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狂桜華《きょうおうか》~亡国の姫は、名を捨て帝を目指す~  作者: 澪
第一章 桜、散る夜に【帝都崩落編】

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第十三話 皇子、名を覚える

 彼の衣の奥から、激しく脈打つ心臓の音が伝わってくる。


 鼻腔を満たすのは、すれ違ったときと同じ、冷たくて、けれど熱を帯びた白檀の香り。


「……誰だ」


 地を這うような低い声。掴まれた手首が、折れそうなほどに強く締め上げられる。


 昊夜の目はまだ完全に覚醒しておらず、目の前の桜桃を、襲撃者か何かと誤認しているようだった。鋭い殺気が、狭い室内に張り詰める。


「う……あ、あの、昊夜様……っ。侍女の、六花です……!」


 あまりの痛さと恐怖、そして至近距離にある美貌と、彼から受ける男としての体格差に、桜桃の鼓動が速く、乱れていく。顔が、一気に熱くなる。


 必死に名前を呼ぶと、昊夜の瞳の奥で、じわじわと焦点が合っていくのが分かった。


「……六、花……?」


 呟かれた声に、先ほどの鋭い殺気が霧が晴れるようにふっと消えていく。


 昊夜は自分の状況を把握したのか、小さく息を吐き、ゆっくりと指の力を緩めた。けれど、手首を掴んだ手は離してくれない。


「申し訳ございません! 悪夢にうなされていらっしゃったので、その、つい……! 勝手に触れてしまい、本当に、申し訳ありません……っ!」


 桜桃は顔を真っ赤に染め、掴まれた手をぶんぶんと引いて、あわあわと必死に弁明した。恥ずかしさと申し訳なさで、今すぐこの場から逃げ出したい心地だった。


 そんな彼女の慌てぶりを、昊夜は静かに見つめていた。やがて、その端正な唇の端が、微かに持ち上がる。


 まだ夢の縁にいるせいか、宴のときよりもずっと柔らかく、どこか子供っぽいような笑みだった。


 手首を掴んでいた手が、するりと離れる。


「いや」


 昊夜は軽く首を振り、乱れた前髪を無造作にかき上げた。


「……冷たかっただろう」


「え……?」


「手が。……お前に触れられて、目が覚めた」


 穏やかに、けれどはっきりと告げられた言葉に、桜桃は息が止まりそうになった。


 心臓の音がうるさくて、彼の顔を真っ直ぐに見ることができない。


 沈黙が落ちる。


 桜桃は赤くなった顔を隠すように、慌てて一歩後ろに下がり、深々とお辞儀をした。


「あの……! 宴の折は、ありがとうございました。お礼も申し上げられず……」


「ああ」


 昊夜は思い出したように息をつき、今度ははっきりと穏やかに笑った。


「大したことはしていない」


「ですが……」


「転びかけただけだろう。そういうこともある」


 声音は穏やかだった。責める色はない。


 その言葉に、桜桃は肩の力を抜いた。


 昊夜は視線を外し、机の上を見る。


「母も、舞が上手かった」


 ふと、そう口にする。何気ない調子だった。


「……未散様が?」


「いや、あの人は疾風……弟の母だ」


 自嘲気味に苦笑する。だが、その次の言葉で空気が変わる。


「私の母はもういない。殺された」


 声音は変わらない。だが、そこに温度はなかった。感情を削ぎ落としたような響き。まるで、何度も繰り返してきた事実を、ただ口にしているだけのようだった。


 けれど、目だけはひやりとした鋭さがあった。


 桜桃は息を呑む。


(……この目)


 一瞬だけ向けられた視線に、覚えがあった気がした。どこかで見たことがある。でも、それがどこなのかは分からない。


 昊夜はすぐに視線を戻す。何事もなかったかのように、整えられた書類に手を伸ばす。


「……お前」


 桜桃をじっと見つめる。


「名は、六花と言ったな」


「……はい」


「覚えておこう」


 軽い言い方だったが、言葉は残る。桜桃は一瞬だけ戸惑い、すぐに頭を下げた。


「勝手なことをしてしまい、申し訳ございません」


「構わない。人手が足りていないのは事実だ」


 書類を机に戻す。


「あの、お呼びと伺ったのですが……」


「もういい」


「……えっ」


「用は済んだ」


「いつ……?」


 思わず口から零れた。


 昊夜の視線が、桜桃の後ろへ向く。


 そこには、先ほどまで床に散らばっていた文書が、内容ごとに分けられて積まれている。


 昊夜はそれ以上何も言わず、ただ、黙ってそこを見ていた。


 襖が静かに開いた。


 盆を持った男が入ってきた。部屋に入りかけて、桜桃から昊夜、そして机の上へ視線を動かしていく。


「……整理してくださったんですか」


「散らかってたので」


「そうですか」


 男は盆を机の端に置いた。湯気の立つ椀がある。


「昊夜様、食事です」


「……今は要らない」


「昨夜から何も召し上がっていないでしょう」


 昊夜が少しだけ黙る。


「……千弦、なぜ知っている」


「見ていたので」


 淡々とした答えだった。昊夜はため息をついた。


 桜桃は部屋を出ようと頭を下げた。


「では、私はこれで……」


 千弦が桜桃の方を向いた。


「ありがとうございました、六花さん」


 名前が知られている。どこから聞いてたんだろう、と桜桃は思った。


「いえ……」


 千弦は目を細めて笑った。


 菖蒲殿を出たというのに、白檀の香りがまだ鼻の奥に残っているような気がする。


 追いかけてくるはずもない香りを振り払うように、桜桃はそのまま一度も振り返らず、長い回廊の向こうへと消えていった。


***


 その夜、侍女部屋の片隅で、桜桃は一人、文机に向かっていた。


 昼間の疲れが残っているはずなのに、どうにも眠る気にはなれなかった。


『名は、六花と言ったな』


『覚えておこう』


 ふいに、昊夜の声が耳の奥に蘇る。


 何でもない一言だった。


 少なくとも、昊夜にとってはそうだったのだろう。けれど桜桃の胸の中では、その言葉だけが妙に消えずに残っていた。


 六花という名を、覚えてもらう理由などない。


 それは借りた名だ。本当の自分の名ではない。


 それなのに。


「……覚えておこう、か」


 小さく口にしてしまってから、桜桃は困ったように眉を寄せ、昼間の出来事を振り返った。


 あの、眠っていた昊夜の、冷え切った手。


 何かを掴もうとするように宙を彷徨った指。


 苦しげに寄せられた眉。


 そして、掠れた声で零れた名。


 ――桜桃。


 桜桃は文机の上で、そっと指を握った。


 確かに、そう聞こえた。聞き間違いではないと思う。


 あの部屋には、十二の頃に自分が送った文まで残されていた。


 何年も前、たった一度だけ送った文。


 返事を受け取ったあと、自分はもう一度文を送ることもしなかったというのに、昊夜はそれを今も持っていた。


 胸の中で荒れていたものが少しずつ静まっていくにつれ、一つの事実が、ようやく形を持って桜桃の中へ落ちてきた。


「……ああ、そうか」


 これまで昊夜のことを、新帝の息子として、すべてを奪った側に立つ人間だとばかり思っていた。


 けれど世間から見れば、そして昊夜自身にとっても──あの謀反の夜に、彼もまた、その夜に会うはずだった相手を失っている。


 眠っている間だけ露わになった苦しげな顔と、触れたときの冷たい指先が、どうしても桜桃の頭から離れなかった。


 昨日まで、ただ冷たい人だと思っていた。


 けれど、あの冷たさの奥にも、自分の知らないものがあるのかもしれない。


 知るつもりのなかったものに、触れてしまった。


 桜桃は小さく息を吐くと、侍女日誌を書くため筆を取った。

 

 けれど、すぐにその手を止めた。


 こうして筆を持っていると、また別の記憶が蘇った。



『……じゃあ、朝凪にも送ってみる』


 昊夜から返事を貰った日、幼い桜桃がそう言うと、隣にいた六花が呆れたように笑った。


『朝凪はいつもお傍にいるじゃないですか』


『六花、届けて』


『嫌です』


 きっぱり断られ、桜桃は唇を尖らせた。


 しばらく考えたあと、ふと思いついて紙を折り始める。


『……姫様、何をなさっているのですか』


『飛ばすの』


『はい?』


 出来上がった紙を手に、桜桃は中庭へ面した縁へ走った。


『朝凪ー!』


 声を上げ、そのまま紙を放る。


 風に乗ったそれは、ひらひらと頼りなく宙を舞い、ちょうど中庭を歩いてきた少年の足元へ落ちた。


 朝凪は足を止めた。紙を拾い上げ、開く。


〈 朝凪へ


 朝凪は、何のお花が好きですか。


           桜桃〉


 朝凪はしばらくその文を無言で見ると、何も言わずに懐にしまった。


 その日の夜、朝凪が桜桃の部屋へ来た。


『姫様』


『なあに?』


『こちらを』


 差し出された紙を受け取った桜桃の顔が、ぱっと明るくなる。


『わあ、お返事!』


 開けば、昊夜から届いたものより、少しだけ長い。


〈姫様へ


 蓮が好きです。

 水の上に咲く姿が美しいと思います。


           朝凪〉


『朝凪のほうがいっぱい書いてくれた!』


 嬉しくなった桜桃は、もう一通書いた。


〈朝凪へ


 明日のお昼は何が食べたいですか〉


『……直接聞いてください』


 そう言いながらも、朝凪は返事を書いた。


 翌々日には、


〈朝凪へ


 今日はいいお天気ですね〉


 しばらく文を見つめていた朝凪から返ってきたのは、


〈姫様へ


 はい。よいお天気ですね〉


 ただそれだけだった。それでも桜桃は懲りなかった。


 さらに翌日。


〈朝凪へ


 今、何をしていますか〉


 ほどなく返ってきた文には、


〈姫様へ


 姫様のお部屋の前におります〉


 そう書かれていた。


 思い出の中の自分が笑う。


 文を出さなくても、呼べば来る場所に朝凪はいた。


 それなのに、何度も文を書いた。書けば、朝凪は必ず返してくれたから。


 桜桃は一枚の紙を手元に引き寄せた。


 書くべきことなど、何もなかった。届ける相手もいない。


 それでも筆を取り、墨を含ませる。


 筆先を紙の上に置いたまま、しばらく動かせなかった。


 やがて、昔と同じように書いた。


〈朝凪へ


 今、どこにいますか〉


 そこで、筆が止まった。


 以前なら、このあとに自分の名を書いた。「桜桃」と。


 けれど今は、その二文字を書くことができない。


 桜桃は静かに筆を置いた。


 届けてくれる六花は、もういない。朝凪がどこにいるのかも分からない。


 そもそも、生きているのかさえ分からない。


 返事など、来るはずもなかった。


 桜桃はしばらく、文の最初に書かれた二文字を見つめた。


〈朝凪へ〉


 やがて、もう一度筆を取ると、その名の上へ黒々と墨を重ねた。


 一度では消えなかった。


 もう一度。


 それでも文字の形が透けて見えて、さらにもう一度塗り潰した。


 誰に宛てたのかさえ分からなくなった文を前に、桜桃は小さく息を吐いた。


「……馬鹿みたい」


 届くはずもないのに。


 紙を手に取り、昔と同じように折っていく。


 六花が文を届けてくれなかったとき、こうして朝凪のところまで飛ばして遊んだ形だった。


 窓を開けると、冷たい夜風が侍女部屋へ入り込んだ。


 桜桃は折った紙を指先に乗せる。


「……もう、いらない」


 そっと指を離した。


 紙は夜風を受け、ふわりと浮かび上がった。一度大きく揺れ、庭へ向かって流れていく。


 桜桃は行方を見届けることなく、窓を閉めた。


 紙は夜の庭を頼りなく舞い、やがて塀際の植え込みへ落ちた。


 それから、しばらくして。


 暗がりから、姿を現したのは朝凪だった。朝凪は植え込みの傍らで足を止め、落ちていた紙を拾い上げる。


 見覚えのある折り方だった。


 指先で静かに開く。


 宛名は、何度も墨を重ねて黒く潰されていた。


 その下には、たった一行。


〈■■へ


 今、どこにいますか〉


 朝凪の指が止まった。


 遠い日の声が、不意に耳の奥で蘇る。


『朝凪。姫様はお返事を待ってるわよ』


 六花の声だった。


 朝凪はしばらく、その文を見つめていた。


 やがて、誰にも届かないほどの小さな声で答える。


「……ここにおります」


 返事を書くことはできない。


 だから朝凪は、その文を丁寧に折り直した。


 そして、なくさないように懐の奥へしまった。


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