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狂桜華《きょうおうか》~亡国の姫は、名を捨て帝を目指す~  作者:
第一章 桜、散る夜に

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第十話 青か白か

 桜桃が中庭に出たのは、使いの帰り道だった。


 貴族が出入りできる庭は、侍女の動線と緩く繋がっている。抜け道として使う侍女もいると、鈴に教えてもらっていた。


 清明の、あの感情を削ぎ落としたような静かな声が、まだ耳の奥に残っている。

 彼と話していると、自分が一枚の薄い紙にされた上で、その価値をじっと品定めされているような、奇妙な心細さに囚われるのだった。


 ──それに。


(……昊夜、様)


 歩きながら、桜桃は胸の奥で、先ほど知ったばかりの事実を必死に打ち消そうとしていた。


 考えたくない。考えたところで、どうなるものでもない。あの平穏な日に約束された未来は、もうどこにもないのだから。


 小さく頭を振る。早く仕事に戻って、余計な思考をすべて塗り潰してしまいたかった。


 そのとき。


「ねえ、青と白、どっちがいいと思う?」


 軽い声が、静かな庭に響いた。

 桜桃ははっとして視線を向けた。石の縁に腰をかけている二人の娘がいる。宮廷の貴族らしい、整った身なりの令嬢たちだった。

 淡い杏色の小袖の娘が、もう一人の方を見て言う。


「椎香ちゃんは白が似合うと思うけど……」


「でも昊夜様には、白が不評って聞いたんだけど、ほんとかな」


(……!)


 その名が鼓膜を叩いた瞬間、桜桃は息が止まりそうになった。

 心臓が跳ね上がる。耳を塞ぎたくなるような衝動が駆け巡った。


「私も噂程度には……」


「ねえ、そこの侍女さん、ちょっといい?」


 急に声をかけられて、桜桃は跳び上がるほど驚いた。

 引き攣りそうになる表情を必死に抑え、足を止める。


「は、はい」


うたげで舞うときの衣装なんだけど、昊夜様って白が嫌いか知ってる? 宮廷で働いてるなら何か聞いてない?」


 まっすぐに向けられる無邪気な瞳。

 ただの恋話なのだと分かっている。けれど、今の桜桃にとって「昊夜」という名は、あまりにも生々しく、鋭い棘のようだった。

 喉の奥がからからに乾く。


「……申し訳ありません、私も、その……噂程度しか……」


 声がわずかに震えてしまったが、幸いにも令嬢たちは気づかなかった。


「そっかあ」


 椎香と呼ばれた娘がため息をつく。


「じゃあ青にしようかな。ね、花梨は?」


「私は椎香ちゃんは白が似合うと思うけど……でも昊夜様の反応は気になるわね」


 考えたくないのに、嫌でもその名が耳に滑り込んでくる。宮廷の誰もが、あの人を意識し、あの人の話をしている。

 逃げ場のない現実に、桜桃が眩暈めまいに似た動揺を覚えていると――。


「昊夜様が白を嫌いというのは誤情報です」


 少し離れた場所から、別の声が落ちてきた。


 三人が一斉に振り返る。


 壁際に、書類を抱えた若い男が立っていた。貴族らしい衣をまとっているが、その立ち方も表情も、どこか実直な雰囲気がある。飾り気のない真面目さ、とでも言えばいいか。


「正確には、白は汚れが目立つので実用的でないとおっしゃっているだけです」


「……いつからいたの」


 椎香の声が引きつる。


「最初からです」


「全部聞いてたってこと?!」


「聞こえていました」


「なんで黙ってたの」


「話しかける頃合いが分かりませんでした」


 花梨が小さく吹き出した。

 桜桃の張り詰めていた感情が少し和らいだ。


「……柳お兄様、その情報はどこから」


 花梨が笑いを含みながら問う。


「昊夜様に直接確認しました。正確な情報を持っておくべきと思いまして」


「直接」


「はい」


 花梨は呆気に取られたような顔で石の縁に戻る。


「お兄様ってほんとうに……」


「何か?」


「……何でもないです」


 椎香が桜桃の方を向いて、小声で言う。


「花梨のお兄様なの。似てないよね」


 桜桃は柳と花梨を見比べた。穏やかで柔らかい花梨と、真顔で的確なことだけを言うこの男が、きょうだいとは。確かに、まったく似ていない。


「……はい」


 正直に答えると、椎香がくすりと笑った。


 桜桃も、彼らの可笑しなやり取りに引きずられるようにして、ようやく冷え切っていた身体に血が巡るのを感じた。


「失礼します。仕事に戻りますので」


「あ、ちょっと」


 花梨が立ち上がる。


「昊夜様って、どんな方だと思う? あなたから見て」


 心臓が、また小さな悲鳴を上げた。


「……えと……まだお会いしたことないので……」


 下を向いたまま、消え入りそうな声で答える。


「そうなの」


 椎香が首を傾げる。


「気難しそうな方なのよね。でもあれで女性に人気があるのよ、なぜか」


「なぜかって……」


 花梨が少し困った顔をする。


「昊夜様は素敵な方よ」


「またそれ」


「事実でしょう。椎香ちゃんだってそう思うでしょ」


 花梨の声は穏やかだが、どこかはっきりしている。


「はいはい。花梨は昊夜様推しだもんね」


 椎香がにやりとする。


「そ、そういうわけじゃないけど……」


 花梨の頬がわずかに赤くなった。


「でも、昊夜様はいろいろと噂が多いから、気になるんでしょ」


「……椎香ちゃんは意地悪ね」


「正直なだけよ」


 二人の会話を、桜桃は息が詰まるような気持ちで聞いていた。


「ねえ、あなたはどう思う?」


 不意に、椎香が桜桃に顔を近づけてきた。いたずらっぽく細められた瞳が、桜桃を真っ直ぐに見つめている。


「えっ……」


「会ったことがなくても、噂くらいは耳にするでしょう? 冷徹無比な宮廷の剣とか、歩く氷山とか。やっぱり、近づきがたい男の人って怖くない?」


「それは……」


 冷徹無比な宮廷の剣。歩く氷山。


(……そんな風に、言われている方なのね)


「優しい方だといいな」と桜桃が夢見た婚約者候補の面影は、令嬢たちの話す「昊夜」にはどこにもなかった。

 やはり、あの人はもう、自分の知る世界の人間ではないのだ。新帝の息子。遠い、怖い存在。


「……少し、お噂は。でも、きっとそれだけ、お国のために真剣な方なのだろうなと……」


 無難に答えると、椎香が「うわあ、模範解答」と声を上げて笑った。


「真面目ねえ! でも、そういう堅物な男の人に、たまにふっと優しくされたりしたら、一気に転がされちゃいそうじゃない?」


「ちょっと、椎香ちゃん、侍女さんを困らせないの」


 花梨が苦笑しながら椎香の袖を引く。そして、桜桃に向かって柔らかく微笑みかけた。


「ごめんなさいね。この子、帝都の夜会に少し飽きていて、面白いお話に飢えているの。私は花梨。この子は椎香。あなたの名前は?」


「あ……私は、六花りっかと申します」


 偽名を名乗る瞬間、胸がちくりと痛んだが、花梨は嬉しそうに頷いた。


「六花ちゃんね。素敵な名前。ねえ、もしよかったら、今度お仕事の合間にでも一緒にお茶を――」


「昊夜様の御性格については、私の方が正確に把握しております」


 再び少し離れた場所から、柳の声が落ちた。

 全員が振り返る。至って真剣な顔をしている。


「昊夜様は感情表現が少ないだけで、決して冷酷なわけではありません。また、女性に対して特別な配慮をされる場面も確認しております」


「……どんな配慮よ、お兄様」


 花梨が半眼で尋ねると、柳は待ってましたとばかりに胸を張った。


「以前、廊下で転びかけた女官の腕を、驚異的な反射速度で掴んで支えておられました。その際、『邪魔だ』とおっしゃっていましたが、怪我をさせないための高度な配慮と言えます」


「それ、ただ邪魔だったから退けただけじゃないの……?」


 椎香の冷静な突っ込みに、柳は毅然と首を振る。


「いえ、掴む力の加減が絶妙でした。あれは確実に配慮です。ちなみに、そのあと昊夜様は私の書類の不備を見つけ、一言も発さずに机に叩きつけられました。あれも『早く直せ』という無言の――」


「もう、お兄様は黙ってて」


 花梨が静かに、しかしはっきりと言った。柳がぴたりと口を閉じた。

 その様子を見ていた桜桃は、張り詰めていた糸が切れたように、苦笑いをこらえきれなかった。花梨と椎香も顔を見合わせて笑い出す。


(……何、それ……)


 不器用な「配慮」をする、冷徹な仮面を被った男。

 令嬢たちの噂話の中の『怖い昊夜』が、柳の奇妙な弁護によって、少しだけ、本当に少しだけ、血の通った人間に思えてしまった。


「失礼します」


 もう一度深く会釈して、今度こそ歩き出す。


「またね、六花! 次は昊夜様の青い着物の反応を聞かせてね!」


 背後から椎香の明るい声が追いかけてきた。


 桜桃は前を向いたまま、ひとりで少しだけ笑った。


 あんなに恐ろしく、聞きたくないと思っていた名前だったのに。


 遠くで言い合う三人の賑やかな声を聞きながら、宮廷にきてからずっと強張っていた心が、不思議と、ほんの少しだけ軽くなっていることに気づいたのだった。



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