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狂桜華《きょうおうか》~亡国の姫は、名を捨て帝を目指す~  作者:
第一章 桜、散る夜に

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第九話 名をなくして生きる者と名前だけが生きる者

 仕事の合間、桜桃はひとり宮廷の奥へと足を向けていた。


 廊の角を曲がろうとしたとき、向こうから人が来た。


 避けようとして、足が止まった。


 軍装だった。

 濃灰の上衣に腰には剣。長い髪を後ろで束ねている。

 見慣れた近衛の装いだった。


 その姿を見た瞬間、桜桃の胸が跳ねた。


(――朝凪)


 思わず足が止まる。 

 だが、朝凪かと思った瞬間、違うと分かった。


 朝凪ではない。背丈も、歩き方も違う。髪の色も違う。 

 何より朝凪なら、こんな風に人を寄せ付けない冷たい顔はしない。


(何を考えてるの。朝凪のはずないのに)


 朝凪と見間違えた動揺で、胸が痛む。


 すれ違いざま、男の近衛の襟元が、桜桃の視界に飛び込んできた。


(……!)


 そこに刻まれていたのは、鈍く光る二つの桜の紋章。

 近衛の地位――中将職を示す証だった。


 謀反の前、朝凪がその襟元を飾っていたものと、まったく同じ紋章。

 かつては自分を命がけで守る盾であり、最も身近にあった誇り高き階級章が、今は見知らぬ男の襟を飾っている。


 朝凪が退いたその場所に、この男が代わりに収まったのだという現実を、突きつけられた気がした。


 男と一瞬目が合った気がした。

 気のせいだったのだろうか。


 男は廊をまっすぐに歩いて、通り過ぎた。


 すれ違った瞬間、白檀の香りが、鼻腔を満たした。


(……この香り)


 どこかで触れた記憶だけが、微かに引っかかる。


 振り返りかけて、やめた。男はもう角の向こうへ消えていた。


 残された白檀の香りは、すでに廊の空気へと消えていた。


 桜桃は無理やり気を取り直して、また歩き出した。




 人の気配が次第に遠のいていく。静けさの中へ。


 辿り着いたのは、ひっそりとした一角だった。

 

 皇族の墓所。


 死んだ皇族の名が、石に刻まれている。ここに記されるのは、皇族の血を引く者のみ。

 桜桃はゆっくりと歩み寄る。視線が、ある一点で止まった。


 父の名。

 そして、その隣に――自分の名。

 桜桃。


 指先が、自然と伸びる。石に刻まれたその文字を、なぞる。冷たい。当然だ。石なのだから。それなのに、妙に現実を帯びていた。自分の名前が、ここに刻まれている。死んだことになっている。


「……名をなくして生きる者と」


 ぽつりと、零れる。


「名前だけが生きる者」


 指が止まる。刻まれた名の上で。


「……どちらが、ましでしょうね」


 問いかけるように。答えなど、あるはずもない問い。


「それは、どちらとも言えませんね」


 静かな声が、背後から落ちた。

 振り返る。

 白髪交じりの髪、深く刻まれた皺。しかし眼だけが鋭いままの男が立っていた。青陽せいよう清明せいめい。父・星河帝の臣下だった。


 どこから来たのか、気配すら感じなかった。それなのに、そこにいる。まるで最初からいたように。

 桜桃は目を見開き、驚きを飲み込むようにしてわずかに息を吐いた。


「……あなたが、ここにいてくれるのなら、安心だわ」


 清明は、表情を変えずに一礼する。


「そう言っていただけるほどの働きは、まだできておりませんが」


 淡々とした声。だが、その眼差しはわずかに柔らいでいた。


 桜桃は視線を墓碑へ戻した。


「教えて、清明様」

 

 静かに言う。


「あの日――謀反を起こしたのは、誰?宮廷の誰が、父を、あんな目に遭わせたの」


 間を置かずに問う。ここまで来て、遠回りをする気にはなれなかった。

 清明は、ほんのわずかに目を伏せた。


「首謀者は、皇位継承権が下位の者……玉座に目が眩んだ、愚かな皇族です」


 抑えた声で、事実だけを告げる。


「ですがその者は、すでに日向の手によって討たれています。あの日、すべてが闇に葬られたかのように」


「……首謀者は、死んだ」


 桜桃はその言葉を繰り返す。胸の奥が、冷たい怒りで満ちていく。


「けれど、それは『引き金を引いた者』でしょう? 私が知りたいのは……帝を、私の父を実際にその手で殺した者よ。それは、その首謀者とは別なの?」


 清明は小さく、しかし明確に頷いた。


「別です」


 迷いなく。


「では」


 桜桃は視線を上げる。


「帝を殺したのは?」


 清明はすぐには答えない。だが、沈黙は否定ではなかった。何かを測るような間があって、やがて口を開く。


 桜桃は視線を上げる。清明の目を真っ直ぐに見据えた。


「本当の仇は誰? 帝を、あの場所で殺したのは誰なの?」


 清明はすぐには答えない。だが、その沈黙は否定ではなかった。何かを測るような、凍りついた間があって、やがて重い口を開く。


「……現場にいた者、としか。未だ宮廷の闇を這い回る、正体不明の影でございます」


 短い言葉。それ以上は、清明の口からも語られない。


 ――まだ、この人でさえ掴みきれていないのだ。


 桜桃は爪が肉に食い込むほどに、きつく拳を握る。


「新帝は? 今、あの玉座に座っている者は、どうやって決まったの」


「首謀者不在の混乱の中、四大貴族の当主たちによる合議で選出されました。残った皇族の中から、最も扱いやすい神輿として」


 四大貴族――青陽、朱明、白蔵、玄英。


「名は、虚空」


 桜桃の表情が、わずかに揺れる。


「……虚空」


 繰り返す。遠い記憶の中に、その名がある。幼い頃、父の傍らで耳にした覚えがあった。


「その方には、息子がいるわね」


「ええ。宮廷でもすでに頭角を現している男です」


 清明は頷く。


「長男は、昊夜こうや、と」


 空気が、わずかに変わる。


 桜桃は、咄嗟に視線を落とした。その名は、かつて父が生前に定めた、自分の婚約者候補と同じ名だった。


 あの燃え盛る夜のせいで永遠に失われた、「明日」会う予定だった存在。

 それが、今や仇敵とも言える新帝の息子として、この同じ皇居の中、すぐ近くに存在している。


「……首謀者は、死んだ。そして、新しい帝が立ち、その息子が私のすぐ傍にいる……」


 小さく呟く。誰に聞かせるでもなく。


「なら――私は、何のために死んだことになっているの?」


 その先は言葉にならない。桜桃は拳を握りしめたまま、目を伏せていた。喉の奥からせり上がる、理不尽への怒りに耐えるように。


「姫様」


 やがて、清明が静かに口を開く。


「あなた様はこれから、どうなさるおつもりですか。このまま侍女『六花』として、他人の名前の陰で静かに余生を過ごされますか? それとも……」


 問い返す。逃げ場のない、刃のような問い。


 桜桃は、一瞬だけ息を詰めた。だが、すぐに顔を上げ、清明を睨みつけるようにして言った。


「虚空帝がこの歪んだ国を立て直してくれるなら、私はこのまま影として生きていってもいい。けれど、もしあの一族もまた、己の欲のために玉座を汚すというのなら」


 一拍置いて、桜桃は退けない覚悟を口にした。


「私が、帝になる。父の遺したこの国を、私が引き継ぐわ」


 迷いのない声音。


 けれど――清明の濁りのない眼は、それをそのまま受け取らなかった。


「……本気ですか」


 冷徹なまでに、静かに。


「ただの義務感や、行き場のない怒りで言っているのではありませんか? 玉座に座るとは、この国すべての泥をすするということ。その覚悟が、本当にあなたにありますか?」


 言葉が、深く突き刺さる。桜桃の指先が、わずかに震えた。自分の心の脆い部分を、すべて見透かされたような気がした。


「だったら……!」


 押し殺していた声が、ついに揺れ、弾ける。


「私にどうしろというの!? これ以上、何を奪われれば気が済むの!?」


 押し込めていたものが、一気に溢れ出す。


「父を殺され、自分の名前を奪われ、死人として生きることを強行されて……! 私が今、ここで息をしている理由はどこにあるの!? 叫ぶことも許されずに、ただ大人しく運命に従えというの!?」


 問いは、血を吐くような叫びだった。


 だが、清明は一歩も引かない。その佇まいは、恐ろしいほどに動じなかった。


「生きる理由など、他人に乞うものではありません。あなたが、どう生きたいのか。それだけです」


 ただ、氷のように冷たく、けれど確かな重さを持った言葉を返す。


「私が、どうしたいかですって?」


 桜桃は笑う。乾いた、壊れたような笑いだった。


「言えばいいの? あなたの望むような答えを言えば、満足するの!?」


 一歩、清明に向かって踏み出す。


「父や、私を庇って死んだ六花を殺した者を探し出し、この手で仇を討つと! 私から全てを奪った新帝を、あのきらびやかな玉座から引きずり落としてやると!」


 言葉が、どす黒い鋭さを帯びていく。


「私の胸にある、この醜い憎しみを……! あなたにぶちまければいいの!?」


 墓所の重苦しい間が、真っ二つに裂ける。


 桜桃は肩を激しく上下させ、清明を睨みつけた。清明は、ただその嵐のような感情を、静かに受け止めていた。


 やがて、桜桃はふっと視線を落とし、冷え切った声で呟いた。


「……でも、いいわ。私は、もう止まらない」


 静かに、落とした。その言葉は、先ほどまでの激昂よりも、ずっと低く、ずっと重かった。


 瞳の奥の涙は乾き、そこには冷徹な炎だけが灯っている。迷いは、もう完全になくなっていた。


 桜桃は清明に背を向ける。その足音は、二度と振り返らない強さで、迷いなく遠ざかっていく。


 残された清明は、長い影を落としたまま、しばらく動かなかった。


 やがて、静かに目を閉じる。


「……憎しみもまた」


 誰にともなく、ぽつりと呟く。


「奇麗事よりも深く、人を突き動かす生きる糧にはなり得る」


 それが、たとえ破滅へと向かう道だとしても。


 星河帝の遺児が、ついに牙を剥いた。その事実だけを、厳かに受け入れるように。


 白髪交じりの頭が、静かに下がった。まるで、闇の中へと消えていく気高き主の背中に、見えないところで臣下の礼を捧げるように。

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