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狂桜華《きょうおうか》~亡国の姫は、名を捨て帝を目指す~  作者:
第一章 桜、散る夜に【帝都崩落編】

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第一話 桜の指先

 「……やめて」


 震える声は、自分でも驚くほど小さかった。

桜桃ゆすらは固く閉ざされた扉に縋り付き、恐る恐る扉の鍵穴へ目を寄せた。


 熱い。


 扉の向こうでは炎が柱を伝い、赤く夜を染めていた。

 立ち上る煙が喉を焼く。 


 誰かが倒れている。

 誰かが剣を振るっている。


 だが人影が重なり、誰なのか分からない。


 聞こえてくるのは、怒号と剣戟の音だった。


 金属がぶつかり合う鋭い音。

 誰かの悲鳴。

 何かが倒れる鈍い音。


 身体が震える。

 逃げなければならない。


 そう分かっているのに、足が動かなかった。


「お願い……」


 掠れた声が唇から零れる。


 扉の向こうには朝凪あさなぎがいる。

 六花りっかがいる。


 だから、目を背けることができなかった。


 鍵穴の向こうに見えるのは血と炎だった。

 赤い。信じられないほど赤い。


「朝凪……?」


 返事はない。


 代わりに聞こえたのは、誰かの咆哮だった。


「――っ!」


 心臓が大きく跳ねる。


 次の瞬間。

 炎が、視界を覆う。鍵穴の向こうは赤で染まった。


 桜桃は息を呑む。声も出なかった。

 ただ震える指で口元を押さえる。


 どうして。

 どうしてこんなことになったのだろう。


 ほんの数刻前まで。


 父がいて。

 朝凪がいて。

 六花がいて。


 何も変わらない日々が続くと信じていたのに。 


◇◆◇


 天和国あまわのくにの皇女・桜桃ゆすらは、その日、庭に出ていた。


 桜の花びらがひとひら、音もなく指先へと舞い降りた。


 桜桃は息を止めた。薄桜色の袿の袖が、わずかに揺れる。そっと、もう片方の手を重ねる。今度こそ、と思いながら。


 けれど、触れた瞬間に形が崩れて、指の隙間からさらりとこぼれていく。


「……あ」


「惜しかったですね」


 すぐ後ろから声がした。振り返らなくても誰か分かる。


「見てたの、六花」


「ちゃんと見てました」


 侍女の六花が歩み寄り、桜桃の隣へ並んだ。


 桜桃より少しだけ背が低い。袴に淡い薄青うすあお上衣じょういを合わせている。長い髪を下の方でひとつに束ねた後ろ姿は、どことなく水の流れを思わせた。ひとつだけ刺した小さな簪が、春の光を弾いている。


 落ち着いた物腰で、いつも丁寧に言葉を選ぶ人だった。だからこそ、時々こぼれる本音が可笑しかった。


「なら声をかけてくれればよかったのに」


「声をかけたら、花びらが逃げていたと思いますよ」


「逃げないわよ」


「姫様、さっき三回目でしたよ」


「……え」


「最初は欄干のところで。次は回廊の角で。今回で三回目です」


 桜桃は動きを止めた。

 全部、見ていたのか、と気恥ずかしくなる。


「六花、それ言う必要あった?」


「あったと思います」


 六花があっさりと言う。けれどその柔和な目元を見れば、責める気にもなれない。


 桜桃もつられて、小さく息を漏らすように笑ってしまった。


「意地悪ね」


「そんなことはありません」


「そんなことあるわよ」


「では少し意地悪でした。ただ、姫様があまりにも一生懸命すぎて、つい目が離せなくなってしまうのです」


 六花はそう言いながら、桜桃の袖に軽くついた花びらの欠片を指で払った。


 その仕草は優しく、からかうような口調とは裏腹に、向けられた眼差しはとても温かかった。


「二人とも、そろそろ時間です」


 少し離れたところから、穏やかな声が届いた。


 護衛の朝凪だった。


 近衛の制服である黒に近い濃灰のうかい長上衣ちょうじょういと高く結い上げた赤褐色の髪が、歩くたび静かに揺れた。

 長上衣の立ち襟には桜の階級章がふたつ付いている。近衛中将の証だった。


 彼は、整った顔立ちながら表情はいつも抑え気味で、冷たいというより、静かに佇むような男だった。


「朝凪も見てたの?」


 桜桃が振り返ると、朝凪はわずかに目を細めた。笑っているのか、笑っていないのか、よく分からない顔で。


「ええ」


「三回全部?」


「全部」


 桜桃は恥ずかしそうに頭を抱えた。


「最悪。誰にも言わないでね」


「姫様が花びらを追いかけていたことを、ですか」


「そう」


 朝凪は少し間を置いてから、視線を少しだけ動かした。


「……六花には言うかもしれません」


「もう知ってますよ」と隣の六花が微笑を深める。


「じゃあ日向ひなたには?」


「言いません」


清明せいめい様には?」


「言いません」


「じゃあ誰にも言わないってことじゃない」


「そうですね」


 それなら最初からそう言えばいい、と桜桃は思ったが、朝凪の声には、ほんの少しだけ柔らかさが混じっていた。いつも無口で表情を変えない彼が、こんな風に言葉を返すのは珍しい。


 六花がそっと近づき、小さな声で耳打ちしてくる。


「朝凪なりの冗談ですよ」


「冗談が下手すぎる」


「聞こえています」と、朝凪が小さく息を吐いた。


 六花がたまらず吹き出した。桜桃もそれにつられて笑いながら、歩き出す。


「朝凪の冗談って、ほんとに不器用よね」


「不器用で申し訳ありません」


 朝凪はそう言いながらも、口の端がわずかに上がっていた。ほとんど気づかないほどの、小さな変化だった。


 けれど桜桃には分かった。この人は、こうして三人で笑っている時間が、好きなんだろうな、と。


 不意に、柔らかな風が吹き抜けた。花びらが一斉に舞い上がり、視界が淡く染まる。


 桜桃は思わず、もう一度だけ手を伸ばした。ひらひらと流れる光のなか、一枚だけが、指先へと静かに止まる。


「あ」


 今度は、逃げなかった。

 振り返って差し出すように二人に見せると、六花が目を細めて頷いた。


「よかったですね」


「今度こそ」


 朝凪の声は静かだったけれど、どこかあたたかかった。


 そして、大きな手がそっと伸びてきて、桜桃の髪にひらりと触れる。


「……朝凪?」


「すみません。髪に、別の花びらが乗っていたので」


 朝凪は指先に捕まえた花びらを、愛おしそうにそっと風に逃がした。その手の動きがあまりにも優しくて、桜桃は胸がくすぐったくなる。


「今日の花びらは、みんな姫様のことが好きなようですね」


 そんなふんわりとした甘い台詞を、朝凪は真面目な顔のまま、淡々と言ってのける。


「もう、朝凪ったら、そういうことを照れずに言うんだから」


「本当のことですから」


 六花がくすりと笑い、桜桃もつられて笑ってしまう。


 桜桃は手に入れた一枚の花びらを手のひらに乗せたまま、もう少しだけそこに立っていた。


 春の風が、三人の間を静かに抜けていった。


 回廊へ戻りかけたとき、桜桃はふと足を止めた。


「そうだ、朝凪」


 肩にかけていた薄手の肩巾ひれを外しながら、静かに振り返る。白く透き通るような絹地が、春の淡い光を孕んで指の間でさらりと揺れた。


「御前に上がる間、預かっていてもらえる?」


 朝凪は一瞬だけ、差し出されたその布に視線を落とした。


「……はい」


 桜桃が手渡すと、朝凪は両手で丁寧にそれを受け取った。すぐに畳むようなことはせず、壊れものを扱うように、そのまま手の中にそっと収める。


「なくさないでね」


「なくしません」


「絶対?」


「絶対です」


 桜桃は満足したようにくすりと笑い、そのまま御簾の下がる奥の間へと歩みを進めていった。衣が擦れ合う微かな音が、廊下に優しく残る。


 朝凪は一人、遠ざかる後ろ姿を見送ったあと、手の中に残された白い肩巾を、しばらくの間じっと見つめていた。


*** 


 薄暗い室内に垂れ下がる御簾の向こうは、いつも少しだけ遠く感じられた。


 奥から声が届くたびに、桜桃は自分がその瞳に「見られている」ことを意識させられる。


 それでも、今日はどこか気持ちが軽かった。さっきまで中庭で交わしていた三人での笑い声が、まだ胸の奥に残っている。手のひらの花びらも、まだそこにあった。


「桜桃」


 低い声で呼ばれ、桜桃は顔を上げた。


 父――星河帝せいがていの声だった。張り詰めた空気が、ほんの少しだけ流れ出す。


 桜桃は一瞬だけ手の中の花びらに目を落としたあと、まっすぐに前を見つめた。


「――この国を、どう思う」


 桜桃は少しだけ考えを巡らせた。けれど、答えはすぐに胸の中から湧き上がってきた。


「好きです」


 ひと呼吸置いて、言葉を重ねる。


「父上の国ですから」


 その声に、迷いはなかった。


 御簾の奥で、衣の擦れ合う気配が揺れる。


「……そうか」


 短い言葉だった。


 桜桃の胸の奥に、ふと小さな引っかかりが生まれた。


「……母上は」


 口にした瞬間、空気が止まる。


 傍らに控える六花の、衣の裾を整える手が止まる。朝凪はただ、何も言わずに微動だにせず佇んでいた。


 重い沈黙。やがて、御簾の向こうから再び声が落とされる。 


「……案ずるな」


 その一言は、それ以上を拒むような、冷たく乾いた声音だった。


 桜桃は、それ以上言葉を続けなかった。


 代わりに、手の中の桜をそっと見つめる。

 指先で少しでも強く触れれば、簡単に崩れてしまうほど脆い。それでも今はまだ、確かな形を保っている。


「ああ、そうだ。桜桃」


 星河帝が思い出したように言葉を繋いだ。


「明日、こうがここへ来る。以前から話していた通り、お前の婚約者候補だ。一度、直接顔を合わせておくといい」


「……っ、昊夜、様、が……」


 不意に飛び出した名前に、桜桃は思わず両手を胸の前で握りしめた。


 ──昊夜。


 遠い血縁にあたる皇族であり、桜桃の婚約者候補。

 その存在自体は以前から聞かされて、覚悟もしていたつもりだった。


 けれど、いざ「明日会う」と告げられると、急に現実味を帯びて心臓がうるさく脈打ち始める。


 まだ見ぬその人を想い、桜桃の頬がみるみるうちに朱に染まっていった。


 御簾の傍らで控えていた六花が、その様子を見て悪戯っぽく微笑む。


「まぁ、姫様。お顔が林檎のようですよ。ふふ、明日が本当に楽しみですね」


「も、もう、六花……! からかわないで」


 慌てて両手で頬を押さえる桜桃。


 その微笑ましいやり取りを、朝凪はただ、いつものように静かな目で見つめていたが、やがて、その視線を星河帝の方へと向け、淡々とした声で言った。


「……まだ、会う必要は、ないんじゃないですか」


 その声音はいつも通り、静かに響いた。

 桜桃は、朝凪が何を言っているのか分からず、きょとんとして顔を上げる。


 けれど、隣にいた六花の手が止まった。

 六花は、朝凪のその横顔をじっと見つめる。

 その一言に込められたのは、誰にも悟らせないほどの微かな拒絶だった。


 星河帝は、御簾の向こうで少しだけ呆れたように息を漏らす。


「これ、朝凪。お前の過保護も大概にしなさい。昊夜は身内であり、客人だぞ」


「……失礼いたしました」


 朝凪はすぐに頭を下げた。


「……うん。ありがとう、朝凪。でも、大丈夫よ」


 朝凪がいつものように自分の身を心配してくれたことに、桜桃は、少しだけ緊張を解いて微笑んだ。



 ──けれど。

 その「明日」が訪れる前に、すべては炎の海に消えた。

 血を流す父。燃え盛る宮。桜桃の手を引いて走る朝凪。


 結局、「明日」の約束が果たされることはなかった。


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