第十二話 宴の舞
挿絵あり
灯りが増えていく。音が重なっていく。
笛の音が先に立ち、やがて弦がそれに重なる。灯りの中、舞姫たちが一歩前へ出た。衣が揺れる。袖が翻る。ひとつの流れとなって、庭の中央へと広がっていく。
どの娘も、美しかった。鍛えられた動き。整えられた所作。それぞれが、与えられた役目をきちんと果たしている。
だがその中で。
一人だけ、違う色を帯びた存在があった。
わずかに伏せられた瞳。流れる動きの中に、ほんの少しだけ滲む影。
憂い、と呼ぶには淡い。けれど確かに、そこにあるもの。そして何より滲み出る気品。
その少女に、自然と視線が集まっていく。
桜桃は、何も考えずに舞っていた。身体が覚えている通りに。教えられた通りに。流れに乗せていく。
けれど。
ふと、胸の奥に引っかかるものがある。
(違う)
形は、なぞれている。でも、それだけだ。
(六花は、もっと――)
思いかけて、言葉が止まる。
もっと、上手かった。その事実だけが、静かに残る。
少し離れた場所で、一人の男が、その舞を見ていた。
人の影に紛れ、気配を抑えながら。短くなった赤褐色の髪が、炎の光の中でわずかに揺れる。
だが、その視線だけは逸らされない。少女の動きをひとつひとつ、追っている。
やがて、その目がわずかに見開かれた。
――生きている。
声にはならない。安堵が、遅れて広がる。
同時に。かつての光景が、脳裏に浮かぶ。
庭の端。まだ幼い頃。ぎこちなく足を運ぶ少女と、その傍で手を取る侍女。
『違う、そこではありません』
『もっと、流れを見て』
六花の声。繰り返される指導。何度も、何度も。その積み重ねが、今、目の前にある。
男――朝凪は、わずかに目を細めた。
そのときだった。
流れの中で、わずかな乱れが生じる。桜桃の足が、何かに引っかかる。ほんの一瞬のこと。だが、舞の中では致命的だった。
桜桃の身体が、ぐらりと傾く。
朝凪が息を呑み、足を踏み出そうとした瞬間――闇を割るように、別の影が踏み込んでいた。
倒れかけた桜桃の身体を、その男が背後から抱きとめる。
「――」
咄嗟に顔を上げた桜桃の視界に飛び込んできたのは、炎の光の中で揺れる、墨色の長い髪だった。
整った顔立ち。すべてを見透かすような、落ち着いた眼差し。
引き寄せられた距離の近さに、桜桃は息を詰め、思わずその目から目が離せなくなる。
冷たくはない。ただ、静かだ。人の喧騒の中にいながら、その目だけがどこか別の場所にあるような目だった。炎の光が横顔に当たっている。その光の加減が、余計に——
(——あ)
見覚えがあった。
廊ですれ違った、軍装の男だった。墨色の髪。静かな目。
心臓の音が、やけに大きく響く。
顔が少し熱かった。転んだせいだ。舞のせいだ。絶対にそれだけのせいだ。
その瞬間、わずかに香がした。白檀の香り。舞の熱と、人の気配の中に紛れているはずなのに、不思議とそこだけが輪郭を持つ。
男の視線が、静かにこちらを見ている。何も言わない。ただ、状況を当然のように受け止める目。
桜桃は小さく息を呑んだ。
戸惑いだけが先に立つ。
「足を捻ったようだ」
低く、静かな声が響く。周囲のざわめきが止まる。
「失礼する」
言葉は簡潔だった。だが、有無を言わせない。
男はそのまま、桜桃の身体を抱き上げた。軽く。まるで重さなど感じていないかのように。視界が一気に高くなる。ざわめきが広がる。
桜桃は何も言えなかった。
「昊夜様……!」
花梨の声が、はっきりと響いた。
その名に、桜桃の思考が止まる。
——昊夜。
清明から聞いた名だった。虚空帝の長男。父が婚約者候補として名を挙げていた、会うはずのなかった存在。
(この人が、昊夜様)
廊で見かけた男が。朝凪と見間違えた男が。
名前から想像していた人間と、今目の前にいる人間が、まったく一致しなかった。
(こんな人だったの)
心の中だけで、思った。
整いすぎている。近くで見ると余計に分かる。涼しい目元。少しだけ細い目の形。静かなのに、存在感だけが妙に大きい。
抱き上げられた腕が、思ったより温かかった。
心臓が、また大きく鳴った。
(……お、落ち着け)
自分に言い聞かせた。でも顔が、また少し熱くなった気がした。
確かなのは。この場にいる誰よりも自然に、その場を支配しているということだった。
昊夜はそのまま踵を返す。迷いなく、舞台を離れる。灯りの外へ。ざわめきの外へ。何も残さず、ただ一人の舞姫を連れて。
残された場に、わずかな歪みが残る。
それを見ていた花梨は、ゆっくりと視線を動かした。一緒に舞っていた隣にいた娘へと。
「……わざと、足をかけたでしょう?」
静かな声。それでも、逃げ場のない響きだった。
椎香も娘の方を見る。娘は一瞬だけ顔を強ばらせた。だが、すぐに視線を逸らす。
「何のことかしら」
短く返す。
花梨は、その横顔をしばらく見つめていた。やがて、小さく息を吐く。
娘の肩が揺れる。
「……あのままじゃ、あの子に全部持っていかれていたわ」
娘の唇がわずかに動く。
「……あんなのが、急に前に出てくるから」
悔しさと焦りが混ざっていた。
花梨は視線を落とした。怒っているわけではない。ただ、理解してしまったような顔だった。
「それでも」
静かに言う。
「舞の場で、そういうやり方は好きではありません」
声は柔らかいままだった。だが、揺れない。
娘は何も言えず、視線を落とした。
音楽は、途切れなく続く。宴は続く。何事もなかったかのように。
だが。
あの一瞬で、確かに誰かの運命が少しだけ、動いていた。
***
宴のざわめきが、遠くなっていく。
昊夜に抱き上げられたまま運ばれた先は、宴の灯りから切り離された回廊だった。夜気は、少しだけ冷えていた。
昊夜は歩みを緩め、柱の影へと入った。
「……降ろすぞ」
短く告げる。桜桃は答える前に、そっと地に下ろされた。力を入れた瞬間、鈍い痛みが走る。わずかに息が詰まる。
「やはり、捻っているな」
昊夜は淡々と言う。桜桃はその声を聞きながら、なぜかまだ心臓が落ち着いていないことに気づいた。足首のせいだろうか。それとも——
「少し失礼する」
昊夜が膝を折った。
桜桃は反射的に身を引きかけたが、すぐに止めた。
近かった。視界に昊夜の髪が入ってくる。墨色の髪が、下を向いた拍子にさらりと落ちた。
(……近い)
触れる指は、確かめるためだけのものだった。淡々としていた。感情が乗っていない、診るための手だった。
分かっている。それだけのことだ。
なのに、うまく息が吸えなかった。
「骨には異常はないな」
事実だけが落ちる。
昊夜は視線を上げなかった。足首だけを見ていた。ただそれだけのことなのに、桜桃はなぜか視線の置き場に困った。
「人を呼ぼう」
「……いえ」
桜桃は首を振る。
「大丈夫です」
昊夜は一度だけ目を上げた。
その目が、一瞬だけこちらを見た。
近い距離で、真っ直ぐに。
桜桃は思わず目を逸らした。
「無理はするな」
それだけを残して、昊夜は立ち上がった。
やがて侍女が呼ばれ、足首に布が巻かれていく。桜桃は黙ってそれを受けていた。
布を巻く手が動く間、桜桃はふと視線を庭へ向けた。灯りの向こう。そこにあるはずのもの。
だが——桜は、もう散っていた。春は終わっている。分かっているのに、目が向く。そのこと自体を、ずっと避けていたのだと気づく。宮廷に戻ってから、一度も桜の木を正面から見ていなかった。
「なぜ、そんな顔をしている」
声が落ちる。
桜桃は振り返った。昊夜が立っていた。変わらない表情。変わらない距離。
「……どんな顔ですか」
「春の終わりを見ている顔だ」
迷いなく言う。
桜桃の呼吸が、一瞬止まる。言われた意味が、すぐには飲み込めない。ただ、それが正確すぎることだけが分かる。
「……別に」
短く落とす。
「散るのが惜しいなら、そう言えばいい」
昊夜の声は、どこまでも平坦だった。慰めるわけでも、憐れむわけでもない。
「形あるものは、いつか終わる。ただ、それだけのことだ」
「……昊夜様は、惜しいとは思われないのですか」
思わず、言葉がこぼれていた。相手が新帝の息子であることも忘れ、桜桃は昊夜を見上げる。
昊夜はただ、遠い夜の庭園へ視線を戻した。若葉の匂いを孕んだ生温い夜風が、彼髪をわずかに揺らす。
「終わったものに割く感情は、持ち合わせていない」
冷淡な響きだった。けれど、その横顔はひどく静かで、まるで最初から何も持たずに生まれてきたかのような、底知れない孤独を滲ませている。
桜桃は息を詰めた。この人は、散りゆく春を惜しまないのではない。惜しむことさえ、とうに諦めて、通り過ぎていく季節をただ淡々と眺めているだけなのだと、直感的に気づいてしまったから。
「……そうですか」
それ以上は、桜桃も追わなかった。追ってはいけない気がした。
昊夜もそれ以上は語らない。ただ、視線だけが静かに残っている。その目は責めていない。ただ、見ている。
(……名前だけ、知っていた人だったのに)
桜桃はふと思った。
こんな形で言葉を交わすことになるとは思っていなかった。こんな目をしている人だとも思っていなかった。
やがて昊夜は踵を返した。回廊の奥へ、墨色の髪が揺れながら消えていった。




