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狂桜華《きょうおうか》~亡国の姫は、名を捨て帝を目指す~  作者: 澪
第一章 桜、散る夜に【帝都崩落編】

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第十一話 元近衛中将、姫様観察日記を綴る

 宴の端で、椎香は一人立っていた。

 灯りが届きにくい場所を選んで、少しだけ人の流れから外れている。遠くから華やかな喧騒は聞こえるのに、ここだけが妙に静かだった。


「椎香」


 後ろから声をかけてきたのは、昊夜の弟――疾風《はやて》だった。


 立派な狩衣を纏っているが、完全に服に着られている。衿の合わせが少し歪んでおり、長い袖をどう扱えばいいか分からず、手持ち無沙汰そうにもてあましていた。


「久しぶりだな」


「久しぶりね……皇子様になったんですってね。おめでとう」


「……こういう格好させられてるけど、まだ全然慣れなくて。……変かな」


「ええ、少し見ない間にずいぶん立派な格好になっちゃって。あと衿が曲がってる」


「えっ、嘘、どこ!? これ兄上の着こなしを真似してちょっと崩してるんだけど」


 慌てて服を気にする疾風を見て、椎香は密かにため息をついた。


 皇子という立場になっても、中身は相変わらず直情型で、兄である昊夜のことが大好きな少年のままだ。


「それで、椎香。……その、父上たちから、縁談の話は聞いてるか?」


「聞いてるわよ」


「どう思う。俺はお前なら昔からよく知ってるし、何より可愛いから、お嫁さんになってくれたら凄く嬉しいなと思ってるんだけど」


「……疾風。思っていることを全部口に出すのはやめなさい。あと私は政治の道具に使われるのは嫌よ」


「道具だなんて思ってない。俺はお前を妻として、兄上と義姉上のような……あ、いや、兄上はまだ独身だが、とにかくそんな素晴らしい夫婦になりたいと大真面目に――」


「疾風」


 椎香は少しだけ声を落とした。


「あなたのこと、大切な友人だと思ってる。それは本当よ。でも、男の人としては見られないの。ごめんなさい」


「えー!!」


 疾風の顔が、あからさまに絶望に強張った。衝撃のあまり、狩衣の袖をぎゅっと握り締めて震えている。本当に分かりやすい男だ。


「そんな……友人から始まる恋だってあるだろう!? 現に俺は、お前のちょっと気が強いところも結構好みで……」


「未練がましい男は兄上に嫌われるわよ」


「うっ、兄上の名前を出されると弱い……!」


 ふと、顔をあげると、見知った男が視界に入った。


「深黎殿!」


 呼び止められた男が、気だるげに足を止める。


 長い黒髪を首の後ろの低い位置でひとつに結び、およそ朝廷の文官には似つかわしくない、どこか異国めいた衣を大着に纏っている。


 首元には細い紐に小さな玉を連ねた飾りが掛かり、身じろぎするたび、玉同士がかすかに擦れ合った。


 疾風は救いを見つけたように彼へ駆け寄った。


「俺、失恋しそうなんですけど」


「見れば分かります」


「まだしてない! しそうなだけだ!」


「では、もう少し頑張ってください」


「そこは相談に乗ってくれないのか!?」


 椎香は二人のやり取りをほとんど聞いていない様子だった。視線がふと疾風の後ろに流れた。


 少し離れた灯りの端に、一人の青年がぽつんと立っていた。誰とも言葉を交わさず、赤褐色の髪を揺らして、この場に全く馴染もうとせず静かに佇んでおり、妙に目を引いた。


(……ちょうどいいわ)


 椎香は迷いなく歩み寄り、その見知らぬ男の腕をぐっと掴んだ。


「私、この人と将来を誓い合った仲なの。だから諦めて、疾風」


 掴まれた青年――朝凪が、あからさまに硬直した。一瞬、その目が「……は?」と拒絶の形に丸くなる。


 一方で、疾風は目を剥いて朝凪を指差した。


「えー!! なんだその男は! 髪が短いぞ! 兄上のような美しい長髪ではないではないか!……ん?」


 ふと言葉を止めて、疾風がまじまじと朝凪の顔を見る。


「お前……どこかで………」


「失礼ね」


 椎香は疾風の言葉を遮った。


「彼はこういうところが素敵なのよ」


「くそっ、覚えていろよ!  俺は絶対に諦めないからな!  兄上に『失恋した時の立ち直り方』を聞いてくる」


「それ、たぶん今一番聞いちゃいけない相手よ」


 疾風は踵を返した。狩衣の裾をはためかせながら、人混みの中へ消えていった。


「……悪い子ではないんだけどね」


 椎香はほっと息を吐いて、朝凪の腕をぱっと離した。


「助かったわ、ありがとう!」


 朝凪は、完全に巻き込まれ事故に遭ったような不快感を顔に滲ませていた。


「……何だったんですか、今のは」


「見ての通り、言い訳役。あの子、素直すぎて話が長くなりそうだったから。本当に助かったわ」


「私はただ、黙って立っていただけですが」


「ふふ、黙って立っててくれたのが、私の無口な恋人っぽくて十分だったわよ」


 朝凪が「とんだとばっちりだ」とでも言いたげに、呆れた溜め息をついた。

 椎香はその表情を見て、なんだかおかしくなって笑ってしまった。


 その様子を黙って見ていた深黎は朝凪に視線を向ける。


「……近衛中将?」


 ほんの一瞬だけ、二人の視線がぶつかる。


「人違いです」


「……」


 深黎は朝凪の顔をしばらく眺め、それから口元を緩めた。


「へえ」


 朝凪はそれ以上何も言わず、踵を返した。


 椎香は、その場を離れていく彼の背中を、なぜか一度だけ目で追ってしまった。人混みの中にいるのに、どこか一人きりでいるような、不思議に静かな立ち方をする人だった。


 まさかその男が、主《あるじ》を探して宮廷に紛れ込んでいた不審者だとは、この時の椎香は知る由もなかった。


 ***


 宴の翌日、桜桃は朝から落ち着かなかった。


 仕事の合間にも、昨夜見た掛け軸のことが頭を離れない。


 星河帝の私室に残されていた、自分の肖像画。


 成人を前に父が描かせたもので、顔立ちも髪も、今の桜桃とほとんど変わらない。


 あの絵を誰かに見られ、侍女の六花と似ているなどと言われたら、どうなるか分からなかった。


(何とかしないと……!)


 しかし、八重御所の奥にある先帝の私室へ、一介の侍女が勝手に立ち入ることなどできない。


 まして、掛け軸を持ち出すとなれば、見つかったときに言い逃れはできないだろう。


 桜桃は考えあぐねた末、ふと、ある場所を思い出した。


(……隠し通路からなら)


 あの夜、朝凪に押し込まれて逃げた、紫宸殿の裏へ続く通路。


 そこからなら、人目につかずに八重御所の奥へ入れるかもしれない。


 桜桃は次の休みを待って、確かめに行くことにした。


 休みの日、桜桃は小さな灯火を用意し、ひとりで隠し通路へ向かった。


 人通りの少ない場所を選び、周囲に誰もいないことを確かめてから、入口を開く。


 冷たく湿った空気が、暗がりの奥から流れ出してきた。


 桜桃は灯火を掲げ、慎重に足を踏み入れた。


 狭い通路には、かすかな土の匂いがこもっている。壁はひんやりとして、灯りの届かない先は闇に沈んでいた。


 あの夜も、ここを一人きりで通ったことを思い出し、息苦しくなる。


 通路を進むうちに、桜桃は足元に黒ずんだ染みがあることに気づいた。


「……何?」


 灯火を近づける。


 石畳に残されていたのは、乾いた血の跡だった。


 桜桃は息を呑んだ。


 その先にも、点々と血が落ちている。


 誰かが怪我をしたまま、この通路を通ったのだろうか。


 桜桃は震える手で灯火を掲げ、慎重に歩き出した。


 奥へ進むにつれ、血の跡は次第に濃くなっていった。


 そして、通路の突き当たり。


「……っ!」


 桜桃は思わず足を止めた。


 扉の前の石畳に、おびただしい量の血が残されていた。


 黒く乾いた血は石の継ぎ目にまで入り込み、壁際にも飛び散っている。


(……誰の血?)


 胸の奥が、ぎゅっと締めつけられた。


 あの夜、自分を逃がすために傷を負いながら戦っていた朝凪の姿が浮かぶ。


(もしかして……朝凪……?)


 桜桃はゆっくりと扉へ近づいた。


(朝凪も、ここを通ったの……?)


 もし、そうなら、これほどの血を流して、あの人はどうなったのだろう。


 桜桃は扉に手を掛けて押してみる。


 しかし、今度は両手で力を込めたが、扉はびくともしなかった。


「……やっぱり」


 鍵が掛かっている。


 あの夜と同じだった。


 桜桃はしばらく扉の前に立ち尽くしていた。


 この向こうへ行けさえすれば、父の部屋へ近づく方法を探せるかもしれない。


 けれど、鍵を開ける術はなく、無理に壊せば誰かに気づかれるだろう。


 何より、ここまで来る間に見た血の跡が、頭から離れなかった。


 桜桃はゆっくりと扉から手を離した。


「……今日は、戻ろう」


 自分に言い聞かせるように呟き、来た道を引き返す。


 灯りを掲げるたび、石畳に残された黒い染みが浮かび上がった。


 朝凪がここを通ったのかどうかも、あの血が誰のものなのかも、分からない。だが、あの夜の出来事が、まだこの場所に残っていた。


 ようやく外へ出ると、桜桃は入口を閉ざし、しばらくその場にしゃがみ込んだ。


 明るい日の光が差しているのに、指先の震えはなかなか収まらなかった。


 肖像画は、まだ父の部屋にある。


 どうにかしなければならない。


 けれど、今はもう一度あの通路へ入る勇気が出なかった。


***


 宴から数日後の早朝。華やかな宴の余韻がまだ残る宮廷に、朝凪は門兵として立っていた。


 正確には、正規の手続きを踏んで採用されたわけではない。謀反の直後による大混乱で致命的に人手が足りず、書類の審査や身元確認が恐ろしく緩くなっているのを知り、静かに、誰にも気づかれずに紛れ込んだ。


 元・近衛の職にあった身からすれば、呆れるほど容易な潜入だった。


(いくら混乱の極みとはいえ、こんなにあっさり紛れ込めるとは、今の近衛の警備体制はどうなっているんだ)


 内心でそんな毒づきが浮かぶが、そのザルな体制に救われたのも事実だった。


 我ながら、他人に説明のしにくい経緯だし、するつもりもない。


(だが、ここにいる理由は一つしかない)


 ──姫様が生きている。


 先日の舞の場で、この目で確かめた。確かに、桜桃だった。

 それだけで十分なはずだった。それだけで、満足して立ち去るべきだったはずなのに。



《姫様観察日記》


 その日の午後。

 姫様が侍女の列に混じって、東の回廊を通っておられた。歩き方はだいぶ板についている。足首をかばっている様子はない。少しは自分の身体を労っていただきたいものだ。ともあれ、まずは一安心。


 二日目の朝。

 宴の後片付けに回っている。花飾りを両手で抱えて、小走りで足早に動いておられる。顔色は悪くない。……しかし、わざわざ自らそのような雑務に混ざる必要があるのか。いや、そうやって侍女に溶け込もうとする健気なところも、姫様の眩しい魅力なのだが……。見ているこっちの胃が痛い。


 三日目の夕刻。

 時雨という名の侍女とよく行動を共にしている。気が利き、姫様の手を取って楽しそうに笑い合っている。遠巻きに観察する限り悪人ではなさそうだし、話し相手がいるのは良いことだ。良いことなのだが。あの笑顔が自分以外の人に向けられていると思うと……ふと、遠くでこちらを振り返る時雨と目が合った気がして、慌てて柱の陰に身を引っ込めた。



 朝凪は門兵として直立不動の姿勢を保ちながら、そういった桜桃の情報を、静かに、確実に積み重ねていた。


(……これは何をしているんだろう)


 そう思わないでもない。


 傷が完全に癒えきっていない体を引きずり、身元不明の怪しい門兵として、ただ一人の侍女の動向を遠くから一日中記録している。


(だが、近づくつもりはない)


 今のあの人の平穏を、壊すわけにはいかない。


 だから朝凪はこの門に立つ。

 宮廷の人間が必ず通る場所。そのすべての動線が見渡せる、最も都合の良い位置。


 それ以上近づかないために。あえて、一番よく見える位置に陣取るのだ。


 朝凪にとって、それは寸分の矛盾もない、極めて合理的で当然の行動だった。


 そのとき、視界の端に人影が揺れた。侍女の列。荷を運ぶ者たち。その中に、ひとり。


 確かに、あの小柄な姿があった。

 声は交わさない。視線すら合わせない。ただの門兵と、ただの侍女として、静かにすれ違うだけ。


 距離は手を伸ばせば、その細い手首を掴めるほどに近かった。


 それでも朝凪は眉一つ動かさず、ただ前を見据えたまま、その気配を見送った。すれ違うだけでいい。これで十分だ。そう、最初から決めている。

 

 侍女の列が過ぎていく。やがて、気配は遠のく。


 朝凪は一度だけ目を伏せた。そして、死角の多い門の影へと歩みを移す。


(ここなら、あそこから出てくる姫様を確実に見失わずに済む)


 ただ、壊さないために。


 その目的のためだけに、誰よりも鋭い気配を隠し持ったまま、彼は今日も無害な門兵として門の前に立つ。


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