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狂桜華《きょうおうか》~亡国の姫は、名を捨て帝を目指す~  作者: 澪
第一章 桜、散る夜に【帝都崩落編】

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第十二話 皇子、お手付きを探す

 昼過ぎの廊下は、人の往来が絶えなかった。

 書類を抱えた文官、荷を運ぶ侍女、指示を飛ばしながら歩く女官。誰もが急かされるように動いている。その流れに混じりながら、桜桃は次の仕事へ向かっていた。


「六花、ちょっと」


 桜桃は、背後から呼び止められて足を止めた。


 振り返れば、年嵩の侍女がこちらへ小走りに近づいてくる。何か仕事を頼まれるのだろうと思い、桜桃は素直に向き直った。


「はい。何でしょう」


「昊夜様がお呼びよ」


「え!?」


 思わず大きな声が出た。


 近くを歩いていた侍女が何事かと振り返る。


 桜桃は慌てて口元を押さえ、声を潜めた。


「わ、私を、ですか?」


「そう。宴のときに、舞台から落ちた侍女を探しているんですって。六花でしょう?」


「それは……そうですけど……」


 嫌な予感がした。


「……どちらへ伺えばよいのでしょう」


「菖蒲殿よ」


「菖蒲殿……」


 先日侍女部屋で聞いた話が蘇った。


『お手付きになる子を探してるんじゃないかって』


(…………)


 まさか。いや、そんなはずはない。


 桜桃は何とも言えない気持ちのまま、回廊を歩き始めた。


 帝の住まう八重御所から少し離れた場所に、皇族たちのための御殿が立ち並ぶ皇居がある。


 皇居の門をくぐり、回廊を曲がったところで、桜桃はふと足を止めた。


 木々の向こうに、桜の意匠が飾られた御殿が見える。


「……桜花殿」


 声に出してしまってから、慌てて口を閉じた。


 成人の儀を終えれば、桜桃が八重御所から移るはずだった御殿。


 庭には桜が植えられ、部屋も調度も、いつか桜桃が暮らす日のために少しずつ整えられていた。


 結局、一度も住むことはなかった。


 今はどうなっているのだろう。


 誰かが使っているのか。それとも、主を失ったまま残されているのか。


 桜桃はしばらく見つめていたが、やがて小さく息を吐き、再び歩き出した。


 その桜花殿の脇を抜け、渡殿を一つ越える。


 案内された先を見たところで、桜桃はまた足を止めた。


「……え」


 菖蒲を象った飾りが見える。菖蒲殿だった。


 桜桃は来た道を振り返る。


 木々の隙間から、先ほどの桜花殿の屋根がまだ見えていた。


(……近い)


 思っていたより、ずっと近い。


(こんなに近かったの……?)


 もし、あの夜に何も起きなかったなら。


 あの夜に顔を合わせ、成人の儀を終えて桜花殿へ移り、そのまま婚約が決まっていたなら。


 自分は、この道を何度も歩いていたのだろうか。


(お互いの御殿を行き来していたのかしら……)


 そこまで考えて、別のことまで思い出した。


『侍女を一人ずつ、お部屋に呼んでいるんだって』


(……今は侍女を呼んでいるみたいだけど)


 なぜか少し腹が立った。桜桃は唇を引き結ぶ。


(関係ないわ)


 昊夜が誰を菖蒲殿へ呼ぼうと、自分には何の関係もない。


 ないはずなのに、今まさに自分まで呼ばれているのだから、どうにも落ち着かなかった。


 そうこうしているうちに、とうとう菖蒲殿の前まで来てしまった。


 菖蒲殿は、桜花殿よりも落ち着いた造りの御殿だった。華美な装飾はほとんどなく、庭も端正に整えられている。


 桜桃は御殿を見上げる。


 胸の鼓動が、やけに大きい。


 かつて、会ってみたいと思っていた人。あの夜、会えるのだと、ほんの少し楽しみにしていた人。


 その人の御殿へ今、皇女ではなく侍女として呼ばれている。


「……何なのよ、もう」


 誰にも聞こえないほど小さく呟いて、桜桃は胸元を押さえた。


 

 御殿の門をくぐり、回廊を進む。襖の前で一度深く息を整え、桜桃はそっと中へ入った。


 灯りは落とされ、室内は薄暗かった。


(……散らかってる)


 思わず、そう感じる。机の上も、床も、文書が広がっている。整理されているようで、されていない。意図があるようで、ないような配置。


 その中央に、ひとり。昊夜がいた。


 昊夜は座ったまま眠っていた。文机に頬杖を付いて、目を閉じている。衣は乱れていないが、そのまま意識を手放したのだと分かる。


 墨色の長い髪が、肩から胸元へと流れている。整った顔立ちが、眠っているせいか宴のときより少しだけ穏やかに見えた。


 ――あのときは、こんな顔をしていなかった。


 宴の場で見た昊夜は、どこか研ぎ澄まされていた。人の視線を受け流しながら、何かを静かに測っているような目をしていた。それが今は、すべて抜けている。眉の力が、口元の緊張が、何もかも消えている。


 ただ、眠っている。それだけなのに、桜桃はなぜかその顔から目が離せなかった。

 見てはいけない気がした。それでも、足が動かなかった。


 微かな香が、鼻先に触れた。強いわけではない。ただ、薄く、静かに滲むような香り。白檀だ。


(……この香り)


 胸がざわめく。

 この香りを嗅ぐと、どこか懐かしい別の記憶がよぎる。


 幼い頃、まだ何も知らなかった頃、小さな手の中に、いつもあった香袋。

 いつから持っていたのか、もう覚えていない。ただ当たり前のようにそこにあって、当たり前のように手に馴染んでいた。


 その香りと、今ここに満ちている香りが――重なる。


(この方が気になるのは……この香りのせいかもしれない)


 桜桃はそれを、すぐに胸の奥にしまった。


 起こすべきか、そのままにするべきか。迷い、やがて静かに動き出す。せめて足の踏み場くらいは整えよう。


 桜桃は極力、眠っている昊夜を見ないようにしながらしゃがみ込み、床の文書を手に取った。難解な軍議の書類だが、流れは読める。手が自然と動き、いくつかの束を作っていく。


 そのとき、一枚の古びた紙が、書類の間から滑り落ちた。


 他のものとは明らかに違った。軍議の記録でも、報告書でもない。丁寧に折り畳まれ、長くしまわれていたらしく、紙の端だけが色を変えている。


 桜桃は何気なく拾い上げ――その文字を見た瞬間、息を止めた。


〈昊夜様へ〉


「……え」


 見間違えるはずがなかった。


 自分の字だった。



 あれは、十二歳になって少し経った頃。


『ねえ、朝凪。昊夜様って、どんな方?』


『人の評判というものは、聞く相手によって変わるものです。私の言葉だけで判断なさるべきではありません』


『なら、お文を出してみる』


 その場で書いた文を差し出すと、朝凪はひどく複雑そうな顔をしていた。


〈昊夜様へ

 父上から、いつかお会いするかもしれない方だと伺いました。

 お会いするまで何も知らないのも寂しいので、一つだけ教えてください。

 好きなお花は何ですか。

               桜桃〉

『……』


『朝凪、届けて』


『……私が、ですか』


『だって朝凪なら、昊夜様のお顔を知っているでしょう?』


『……知ってますが』


『なら、お願い』


 にこりと笑ってもう一度差し出すと、朝凪は文と桜桃の顔をしばらく見比べた。


『……姫様は、私を何だと思っておられるのですか』


『頼りになる人』


 即答すると、朝凪は何とも言えない顔をした。


『そう言われますと、お断りしづらくなりますね』


『ありがとう、朝凪!』


『まだお引き受けするとは――』


『六花、朝凪が届けてくれるって!』


 結局、朝凪は届けた。


 数日後、朝凪は本当に返事を持ってきた。


 ただし、その顔は、届けたときよりさらに微妙だった。


『昊夜からです』


『本当!?』


 桜桃が嬉々として受け取る。


 朝凪が差し出した文には、一輪の菖蒲が添えられていた。


『わあ……!』


 桜桃は文より先に、花へ手を伸ばした。


『見て、六花。お花までくださったわ!』


『まあ、綺麗ですね』


『昊夜様が選んでくださったのかしら』


『そうかもしれませんね』


 六花が微笑む。その隣で、朝凪が静かに口を開いた。


『文に季節の花を添えるのは、礼儀ですので』


『…………』


 桜桃の笑顔が止まった。


『……礼儀なの?』


『はい。皇女殿下への返書ですから』


『…………』


『朝凪』


 六花が咎めるように名前を呼んだ。


 

 桜桃は、色あせた文を持つ手に力を込めた。


(……まだ、持っていたの?)


 それも、こんなところに。


 桜桃は眠っている昊夜に視線を移した。


 かすかに、昊夜の息が乱れ、端正な眉が、苦しげに深く寄せられていた。


 眠ったまま、彼の白い指先が何かを必死に拒むように、激しく空を掻く。


「……っ、……は、……な……」


 言葉にならない掠れた息が、喉の奥で途切れた。


 それはひどく孤独で、何かに怯えるような悲痛な響きだった。


(え……?)


 冷徹無比な宮廷の剣。朝凪の地位を奪い、何不自由なくこの国を支配しているはずの男。


 そんな彼が、今、夢の中でたったひとり、恐ろしい暗闇に取り残されたように震えている。


 ――近づくべきではない。侍女の自分に関係のないことだ。


 頭では分かっているのに、彼の纏う孤独の気配から、どうしても目が離せなかった。


 あんなに「避けたい」と願っていたはずなのに、目の前で今にも壊れそうに息を詰まらせている彼を、どうしても放っておけない。


 気がつけば一歩を踏み出し、彼の傍らに膝をついていた。


「……昊夜様?」


 そっと声をかけるが、届かない。冷たい汗が、彼の額を伝って落ちる。昊夜の薄い唇が、微かに開いた。


「……ゆす……」


 聞き取り切れないほどの、微かな、掠れた呟き。

 けれど、至近距離にいた桜桃の耳には、その響きが、あまりにも鮮明に届いてしまった。


「……桜、桃……」


(っ!?)


 桜桃の指先が、ぴたりと止まった。

 なぜ。どうしてこの人が、今、その名前を呼ぶのか。


 それは新体制となったこの宮廷において、決して口にしてはならない、歴史の闇に葬られたはずの自分の本名。


 驚きと動揺で何も考えられなくなる。


 しかし、そんな桜桃の困惑を置き去りにするように、昊夜の呼吸はさらに激しく乱れ、何かを求めるように泳ぐ。まるで、今まさに目の前で誰かが殺されるのを、必死に止めようと手を伸ばしているかのように。


(あ……)


 考えるより先に、手が動いていた。

 桜桃は、迷いから覚めたように手を伸ばし、彼の動く指先にそっと触れた。


 ひやり、とした。

 驚くほど冷たい指先だった。


「大丈夫ですよ……」


 少しでもその悪夢から救い出せるようにと、桜桃は無意識に、その冷え切った大きな手を両手でそっと包み込んだ。


 その瞬間だった。


「っ……!」


 弾かれたように、昊夜の目が見開かれた。


 ぼんやりとした覚醒ではない。はっきりと、凄まじいまでの鋭い眼光が、至近距離にいる桜桃を捉える。


「あ、申し訳ございま――」


 昊夜の右手が咄嗟にそばに置いてあった刀に伸びる。


 桜桃は驚いて手を引こうとしたが、それよりも早い速度で、昊夜の左手が桜桃の手首を、ぐい、と 掴んだ。


「きゃっ!?」


 短い悲鳴を上げる間もなく、強い力で引き寄せられる。体勢を崩した桜桃の身体は、座ったままの昊夜の胸元へと倒れ込む形になり、喉元に刃を突き立てられた。

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