第十話 元近衛中将、身を隠す
少し離れた回廊の影。宴の灯りが届かなくなる手前の柱の陰に、朝凪は立っていた。
桜桃が連れられていくのを見て、ここまで追ってきた。
あの日からずっと生死も分からないままだった桜桃が、こうして生きて、目の前にいる。
無事だと分かっただけで、胸の奥の強張りが緩んでいく。
それだけでいいはずだった。だが。
視線の先に、もう一つの影がある。近い距離。言葉が届く場所。
あの男の顔を知っている。
かつて、同じ場に立ったことがある。同じ方角を見ていたことも。
――京極宮昊夜。
あの方の、婚約者候補だった。
選ばれたのは、あの男だった。星河帝が何を思っていたのかは本当のところは分からない。
ただ、彼女が「六花」としてここで生きるのなら。本来の形とは違った形で、あの男の近くに身を置くことになるのなら。
一歩、踏み出しかけて、止まる。
呼べばいい。それだけの距離にいる。自分がここにいると知らせれば、彼女はどれほど安堵されるだろうか。
けれど、呼べば、彼女は振り返る。そして、きっと戻ってしまう。
ここにいる「六花」ではなく、自分が知っている「姫様」に。それが本当に、今の彼女のためになるのか分からない。
何より、桜桃が昊夜に向ける、戸惑いの奥に隠された熱を帯びた表情。名だけを知っていた二人が、今ここで新しく出会い、別の関係を結び始めようとしている。
今のあの二人の空間に、自分が不用意に踏み込むべきではないと思った。
朝凪は静かに視線を落とす。
手の中にあった、桜桃の肩巾を見つめる。少しだけ、指に力がこもる。それを解くように、ゆっくりと息を吐いた。
そして、踵を返す。宴の灯りが遠くに揺れる庭へと足を向ける。人の声が少しずつ遠のいていく。
その先に、大きな桜の木があった。
季節は過ぎている。花は、ひとつも残っていない。青い葉だけが、静かに夜気を受けて揺れている。
朝凪はその前で足を止めた。
手にしていた肩巾を、そっと枝にかける。小さな風が吹き、薄衣が揺れる。それを一瞬だけ見つめて。
「……どうか、健やかに」
言葉にすれば消えてしまいそうなほど小さな呟きを桜の木に預け、朝凪は何も言わずに、背を向けた。
***
宴の喧騒が遠ざかった頃、桜桃はまだその場に立っていた。
頭の中には、先ほどの男の顔が、あの凄まじいまでの美貌が焼き付いて離れなかった。
「昊夜」という名前と、以前回廊ですれ違った軍装の姿が一つに繋がっている。
(近衛、だったんだ……)
以前、昊夜は国防を担う朝廷軍に身を置く将だと聞いていた。宮中を護る近衛ではなかったはずだ。
それがなぜ今、近衛中将としてここにいるのか。
近衛は帝と皇族を護るための特別な軍隊だ。父の傍らにはいつも彼らがいて、幼い頃から見慣れた、誇り高く、鍛え抜かれた優しい背中があった。
あの日、その背中たちが、何人も冷たい骸となって倒れていた。
(……変わってしまった)
あれだけのことがあったのだから、人も、立場も、権力の図式も、すべてが根底から覆る。
生き残った近衛たちは、星河帝を護れなかった責を負い、誰一人として宮中には残らなかった。
新帝が立ち、近衛の顔ぶれが総入れ替えになるのは、当然のことだった。
自分を逃がすために刀を振るってくれた人たちも、もういない。
朝凪も、もうあの誇り高い濃灰の衣を纏うことは叶わない。
そして、見慣れた顔が一人もいなくなった近衛に昊夜がいる。
父に代わって玉座に座る新帝の息子が、朝凪のいたはずの場所に立っている。
それがなぜか、切なく、そして、ひっそりと寂しかった。
桜桃は痛む足首をかばいながら、人の気配が遠のいた回廊をゆっくりと歩きはじめた。
宴の席へ戻るには、まだ少し気持ちが落ち着かなかった。
灯りの少ない回廊を進み、角を曲がろうとしたとき、ふと、見覚えのある障子戸が目に入った。
桜桃は足を止めた。
(……お父様のお部屋)
星河帝が生前、私室として使っていた部屋だった。
戸は開け放たれ、室内には明かりが灯されている。宴のために人が出入りしていたのだろうか。調度品のいくつかは片付けられていたが、壁際の棚や几帳には見覚えがあった。
そして、その奥。
壁に掛けられた一幅の掛け軸を見た瞬間、桜桃は息を呑んだ。
(……あれは!)
描かれているのは、華やかな衣をまとった一人の少女だった。
長い髪を上半分結い上げ、少し緊張した面持ちで正面を見つめている。
桜桃自身の肖像画だった。
(成人を前に、お父様が描かせた……!)
出来上がった絵を見た父は、実物のほうがずっと愛らしいなどと言って、絵師を困らせていた。
そんなことまで、鮮やかに思い出せる。
けれど、今は懐かしんでいる場合ではなかった。
(どうして、まだ掛かっているの……!)
桜桃は思わず周囲を見回した。
謀反で皇女は死んだことになっている。今の自分は、宮廷に新しく仕えることになった侍女の六花だ。
それなのに、こんなところに肖像画が残っていては。
誰かが絵と自分の顔を見比べたら、どうなるか分からない。
(隠さなきゃ……!)
桜桃は部屋へ一歩踏み出そうとしたが、回廊の向こうから複数の足音が聞こえてきた。
「こちらの部屋は、もう片付いているのか?」
「はい。ただ、まだ運び出していないものがいくつか……」
男たちの声が近づいてくる。
(まずい……!)
今、部屋の前にいるところを見られれば、不審に思われるかもしれない。
桜桃は慌てて身を翻した。
回廊を戻ろうにも、そちらから人が来ている。とっさに庭へ下り、近くにあった大きな桜の木の陰へ身を滑り込ませた。
幹に背を寄せ、息を潜める。
ほどなくして、男たちが回廊を通り過ぎていった。
「宴が終わるまでには、すべて済ませておけ」
「承知いたしました」
足音が遠ざかっていく。
桜桃はしばらくその場から動けなかった。
胸の鼓動が、なかなか収まらない。
(……驚いた)
そっと息を吐き、幹から背を離そうとしたとき、頭上で何かがかすかに揺れた。
桜桃は顔を上げた。
夜の闇に、白いものが浮かんでいる。
枝に掛かった、細長い布だった。
「……え?」
風に揺れるその布を、桜桃はしばらく見つめていた。
見覚えがある。
そっと手を伸ばし、枝から外す。
指先に触れたのは、柔らかな絹の感触だった。
端には、小さな桜の刺繍が施されている。
「……これ……」
間違えるはずがなかった。
謀反が起こる前、庭で朝凪へ預けた、あの肩巾だった。
(なぜ、ここに――)
そう思ったとき、不意に別の記憶が押し寄せていた。
同じ木の下で、まだ幼かった頃のこと。
『どうして分かってくれないの』
声が、蘇る。自分のものだ。少しだけ強くて、少しだけ幼い声。
『姫様、それは――』
六花が何かを言おうとするが、桜桃はそれを遮った。
『もういい!』
思ったよりも強い声だった。六花が、一瞬だけ目を見開く。それでも、なお言葉を続けようとして――
『分からないなら、黙ってて!』
言ってしまった。空気が、止まる。
六花は何も言わなかった。ただ、ほんの一瞬だけ傷ついたような顔をして、すぐに、いつものように微笑んだ。
胸が、締めつけられる。なぜ、あんな言い方をしたのか。分かっているのに、止められなかった。
桜桃は、木の影に身を隠した。誰にも見られないように、ひとりで、膝を抱えて俯く。
涙が、落ちる。止め方が分からなかった。
『……姫様、泣いていらっしゃるのですか』
静かな声が、上から降ってきた。
顔を上げると、そこにいたのは、見慣れた姿だった。気配を消すのが上手く、いつも気づけば近くにいる少年――朝凪。
『……痛かったでしょう』
穏やかな声だった。桜桃は答えられない。
『言われた方も』
一拍おいて。
『言った方も』
責める響きではない。ただ、事実のように置かれる言葉。
『……どうして』
掠れた声がこぼれる。あんなに酷いことを言ったのに、どうして責めずにそんなに優しい声で私を呼ぶの、と。
朝凪は少しだけ目を伏せた。
『分かるからです』
そう言って、朝凪は桜桃の目線に合わせるように、その場に静かに膝を折った。
『姫様が、本当はあんなことを言いたくなかったのも。……ご自分に一番怒っていらっしゃるのも、全部』
朝凪の声は、どこまでも穏やかだった。いつも静かに後ろに控えている彼が、この時ばかりは、桜桃の流す涙をその身で全部受け止めるような温かさを滲ませている。
『言葉が尖ってしまうのは、心がそれだけ傷ついているからです。……だから、ご自分を責めないでください。六花もきっと、あなたの手を離したりはしません』
そっと手が差し出される。無理に引くことはしない。ただ、いつでもその小さな体を支えられるように、大きな手のひらを上に向けて待っていた。
『泣きたい時は、ここでいくらでも泣いてください。私がずっと、誰にも見つからないように隠していますから』
桜桃は、ためらいながらもその手を取った。
朝凪の手のひらはあたたかく、包み込まれた瞬間に、自身の強がりが波が引くように消えていくのが分かった。
不意に、繋いだ手にぐっと強い力がこもる。
次の瞬間、驚くほど滑らかな動作で引き寄せられ、桜桃の体はふわりと宙に浮いた。朝凪が彼女の腰を片手でひょいと抱え上げ、そのまま太い枝の上へと、軽々と着地させたのだ。
『え……』
気づけば、桜の木の上にいた。枝の上。ぐらりと揺れて、思わず声が漏れる。
『わ……』
背に、そっと手が添えられる。
朝凪は遠くを見るように視線を上げた。
『ご覧ください』
桜桃は息を呑むまま、朝凪に倣った。
風が吹く。残っていた花びらが一斉に舞い上がる。視界が淡く染まる。その向こうに、遠くの景色が見えた。
夕日に照らされ、金色に輝く都の輪郭。
――父の国だ。
『……きれい』
こぼれるように言う。
朝凪は何も答えない。ただ、静かに支えているだけだった。
『……お父上には内緒ですよ』
ふいに、耳元へ低い声が落ちてきた。
『桜の木の上に登ったのが知られたら、私が怒られます』
その少しだけ悪戯っぽい響きに、緊張が解け、息が緩む。
風がやむ。花びらが静かに落ちていく。朝凪はそれ以上何も言わなかった。
そこで、記憶は途切れる。
桜桃は、はっと息をついた。
同じ木の下に立っている。手の中には、肩巾。
胸の奥が、静かに揺れる。懐かしさと、痛みと。それでも、どこかあたたかいもの。
風が吹いて、布が指の間で揺れる。
「……朝凪」
桜桃はしばらく、その感触をそのまま受け取っていた。
遠くから、笑い声が聞こえた。宴はまだ続いている。




