第十話 青か白か
桜桃が中庭に出たのは、使いの帰り道だった。
貴族が出入りできる庭は、侍女の動線と緩く繋がっている。抜け道として使う侍女もいると、鈴に教えてもらっていた。
清明の、あの感情を削ぎ落としたような静かな声が、まだ耳の奥に残っている。
彼と話していると、自分が一枚の薄い紙にされた上で、その価値をじっと品定めされているような、奇妙な心細さに囚われるのだった。
──それに。
(……昊夜、様)
歩きながら、桜桃は胸の奥で、先ほど知ったばかりの事実を必死に打ち消そうとしていた。
考えたくない。考えたところで、どうなるものでもない。あの平穏な日に約束された未来は、もうどこにもないのだから。
小さく頭を振る。早く仕事に戻って、余計な思考をすべて塗り潰してしまいたかった。
そのとき。
「ねえ、青と白、どっちがいいと思う?」
軽い声が、静かな庭に響いた。
桜桃ははっとして視線を向けた。石の縁に腰をかけている二人の娘がいる。宮廷の貴族らしい、整った身なりの令嬢たちだった。
淡い杏色の小袖の娘が、もう一人の方を見て言う。
「椎香ちゃんは白が似合うと思うけど……」
「でも昊夜様には、白が不評って聞いたんだけど、ほんとかな」
(……!)
その名が鼓膜を叩いた瞬間、桜桃は息が止まりそうになった。
心臓が跳ね上がる。耳を塞ぎたくなるような衝動が駆け巡った。
「私も噂程度には……」
「ねえ、そこの侍女さん、ちょっといい?」
急に声をかけられて、桜桃は跳び上がるほど驚いた。
引き攣りそうになる表情を必死に抑え、足を止める。
「は、はい」
「宴で舞うときの衣装なんだけど、昊夜様って白が嫌いか知ってる? 宮廷で働いてるなら何か聞いてない?」
まっすぐに向けられる無邪気な瞳。
ただの恋話なのだと分かっている。けれど、今の桜桃にとって「昊夜」という名は、あまりにも生々しく、鋭い棘のようだった。
喉の奥がからからに乾く。
「……申し訳ありません、私も、その……噂程度しか……」
声がわずかに震えてしまったが、幸いにも令嬢たちは気づかなかった。
「そっかあ」
椎香と呼ばれた娘がため息をつく。
「じゃあ青にしようかな。ね、花梨は?」
「私は椎香ちゃんは白が似合うと思うけど……でも昊夜様の反応は気になるわね」
考えたくないのに、嫌でもその名が耳に滑り込んでくる。宮廷の誰もが、あの人を意識し、あの人の話をしている。
逃げ場のない現実に、桜桃が眩暈に似た動揺を覚えていると――。
「昊夜様が白を嫌いというのは誤情報です」
少し離れた場所から、別の声が落ちてきた。
三人が一斉に振り返る。
壁際に、書類を抱えた若い男が立っていた。貴族らしい衣をまとっているが、その立ち方も表情も、どこか実直な雰囲気がある。飾り気のない真面目さ、とでも言えばいいか。
「正確には、白は汚れが目立つので実用的でないとおっしゃっているだけです」
「……いつからいたの」
椎香の声が引きつる。
「最初からです」
「全部聞いてたってこと?!」
「聞こえていました」
「なんで黙ってたの」
「話しかける頃合いが分かりませんでした」
花梨が小さく吹き出した。
桜桃の張り詰めていた感情が少し和らいだ。
「……柳お兄様、その情報はどこから」
花梨が笑いを含みながら問う。
「昊夜様に直接確認しました。正確な情報を持っておくべきと思いまして」
「直接」
「はい」
花梨は呆気に取られたような顔で石の縁に戻る。
「お兄様ってほんとうに……」
「何か?」
「……何でもないです」
椎香が桜桃の方を向いて、小声で言う。
「花梨のお兄様なの。似てないよね」
桜桃は柳と花梨を見比べた。穏やかで柔らかい花梨と、真顔で的確なことだけを言うこの男が、きょうだいとは。確かに、まったく似ていない。
「……はい」
正直に答えると、椎香がくすりと笑った。
桜桃も、彼らの可笑しなやり取りに引きずられるようにして、ようやく冷え切っていた身体に血が巡るのを感じた。
「失礼します。仕事に戻りますので」
「あ、ちょっと」
花梨が立ち上がる。
「昊夜様って、どんな方だと思う? あなたから見て」
心臓が、また小さな悲鳴を上げた。
「……えと……まだお会いしたことないので……」
下を向いたまま、消え入りそうな声で答える。
「そうなの」
椎香が首を傾げる。
「気難しそうな方なのよね。でもあれで女性に人気があるのよ、なぜか」
「なぜかって……」
花梨が少し困った顔をする。
「昊夜様は素敵な方よ」
「またそれ」
「事実でしょう。椎香ちゃんだってそう思うでしょ」
花梨の声は穏やかだが、どこかはっきりしている。
「はいはい。花梨は昊夜様推しだもんね」
椎香がにやりとする。
「そ、そういうわけじゃないけど……」
花梨の頬がわずかに赤くなった。
「でも、昊夜様はいろいろと噂が多いから、気になるんでしょ」
「……椎香ちゃんは意地悪ね」
「正直なだけよ」
二人の会話を、桜桃は息が詰まるような気持ちで聞いていた。
「ねえ、あなたはどう思う?」
不意に、椎香が桜桃に顔を近づけてきた。いたずらっぽく細められた瞳が、桜桃を真っ直ぐに見つめている。
「えっ……」
「会ったことがなくても、噂くらいは耳にするでしょう? 冷徹無比な宮廷の剣とか、歩く氷山とか。やっぱり、近づきがたい男の人って怖くない?」
「それは……」
冷徹無比な宮廷の剣。歩く氷山。
(……そんな風に、言われている方なのね)
「優しい方だといいな」と桜桃が夢見た婚約者候補の面影は、令嬢たちの話す「昊夜」にはどこにもなかった。
やはり、あの人はもう、自分の知る世界の人間ではないのだ。新帝の息子。遠い、怖い存在。
「……少し、お噂は。でも、きっとそれだけ、お国のために真剣な方なのだろうなと……」
無難に答えると、椎香が「うわあ、模範解答」と声を上げて笑った。
「真面目ねえ! でも、そういう堅物な男の人に、たまにふっと優しくされたりしたら、一気に転がされちゃいそうじゃない?」
「ちょっと、椎香ちゃん、侍女さんを困らせないの」
花梨が苦笑しながら椎香の袖を引く。そして、桜桃に向かって柔らかく微笑みかけた。
「ごめんなさいね。この子、帝都の夜会に少し飽きていて、面白いお話に飢えているの。私は花梨。この子は椎香。あなたの名前は?」
「あ……私は、六花と申します」
偽名を名乗る瞬間、胸がちくりと痛んだが、花梨は嬉しそうに頷いた。
「六花ちゃんね。素敵な名前。ねえ、もしよかったら、今度お仕事の合間にでも一緒にお茶を――」
「昊夜様の御性格については、私の方が正確に把握しております」
再び少し離れた場所から、柳の声が落ちた。
全員が振り返る。至って真剣な顔をしている。
「昊夜様は感情表現が少ないだけで、決して冷酷なわけではありません。また、女性に対して特別な配慮をされる場面も確認しております」
「……どんな配慮よ、お兄様」
花梨が半眼で尋ねると、柳は待ってましたとばかりに胸を張った。
「以前、廊下で転びかけた女官の腕を、驚異的な反射速度で掴んで支えておられました。その際、『邪魔だ』とおっしゃっていましたが、怪我をさせないための高度な配慮と言えます」
「それ、ただ邪魔だったから退けただけじゃないの……?」
椎香の冷静な突っ込みに、柳は毅然と首を振る。
「いえ、掴む力の加減が絶妙でした。あれは確実に配慮です。ちなみに、そのあと昊夜様は私の書類の不備を見つけ、一言も発さずに机に叩きつけられました。あれも『早く直せ』という無言の――」
「もう、お兄様は黙ってて」
花梨が静かに、しかしはっきりと言った。柳がぴたりと口を閉じた。
その様子を見ていた桜桃は、張り詰めていた糸が切れたように、苦笑いをこらえきれなかった。花梨と椎香も顔を見合わせて笑い出す。
(……何、それ……)
不器用な「配慮」をする、冷徹な仮面を被った男。
令嬢たちの噂話の中の『怖い昊夜』が、柳の奇妙な弁護によって、少しだけ、本当に少しだけ、血の通った人間に思えてしまった。
「失礼します」
もう一度深く会釈して、今度こそ歩き出す。
「またね、六花! 次は昊夜様の青い着物の反応を聞かせてね!」
背後から椎香の明るい声が追いかけてきた。
桜桃は前を向いたまま、ひとりで少しだけ笑った。
あんなに恐ろしく、聞きたくないと思っていた名前だったのに。
遠くで言い合う三人の賑やかな声を聞きながら、宮廷にきてからずっと強張っていた心が、不思議と、ほんの少しだけ軽くなっていることに気づいたのだった。




