第十五話 侍女、女官長に会う
八重御所での仕事を終えた桜桃は、頼まれた衣を届けるため、宮内省の作業所へ立ち寄っていた。
宮中で使われる衣類や寝具の洗濯、修繕などを行う場所で、建物の奥からは布を叩く音や、水を汲む音が聞こえてくる。
桜桃は預かった衣を受付の女官に渡し、受取の確認を待っていた。
「すみません。その衣を取っていただけませんか」
「はい……」
奥のほうから聞こえてきた声に、桜桃はふと顔を上げた。
どこかで聞いたことのある声だった。
仕切りの向こうでは、何人もの女たちが黙々と仕事をしている。洗濯物を取り込む者、破れた衣を繕う者、布を畳んで積み重ねる者。
その中に、見覚えのある横顔があった。
(……女官長?)
桜桃は思わず目を見開いた。
かつて八重御所で女官たちを取りまとめていた女性だった。
幼い頃から桜桃の身の回りを気に掛け、六花とともに世話を焼いてくれた人である。
桜桃は一歩踏み出しかけて、足を止めた。
女官長が立ち上がった拍子に、かすかな金属音が響いた。
その足首には鉄の輪が嵌められ、短い鎖が繋がれていた。
(……足枷?)
よく見ると、周囲で働いている女たちも同じものをつけている。
桜桃は息を呑んだ。
『捕まった人もいるけどね』
以前、時雨が話していたことを思い出す。
(……ここに、いたの?)
女官長は以前と同じように衣を繕っていた。
ほつれを直し、布を裁ち、洗濯物を取り込む。仕事そのものは、桜桃の知る頃と大して変わらない。
けれど、今は足枷をつけられ、監視の目が届く場所で、黙々と手を動かしている。
かつては若い侍女たちを叱りながらも、誰より賑やかに笑っていた人だった。
今、その声は聞こえない。
「……女官長」
桜桃の唇から、小さく声が漏れた。
女官長は気づかず、膝の上に広げた衣へ針を通していた。
桜桃は仕切りのそばへ歩み寄った。
「女官長……!」
思わず声が大きくなった。
女官長が驚いて顔を上げる。
桜桃は塀の向こうから身を乗り出した。
「私です!」
女官長は怪訝そうに眉を寄せた。
見知らぬ侍女が、なぜ自分を呼ぶのだろう。そう言いたげな顔だった。
けれど、桜桃の顔を見つめるうちに、その表情が少しずつ変わっていった。
「……え?」
女官長の手から、衣が滑り落ちた。
「そんな……」
桜桃は唇に人差し指を当てた。
女官長は慌てて口を閉ざし、周囲を見回した。
幸い、ほかの女たちはそれぞれの仕事に追われている。
女官長は足枷の鎖を鳴らしながら、塀際へ歩み寄った。
「……姫様?」
消え入りそうな声だった。
桜桃は小さく頷いた。
「はい」
「……本当に?」
「ええ。私です」
女官長は桜桃の顔をじっと見つめた。
そして、震える手を伸ばしかけ、途中で止めた。
「……生きて、いらしたのですね」
「はい。あなたも……」
桜桃は躊躇いなく女官長の手を取った。
水仕事で荒れ、指先にはいくつもの小さな傷ができている。
以前は、いつも綺麗に整えられていた手だった。
「よかった……」
女官長が呟いた。
「本当に、よかった……」
その目から涙がこぼれた。
桜桃も胸がいっぱいになり、握った手に力を込めた。
「ごめんなさい。私、皆がこんなところにいるなんて知らなくて……」
「謝らないでくださいませ」
女官長は首を振った。
「姫様がご無事なら、それでよいのです」
「でも、こんな……」
桜桃は女官長の足元を見た。
鉄の輪と鎖。
その重さを確かめるように、女官長は一度だけ視線を落とした。
「……私たちは、あの夜からずっとここにおります」
「ずっと?」
「ええ。宮を出ることも、家族に会うことも許されません。ですが、食べるものはいただけますし、こうして仕事もあります」
女官長は努めて穏やかに言った。
「何より、皆、生きております」
桜桃は何も言えなかった。
女官長は、そっと桜桃の手を握り返した。
「あの夜、姫様はおっしゃいましたね。『ここから逃げて生き延びよ』と」
桜桃は顔を上げた。
あの夜。燃え上がる宮城の中で、桜桃は逃げることしかできなかった。
自分を守ろうとする者たちに、何度も生き延びてほしいと願った。
けれど、その言葉がこうして誰かの胸に残っていたとは思わなかった。
「皆、そのお言葉を覚えております」
女官長は微笑んだ。
「いつか姫様がお戻りになる。その日まで、何としても生き延びようと、皆で話しておりました」
「……女官長」
「ですから、どうかご心配なさらないでくださいませ」
女官長は桜桃の手を両手で包んだ。
「必ず、私たちは生き抜きます。再び姫様のお力になれる、その日まで」
桜桃は唇を噛んだ。
何か言わなければと思うのに、言葉が出てこなかった。
女官長はそんな桜桃を見つめ、ふと表情を引き締めた。
「……ですが、姫様」
「はい」
「ここには、二度と来てはいけませんよ」
「え……」
「私たちに会いに来てくださったことは、嬉しゅうございます。けれど、誰が見ているか分かりません」
女官長は周囲を窺い、さらに声を落とした。
「その格好……今の姫様は、侍女としてお過ごしなのでしょう?」
「……六花と名乗っています」
女官長の目が揺れた。
「……六花、ですか」
その名を口にすると、女官長はしばらく黙っていた。
やがて、悲しみを押し隠すように微笑んだ。
「あの子も、きっと喜んでいるでしょう」
桜桃は唇を噛んで俯いた。
女官長はそんな桜桃を穏やかな瞳で見つめてから、手をそっと離した。
「どうか、ご自分の身を第一にお考えください。私たちのことは、今は忘れてくださって構いません」
「……忘れられるわけ、ないでしょう」
言葉が詰まった。
「こんなところに皆を残して、私だけ何も知らないふりなんてできません」
「姫様……」
「すぐには、どうにもできないかもしれません。でも、必ず……」
そこまで言いかけたとき、洗濯場の向こうから人の声がした。
「おい、何をしている!」
女官長の肩がびくりと揺れた。
桜桃も振り返る。
見回りの兵が、こちらへ歩いてくるところだった。
女官長はすぐさま桜桃から離れ、深く頭を下げた。
「申し訳ございません。衣の受け渡しをしておりました」
「話が長い。さっさと仕事に戻れ」
「はい」
女官長は従順に答え、落とした衣を拾い上げた。
兵は桜桃にも一瞥をくれたが、侍女の姿を見ると、それ以上は何も言わずに通り過ぎていった。
桜桃は、その背が遠ざかるのを待った。
女官長はもう一度だけ顔を上げ、声には出さずに微笑んだ。
そして、何事もなかったように針仕事へ戻っていった。
桜桃はしばらく、その姿を見つめていた。
衣を繕う手つきは、昔と少しも変わらない。
けれど、針を動かすたび、足元の鎖が小さく鳴った。
桜桃はゆっくりと踵を返した。
宮城の外れへ続く道を歩きながら、何度も振り返りそうになるのを堪えた。
桜桃は袖の中で、女官長に握られた手をそっと握りしめた。まだ、その温もりが残っていた。
***
侍女部屋へ戻った頃には、すっかり日が暮れていた。
桜桃は部屋の隅に腰を下ろした。
八重御所での失敗も、未散皇后に呼び止められたことも、今は遠い出来事のように思えた。
目を閉じると、作業所で見た光景が浮かんでくる。
「……六花? どうしたの、そんな顔をして」
部屋へ戻った桜桃を迎えた時雨は、手にしていた衣を畳むのをやめた。
「大丈夫。ただ、ちょっと疲れてしまって……」
「八重御所のお掃除って、そんなに大変なの?」
「ううん。その……帰りに宮内省の作業所へ、お届け物を頼まれて」
「……作業所?」
「ええ。奥のほうまで入ったのですが、そこで、以前宮廷にお仕えしていた方々を見かけて……」
桜桃は言葉を濁した。
時雨はしばらく黙っていたが、やがて畳みかけていた衣を膝の上へ置いた。
「……そっか。六花も、見ちゃったのね」
「時雨は知ってたの?」
「うん。私の友達もあそこにいるの」
「……え」
「鈴っていう子。昔から仲がよくてね。桂宮殿下にお仕えしていたんだけど、あの夜のことで捕まっちゃったの。鈴は何もしてないのに」
「桂宮殿下……」
「そう、謀反の首謀者よ」
時雨の言葉を理解するのに、長くかかった。
(桂宮殿下が謀反を……)
時雨は悔しそうに唇を結んだ。
「翌日は桜桃様の成人の儀だったから、私たちも紫宸殿の支度をしていたの。鈴も一緒だった。あの子、飾りの位置が少しでも曲がっていると気になるみたいで、何度も直してたのよ」
懐かしむように笑った時雨だったが、その表情はすぐに曇った。
「ようやく支度が終わって、宿舎へ戻ろうとしたとき、急に外が騒がしくなって。誰かが逃げろって叫んで、みんな一斉に走り出したの。私も鈴と一緒に逃げようとしたんだけど、途中で人が押し寄せてきて、はぐれちゃった」
「……それで、鈴は?」
「鈴は八重御所から出られなかったみたい。私は何とか逃げられたけど、あの子は中に取り残されて……」
時雨は膝の上で両手を握りしめた。
「謀反のあと、桂宮殿下にお仕えしていた侍女たちはみんな調べられたの。鈴もその一人だったんだけど、あの夜、八重御所の中で何をしていたのか、確かめられないんだって」
「……鈴は、何と言ってるの?」
「近衛の方に東の詰所へ行くよう言われて、そこで保護してもらったって。でも、誰が保護してくれたかは名前までは分からないみたいで……」
「そうだったの……」
「ごめんね。こんな話をしても困るよね」
「ううん」
桜桃は静かに首を振った。
「話してくれてありがとう」
時雨は不思議そうに桜桃を見たが、やがて小さく微笑んだ。
「……六花は優しいわね」
桜桃はその言葉に答えず、時雨の膝の上に置かれた衣へ目を落とした。
あの夜のことを、まだ誰も十分に確かめていない。
それならば、確かめるところから始めればいい。
「……近衛の誰が保護してくれたか分かればいいのよね」
「え? うん、たぶん。どうして?」
「ううん。分かればいいなって思っただけ」
桜桃はそう答えると、時雨の隣に腰を下ろし、畳みかけの衣へ手を伸ばした。




