第十四話 姫様観察日記
宴の端で、椎香は立っていた。
灯りが届きにくい場所を選んで、少しだけ人の流れから外れている。遠くから華やかな喧騒は聞こえるのに、ここだけが妙に静かだった。
「椎香」
後ろから声をかけてきたのは、昊夜の弟――疾風だった。
立派な狩衣を纏っているが、完全に服に着られている。衿の合わせが少し歪んでおり、長い袖をどう扱えばいいか分からず、手持ち無沙汰そうにもてあましていた。
「久しぶりだな」
「久しぶりね……皇子様になったんですってね。おめでとう」
「……こういう格好させられてるけど、まだ全然慣れなくて。……変かな」
「ええ、少し見ない間にずいぶん立派な格好になっちゃって。あと衿が曲がってる」
「えっ、嘘、どこ!? これ兄上の着こなしを真似してちょっと崩してるんだけど」
慌てて服を気にする疾風を見て、椎香は密かにため息をついた。
皇子という立場になっても、中身は相変わらず直情型で、兄である昊夜のことが大好きな少年のままだ。
「それで、椎香。……その、父上たちから、縁談の話は聞いてるか?」
「聞いてるわよ」
「どう思う。俺はお前なら昔からよく知ってるし、何より可愛いから、お嫁さんになってくれたら凄く嬉しいなと思ってるんだけど」
「……疾風。思っていることを全部口に出すのはやめなさい。あと私は政治の道具に使われるのは嫌よ」
「道具だなんて思ってない。俺はお前を妻として、兄上と義姉上のような……あ、いや、兄上はまだ独身だが、とにかくそんな素晴らしい夫婦になりたいと大真面目に――」
「疾風」
椎香は少しだけ声を落とした。
「あなたのこと、大切な友人だと思ってる。それは本当よ。でも、男の人としては見られないの。ごめんなさい」
「えー!!」
疾風の顔が、あからさまに絶望に強張った。衝撃のあまり、狩衣の袖をぎゅっと握り締めて震えている。本当に分かりやすい男だ。
「そんな……友人から始まる恋だってあるだろう!? 現に俺は、お前のちょっと気が強いところも結構好みで……」
「未練がましい男は兄上に嫌われるわよ」
「うっ、兄上を出されると弱い……!」
疾風がうなだれた、そのときだった。椎香の視線がふと流れた。
少し離れた灯りの端に、一人の男がぽつんと立っていた。誰とも言葉を交わさず、赤褐色の短い髪を揺らして、この場に全く馴染もうとしていない不遜な立ち方をしている。
(……ちょうどいいわ)
椎香は迷いなく歩み寄り、その見知らぬ男の腕をぐっと掴んだ。
「私、この人と将来を誓い合った仲なの。だから諦めて、疾風」
掴まれた男――朝凪が、あからさまに硬直した。一瞬、その目が「……は?」と拒絶の形に丸くなる。
一方で、疾風は目を剥いて朝凪を指差した。
「えー!!なんだその男は! 髪が短いぞ! 兄上のような美しい長髪ではないではないか!」
「失礼ね、彼はこういうところが素敵なのよ」
「くそっ、覚えていろよ! 俺は絶対に諦めないからな! 兄上に『失恋した時の立ち直り方』を聞いてくる」
疾風は踵を返した。狩衣の裾をはためかせながら、人混みの中へ消えていった。
「……悪い子ではないんだけどね」
椎香はほっと息を吐いて、朝凪の腕をぱっと離した。
「助かったわ、ありがとう!」
朝凪は、完全に巻き込まれ事故に遭ったような不快感を顔に滲ませている。
「……何だったんですか、今のは」
「見ての通り、言い訳役。あの子、素直すぎて話が長くなりそうだったから。本当に助かったわ」
「私はただ、黙って立っていただけですが。」
「黙って立っててくれたのが、私の無口な恋人っぽくて十分だったわよ」
朝凪が「とんだとばっちりだ」とでも言いたげに、呆れた溜め息をついた。椎香は表情を見て、なんだかおかしくなって笑ってしまう。
「あなた、ここの人間じゃないでしょう」
「……違います」
「そう」
椎香はそれ以上深くは聞かなかった。
けれど、その場を離れていく彼の背中を、なぜか一度だけ目で追ってしまった。人混みの中にいるのに、どこか一人きりでいるような、不思議に静かな立ち方をする人だった。
まさかその男が、最愛の姫様を探して宮廷に紛れ込んでいた不審者だとは、この時の椎香は知る由もなかった。
***
宴から数日後の早朝。
華やかな宴の余韻がまだ残る宮廷の隙間に、朝凪は門番として立っていた。
場所は、回廊へと続く門番の詰所。
正確には、正規の手続きを踏んで採用されたわけではない。謀反の直後による大混乱で致命的に人手が足りず、書類の審査や身元確認が恐ろしく緩くなっていることを知り、静かに、誰にも気づかれずに紛れ込んだ。
元・近衛の職にあった身からすれば、呆れるほど容易な潜入だった。
(いくら混乱の極みとはいえ、こんなにあっさり紛れ込めるとは、今の近衛の警備体制はどうなっているんだ)
内心でそんな毒づきが浮かぶが、そのザルな体制に救われたのも事実だった。
我ながら、他人に説明のしにくい経緯だし、するつもりもない。
(だが、ここにいる理由は一つしかない)
生きている。
先日の舞の場で、この目で確かめた。確かに、桜桃だった。
それだけで十分なはずだった。それだけで、満足して立ち去るべきだったはずなのに。
その日の午後。
姫様は侍女の列に混じって、東の廊下を通った。歩き方はだいぶ板についている。足首をかばっている様子はない。よかった。
二日目の朝。
宴の後片付けに回っているのを確認した。花飾りを抱えて、足早に動いている。顔色は悪くない。
三日目の夕刻。
鈴という名の侍女とよく行動を共にしている。悪い人間ではなさそうだ。
朝凪は門番として直立不動の姿勢を保ちながら、そういった彼女の情報を、静かに、確実に積み重ねていた。
(……これは何をしているんだろう)
そう思わないでもない。
傷が完全に癒えきっていない体を引きずり、身元不明の怪しい門番として、ただ一人の侍女の動向を遠くから一日中記録している。
(だが、近づくつもりはない)
声をかければ、すべてが終わる。彼女を呼び止めてしまえば、彼女は侍女の「六花」ではなくなり、再び「皇女」の座へと引き戻されてしまう。それは違う。今のあの人の平穏を、壊すわけにはいかない。
だから朝凪はこの門に立つ。
宮廷の人間が必ず通る場所。そのすべての動線が見渡せる、最も都合の良い位置。
それ以上近づかないために。あえて、一番よく見える位置に陣取るのだ。
(……近づかないために、見える位置に立つ)
朝凪にとって、それは寸分の矛盾もない、極めて合理的で当然の行動だった。
そのとき、視界の端に人影が揺れた。
侍女の列。荷を運ぶ者たち。その中に、ひとり。
確かに、あの小柄な姿があった。
声は交わさない。視線すら合わせない。ただの門番と、ただの侍女として、静かにすれ違うだけ。
距離は、手を伸ばせば、その細い手首を掴めるほどに近かった。
それでも朝凪は眉一つ動かさず、ただ前を見据えたまま、その気配を見送った。すれ違うだけでいい。これで十分だ。そう、最初から決めている。
侍女の列が過ぎていく。やがて、気配は遠のく。
朝凪は一度だけ目を伏せた。そして、死角の多い門の影へと歩みを移す。
(ここなら、あそこから出てくる彼女を確実に見失わずに済む)
見つけるためではない。ただ、壊さないために。
その目的のためだけに、誰よりも鋭い殺気を隠し持ったまま、彼は今日も無害な門番として門の前に立つ。




