序 皇女の婚礼
婚礼の支度が、音もなく進められていた。
桜桃の部屋には、仕立てを終えたばかりの打掛や装身具が次々と運び込まれ、壁際には白木の箱が幾重にも積まれていた。
艶やかな絹布も螺鈿の飾りも、主の胸中を映すかのように、ただ冷えた薄明かりの下で息を潜めている。
女官長が静かに歩み寄り、頭を垂れた。
「桜桃様、お支度が整いました」
鏡台の前に座る桜桃は、唇を引き結ぶ。
「……ええ……」
「まもなく、婚礼のお時間でございます」
女官長の言葉に、桜桃は目の前の大きな鏡に視線を移した。
そこに映っているのは、幸せな花嫁とは到底思えない、酷く険しい顔だった。
女官長が気遣うように、桜桃の顔を覗き込む。
「……本当によろしいのですか」
もう一度鏡の中の自分を見ると、白い婚礼衣装が、ほんの一瞬だけ揺らいだ。
濃淡の異なる紅の袿に、薄桜色の表着。髪の上半分を結い、同じ花を象った簪を挿した少女が、鏡の向こうからこちらを見ている。
十六歳の、自分だった。
似合っているだろうかと何度も鏡を覗き込んでいた頃の姿。
桜桃が瞬きをすると、少女は消えた。
鏡の中には再び、白い婚礼衣装を纏った自分だけがいる。
桜桃はしばらくその顔を見つめていたが、やがて視線を落とした。
白い布の重みに耐えるように、両手を強く握り締める。
「私が決めたことです」
爪が手のひらに食い込み、微かな痛みが走った。
「……行きましょう」
桜桃はゆっくりと立ち上がり、静まり返った回廊へ向けて歩き出した。
回廊に出ると、立ち止まり庭を見下ろした。
枝先にあるのは、まだ固く閉じた蕾だった。季節を分かつ冷気が、頬を撫でて通り過ぎる。
その枝に、春の光が重なった。
ひらひらと舞う花びらを追い、無邪気に笑う十六歳の自分。舞い落ちてくる一枚の花びらへ、そっと手を伸ばしている。
──あの頃、私はまだ何も失ってはいなかった。
桜桃は静かに目を閉じた。




