第一話 桜の指先
天和国の皇女・桜桃は、その日、いつものように庭に出ていた。
桜の花びらが、ひとひら。
音もなく、指先へと舞い降りた。
桜桃は息を止めた。薄桜色の袿の袖が、わずかに揺れる。そっと、もう片方の手を重ねる。今度こそ、と思いながら。
でも駄目だった。触れた瞬間に形が崩れて、指の隙間からさらりとこぼれていく。
「……あ」
「惜しかったですね」
すぐ後ろから声がした。振り返らなくても分かる。
「見てたの、六花」
「ちゃんと見てました」
侍女の六花が、桜桃の隣へ並んだ。
桜桃より少しだけ背が低い。袴に淡い薄青の上衣を合わせている。長い髪を下の方でひとつに束ねた後ろ姿は、どことなく水の流れを思わせた。
ひとつだけ刺した小さな簪が、春の光をわずかに弾いている。落ち着いた物腰で、いつも丁寧に言葉を選ぶ人だった。だからこそ、時々こぼれる本音が可笑しかった。
「なら声をかけてくれればよかったのに」
「声をかけたら花びらが逃げてしまいますよ」
「逃げないわよ」
「姫様、さっき三回目でしたよ」
「……え」
「最初は欄干のところで。次は廊下の角で。今回で三回目です」
桜桃は絶句した。
全部、見ていたのか。
「六花、それ言う必要あった?」
「あったと思います」
あっさりと言う。でも笑っているから、責める気にもなれない。
桜桃も笑ってしまった。
「意地悪ね」
「そんなことはありません」
「そんなことあるわよ」
「では少し意地悪でした。ただ、姫様があまりにも一生懸命すぎて、つい目が離せなくなってしまうだけです」
六花はそう言いながら、桜桃の袖に軽くついた花びらの欠片を指で払った。その仕草は優しく、からかうような口調とは裏腹に、目がとても温かかった。
「二人とも、そろそろ時間です」
少し離れたところから、穏やかな声がした。
護衛の朝凪だった。
近衛の制服である濃灰の長上衣と高く結い上げた赤褐色の髪が、歩くたび静かに揺れた。長上衣の襟には桜の紋章がふたつ付いている。近衛中将の証だった。
整った顔立ちながら、表情はいつも抑え気味で、冷たいというより、静かに佇むような男だった。
「朝凪も見てたの?」
桜桃が振り返ると、朝凪はわずかに目を細めた。笑っているのか、笑っていないのか、よく分からない顔で。
「ええ」
「三回全部?」
「全部」
桜桃は頭を抱えた。
「最悪。誰にも言わないでね」
「姫様が花びらを追いかけていたことを、ですか」
「そう」
朝凪がわずかに間を置く。
「……六花には言うかもしれません」
「もう知ってますよ」と六花が続ける。
「じゃあ日向には?」
「言いません」
「清明様には?」
「言いません」
「じゃあ誰にも言わないってことじゃない」
「そうですね」
それなら最初からそう言えばいい、と桜桃は思ったが、朝凪の声には、ほんのわずかだけ柔らかさが混じっていた。いつも無口で表情を変えない彼が、こんな風にからかうように答えるのは珍しい。
六花がこっそり耳打ちしてくる。
「朝凪なりの冗談ですよ」
「冗談が下手すぎる」
「聞こえています」と朝凪が答えた。
六花が吹き出した。桜桃も笑いながら歩き出す。
「朝凪の冗談って、ほんとに不器用よね」
「不器用で申し訳ありません」
朝凪はそう言いながらも、口の端がわずかに上がっていた。ほとんど気づかない程度の、小さな変化だった。でも桜桃には分かった。この人は、こうして三人で笑っている時間が、好きなんだろうな、と。
風が吹いた。花びらが一斉に舞い上がり、視界が淡く染まる。桜桃は思わず手を伸ばした。一枚だけ、指先に残った。
「あ」
今度は、消えなかった。
振り返って二人に見せると、六花が目を細めた。
「よかったですね」
「今度こそ」
朝凪の声は静かだったけれど、どこかあたたかかった。
その大きな手がそっと伸びてきて、桜桃の髪にそっと触れる。
「……朝凪?」
「すみません。髪に、別の花びらが乗っていたので」
朝凪は指先に捕まえた花びらを、愛おしそうなものを扱うようにそっと風に逃がした。その手の動きがあまりにも優しくて、桜桃は胸がくすぐったくなる。
「今日の花びらは、みんな姫様のことが好きなようですね」
そんなふんわりとした甘い台詞を、朝凪は真面目な顔のまま、淡々と言ってのける。
「もう、朝凪ったら、そういうことを照れずに言うんだから」
「本当のことですから」
六花がこっそりくすりと笑い、桜桃もつられて笑ってしまう。
桜桃は手に入れた一枚の花びらを掌に乗せたまま、もう少しだけそこに立っていた。
春の終わりの風が、三人の間を静かに抜けていった。
廊へ戻りかけたとき、桜桃は足を止めた。
「そうだ、朝凪」
肩にかけていた肩巾を外しながら、振り返る。薄い絹地が、指の間でさらりと揺れた。
「御前に上がる間、預かっていてもらえる?」
朝凪は一瞬だけ肩巾を見た。
「……はい」
桜桃が差し出すと、朝凪は両手で丁寧に受け取った。畳むでもなく、そのまま手の中に収める。
「なくさないでね」
「なくしません」
「絶対?」
「絶対です」
桜桃はくすりと笑い、御簾の間へ向かった。
朝凪はしばらく、手の中の肩巾を見ていた。
***
御簾の向こうは、いつも少しだけ遠かった。
声が落ちるたびに、桜桃は自分が「見られている」ことを意識する。それでも今日はどこか軽い。さっきの笑い声が、まだ胸の奥に残っていた。手のひらの花びらも、まだそこにある。
「桜桃」
帝――星河帝の声だった。空気が、ほんの少しだけ変わる。
桜桃は手の中の花びらを見つめた。そして、顔を上げた。
「――この国を、どう思う」
桜桃は少しだけ考えた。答えは、すぐに出た。
「好きです」
一拍置く。
「父上の国ですから」
迷いはなかった。
御簾の奥で、気配がわずかに揺れる。
「……そうか」
短い言葉。その意味を、このときの桜桃はまだ知らない。
胸の奥に、ふと引っかかるものがあった。
「……母上は」
口にした瞬間、空気が止まる。
六花の手が、わずかに止まった。朝凪は何も言わない。
沈黙。やがて。
「……案ずるな」
それだけが返る。それ以上を拒むような声音だった。
桜桃は、それ以上言葉を続けなかった。代わりに、手の中の花びらをそっと見つめる。
指先で触れれば、簡単に崩れてしまう。それでも今はまだ、形を保っている。
――この時はまだ。三人とも、この日常が続いていくと思っていた。
「ああ、そうだ。桜桃」
星河帝が思い出したように言葉を繋いだ。
「明日、昊夜がここへ来る。以前から話していた通り、お前の婚約者候補の一人だ。一度、直接顔を合わせておくといい」
「……っ、昊夜、様、が……」
不意に飛び出した名前に、桜桃は思わず両手を胸の前で握りしめた。
──昊夜。
遠い血縁にあたる皇族であり、桜桃の婚約者候補。
その存在自体は以前から聞かされて、覚悟もしていたつもりだった。
けれど、いざ「明日会う」と告げられると、急に現実味を帯びて心臓がうるさく脈打ち始める。
まだ見ぬその人を想い、桜桃の頬がみるみるうちに朱に染まっていった。
御簾の傍らで控えていた六花が、その様子を見て悪戯っぽく微笑む。
「まぁ、姫様。お顔が林檎のようですよ。ふふ、明日が本当に楽しみですね」
「も、もう、六花……! からかわないで」
慌てて両手で頬を押さえる桜桃。
その微笑ましいやり取りを、朝凪はただ、いつものように冷静な目で見つめていた。
ただ、朝凪は静かに視線を星河帝の方へと向け、淡々とした声で、しかし遮るように告げた。
「……まだ、会う必要は、ないんじゃないですか」
その声音はいつも通り低く、静かに響いた。
桜桃は、朝凪が何を言っているのか分からず、きょとんとして顔を上げる。
けれど、隣にいた六花の手が、わずかに止まった。
六花は、朝凪のその横顔をじっと見つめる。
その一言に込められたのは、誰にも悟らせないほどの微かな拒絶だった。
星河帝は、御簾の向こうで少しだけ呆れたように息を漏らす。
「これ、朝凪。お前の過保護も大概にしなさい。昊夜は身内であり、客人だぞ」
「……失礼いたしました」
朝凪はすぐに頭を下げた。けれど、その瞳の奥にある昏い闇は、誰にも読み取らせないほど深い底に沈んだままだった。
「……うん。ありがとう、朝凪。でも、大丈夫よ」
桜桃は、朝凪がいつものように自分の身を心配してくれたのだと思い、少しだけ緊張を解いて微笑んだ。
けれど。
その「明日」が訪れる前に、すべては炎の海に消えた。
血を流す父。燃え盛る宮。手を引いて走る朝凪。
結局、「明日」の約束が果たされることはなかった。




