第一話 皇女、婚約者候補に会う
天和国の皇女・桜桃は、十六歳になったばかりのその日、朝から侍女の六花に、いつもより念入りに身支度を整えられていた。
「姫様、まっすぐ前を向いてください」
六花は襟元を整えると、少し離れて全身を眺めた。
薄桜色の表着の袖口や裾からは、濃淡の異なる紅の袿が幾重にも覗いている。上半分だけ結い上げた髪には、桜を象った簪が揺れている。
桜桃は目の前の大きな鏡に視線を移した。
「……変じゃない?」
「先ほどから三度目です。とてもお似合いですよ」
「だって、六花は何を着ても似合うって言うでしょう」
「では、どなたに言われれば信じてくださるのです?」
「それは……」
桜桃は答えに詰まり、もう一度鏡の中の自分を見つめた。
明日は、桜桃の成人の儀が執り行われる。
桜桃は、その成人の儀に先立って、かねてより婚約者候補として名の挙がっていた昊夜と、今夜顔を合わせることになっている。
昊夜とはまだ一度も会ったことがない。
そんな相手が未来の夫になるのかもしれないと思うと、先ほどから胸の奥が落ち着かなかった。
不意に低い声が聞こえた。
「美しいな」
桜桃は勢いよく振り返った。
「お父様」
戸口に立つ星河帝は、娘の姿を上から下まで眺めた。
「よく似合っている」
「……そうでしょうか」
「ああ。これなら昊夜もきっと気に入るだろう」
桜桃は照れたように頬を染めた。
星河は目元を和ませると、娘の頭へ手を伸ばした。
「陛下」
六花の声が飛ぶ。
「せっかく整えたところです」
星河帝の手が空中でぴたりと止まった。
「……父親だぞ」
「昊夜様との面会が終わってから、いくらでも」
「日向の娘は、父親より強情だな」
「聞こえております」
「聞かせた」
桜桃は思わず吹き出した。
桜桃が笑うのを見届けると、星河帝はふと表情を緩め、静かに問うた。
「……桜桃。お前は、この国をどう思う」
桜桃は少し考えてから、迷いなく答えた。
「好きです。お父様の国ですから」
「……そうか」
その声に、わずかな重みが混じる。
桜桃は少し伺うように、父を見上げた。
「……お母様は、明日も……」
桜桃の衣を整えていた六花の手が一瞬止まる。
「 ……案ずるな」
桜桃はそれ以上尋ねることができなかった。
星河帝は、いつもの調子に戻って片手を上げる。
「では、私は行く。今夜は昊夜との面会もあるのだから、大人しくしていろ」
「もう子供ではありません」
「そうだったな」
まるで信じていない顔で、星河帝は部屋を出ていった。
「……絶対、まだ子供だと思ってるわ」
「陛下にとっては、いくつになられても姫様でしょう」
六花はそう言いながら、最後に白い肩巾を桜桃の肩へ掛けた。
「はい。これで完成です」
桜桃はふと後ろを振り返った。いつもならそこに静かに佇んでいるはずの護衛の姿が見えない。
「……朝凪は?」
「見回りから、そろそろ戻られる頃かと」
「そう」
桜桃は鏡の中の自分をもう一度見ると、立ち上がった。
「少し庭へ行ってくるわ」
「姫様。そのお姿で──」
六花が言い終えるより早く、桜桃は部屋を飛び出していた。
長い裾を踏まないように少し持ち上げ、回廊へと駆け出す。簪が揺れ、肩に掛けられたばかりの白い肩巾が、風をはらんでふわりと翻った。
ちょうど回廊を通りかかった女官長が、目を丸くする。
「姫様! はしたのうございます!」
「ちょっとだけ!」
桜桃は振り返ってそう答えると、足を止めるどころか、いっそう軽やかに庭へと駆けていった。
「姫様! お待ちくださいませ!」
背後から追いかけてくる声に、桜桃は楽しそうに笑った。
***
春の陽射しに満ちた回廊を抜ければ、中庭には満開の桜が舞っていた。
桜の花びらがひとひら、音もなく指先へと舞い降りる。
桜桃は息を止め、そっともう片方の手を重ねた。
けれど、触れた瞬間に花びらは指の隙間からさらりと逃げていく。
「……あ」
「姫様。今夜のためのお衣装なのですから、あまり動き回らないでください」
追いついた六花が、呆れたように息を吐く。
「分かってるわよ」
「女官長もたいそうお怒りでしたよ」
「……ちょっと走っただけじゃない」
「そのお姿で回廊を駆け抜ければ、叱られるのも当然です。花びらを追いかけるのもおやめください」
「一枚くらい──」
言いかけて、桜桃はふと顔を上げた。
回廊の柱の傍らに、見慣れた人影がある。
黒に近い濃灰の長上衣に、赤褐色の髪を高く結い上げた青年。立ち襟には、近衛の階級を示す桜章が二つ並んでいる。
帝直属の近衛、その中将を務める朝凪だった。
「朝凪!」
桜桃の顔がぱっと明るくなる。
裾を乱さない程度に足を速め、回廊へ駆け寄った。
朝凪はその声でようやく我に返ったように瞬いた。
「いつからいたの?」
「……少し前から」
「見てたなら声をかけてよ」
朝凪はすぐには答えなかった。
桜桃の髪に挿された桜の簪から、いつもより華やかな衣へと、その視線が静かに落ちる。
「……声をかけるのを忘れておりました」
「忘れたの?」
「……ええ」
桜桃は可笑しそうに笑ったが、すぐに何かを思い出して両袖を少し広げた。
「そうだ。見て。どう? 今夜の衣装」
その場で少しだけ身体の向きを変えてみせる。
「この格好で昊夜様にお会いするの」
朝凪の視線がもう一度桜桃の姿を辿った。
「……とてもお綺麗です」
桜桃は嬉しそうに笑った。
「よかった。昊夜様もそう思ってくださるかしら」
朝凪は桜桃の衣装へ視線を落としたまましばらく黙っていたが、やがて口を開いた。
「……ええ。きっと」
「そうだといいな」
桜桃は満足そうに頷いた。
そのとき、春風に乗って一枚の花びらが二人の間を横切った。
「あ」
桜桃は反射的に手を伸ばす。
「姫様」
後ろから六花の呆れた声が飛んだ。
「これで最後!」
ひらひらと逃げる花びらを追い、伸ばした指先へ──今度は、ふわりと花びらが止まった。
「取れた」
桜桃は嬉しそうに振り返り、手のひらを二人へ差し出した。
「よかったですね」
六花が目を細めると、朝凪も微かに笑った。
その視線がふと桜桃の手のひらから上へ動く。
いつの間にか、もうひとひら、桜桃の髪にも淡い花びらが留まっていた。
朝凪がそっと手を伸ばす。
「……朝凪?」
「こちらにも」
髪から花びらを摘まみ取ると、朝凪は指先からそっと風へ逃がした。
「今日の花びらは、みんな姫様のことが好きなようですね」
「もう。朝凪ったら、そういうことを照れずに言うんだから」
「本当のことですから」
六花がくすりと笑い、桜桃もつられて笑った。
「さぁ、姫様、もう戻りましょう」
不意に、柔らかな風が吹き抜けた。花びらが一斉に舞い上がり、視界が淡く染まる。
肩に掛けていた肩巾がふわりと舞い上がった。
「あっ」
地面に落ちた肩巾を朝凪が拾う。
「ありがとう」
桜桃が受け取ろうと手を伸ばす。
けれど朝凪は、肩巾についた土を見てその手を引いた。
「姫様の手が汚れますので」
朝凪は肩巾を丁寧に畳む。
「こちらは私がお預かりします」
「じゃあ、お願い」
桜桃はあっさりと頷いて、それから思い出したように付け加えた。
「なくさないでね」
「なくしません」
「絶対?」
「絶対です」
桜桃は満足したようにくすりと笑い、そのまま回廊へと歩みを進めていった。衣が擦れ合う微かな音が、回廊に優しく残る。
朝凪の手の中には白い肩巾が残されていた。
***
日が沈みかけた頃、桜桃は縁に腰を下ろし、空を見上げていた。隣には六花が寄り添い、回廊には近衛が二人控えている。
昊夜との初顔合わせの時間がいよいよ近づいてくる。桜桃は先程から胸の奥がそわそわと落ち着かなかった。
「……ねえ、六花。昊夜様って、どんな方かしら」
武勇に優れた高名な皇族だとは聞いている。けれど、深窓の姫として育った桜桃には、その姿がどうしても具体的に思い描けない。
少し怖い人なのだろうか。それとも──。
「優しい方だといいですね」
六花が柔らかな微笑みを浮かべた。
「姫様のように、あたたかい心を持った御方だとよろしいのですが」
「ふふ、私なんて……。でも、そうね。少しだけでも、お話ししやすい方だと嬉しいわ」
「きっと、素敵な御方ですよ」
「……そうだといいな」
桜桃は小さく笑った。
六花はその様子を見て微笑むと、静かに立ち上がった。
「さて、そろそろ向かいましょうか」
「……もうそんな時間?」
「はい。あまりお待たせしては失礼ですから」
桜桃は頷きかけ、ふと辺りを見回した。
「……朝凪は?」
「帝都のあちこちで騒ぎが重なっているようで、朝凪も、私の父も、それぞれ対応に出ているそうです」
「近衛まで?」
「ええ。詳しいことは聞いておりませんが……。こちらには、ほかの近衛の方々が控えてくださっていますから」
「……そう」
桜桃は少し残念そうに目を伏せたが、すぐに気を取り直して立ち上がった。
「行きましょう、六花」
「はい」
桜桃は一歩踏み出しかけて、ふと足を止めた。
「……ねえ、六花。何か、変じゃない?」
「何がでしょう?」
「分からないけれど……何だか、静かすぎる気がするの」
桜桃は回廊の先へ視線を向けた。
今夜は、桜桃が皇女として初めて公の場に姿を見せる明日の成人の儀を前に、八重御所に皇族たちが集まり、祝いの宴が催されることになっていた。
その警護のため近衛の多くも宴席の周辺へ配置され、女官たちも給仕や客人の世話に追われているはずだ。回廊から人の気配が消えることなどあり得ない。
けれど、先ほどまで遠くに響いていた足音も、いつの間にか途絶えていた。
「……そういえば」
六花も辺りを見回した。
庭の向こうには灯りが点々と連なっている。けれど、その下を行き交う人影はなく、風に揺れる木々の葉擦れだけが、妙にはっきりと耳に届いた。
「……確かに、変ですね」
六花の声がわずかに低くなった。
桜桃がもう一度、回廊の奥へ目を向けたそのときだった。
遠くで、何かが激しく打ち合わされるような音が響いた。
続いて、短い叫び声。
回廊に控えていた近衛たちが、ほとんど同時に顔を上げた。
「……今のは?」
桜桃が問いかけるより早く、近衛の一人が刀の柄に手を掛けた。
「姫様、こちらへ」と、六花が素早く桜桃の腕を取った。
回廊の向こうから、一人の近衛が駆けてきた。
ひどく息を乱している。衣の袖には赤いものが滲み、抜いたままの刀から血が滴っていた。
「敵襲! 桜桃様を中へ──!」
叫ぶ近衛の言葉が途切れた。その背後で、白い刃が閃く。
「──!」
近衛の身体が大きく傾き、そのまま回廊へ崩れ落ちた。
桜桃の目の前で、赤い血が床板へ広がった。
警護についていた二人の近衛が、即座に刀を抜く。
「桜桃様、お下がりください!」
だが、桜桃の耳にはほとんど届いていなかった。
──敵襲。
その二文字が、ようやく頭の中で意味を結んだ瞬間、真っ先に浮かんだのは一人だった。
「お父様は……!?」
桜桃は六花の手を振りほどいた。
「姫様!」
「桜桃様!」
六花と近衛が制止する声も聞かず、桜桃は回廊へ向かって駆け出した。
***
近衛の一人が桜桃を追い、もう一人は迫る敵を食い止める。
回廊は、灯りがいくつか落ち、影が不自然に揺れている。いつも見慣れた穏やかな宮廷の姿ではなかった。
あたりは暗く、どこがどこへ続いているのか分からない。それでも桜桃は走った。袴の裾に足がもつれそうになるのを、気力だけで押さえながら。
回廊の先で激しい音がぶつかり合う。刃が鳴る音。叫び声。その渦巻く只中に人影が見えた。
「──お父様!」
喉が裂けるような声を上げた。
星河帝は、力なく崩れるように片膝をついていた。その背の奥深くへと、刃が沈んでいる。
黒い影がそこから離れた。灯りが足りず影が濃すぎて顔が見えない。だが、確かに人がいることだけは分かった。
遅れて来た六花が息を呑む。
桜桃は膝をついた。震える手で星河帝の肩に触れると、まだ温かかった。
どろりとした濃い血が、瞬く間に指を濡らしていく。
「お父様……」
星河帝は重い瞼をゆっくりと開けた。焦点が合っているのかは分からない。それでも必死に自分を呼ぶ桜桃の姿をじっと捉えている。
「……桜桃」
掠れた息の隙間から、何かを紡ぎ出そうとしている。桜桃はその乾いた口元へそっと耳を寄せた。
「……残せ」
途切れそうな呼吸のなかで、言葉がひとつ、床へ落ちる。
「この国を……」
言葉が途切れ、唇の間から赤い血が溢れ出た。
「お父様……!!」
桜桃の絶叫が暗い廊下の奥まで虚しく響き渡った。




