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狂桜華《きょうおうか》~亡国の姫は、名を捨て帝を目指す~  作者:
第一章 桜、散る夜に

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第二話 夜が裂けた

 夜は、静かすぎた。


 桜桃は縁に腰を下ろし、空を見上げていた。隣には六花がいる。言葉は多くない。それでも、その沈黙は心地よかった。


「……静かね」


「ええ」


 六花も同じように空を見上げている。


「今夜は人が少ない気がする」


「帝都のあちこちで騒ぎが重なったようで」


 六花は少しだけ声を落とした。


「朝凪たちも、父上もそれぞれ対応に出ています」


「近衛まで?」


「そうみたいです」


 すべてが遠くへ行ってしまったような、妙に冷たい静寂だった。


 胸をざわつかせる夜の暗闇から逃れるように、桜桃は昼間に父から告げられた、ある「約束」を思い出す。


「ねえ、六花」


 膝の上で自分の手をきゅっと握りしめながら、桜桃はぽつりと言葉を零した。


「昊夜様は、どんな方かしら」


 明日、この宮にやってくるという、まだ見ぬ婚約者候補。

 武勇に優れた高名な皇族だと聞いてはいるけれど、深窓の姫として育った桜桃には、その姿がどうしても具体的に思い描けない。少し怖い人なのだろうか、それとも――。


「優しい方だといいですね」


 六花がそっと寄り添うように、柔らかな微笑みを浮かべた。


「姫様のように、あたたかい心を持った御方だとよろしいのですが」


「ふふ、私なんて……。でも、そうね。少しだけでも、お話ししやすい方だと嬉しいわ」


 もしも、そっと手を差し伸べてくれるような優しい人だったなら。

 そんなささやかな想像をするだけで、夜の寒さに強張っていた胸の奥が、ほんの少しだけじんわりと温かくなる気がした。


 はにかむように頬を染める桜桃を見つめながら、六花は昼間の光景をふと思い出していた。

 婚約者候補の来訪を告げられたとき、静かに、けれど明確にそれを阻止しようとした朝凪。いつも冷静な彼が覗かせた、あのわずかな拒絶。


(もし今の会話を朝凪が聞いていたら、きっと面白くないでしょうね……)


 別の男を無邪気に想像して胸を躍らせる姫の姿は、あの無表情な護衛の心を静かに揺さぶるに違いない――六花は胸の内でそう独りごち、小さく苦笑した。


「きっと、素敵な御方ですよ。明日が楽しみですね、姫様」


 明日、会える。

 そんな淡い期待と、心地よい緊張感を胸に抱きながら、桜桃は静まり返った夜空を静かに見つめ続けた。


 ふと、その静けさに眉をひそめる。

 虫の声さえ、今夜はどこか遠い。


 そのあまりの静けさに、わずかな違和感が混じる。何かが欠けているような、ないはずのものを探しているような感覚。

 うまく言葉にならないまま、桜桃の胸の奥でざわめきだけが育っていく。


「……六花」


「はい」


「それにしても、何か変だと思わない?」


 声にした途端、ざわめきがはっきりとした輪郭を持った。六花は少しだけ視線を巡らせる。

 廊下の奥、庭の端、灯りの届かないところ。どこもかしこも、人の気配が薄い。


「……確かに、変ですね」


 その一言で、確信に変わる。

 そのとき、遠くで乾いた音が弾けた。続いて叫び声。

 桜桃は立ち上がった。


「今の……」


「姫様」


 六花の声が、いつもより低い。彼女は素早く桜桃の腕を取った。


「危険です。部屋に戻りましょう」


「でも、お父様が——」


 その瞬間、廊の奥から激しい刃のぶつかる音が響いた。怒号。足音。何かが倒れる音。

 桜桃は六花の手を振りほどき、駆け出した。


「姫様!」


 六花の声が後ろから追いかけてくる。


 灯りがいくつか落ち、影が不自然に揺れている。いつもの宮廷ではなかった。


 廊は暗く、どこがどこへ続いているのか分からない。それでも桜桃は走った。足が縺れそうになるのを、気力だけで押さえながら。


 先で、激しい音がぶつかり合う。刃が鳴る音。叫び声。その只中に、影が見えた。 


「――お父様!」


 声が裂ける。帝は、崩れるように膝をついていた。その背に、刃が沈んでいる。

 黒い影が、そこから離れる。顔は見えない。灯りが足りない。影が濃すぎる。ただ、確かに人がいた。


 遅れて来た六花が息を呑む。


 桜桃は膝をついた。手が震える。触れた体は、まだ温かい。血が、指に触れる。


「お父様……」


 星河帝は、わずかに目を開けた。焦点が合っているのか分からない。それでも、桜桃を見ている。


「……桜桃」


 かすれた声。何かを言おうとしている。耳を近づける。


「……残せ」


 途切れそうな息の中で、言葉が落ちる。


「この国を……」


 言葉が止まる。血が溢れる。



「お父様……!!」


 桜桃の絶叫が廊に響いた。 


 廊下の奥から足音が駆け込んできたのは、そのときだった。

 丈の長いの軍装が視界を横切る。黒髪をきっちりと結い上げた男は、全く無駄のない速さで、そのまま帝の傍らへ膝をついた。

 その背は、崩れかけた空気の中でただ一人揺らがなかった。


 その顔を見た瞬間、星河帝の目がわずかに動いた。


「……金烏」


 ほとんど息だけの声だった。


 金烏と呼ばれた男――日向ひなたの体が、一瞬だけ止まる。

 各所で同時に騒ぎが起こったのが偶然ではなかったと気づいたのは、この瞬間だった。


「陛下……」


「金烏よ」


 帝は繰り返す。まるでその名を確かめるように。


「……お前に、預ける」


「何を、お預けになるのですか」


「この国を……」


 血が溢れる。それでも、星河帝はわずかに笑った。力を振り絞るような、しかし穏やかな笑みだった。


「……繋げ」


 そのまま、力が抜ける。視線が、空へ向いたまま動かない。


「……陛下!」


 日向の声が裂ける。


「 お父様……!」


 桜桃の声が揺れる。触れているはずなのに、遠い。現実が、うまく繋がらない。


 掴んだ衣が、血で濡れる。


 不意に、視線を感じた。ぞくりとするほど鋭いもの。肌の上を這うような、殺意の気配。


 ゆっくりと顔を上げる。暗闇の向こう。ひとつの影が、こちらを見ている。


 心臓が、大きく跳ねた。

 影が動く。音もなく距離が詰まる。刃が、振り上げられる。


 死ぬ、と思った。

 頭の中が真っ白になった。音が遠のく。膝をついたまま、身体が動かない。


 横から滑り込んできた日向が、刃を払う。硬質な金属音が夜の静寂を弾き飛ばした。火花が散る。


「落ち着け」


 日向が誰に向けて言ったのかは分からなかった。


 刃を向けていた影は一瞬だけ動きを止め、そして闇の中へ溶けるように消えた。


***


 帝の傍に人が集まってくる。


 最初の一人が帝の傍に膝をついた。次の者が声を漏らした。それに連鎖するように、人が群がる。

 星河帝の亡骸に縋るように。ひとり、またひとり。 


 泣き声が、遅れて広がる。


 桜桃には、それが遠く聞こえた。


 何が起きているのか、分からない。目の前にあるはずの光景が、どこか現実から外れている。崩れゆく宮廷。叫び。剣。血の匂い。


(どうして……?)


 頭の中が真っ白になる。


(どうしよう、どうすれば……)


 膝に力が入らない。体の感覚が薄い。


 誰かが泣いている。

 

 誰かが叫んでいる。


 誰かが倒れていく。


 全部が崩れていく。


「……誰か」


 助けて。


 声にならない声が、喉で止まる。


 でも――


 胸の奥に、父の顔が浮かんだ。

 御簾の向こうで見た、あの静かな眼差し。問いかけるような、見届けるような。


(お父様……)


 不意に、息が詰まるほどの痛みが走った。どこが痛いのかも分からない。ただ、胸の奥が引きちぎれそうだった。

 頭の中に声がよみがえる。


『……残せ』


 あの言葉が、鮮明に響いた。途切れそうな息の中で、それでも確かに言った。父上の声。


(誰かじゃない……私が……!)


 喉が詰まる。息がうまくできない。怖い。足が震える。手も震える。こんな状態で、どうして。

 でも。


(でも……!!)


 震える足が、一歩だけ、前に動いた。

 無意識だった。考えたからではない。ただ、体が先に動いていた。


「立ちなさい!!」


 自分でも驚くほど大きな声だった。

 空気が止まる。泣いていた者が顔を上げる。倒れかけていた者が、動きを止める。炎の中で、人々の目がこちらに向いた。


(何を言ってるの……私……)


 心臓が、おかしいほど強く打っている。膝がまだ震えている。でも止まらない。

 止めてはいけない気がした。


「まだ生きている者は動いて!門を閉じて!火を止めて!」


 震える手を、ぎゅっと握りしめる。こぶしの中に爪が食い込む。それが唯一の足場だった。


「死ぬことは何があろうとも許さない」


 声は僅かに震えていたが、桜桃は凛と立っていた。

真っ直ぐに前を見据える。


「これは命令よ」


 大きく息を吸う。


「ここから逃げて生き延びよ!私がこの国が戻る日まで、絶対に死ぬな!!」


 強く握っていた手が何かを払うように、空を切り裂いた。


 一瞬の静寂。


 炎の中で、日向の目がわずかに見開かれる。


(……桜桃様!)


 日向は一歩前へ出て、桜桃に跪いた。


「御意」


 桜桃は凛と立ったまま、静かに日向を見下ろした。日向は深く頭を垂れる。


「お戻りの日まで、お待ちしております」


 周りの者が動き出す。ひとり、またひとり。崩れていた流れが、わずかに形を取り戻していく。呼応するように足音が増える。まだ混乱の中だ。でも、方向が生まれた。


(……陛下)


 日向は一瞬だけ目を伏せた。


(確かに、預かりました)


 剣を握り直す。迷いはもうなかった。

 日向は立ち上がり、桜桃の肩に手を置いた。


「桜桃様、俺はここで食い止める。桜桃様は早くお逃げください」


「日向も早く逃げてね」


 桜桃は溢れそうになる涙を堪えて、日向を見上げる。


「もちろんです」


 短く答えると、振り返った。

 炎の向こうに、六花が見えた。


「六花」


「……はい」


「桜桃様を、頼んだぞ」


 六花は一拍だけ止まった。


「はい、父上」


 日向の背中が、炎の向こうへ消えていく。


「……今だ、走れ!」


 無駄のない一閃で瞬時に敵を斬り裂き、人の壁に無理やり道を開けた。


「姫様、こちらへ」


 桜桃は六花に腕を引かれ、崩れゆく回廊を駆け出した。


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