第十四話 侍女、水をかける
その日の朝、侍女たちの詰所は、いつになく騒がしかった。
「困ったわねえ。誰か、八重御所へ行ってくれる人はいない?」
女官の呼びかけに、それまで賑やかに話していた侍女たちが、一斉に口を閉ざした。
「八重御所、ですか?」
「ええ。あちらに勤めている侍女が、今朝から体調を崩して休んでいるの。代わりを一人寄越してほしいそうなんだけど……」
女官が室内を見渡すと、侍女たちは示し合わせたように視線を逸らした。
「……誰もいないの?」
「わ、私は今日はお洗濯が……」
「私も、頼まれている仕事がありまして」
「私、昨日から少し頭が痛くて……」
「さっきまで元気だったじゃない」
隣の侍女に指摘され、最後の一人が気まずそうに口をつぐむ。
桜桃は不思議に思って、傍らにいた時雨へ小声で尋ねた。
「八重御所のお仕事って、そんなに大変なの?」
「仕事が大変というより、あそこには皇后陛下がいらっしゃるでしょう?」
「……皇后陛下?」
「なんだか怖そうなのよね。あまりお声を荒らげる方ではないらしいんだけど、それがかえって怖いって」
すると、近くにいた侍女も声を潜めて話に加わった。
「休んでいる侍女も、皇后陛下にひどく叱られたって聞いたわ」
「叱られたというか、随分冷たくされたそうよ。何をしてもお気に召さないんですって」
「それで具合が悪くなったの?」
「さあ、そこまでは分からないけど……」
侍女たちは顔を見合わせた。
「とにかく、私は嫌よ。あんなところへ行って、何か粗相でもしたら……」
その言葉に、何人かが深く頷いた。
桜桃は黙って話を聞いていた。
八重御所。
父の私室には、今も自分の肖像画が掛かっているはずだった。
あれから何度も、どうにかして隠せないものかと考えていたが、侍女の身分では奥へ入る機会さえなかった。
けれど、仕事として行くのなら。
「あの……」
桜桃は、おずおずと手を上げた。
「私が参りましょうか?」
途端に、周囲の視線が集まった。
「六花、本気?」
時雨が驚いたように尋ねる。
「ええ。どなたかが行かなければならないのでしょう?」
「それはそうだけど……」
女官は、救いの手を差し伸べられたように表情を明るくした。
「行ってくれるの? 助かるわ! それじゃあ、すぐに支度をしてちょうだい」
「はい」
桜桃が頭を下げると、時雨がそっと袖を引いた。
「本当に大丈夫? 無理しなくてもいいのよ」
「大丈夫よ。お掃除なら、私にもできるもの」
「そういう問題じゃないと思うけど……」
時雨はまだ心配そうだったが、桜桃は笑ってみせた。
もっとも、桜桃自身、皇后に会うことになればどうなるか分からない。
未散とは、これまで直接顔を合わせたことがなかった。謀反以前も、皇族の居所は分かれており、顔を合わせる機会はなかったのである。
だからといって、相手も自分の顔を知らないとは限らない。
それでも、肖像画を放置しておくほうが、よほど危険に思えた。
桜桃は支度を整え、八重御所へ向かった。
八重御所へ入ると、桜桃はまず、言いつけられた仕事を片づけることにした。
回廊を掃き、調度を拭き、庭に面した部屋の塵を払う。
かつては大勢の侍女や女官が行き交っていた御所も、今はどこか静かだった。
桜桃は手を動かしながら、何度も奥の回廊へ目を向けた。
父の部屋は、あの先にある。
やがて、任された一角の掃除が終わると、桜桃は水を張った手桶と布を持ち、そっと奥へ足を向けた。
(少し様子を見るだけなら……)
誰かに尋ねられても、掃除を頼まれたと言えばいい。
桜桃は周囲に人がいないことを確かめ、回廊を進んだ。
懐かしい柱の並びが見えてくる。
父の私室は、先日と同じように戸が開いていた。
(……あった!)
壁には、あの掛け軸が残されていた。
華やかな衣をまとい、微笑んでいる少女。
成人を前に、父が描かせた自分の肖像画だった。
桜桃はほっと胸を撫で下ろしかけたが、次の瞬間、その息が止まった。
部屋の中に、人がいた。
背の高い男が一人、掛け軸の前に立っている。
墨色の長い髪。見覚えのある横顔。
(……昊夜様!?)
桜桃は危うく手桶を落としかけた。
どうして、よりによって今、ここにいるのだろう。
昊夜は室内の調度を眺めていたが、やがて壁に掛かった肖像画へ目を向けた。
(ま、待って……!)
桜桃の背筋を冷たいものが走った。
あの絵を昊夜にじっくり見られたら、何か気づかれるかもしれない。
桜桃は慌てて部屋へ踏み込んだ。
「あ、あのっ!」
昊夜が振り返る。
「……六花?」
名を呼ばれたことで、かえって頭が真っ白になった。
昊夜の視線が、再び掛け軸へ戻ろうとする。
(だめっ!)
桜桃は咄嗟に手桶を持ち上げた。
ばしゃんっ!
盛大な水音が、静かな部屋に響き渡った。
「…………」
「…………」
手桶から放たれた水は、見事に掛け軸を直撃した。
絵の表面を水が伝い、描かれていた少女の顔がみるみる滲んでいく。目元から頬へと墨が流れ、先ほどまで鮮やかだった面影は、たちまち誰のものとも分からなくなってしまった。
水は掛け軸の下からぽたぽたと滴り落ち、床にまで広がっていく。
桜桃は空になった手桶を抱えたまま、固まった。
(……あ)
父が、自分のために描かせてくれた肖像画。
もう二度と、元には戻らない。
けれど、これで誰かに顔を見られる心配もなくなった。
ほっとしたような、泣きたいような、何とも言えない気持ちで掛け軸を見つめていると、背後から低い声がした。
「……何をしている」
昊夜もまた、しばらく何も言えなかったらしい。
振り返ると、彼は濡れた掛け軸と桜桃を交互に見やり、呆れたように眉を寄せていた。
「お、お掃除を……」
「……掃除?」
「はいっ」
「肖像画に水をかけるのが、お前の掃除なのか」
「い、いえ! その、手が滑ってしまって……!」
「手が滑ったにしては、随分と勢いがよかったが」
「…………」
桜桃は答えに窮した。
昊夜はもう一度掛け軸を見上げた。
「……先帝が大切になさっていたものだ」
「……っ」
「この部屋に残されていたのか」
その声に、桜桃は思わず顔を上げた。
昊夜は濡れた絵を見つめていたが、やがて小さく息を吐いた。
「とにかく、これ以上濡らすな。乾いた布を持ってこい」
「は、はい!」
桜桃は勢いよく頭を下げた。
この場を離れられる。そう思った途端、足が勝手に動き出した。
手桶を抱え、慌てて部屋を飛び出す。
「おい、走るな」
背後から昊夜の声がしたが、桜桃は立ち止まる余裕もなかった。
ところが、回廊の角を曲がろうとしたそのとき、目の前に、人影が現れ、ぶつかりそうになった。
「きゃっ……!」
桜桃は慌てて足を止めたが、抱えていた手桶が大きく揺れた。
「……まあ」
涼やかな声が落ちた。
桜桃は顔を上げ、息を呑んだ。
美しい衣を幾重にも重ね、侍女たちを従えて立っていたのは、未散皇后だった。
(……皇后陛下!?)
桜桃はすぐさま手桶を脇へ置き、その場に深く頭を下げた。
「も、申し訳ございません!」
未散は足を止めたまま、桜桃を見下ろしていた。
「慌ただしいわね。何をそんなに急いでいるの?」
「その……お掃除の途中で、失敗をしてしまいまして……」
「失敗?」
「はい。布を取りに戻るところでございました」
未散の視線が、桜桃の傍らに置かれた空の手桶へ落ちる。
「そう」
それだけ言って、未散は少し首を傾げた。
「見かけない顔ね。どこの侍女?」
「本日は、こちらのお手伝いに参りました」
「名前は?」
桜桃は、袖の中で指を握りしめた。
「……六花と申します」
「……六花?」
未散が、その名を繰り返した。
桜桃の心臓が跳ねた。
未散はしばらく何も言わなかった。
ただ、桜桃の顔から髪、衣の裾に至るまで、ゆっくりと視線を巡らせている。
桜桃は頭を下げたまま、じっと耐えた。
(……何?)
何か、おかしなところがあるのだろうか。
それとも。
(六花のことを、知っている……?)
あの夜に命を落とした六花は、長く自分に仕えてくれていた侍女だった。
未散がその名を耳にしていても、不思議ではない。
けれど、六花という名の娘など、ほかにもいるだろう。
同じ名前だからといって、疑われる理由にはならないはずだ。
(でも、もし父の私室の肖像画を見たことがあったなら)
桜桃は喉が渇くのを感じた。
「……顔を上げなさい」
「はい」
言われるまま、そっと顔を上げると、未散は桜桃を見つめていた。
どれほどの間、そうしていただろう。
やがて未散は、傍らに控えていた女官へ顔を向けた。
「この娘、どこから寄越されたの?」
「本日、欠勤した侍女の代わりとして参った者でございます」
「そう」
未散はもう一度だけ桜桃を見た。そして、何事もなかったように微笑んだ。
「次からは、もっとましな侍女を寄越してくださる?」
「……かしこまりました」
女官が恐縮して頭を下げる。
未散はそれ以上桜桃に構うことなく、衣の裾を翻して歩き去っていった。
従う侍女たちも、慌ててその後を追う。
足音が遠ざかるまで、桜桃は頭を上げられなかった。
(……怖かった……)
ようやく息を吐き、そっと胸を押さえる。
時雨たちが八重御所へ行きたがらなかった理由が、少し分かった気がした。
怒鳴られたわけでも、厳しく叱責されたわけでもない。
それなのに、あの短いやり取りだけで、全身から力が抜けそうだった。
「……六花」
「ひゃっ!」
突然背後から声を掛けられ、桜桃は飛び上がった。
振り返ると、昊夜が回廊に立っていた。
「……何を驚いている」
「い、いえ、何でもございません!」
昊夜は桜桃の顔を見たあと、その足元に置かれた手桶へ目を向けた。
「布はどうした」
「……あ」
桜桃は空の手桶を見下ろした。
肖像画に水をかけ、皇后にぶつかりかけ、すっかり忘れていた。
「す、すぐに取ってまいります!」
桜桃は手桶を拾い上げ、再び頭を下げた。
昊夜は呆れたように息を吐く。
「……今度は走るな」
「はいっ!」
桜桃は返事をして、今度こそ慎重に歩き出した。
背中に昊夜の視線を感じながら、ひとつだけ確かなことがあった。
肖像画を隠すつもりで来たのに、隠すどころか水浸しにしてしまった。
しかも、昊夜には呆れられ、皇后には侍女失格の烙印を押された。
(……どうして、こうなったのかしら)
桜桃は手桶を抱え直し、深いため息をついた。




