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狂桜華《きょうおうか》~亡国の姫は、名を捨て帝を目指す~  作者: 澪
第一章 桜、散る夜に【帝都崩落編】

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第二話 近衛大将、姫を逃がす

 六花が桜桃に駆け寄ろうとしたそのとき、廊下の奥から足音が駆け込んできて、六花の横を通り過ぎた。


 丈の長い近衛の軍装が桜桃の視界を横切る。黒髪をきっちりと結い上げた男は、全く無駄のない動作で、そのまま帝の傍らへ膝をついた。


 その背は崩れかけた空気の中でただ一人揺らぎがなかった。


 星河帝の瞳がわずかに動いた。


「……金烏」


 ほとんど声にならない、最後の息だった。


 金烏と呼ばれた男──星河帝の側近・朱明《しゅめい》日向《ひなた》の体が、一瞬だけ止まる。


 帝都での皇族襲撃、北門の火の手、近衛詰所で起きた混乱。ここへ駆けつけるまでに起きた異変が、その瞬間、一本の線となって繋がった。

 各所で同時に起きた騒ぎは、偶然などではなかった。


「陛下……」


「金烏よ」


 帝は繰り返した。その名の持つ意味を、もう一度確かめるように。


「……お前に、預ける」


「何を、お預けになるのですか」


「この国を……」


 再び口端から血がこぼれ落ちる。それでも、星河帝の口元はわずかに綻んでいた。力を振り絞るような、しかしどこまでも穏やかな笑みだった。


「……繋げ」


 そのまま、全身の力が抜けていく。向けられた視線は、空を仰いだまま動かなくなった。


「……陛下!」


 日向の叫びが夜の闇を鋭く引き裂いた。


「お父様……!」


 桜桃の声はすでに掠れ、形をなさなかった。すぐ目の前で触れているはずなのに、その存在が遠い。

 現実が、うまく心と繋がらなかった。


 不意に、ぞくりとするほど鋭い視線を感じた。肌の上を這うような、殺意の気配。


 ゆっくりと顔を上げた。暗闇の向こう、ひとつの影が、じっとこちらを見下ろしている。


 心臓が大きく跳ねた。


 影が動いた。音もなく距離が詰まり、刃が振り上げられる。


 頭の中が真っ白になった。


 影が刃を振り降ろそうとしたその刹那、硬質な金属音が夜の静寂を弾き飛ばした。


 日向が横から滑り込んでいた。弾かれた刃が、わずかに逸れる。火花が散る。


「落ち着け」


 日向の言葉が鋭く放たれる。


 刃を向けていた影は一瞬だけ動きを止め、そして闇の中へ溶けるように消えた。


 「父上……」と六花は安堵を漏らすと、桜桃の傍へ駆け寄った。


 日向は深追いしなかった。刀を構えたまま周囲へ鋭く目を走らせ、それから背後の桜桃を振り返る。


「桜桃様、大丈夫ですか」


「日向……」


 その姿を見た途端、張り詰めていたものが切れた。


「お父様が……」


 桜桃は日向へ縋りつくように一歩踏み出した。


 けれど日向は険しい顔のまま答えなかった。

 闇の中から桜桃の方へ刃が迫り、日向が踏み込む。敵を斬り払い、そのまま返す刀で次の刃を受け止める。


「六花。桜桃様を奥へ!」


 だが、桜桃は動けなかった。


「陛下ぁぁ!」


 誰かの絶叫が響く。


 星河帝の亡骸へ、人々が集まり始めていた。


 駆け寄ろうとする者。膝から崩れ落ちる者。信じられないように立ち尽くす者。


 目の前で、宮廷が崩れていく。


「もう終わりだ……!」


「門が破られます!」


「火が、こちらまで……!」


 女官が泣き崩れ、その傍らでは官吏が燃え上がる建物を前に呆然と立ち尽くしている。傷を負った近衛が柱にもたれ、血に濡れた腕でなお刀を握っていた。


「お願いです……もう、死なせて……!」


 その声に、桜桃は自分の手を見た。

 赤かった。父の血だった。


 震える両手を見つめても、何をすればいいのか分からない。


 桜桃の目に映っているのは、ただ一人父だった。


(お父様がいない)


 床に横たわる父。


(お父様はもういない)


 桜桃は両手で顔を覆った。


 どうすればいいのか分からなかった。


 そのとき、頭の中で声がした。


『……残せ』


 桜桃は、はっと目を開いた。


『この国を』


「……国……」


 桜桃はゆっくりと顔を上げた。


 動かない父をもう一度見る。


(──まだ)


 この宮廷にも、この国にも、生きている者がいる。


 泣いている者がいる。

 傷ついている者がいる。

 それでも、まだ生きている。


(残ってる)


 桜桃は、血に濡れた両手を握った。


「桜桃様、下がって――」


 日向は刀を鞘に収め、桜桃を誘導しようと手を伸ばす。


 しかし、桜桃はそれを遮るように、一歩を踏み出した。


「立ちなさい!!」


 少女の声が、炎と剣戟を貫いた。


 泣き崩れていた女官が顔を上げる。

 立ち尽くしていた官吏が振り返る。

 傷ついた近衛たちも一斉に桜桃を見た。


「死ぬことは、何があろうとも許さない」


 震えていた。声も、握り締めた拳も。


 それでも桜桃は、父の血に濡れた手を隠さなかった。


「……桜桃様……」


 誰かがその名を呼んだ。


「父上が死んだからって、そんな顔をするな!私が生きている限り、まだ終わってない!」


 日向の目が見開かれる。


 絶望に沈んでいた目が、ひとつ、またひとつと桜桃へ向けられていく。


 桜桃はそれを見渡し、今度は静かに告げた。


「……私は必ず、戻ってくる。その時は、あなたたちの力が必要になる」


 炎が揺れる。


「だから──」


 桜桃は、大きく息を吸った。


「これは命令よ。ここから逃げて、生き延びよ! 私がこの国に戻る日まで――絶対に死ぬな!!」


 握り締めていた拳を開き、何かを振り払うように腕が空気を切り裂いた。


 しばし、誰も動かなかった。


「姫様……」


「桜桃姫様……!」


 誰かが呟く。


 炎の中で、日向は桜桃を見つめていた。


(……桜桃様!)


 十六歳になったばかりの少女。


 つい先ほどまで、父の亡骸の傍らで泣き、何をすればいいのかも分からず震えていたはずの少女が、今は血に濡れたまま、そこに立っている。


 日向の両手が迷いなく同時に動く。左手で刀の鞘を押さえ、右手で柄を力強く握り込む。そのまま右肘を鋭く引き、鞘の口を押し開いた。


 カチッ。


 刀が鞘からずれる、乾いた高い音が燃え盛る宮中に鋭く響く。


 その音に、日向の背後にいた近衛たちが顔を上げる。


 日向は一歩前へ踏み出し、その場に深く片膝をついた。


「御意」


 右手の拳を左の胸元に当て、深く頭を垂れる。


「お戻りの日まで、お待ちしております」


 一拍遅れて背後で衣擦れの音がした。近衛たちが一人、また一人と膝をついた。


 桜桃はただ血に濡れたまま、己の前に跪く者たちを、毅然と見つめていた。


(……陛下)


 日向は一瞬だけ目を伏せた。


(確かに、預かりました)


 刀を握り直す。迷いはもう、どこにもなかった。

 日向が立ち上がり、桜桃の方へ一歩前へ出る。


「桜桃様は、ここからお逃げください」


 その声を合図にしたように、近衛たちも再び動き始める。負傷した者を支え、敵の気配を探る。


 桜桃は答えなかった。ただ、床に横たわる父を見つめている。


「……お父様は……」


 掠れた声だった。


 日向もまた、星河帝へ目を向けた。長く仕えてきた主の顔を見つめたのは、ほんのわずかな間だけだった。


 日向は桜桃の肩へ大きな手を置いた。


「陛下は、俺がお連れします」


「……」


「ですから、桜桃様は六花と一緒にお逃げください」


 桜桃はしばらく俯いていたが、やがて、涙の溜まった目を上げる。


「……分かりました。日向も絶対に逃げてください」


「もちろんです」


 短く答えると日向は、桜桃の背後に佇む六花に目を向けた。


「六花」


「……はい」


「桜桃様を、頼んだぞ」


 六花の動きが一拍だけ止まる。


「はい、父上」


 日向は無駄のない一閃で瞬時に敵を退け、人の壁に無理やり道を開く。


「……今だ、走れ!」


 日向の叫び声とともに、六花が桜桃の手を強く掴み、炎と血煙の中を駆け出した。


 日向は迫る敵を次々と迎え撃ちながら鋭く命じる。


「第三隊! 西回廊へ! 桜桃様をお連れしろ!」


「御意!」


 敵と斬りあっていた近衛たちが一斉に前へ出る。

 六人が桜桃たちの周りへ展開し、退路を守るように頑強な隊列を組んだ。


「桜桃様、こちらへ!」


 先頭の近衛が走りながら叫んだ。


 燃え落ちる梁を避け、血に濡れた回廊を抜ける。

 怒号と悲鳴が入り混じり、宮城そのものが揺れていた。


 不意に、前方の角から黒装束の一団が殺気を纏って躍り出る。


「前方から敵が来ます!」


 近衛たちは一瞬の迷いもなく桜桃の前へ壁を作り、刀に右手を掛けた。


 隊長が桜桃の隣に並ぶと、左手で桜桃の肩を抱きよせる。そして、目線を合わせるように屈み、右手で先の回廊を指し示した。


「桜桃様、二つ目の回廊を右へお進みください」


「ですが……」


「我らが戦っている間、一切振り返らないでください」


 静かな、しかし揺るぎない声だった。

 その背負った覚悟の重さが痛いほどに伝わってくる。


「必ず、中将が参ります」


 熱のこもったその一言に、近衛たちは誰一人として異を唱えない。

 当然のように頷き、それぞれ刀を握った手に力を込める。


「それまでは我らがお守りします」


 六花が焦燥に駆られた顔で「姫様!」と、桜桃の袖を引く。


 桜桃は唇を血が滲むほどに噛み締め、命を賭して敵に立ち塞がる近衛たちを見つめた。

 皆、前だけを見据えている。

 誰一人として、生きて戻るという約束など口にしない。


「……必ず……」


 その先は言葉にはならなかった。


「近衛──抜刀!」


 隊長の地を揺らすような号令を合図に、桜桃と六花は回廊を駆け出した。


 桜桃たちの道を作るように、近衛が敵を壁際に追い詰め斬っていく。激しい火花を散らす剣戟の音が夜の宮中へ轟き渡った。


 桜桃は振り返らずに、ただ足を動かして駆け抜ける。


 行く先にも、見慣れた桜の紋を胸に刻んだ近衛たちが、回廊のあちこちに伏している。

 帝や皇族を護るために詰めていたはずの人たちだ。


 胸が締めつけられた。それでも桜桃は足を止めない。止まることは許されなかった。


 二つ目の回廊を右へ曲がると──その先の闇から、殺気を纏った新たな影が立ちはだかった。


 桜桃は行く手を阻まれて、思わず足を止めた。


「女が二人いるぞ!」


「どちらが皇女だ」


 男たちの視線が、桜桃と六花の間を行き来する。一瞬だけ迷った男たちの目が、やがて桜桃の衣へ集まった。


「──桜色の衣だ!」


「皇女を逃がすな!」


 一斉に黒装束が動いた。


「姫様!」


 六花が桜桃を庇おうと前へ出るが、それより早く一人が間合いを詰めた。


 頭上で刃が振り上げられる。


(……朝凪……!)

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