くない。それでも、衣が擦れ合う微かな音だけが響く沈黙は、ひどく心地よかった。
「……静かね」
「ええ」
六花も同じように星空を見上げている。
「今夜は人が少ない気がする」
「帝都のあちこちで騒ぎが重なったようで」
六花は少しだけ声を落とした。
「朝凪たちも、父上もそれぞれ対応に出ています」
「近衛まで?」
「そうみたいです。朝凪は持ち場を離れていますが、近衛の方々が交代で控えています」
「……そう」
すべてが遠くへ行ってしまったような、妙に冷たい静寂だった。
胸をざわつかせる夜の静けさから逃れるように、桜桃は昼間に父から告げられた、「約束」を思い出す。
「ねえ、六花」
膝の上で自分の手をきゅっと握りしめながら、桜桃はぽつりと言葉を零した。
「昊夜様は、どんな方かしら」
明日、この宮にやってくるという、まだ見ぬ婚約者候補。
武勇に優れた高名な皇族だと聞いてはいるけれど、深窓の姫として育った桜桃には、その姿がどうしても具体的に思い描けない。
少し怖い人なのだろうか、それとも――。
「優しい方だといいですね」
六花がそっと寄り添うように、柔らかな微笑みを浮かべた。
「姫様のように、あたたかい心を持った御方だとよろしいのですが」
「ふふ、私なんて……。でも、そうね。少しだけでも、お話ししやすい方だと嬉しいわ」
もしも、そっと手を差し伸べてくれるような優しい人だったなら。
そんなささやかな想像をするだけで、夜の寒さに強張っていた胸の奥が、ほんの少しだけじんわりと温かくなる気がした。
はにかむように頬を染める桜桃を見つめながら、六花はそっと桜桃の手を握った。
「きっと、素敵な御方ですよ。明日が楽しみですね、姫様」
明日、会える。
そんな淡い期待と、心地よい緊張感を胸に抱きながら、桜桃は静まり返った夜空を静かに見つめ続けた。
ふと、その静けさに眉をひそめる。草木の間に響くはずの虫の声さえ、今夜はどこか遠いことに気が付いた。
わずかな違和感が混じる。何かが欠けているような、ないはずのものを探しているような感覚。
うまく言葉にならないまま、桜桃の胸の奥でざわめきだけが育っていく。
「……六花」
「はい」
「それにしても、何か変だと思わない?」
声にした途端、ざわめきがはっきりとした輪郭を持った。
六花は少しだけ視線を巡らせる。廊下の奥、庭の端、灯りの届かないところ。どこを頼りなく見渡しても、人の気配が極端に薄い。
「……確かに、変ですね」
その一言で、確信に変わる。
桜桃が周囲の音を拾おうと耳をすませたとき、遠くで乾いた音が弾けた。続いて叫び声が耳に届く。
桜桃は慌てて立ち上がった。
「今の……」
「姫様」
六花の声が、いつもより鋭い。彼女は素早く桜桃の腕を取った。
「危険です。部屋に戻りましょう」
「でも、お父様が——」
廊下の奥から激しい刃のぶつかる音が響いてきた。怒号。足音。何かが倒れる音。
桜桃は六花の手を振りほどき、駆け出した。
「姫様!」
六花の声が後ろから追いかけてくる。
灯りがいくつか落ち、影が不自然に揺れている。いつも見慣れた穏やかな宮廷の姿ではなかった。
廊下は暗く、どこがどこへ続いているのか分からない。それでも桜桃は走った。袴の裾に足がもつれそうになるのを、気力だけで押さえながら。
先で、激しい音がぶつかり合う。刃が鳴る音。叫び声。その渦巻く只中に、人影が見えた。
「――お父様!」
喉が裂けるような声を上げた。
星河帝は、力なく崩れるように片膝をついていた。その背の奥深くへと、刃が沈んでいる。
黒い影が、そこから離れた。灯りが足りず影が濃すぎて、顔が見えない。
ただ、確かに人がいることだけは分かった。
遅れて来た六花が息を呑む。
桜桃は膝をついた。震える手で星河帝の肩に触れると、まだ温かかった。
どろりとした濃い血が、瞬く間に指を濡らしていく。
「お父様……」
星河帝は、重い瞼をゆっくりと開けた。焦点が合っているのかは分からない。それでも、必死に自分を呼ぶ桜桃の姿を、じっと捉えている。
「……桜桃」
掠れた息の隙間から、何かを紡ぎ出そうとしている。桜桃は、その乾いた口元へそっと耳を寄せた。
「……残せ」
途切れそうな呼吸のなかで、言葉がひとつ、床へ落ちる。
「この国を……」
言葉が途切れ、唇の間から赤い血が溢れ出た。
「お父様……!!」
桜桃の絶叫が、暗い廊下の奥まで虚しく響き渡る。
廊下の奥から足音が駆け込んできたのはそのときだった。
丈の長い近衛の軍装が視界を横切る。黒髪をきっちりと結い上げた男は、全く無駄のない動作で、そのまま帝の傍らへ膝をついた。
その背は、崩れかけた空気の中でただ一人揺らぎがなかった。
星河帝の瞳がわずかに動いた。
「……金烏」
ほとんど声にならない、最後の息だった。
金烏と呼ばれた男──星河帝の側近・日向の体が、一瞬だけ止まる。
東門の襲撃、兵部省の火の手、近衛詰所で起きた混乱。ここへ駆けつけるまでに見てきた異変が、その瞬間、一本の線となって繋がった。
各所で同時に起きた騒ぎは、偶然などではなかった。
「陛下……」
「金烏よ」
帝は繰り返した。その名の持つ意味を、もう一度確かめるように。
「……お前に、預ける」
「何を、お預けになるのですか」
「この国を……」
再び口端から血がこぼれ落ちる。それでも、星河帝の口元はわずかに綻んでいた。力を振り絞るような、しかしどこまでも穏やかな笑みだった。
「……繋げ」
そのまま、全身の力が抜けていく。向けられた視線は、空を仰いだまま動かなくなった。
「……陛下!」
日向の叫びが、夜の闇を鋭く引き裂いた。
「お父様……!」
桜桃の声はすでに掠れ、形をなさなかった。すぐ目の前で触れているはずなのに、その存在が遠い。
目の前の現実が、うまく心と繋がらなかった。
不意に、ぞくりとするほど鋭い視線を感じた。肌の上を這うような、殺意の気配。
ゆっくりと顔を上げた。暗闇の向こう。ひとつの影が、じっとこちらを見下ろしている。
心臓が、大きく跳ねた。
影が動いた。音もなく距離が詰まり、刃が振り上げられる。
頭の中が真っ白になった。
影が刃を振り降ろそうとしたその刹那、硬質な金属音が夜の静寂を弾き飛ばした。
日向が横から滑り込んでいた。弾かれた刃が、わずかに逸れる。火花が散る。
「落ち着け」
日向の言葉が鋭く放たれる。刃を向けていた影は一瞬だけ動きを止め、そして闇の中へ溶けるように消えた。
帝の傍に人が集まってくる。
最初の一人が帝の傍に膝をついた。次の者が声を漏らし、それに連鎖するように、人が群がる。
星河帝の亡骸に縋るように、ひとり、またひとり、泣き声が遅れて広がる。
桜桃には、そのすべてが遠くで鳴っているように聞こえた。
何が起きているのか、頭が追いつかない。目の前にあるはずの光景が、どこか現実から切り離されている。
(どうして……?)
何も考えられなくなる。
(どうしよう、どうすれば……)
膝の力が抜け、身体の感覚が薄れていく。
誰かが泣いている。
誰かが叫んでいる。
誰かが倒れていく。
すべてが足元から崩れていく。
「……誰か」
助けて。
形にならない呟きが、喉の奥でつかえて止まる。
でも──。
星河帝の顔が浮かんだ。
御簾の向こうで見た、あの静かな眼差し。問いかけるような、見届けるようなあの瞳。
(お父様……)
不意に、息が詰まるほどの痛みが走った。どこが痛いのかも分からない。ただ、胸の奥が引きちぎれそうだった。
頭の中に声が蘇る。
『……残せ』
あの言葉が、鮮明に響いた。途切れそうな息の中で、星河帝はそれでも確かにそう告げた。
(誰かじゃない……私が……!)
喉が詰まり、息がうまくできない。恐ろしさに、足が震え、手も震える。こんな状態で、何ができるというのか。
(でも……!!)
震える足が、一歩だけ、前に動いた。
無意識だった。考えるよりも先に、体が動いていた。
「立ちなさい!!」
放たれたのは、自分でも驚くほど大きな声だった。
その場の空気が止まる。泣いていた者が顔を上げ、倒れかけていた者が、動きを止める。炎の中で、人々の視線が一斉にこちらに向いた。
心臓が、おかしいほど強く打っている。膝がまだ震えている。
けれど、止まらない。
ここで止めてはいけない気がした。
「まだ生きている者は動いて! 門を閉じて! 火を止めて!」
震える手を、ぎゅっと握りしめる。手のひらに爪が食い込み、痛みが走る。それだけが、今この場に踏み留まるための唯一の足場だった。
「死ぬことは何があろうとも許さない」
声は震えていたが、桜桃は凛と立っていた。
まっすぐに前を見据える。
「これは命令よ」
深く息を吸い込む。
「ここから逃げて生き延びよ! 私がこの国に戻る日まで、絶対に死ぬな!!」
握りしめていた手が何かを払うように、空を切り裂いた。
一瞬の静寂。
炎の中で、日向の目が見開かれる。
(……桜桃様!)
日向の両手が迷いなく同時に動く。左手で刀の鞘を押さえ、右手で柄を力強く握り込む。そのまま右肘を鋭く引き、鞘の口を押し開いた。
カチッ。
刀が鞘からわずかにずれる、乾いた高い音が鳴る。
その音だけが、燃え盛る宮中に鋭く響く。
日向は一歩前へ踏み出し、その場に深く片膝をついた。
「御意」
桜桃は毅然と立ったまま、跪く日向を静かに見下ろした。日向は右手の拳を左の胸元に当て、深く頭を垂れる。
「お戻りの日まで、お待ちしております」
周囲の者たちが、にわかに動き出した。ひとり、またひとり。滞っていた流れが、確かな形を取り戻していく。
呼応するように、四方から足音が増えていく。未だ混沌の只中ではあったが、そこにはひとつの方向が生まれていた。
(……陛下)
日向は一瞬だけ目を伏せた。
(確かに、預かりました)
刀を握り直す。迷いはもう、どこにもなかった。
日向は立ち上がると、桜桃の肩へ手のひらを置いた。
「桜桃様、俺はここで食い止める。桜桃様は早くお逃げください」
「……はい。日向も絶対に逃げてください」
桜桃は溢れそうになるものを堪え、日向を見上げる。
「もちろんです」
短く答えると日向は、桜桃の背後に佇む六花に目を向けた。
「六花」
「……はい」
「桜桃様を、頼んだぞ」
六花の動きが、一拍だけ止まる。
「はい、父上」
日向が振り返る。広い背中が、炎の向こうへ消えていく。
そして、無駄のない一閃で瞬時に敵を退け、人の壁に無理やり道を開く。
「……今だ、走れ!」
日向の叫び声とともに、六花が桜桃の手を強く掴み、炎と血煙の中を駆け出した。
日向は振り返らない。迫る敵を次々と迎え撃ちながら鋭く命じる。
「第三隊! 西回廊へ! 桜桃様をお守りしろ!」
「御意!」
敵と斬りあっていた近衛たちが一斉に前へ躍り出る。
六人が桜桃たちの周りへ展開し、退路を守るように頑強な隊列を組んだ。
「桜桃様、こちらへ!」
先頭の近衛が走りながら叫んだ。




