第十一話 元近衛中将、姫様観察日記を綴る
宴の端で、椎香は一人立っていた。
灯りが届きにくい場所を選んで、少しだけ人の流れから外れている。遠くから華やかな喧騒は聞こえるのに、ここだけが妙に静かだった。
「椎香」
後ろから声をかけてきたのは、昊夜の弟――疾風だった。
立派な狩衣を纏っているが、完全に服に着られている。衿の合わせが少し歪んでおり、長い袖をどう扱えばいいか分からず、手持ち無沙汰そうにもてあましていた。
「久しぶりだな」
「久しぶりね……皇子様になったんですってね。おめでとう」
「……こういう格好させられてるけど、まだ全然慣れなくて。……変かな」
「ええ、少し見ない間にずいぶん立派な格好になっちゃって。あと衿が曲がってる」
「えっ、嘘、どこ!? これ兄上の着こなしを真似してちょっと崩してるんだけど」
慌てて服を気にする疾風を見て、椎香は密かにため息をついた。
皇子という立場になっても、中身は相変わらず直情型で、兄である昊夜のことが大好きな少年のままだ。
「それで、椎香。……その、父上たちから、縁談の話は聞いてるか?」
「聞いてるわよ」
「どう思う。俺はお前なら昔からよく知ってるし、何より可愛いから、お嫁さんになってくれたら凄く嬉しいなと思ってるんだけど」
「……疾風。思っていることを全部口に出すのはやめなさい。あと私は政治の道具に使われるのは嫌よ」
「道具だなんて思ってない。俺はお前を妻として、兄上と義姉上のような……あ、いや、兄上はまだ独身だが、とにかくそんな素晴らしい夫婦になりたいと大真面目に――」
「疾風」
椎香は少しだけ声を落とした。
「あなたのこと、大切な友人だと思ってる。それは本当よ。でも、男の人としては見られないの。ごめんなさい」
「えー!!」
疾風の顔が、あからさまに絶望に強張った。衝撃のあまり、狩衣の袖をぎゅっと握り締めて震えている。本当に分かりやすい男だ。
「そんな……友人から始まる恋だってあるだろう!? 現に俺は、お前のちょっと気が強いところも結構好みで……」
「未練がましい男は兄上に嫌われるわよ」
「うっ、兄上の名前を出されると弱い……!」
ふと、顔をあげると、見知った男が視界に入った。
「深黎殿!」
呼び止められた男が、気だるげに足を止める。
長い黒髪を首の後ろの低い位置でひとつに結び、およそ朝廷の文官には似つかわしくない、どこか異国めいた衣を大着に纏っている。
首元には細い紐に小さな玉を連ねた飾りが掛かり、身じろぎするたび、玉同士がかすかに擦れ合った。
疾風は救いを見つけたように彼へ駆け寄った。
「俺、失恋しそうなんですけど」
「見れば分かります」
「まだしてない! しそうなだけだ!」
「では、もう少し頑張ってください」
「そこは相談に乗ってくれないのか!?」
椎香は二人のやり取りをほとんど聞いていない様子だった。視線がふと疾風の後ろに流れた。
少し離れた灯りの端に、一人の青年がぽつんと立っていた。誰とも言葉を交わさず、赤褐色の髪を揺らして、この場に全く馴染もうとせず静かに佇んでおり、妙に目を引いた。
(……ちょうどいいわ)
椎香は迷いなく歩み寄り、その見知らぬ男の腕をぐっと掴んだ。
「私、この人と将来を誓い合った仲なの。だから諦めて、疾風」
掴まれた青年――朝凪が、あからさまに硬直した。一瞬、その目が「……は?」と拒絶の形に丸くなる。
一方で、疾風は目を剥いて朝凪を指差した。
「えー!! なんだその男は! 髪が短いぞ! 兄上のような美しい長髪ではないではないか!……ん?」
ふと言葉を止めて、疾風がまじまじと朝凪の顔を見る。
「お前……どこかで………」
「失礼ね」
椎香は疾風の言葉を遮った。
「彼はこういうところが素敵なのよ」
「くそっ、覚えていろよ! 俺は絶対に諦めないからな! 兄上に『失恋した時の立ち直り方』を聞いてくる」
「それ、たぶん今一番聞いちゃいけない相手よ」
疾風は踵を返した。狩衣の裾をはためかせながら、人混みの中へ消えていった。
「……悪い子ではないんだけどね」
椎香はほっと息を吐いて、朝凪の腕をぱっと離した。
「助かったわ、ありがとう!」
朝凪は、完全に巻き込まれ事故に遭ったような不快感を顔に滲ませていた。
「……何だったんですか、今のは」
「見ての通り、言い訳役。あの子、素直すぎて話が長くなりそうだったから。本当に助かったわ」
「私はただ、黙って立っていただけですが」
「ふふ、黙って立っててくれたのが、私の無口な恋人っぽくて十分だったわよ」
朝凪が「とんだとばっちりだ」とでも言いたげに、呆れた溜め息をついた。
椎香はその表情を見て、なんだかおかしくなって笑ってしまった。
その様子を黙って見ていた深黎は朝凪に視線を向ける。
「……近衛中将?」
ほんの一瞬だけ、二人の視線がぶつかる。
「人違いです」
「……」
深黎は朝凪の顔をしばらく眺め、それから口元を緩めた。
「へえ」
朝凪はそれ以上何も言わず、踵を返した。
椎香は、その場を離れていく彼の背中を、なぜか一度だけ目で追ってしまった。人混みの中にいるのに、どこか一人きりでいるような、不思議に静かな立ち方をする人だった。
まさかその男が、主を探して宮廷に紛れ込んでいた不審者だとは、この時の椎香は知る由もなかった。
***
宴の翌日、桜桃は朝から落ち着かなかった。
仕事の合間にも、昨夜見た掛け軸のことが頭を離れない。
星河帝の私室に残されていた、自分の肖像画。
成人を前に父が描かせたもので、顔立ちも髪も、今の桜桃とほとんど変わらない。
あの絵を誰かに見られ、侍女の六花と似ているなどと言われたら、どうなるか分からなかった。
(何とかしないと……!)
しかし、八重御所の奥にある先帝の私室へ、一介の侍女が勝手に立ち入ることなどできない。
まして、掛け軸を持ち出すとなれば、見つかったときに言い逃れはできないだろう。
桜桃は考えあぐねた末、ふと、ある場所を思い出した。
(……隠し通路からなら)
あの夜、朝凪に押し込まれて逃げた、紫宸殿の裏へ続く通路。
そこからなら、人目につかずに八重御所の奥へ入れるかもしれない。
桜桃は次の休みを待って、確かめに行くことにした。
休みの日、桜桃は小さな灯火を用意し、ひとりで隠し通路へ向かった。
人通りの少ない場所を選び、周囲に誰もいないことを確かめてから、入口を開く。
冷たく湿った空気が、暗がりの奥から流れ出してきた。
桜桃は灯火を掲げ、慎重に足を踏み入れた。
狭い通路には、かすかな土の匂いがこもっている。壁はひんやりとして、灯りの届かない先は闇に沈んでいた。
あの夜も、ここを一人きりで通ったことを思い出し、息苦しくなる。
通路を進むうちに、桜桃は足元に黒ずんだ染みがあることに気づいた。
「……何?」
灯火を近づける。
石畳に残されていたのは、乾いた血の跡だった。
桜桃は息を呑んだ。
その先にも、点々と血が落ちている。
誰かが怪我をしたまま、この通路を通ったのだろうか。
桜桃は震える手で灯火を掲げ、慎重に歩き出した。
奥へ進むにつれ、血の跡は次第に濃くなっていった。
そして、通路の突き当たり。
「……っ!」
桜桃は思わず足を止めた。
扉の前の石畳に、おびただしい量の血が残されていた。
黒く乾いた血は石の継ぎ目にまで入り込み、壁際にも飛び散っている。
(……誰の血?)
胸の奥が、ぎゅっと締めつけられた。
あの夜、自分を逃がすために傷を負いながら戦っていた朝凪の姿が浮かぶ。
(もしかして……朝凪……?)
桜桃はゆっくりと扉へ近づいた。
(朝凪も、ここを通ったの……?)
もし、そうなら、これほどの血を流して、あの人はどうなったのだろう。
桜桃は扉に手を掛けて押してみる。
しかし、今度は両手で力を込めたが、扉はびくともしなかった。
「……やっぱり」
鍵が掛かっている。
あの夜と同じだった。
桜桃はしばらく扉の前に立ち尽くしていた。
この向こうへ行けさえすれば、父の部屋へ近づく方法を探せるかもしれない。
けれど、鍵を開ける術はなく、無理に壊せば誰かに気づかれるだろう。
何より、ここまで来る間に見た血の跡が、頭から離れなかった。
桜桃はゆっくりと扉から手を離した。
「……今日は、戻ろう」
自分に言い聞かせるように呟き、来た道を引き返す。
灯りを掲げるたび、石畳に残された黒い染みが浮かび上がった。
朝凪がここを通ったのかどうかも、あの血が誰のものなのかも、分からない。だが、あの夜の出来事が、まだこの場所に残っていた。
ようやく外へ出ると、桜桃は入口を閉ざし、しばらくその場にしゃがみ込んだ。
明るい日の光が差しているのに、指先の震えはなかなか収まらなかった。
肖像画は、まだ父の部屋にある。
どうにかしなければならない。
けれど、今はもう一度あの通路へ入る勇気が出なかった。
***
宴から数日後の早朝。華やかな宴の余韻がまだ残る宮廷に、朝凪は門兵として立っていた。
正確には、正規の手続きを踏んで採用されたわけではない。謀反の直後による大混乱で致命的に人手が足りず、書類の審査や身元確認が恐ろしく緩くなっているのを知り、静かに、誰にも気づかれずに紛れ込んだ。
元・近衛の職にあった身からすれば、呆れるほど容易な潜入だった。
(いくら混乱の極みとはいえ、こんなにあっさり紛れ込めるとは、今の近衛の警備体制はどうなっているんだ)
内心でそんな毒づきが浮かぶが、そのザルな体制に救われたのも事実だった。
我ながら、他人に説明のしにくい経緯だし、するつもりもない。
(だが、ここにいる理由は一つしかない)
──姫様が生きている。
先日の舞の場で、この目で確かめた。確かに、桜桃だった。
それだけで十分なはずだった。それだけで、満足して立ち去るべきだったはずなのに。
《姫様観察日記》
その日の午後。
姫様が侍女の列に混じって、東の回廊を通っておられた。歩き方はだいぶ板についている。足首をかばっている様子はない。少しは自分の身体を労っていただきたいものだ。ともあれ、まずは一安心。
二日目の朝。
宴の後片付けに回っている。花飾りを両手で抱えて、小走りで足早に動いておられる。顔色は悪くない。……しかし、わざわざ自らそのような雑務に混ざる必要があるのか。いや、そうやって侍女に溶け込もうとする健気なところも、姫様の眩しい魅力なのだが……。見ているこっちの胃が痛い。
三日目の夕刻。
時雨という名の侍女とよく行動を共にしている。気が利き、姫様の手を取って楽しそうに笑い合っている。遠巻きに観察する限り悪人ではなさそうだし、話し相手がいるのは良いことだ。良いことなのだが。あの笑顔が自分以外の人に向けられていると思うと……ふと、遠くでこちらを振り返る時雨と目が合った気がして、慌てて柱の陰に身を引っ込めた。
朝凪は門兵として直立不動の姿勢を保ちながら、そういった桜桃の情報を、静かに、確実に積み重ねていた。
(……これは何をしているんだろう)
そう思わないでもない。
傷が完全に癒えきっていない体を引きずり、身元不明の怪しい門兵として、ただ一人の侍女の動向を遠くから一日中記録している。
(だが、近づくつもりはない)
今のあの人の平穏を、壊すわけにはいかない。
だから朝凪はこの門に立つ。
宮廷の人間が必ず通る場所。そのすべての動線が見渡せる、最も都合の良い位置。
それ以上近づかないために。あえて、一番よく見える位置に陣取るのだ。
朝凪にとって、それは寸分の矛盾もない、極めて合理的で当然の行動だった。
そのとき、視界の端に人影が揺れた。侍女の列。荷を運ぶ者たち。その中に、ひとり。
確かに、あの小柄な姿があった。
声は交わさない。視線すら合わせない。ただの門兵と、ただの侍女として、静かにすれ違うだけ。
距離は手を伸ばせば、その細い手首を掴めるほどに近かった。
それでも朝凪は眉一つ動かさず、ただ前を見据えたまま、その気配を見送った。すれ違うだけでいい。これで十分だ。そう、最初から決めている。
侍女の列が過ぎていく。やがて、気配は遠のく。
朝凪は一度だけ目を伏せた。そして、死角の多い門の影へと歩みを移す。
(ここなら、あそこから出てくる姫様を確実に見失わずに済む)
ただ、壊さないために。
その目的のためだけに、誰よりも鋭い気配を隠し持ったまま、彼は今日も無害な門兵として門の前に立つ。




