第九話 婚約者候補と会う
紫宸殿前に設けられた舞台の周りでは、灯りが増えて、音が重なっていく。
笛の音が先に立ち、やがて弦がそれに重なる。灯りの中、舞姫たちが一歩前へ出た。衣が揺れ、袖が翻る。ひとつの流れとなって、舞台の中央へと広がっていく。
どの娘も、美しかった。鍛えられた動き。整えられた所作。それぞれが、与えられた役目をきちんと果たしている。
けれどその中で。
一人だけ、違う色を帯びた存在があった。
わずかに伏せられた瞳。流れる動きの中に、ほんの少しだけ滲む影。憂い、そして何より滲み出る気品。その少女に、自然と視線が集まっていく。
桜桃は何も考えずに舞っていた。身体が覚えている通りに。教えられた通りに。流れに乗せていく。
けれど、ふと、胸の奥に引っかかるものがある。
(違う)
形は、なぞれている。でも、それだけだ。
(六花は、もっと――)
思いかけて、言葉が止まる。
もっと、上手かった。その事実だけが、頭によぎる。
少し離れた場所で、一人の青年が、人の影に紛れ、気配を抑えながらその舞を見ていた。
短くなった赤褐色の髪が、炎の光の中で静かに揺れる。だが、その視線だけは逸らされない。少女の動きをひとつひとつ、追っている。
やがて、その目がわずかに見開かれた。
――生きている。
声にはならない。安堵が遅れて胸に広がる。
同時に、かつての光景が脳裏に浮かぶ。
庭の端で、ぎこちなく足を運ぶまだ幼い少女と、その傍で手を取る侍女。
『違う、そこではありません』
『もっと、流れを見て』
六花の声。何度も、何度も繰り返される指導。その積み重ねが、今、目の前にある。
青年――朝凪は、懐かしむように目を細めた。
そのときだった。
舞の流れに合わせて足を運んだ瞬間、桜桃の足先が何かに引っかかった。
「っ……!」
踏み出すはずの足が止まり、身体だけが前へ流れる。
咄嗟に体勢を立て直そうとしたが、舞台の端はすぐそこだった。伸ばした足は虚しく宙を踏み、桜桃の身体が大きく傾いた。
視界がぐらりと揺れる。
舞台の下にいた人々が、驚いたように顔を上げた。
朝凪が息を呑み、足を踏み出す。
だが、それより早く、舞台の脇を歩いていた一人の男が動いた。
男は落ちてくる桜桃へ迷いなく踏み込み、片腕を背に、もう一方を腰へ回した。受け止めると同時に片足を引き、身体をわずかに沈めて落下の勢いを逃がす。
衣の裾が大きく翻り、桜桃はその腕の中に収まった。
「――!」
地面に叩きつけられると思った次の瞬間には、力強い腕に支えられていた。
桜桃は息を詰めたまま、恐る恐る顔を上げる。
視界に飛び込んできたのは、墨色の長い髪だった。
引き寄せられた距離の近さに、桜桃は息を詰め、思わずその目から目が離せなくなる。
少し冷たさを孕んだ瞳。人の喧騒の中にいながら、その目だけがどこか別の場所にあるような目だった。炎の光が横顔に当たっている。その光の加減が、余計に──。
(──あ)
見覚えがあった。
あの廊下ですれ違った、軍装の男だ。朝凪と同じ二つの桜の階級章を襟に帯び、朝凪の代わりにその地位へ収まった、近衛中将。
(あの時の……っ)
心臓の音が、やけに大きく響く。
そのとき、微かに香がした。白檀の香り。舞の熱と、人の気配の中に紛れているはずなのに、不思議とそこだけが輪郭を持つ。
男の視線が、こちらを見ている。
あまりの距離の近さに、桜桃の顔が熱くなる。
転んだせいだ。舞のせいだ。絶対に、それだけのせいだと思いたかった。
「足を捻ったようだ」
低く、静かな声が響く。周囲のざわめきが止まる。
「失礼する」
言葉は簡潔だった。だが、有無を言わせない。
男はそのまま、桜桃の身体をそのまま横抱きに抱き上げた。軽く。まるで重さなど感じていないかのように。視界が一気に高くなる。ざわめきが広がる。
桜桃は何も言えなかった。
「昊夜様……!」
舞台から下を覗き込んだ花梨の声が、はっきりと響いた。
──昊夜。
その名に、桜桃の思考が止まる。
(この人が、昊夜様……?)
回廊で見かけた、朝凪の代わりを務める男。父に代わり玉座に座る新帝の息子。そして、謀反の夜に失われたはずの、自分の婚約者候補。
ばらばらだった点が、一本に繋がっていく。
(……こんな人だったの)
桜桃は思わず、男の横顔を見上げた。
整った目鼻立ちに、墨色の長い髪。冷ややかな表情は、確かに令嬢たちが噂する『歩く氷山』そのものだった。
けれど、その腕は思いのほか温かく、桜桃の身体を危なげなく支えている。
嫌なのに、恐ろしいはずなのに、心臓が言うことを聞かずに激しく鳴り響く。
(……落ち着け、私。落ち着いて……)
自分に必死に言い聞かせた。けれど、熱くなった顔は戻らない。
昊夜はそのまま踵を返す。迷いなく、舞台を離れる。灯りの外へ。ざわめきの外へ。
何も残さず、ただ一人の舞姫を連れて。
それを見ていた花梨は、隣にいた娘へとゆっくりと視線を動かした。
「……わざと、足をかけたでしょう?」
静かな声。それでも、逃げ場のない響きだった。
椎香も娘の方を見ると、娘は視線を逸らした。
「何のことかしら」
花梨は、その横顔をしばらく見つめていた。やがて、小さく溜息をつく。
娘の肩が揺れる。
「……あのままじゃ、あの子に全部持っていかれていたわ。……あんなのが、急に前に出てくるから」
悔しさと焦りが混ざっていた。
花梨は目を細める。怒っているわけではない。ただ、理解してしまったような顔だった。
「それでも、舞の場で、そういうやり方は好きではありません」
花梨の声は柔らかいままだった。だが、揺れない。
娘は何も言えず、視線を落とした。
音楽は、途切れなく続く。何事もなかったかのように、宴は続いていた。
***
宴のざわめきが、遠くなっていく。
昊夜に抱き上げられたまま運ばれた先は、宴の灯りから切り離された回廊だった。夜気は、少しだけ冷えていた。
昊夜は歩みを緩め、柱の影へと入った。
「……降ろすぞ」
短く告げる。桜桃は答える前に、そっと地に下ろされた。足に力を入れた瞬間、鈍い痛みが走る。息が詰まる。
「やはり、捻っているな」
昊夜は淡々と言う。桜桃はその声を聞きながら、なぜかまだ心臓が落ち着いていないことに気づいた。足首のせいだろうか。それとも──。
「少し失礼する」
昊夜が袖を翻し、膝を折った。
桜桃は反射的に身を引きかけたが、すぐに止めた。
(……近い)
視界に昊夜の髪が入ってくる。墨色の髪が、下を向いた拍子にさらりと落ちた。
触れる指は、確かめるためだけのものだった。淡々としていて、感情が乗っていない、診るための手だった。
「骨には異常はないな」
昊夜は視線を上げなかった。足首だけを見ていた。ただそれだけのことなのに、桜桃はなぜか視線の置き場に困った。
「人を呼ぼう」
「……いえ、大丈夫です」
桜桃は首を振る。
昊夜は一度だけ目を上げた。その目が一瞬こちらを見た。真っ直ぐに。
桜桃は思わず目を逸らした。
「無理はするな」
それだけを残して、昊夜は立ち上がった。
やがて侍女が呼ばれ、足首に布が巻かれていく。桜桃は黙ってそれを受けていた。
布を巻く手が動く間、桜桃はふと視線を庭へ向けた。灯りの向こう、そこにあるはずのもの。
だが──桜は、もう散っていた。春は終わっている。分かっているのに、目が向く。そのこと自体を、ずっと避けていたのだと気づく。宮廷に戻ってから、一度も桜の木を正面から見ていなかった。
「なぜ、そんな顔をしている」
桜桃が振り返ると、先程と変わらない表情で昊夜が立っていた。
「……どんな顔ですか」
「春の終わりを見ている顔だ」
桜桃の呼吸が、一瞬止まる。言われた意味が、すぐには飲み込めない。ただ、それが正確すぎることだけは分かった。
「……別に」
「散るのが惜しいなら、そう言えばいい」
昊夜の声は、どこまでも平坦だった。慰めるわけでも、憐れむわけでもない。
「形あるものは、いつか終わる。ただ、それだけのことだ」
「……殿下は、惜しいとは思われないのですか」
思わず、言葉がこぼれていた。
相手が新帝の息子であることも忘れ、桜桃は昊夜を見上げる。
昊夜はただ、遠い夜の庭園へ視線を戻した。若葉の匂いを孕んだ生温い夜風が、彼の墨色の髪を揺らす。
「終わったものに割く感情は、持ち合わせていない」
冷淡な響きだった。けれど、その横顔はひどく静かで、まるで最初から何も持たずに生まれてきたかのような、底知れない孤独を滲ませている。
桜桃は息を詰めた。この人は、散りゆく春を惜しまないのではない。惜しむことさえ、とうに諦めて、通り過ぎていく季節をただ淡々と眺めているだけなのだと、直感的に気づいてしまったから。
「……そうですか」
それ以上は、桜桃も追わなかった。追ってはいけない気がした。
昊夜もそれ以上は語らなかった。ただ、視線だけが静かに残っていた。
(……名前だけ、知っていた人だったのに)
こんな目をしている人だとは思っていなかった。それに、こんなふうに近くで言葉を交わす日はもう来ないと思っていた。
やがて昊夜は踵を返した。回廊の奥へ、墨色の髪が揺れながら消えていった。




