第十三話 咲かぬ庭で
少し離れた回廊の影。
宴の灯りが届かなくなる手前の柱の陰に、朝凪は立っていた。
桜桃が連れられていくのを見て、ここまで追ってきた。
あの日からずっと生死も分からぬままだった。こうして生きて、目の前にいる。無事だと分かっただけで、張り詰めていた胸の奥がわずかにほどける。
それだけでいいはずだった。だが。
視線の先に、もう一つの影がある。近い距離。言葉が届く場所。
あの男の顔は知っている。
かつて、同じ場に立ったことがある。同じ方角を見ていたことも。
――京極宮昊夜。
あの方の、婚約者候補の一人だった。
思考が、わずかに揺れる。
選ばれたのは、あの男だった。帝が何を思っていたのかは本当のところは分からない。
ただ、もしも本来の形とは違った形で、あの方が「六花」としてここで生きるのなら。あの男の近くに身を置くことになるのなら。
一歩、踏み出しかけて、止まる。
呼べばいい。それだけの距離にいる。自分がここにいると知らせれば、あの方はどれほど安堵されるだろうか。
けれど。
呼べば、あの人は振り返る。そして、きっと戻ってしまう。ここにいる「六花」ではなく、自分が知っているあの人に。それが本当に、今のあの方のためになるのか分からない。
何より、あの方が昊夜に向ける表情。名だけを知っていた二人が、今ここで新しく出会い、別の関係を結び始めようとしている。
今のあの二人の空間に、自分が不用意に踏み込むべきではないと思った。
朝凪は静かに視線を落とす。いつの間にか手の中にあった、桜桃の肩巾を見つめる。少しだけ、指に力がこもる。それを解くように、ゆっくりと息を吐いた。
そして、踵を返す。
宴の灯りが遠くに揺れる庭へと、足を向ける。人の声が、少しずつ遠のいていく。その先に、大きな桜の木があった。
季節は過ぎている。花は、ひとつも残っていない。青い葉だけが、静かに夜気を受けて揺れている。
朝凪はその前で足を止めた。
手にしていた肩巾を、そっと枝にかける。風がわずかに吹き、薄衣が揺れる。それを一瞬だけ見つめて。
「……どうか、健やかに」
言葉にすれば消えてしまいそうなほど小さな呟きを桜の木に預け、朝凪は背を向けた。
***
宴の喧騒が遠ざかった頃。
桜桃は、まだその場に立っていた。
頭の中に、さっきの男の顔が残っていた。
昊夜、という名前と、廊で見かけた軍装の姿が、今ようやく一つに繋がっている。
(近衛、だったんだ)
婚約者候補と聞いていた頃、昊夜は朝廷軍に身を置く者だと聞いていた。近衛ではなかった。
それがなぜ今、近衛に。
近衛は帝と皇族を護るための人たちだ。父の傍らにいつもいた。幼い頃から見慣れた、鍛え抜かれた背中たちだった。
あの日、何人も倒れていた。
謀反の夜。廊に、庭に、倒れていた人たちがいた。立ち向かって、それでも間に合わなかった人たちが。
あの人たちはもういない。
朝凪も、もう——。
(……変わってしまった)
当然だ、分かっている。あれだけのことがあったのだから。人も、立場も、全部が変わる。
それでも。
見慣れた顔がいなくなった近衛に、昊夜という知らない男が立っている。
それがなぜか、胸の奥でひっそりと寂しかった。
桜桃はゆっくりと歩きはじめた。足首をかばいながら。灯りの届かない奥へ。宴の空気から、少しだけ離れた場所へ。
理由は、はっきりしない。ただ、そこへ向かいたかった。
やがて、ひときわ大きな木の前で足を止める。
見上げる。枝は広く、夜を覆うように伸びていた。花は、もうない。
それでも――どこか、見覚えがあった。
視線を落とす。
白い布が、枝にかかっていた。風に揺れて、かすかに音を立てる。
「……これ」
手を伸ばす。触れた瞬間、柔らかな感触が指に残る。
自分のものだと、すぐに分かった。
なぜ、ここに――
そう思ったのに。次の瞬間には、別の記憶が押し寄せていた。
同じ木の下。まだ幼かった頃。
「どうして分かってくれないの」
声が、よみがえる。自分のものだ。少しだけ強くて、少しだけ幼い声。
「姫様、それは――」
六花が、何かを言おうとする。それを遮った。
「もういい!」
思ったよりも強い声だった。六花が、一瞬だけ目を見開く。それでも、なお言葉を続けようとして――
「分からないなら、黙ってて!」
言ってしまった。
空気が、止まる。
六花は何も言わなかった。ただ、ほんの一瞬だけ。傷ついたような顔をして。すぐに、いつものように微笑んだ。
胸が、締めつけられる。なぜ、あんな言い方をしたのか。分かっているのに。止められなかった。
桜桃は、木の影に身を隠した。誰にも見られないように。ひとりで、膝を抱えて俯く。
涙が、落ちる。止め方が分からなかった。
「……姫様、泣いていらっしゃるのですか」
静かな声が、上から降ってきた。
顔を上げる。そこにいたのは、見慣れた姿だった。気配を消すのが上手く、いつも気づけば近くにいる少年――朝凪。
「……痛かったでしょう」
穏やかな声だった。桜桃は答えられない。
「言われた方も」
一拍おいて、
「言った方も」
責める響きではない。ただ、事実のように置かれる言葉。
「……どうして」
掠れた声がこぼれる。あんなに酷いことを言ったのに、どうして責めずに、そんなに優しい声で私を呼ぶの、と。
朝凪は少しだけ目を伏せた。
「分かるからです」
そう言って、朝凪は桜桃の目線に合わせるように、その場に静かに膝を折った。
「姫様が、本当はあんなことを言いたくなかったのも。……ご自分に一番怒っていらっしゃるのも、全部」
朝凪の声は、どこまでも穏やかだった。いつも一歩引いている彼が、この時ばかりは、桜桃の流す涙をその身で全部受け止めるような温かさを滲ませている。
「言葉が尖ってしまうのは、心がそれだけ傷ついているからです。……だから、ご自分を責めないでください。六花もきっと、あなたの手を離したりはしません」
そっと手が差し出される。無理に引くことはしない。ただ、いつでもその小さな体を支えられるように、大きな掌を上に向けて待つように。
「泣きたい時は、ここでいくらでも泣いてください。私がずっと、誰にも見つからないように隠していますから」
桜桃は、ためらいながらもその手を取った。
朝凪の手のひらはとてもあたたかく、包み込まれた瞬間に、胸の奥の強がりが波が引くように消えていくのが分かった。
不意に、繋いだ手にぐっと強い力がこもる。
次の瞬間、驚くほど滑らかな動作で引き寄せられ、桜桃の体はふわりと宙に浮いた。朝凪が彼女の腰を片手でひょいと抱え上げ、そのまま太い枝の上へと、軽々と着地させたのだ。
「え……」
気づけば、桜の木の上にいた。枝の上。ぐらりと揺れて、思わず声が漏れる。
「わ……」
背に、そっと手が添えられる。
朝凪は遠くを見るように視線を上げた。
「ご覧ください」
桜桃は息を呑むまま、朝凪に倣った。
風が吹く。残っていた花びらが一斉に舞い上がる。視界が淡く染まる。その向こうに、遠くの景色が見えた。
夕日に照らされ、金色に輝く都の輪郭。
――父の国だ。
「……きれい」
こぼれるように言う。
朝凪は何も答えない。ただ、静かに支えているだけだった。
「……お父上には内緒ですよ」
ふいに、耳元へ低い声が落ちてきた。
「見つかったら、私が怒られます」
その少しだけ悪戯っぽい響きに、緊張していた胸の奥から、ほんのわずかだけ息が緩む。
風がやむ。花びらが静かに落ちていく。朝凪はそれ以上何も言わない。ただ、そこにいる。
そこで、記憶は途切れる。
桜桃は、はっと息をついた。
同じ木の下に立っている。手の中には、肩巾。
胸の奥が、静かに揺れる。懐かしさと、痛みと。それでも、どこかあたたかいもの。
風が吹いて、布が指の間で揺れる。
「……朝凪」
桜桃はしばらく、その感触をそのまま受け取っていた。
遠くから、笑い声が聞こえた。宴はまだ続いている。




