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狂桜華《きょうおうか》~亡国の姫は、名を捨て帝を目指す~  作者:
第一章 桜、散る夜に

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第十五話 白檀の距離

 昼過ぎの廊は、人の往来が絶えなかった。

 書類を抱えた文官、荷を運ぶ侍女、指示を飛ばしながら歩く女官。誰もが急かされるように動いている。その流れに混じりながら、桜桃は次の仕事へ向かっていた。


「あなた、手が空いている?」


 不意に呼び止められた。

 振り返ると、年配の女官がこちらを見ていた。


「昊夜殿下の部屋の片付けを手伝ってきて。人が足りないの」


「……はい」


 短く返し、指示された方角へ向かった。


 昊夜が暮らしているのは、かつて桜桃が暮らしていた御所からは少し離れた位置にある御殿――「しょう殿でん」だ。


 菖蒲殿は、他と少し空気が違っていた。静かで、整えられているはずなのに――どこか張り詰めている。扉の前で一度息を整え、そっと中へ入る。

 灯りは落とされ、室内は薄暗かった。


(……散らかってる)


 思わず、そう感じる。机の上も、床も、文書が広がっている。整理されているようで、されていない。意図があるようで、ないような配置。


 その中央に、ひとり。

 男が、座ったまま眠っていた。軽く背を預け、目を閉じている。衣は乱れていない。だが、そのまま意識を手放したのだと分かる。


 昊夜だった。


 墨色の長い髪が、肩から胸元へと流れている。整った顔立ちが、眠っているせいか宴のときより少しだけ穏やかに見えた。


 ――あのときは、こんな顔をしていなかった。


 宴の場で見た昊夜は、どこか研ぎ澄まされていた。人の視線を受け流しながら、何かを静かに測っているような目をしていた。

 それが今は、すべて抜けている。眉の力が、口元の緊張が、何もかも消えている。ただ、眠っている。それだけなのに、桜桃はなぜかその顔から目が離せなかった。


 見てはいけない気がした。それでも、足が動かなかった。


 わずかな香が、鼻先に触れた。強いわけではない。ただ、薄く、静かに滲むような香り。白檀だ。


(……この香り)


 胸の奥で、何かが動いた。

 雨の匂い。濡れた石畳。屋根の下で言葉もなく並んでいた時間。あの軒下にも、この香りがあった気がする。

 胸がざわめく。


(この方が気になるのは……この香りのせいかもしれない)


 雨宿りの時も、廊ですれ違ったの時も、気になった。


 でも。それだけではない。もっと奥から、別の記憶がよぎった。


 幼い頃。まだ何も知らなかった頃。小さな手の中に、いつもあった香袋。いつから持っていたのか、もう覚えていない。ただ当たり前のようにそこにあって、当たり前のように手に馴染んでいた。


 その香りと、今ここに満ちている香りが――重なる。


(なぜ)


 胸元の香袋に、無意識に触れる。白檀に、やわらかく沈む蘭の香り。


(……六花)


 思い浮かんだのは、昊夜ではなかった。

 桜桃はそれを、すぐに胸の奥にしまった。


 起こすべきか、そのままにするべきか。迷い、やがて静かに動き出す。せめて足の踏み場くらいは整えようと。


 しゃがみ込み、文書を手に取る。内容は難解だが、流れは読める。手が自然と動いた。似た形式のものを重ねる。途中で、別の束に紛れていた紙を抜き取る。そのまま別に置く。もう一枚。同じように短い。それも重ねる。


 やがて、いくつかの束ができる。紙の端を揃え、順を揃え、机の上に戻した。


 そのとき。


 かすかに、昊夜の息が乱れた。


 桜桃は手を止め、恐る恐る振り返る。

端正な眉が、苦しげに深く寄せられていた。眠ったまま、彼の白い指先が何かを必死に拒むように、激しく空を掻く。


「……っ、……は、……な……」


 言葉にならない掠れた息が、喉の奥で途切れた。


 それはひどく孤独で、凄惨な何かに怯えるような、悲痛な響きだった。


(え……?)


 桜桃は息を呑んだ。

 冷徹無比な宮廷の剣。朝凪の地位を奪い、何不自由なくこの国を支配しているはずの男。そんな彼が、今、夢の中でたったひとり、恐ろしい暗闇に取り残されたように震えている。


 ――近づくべきではない。侍女の自分に関係のないことだ。


 頭では分かっているのに、彼の纏う孤独の気配から、どうしても目が離せなかった。あんなに「避けたい」と願っていたはずなのに、目の前で今にも壊れそうに息を詰まらせている彼を、どうしても放っておけない。


 気がつけば、一歩を踏み出し、彼の傍らに膝をついていた。


「……昊夜様?」


 そっと声をかけるが、届かない。冷たい汗が、彼の美しい額を伝って落ちる。


 そのとき、昊夜の薄い唇が、微かに開いた。


「……ゆす……」


 聞き取り切れないほどの、微かな、掠れた呟き。

 けれど、至近距離にいた桜桃の耳には、その響きが、あまりにも鮮明に届いてしまった。


「……桜、桃……」


(っ!?)


 落雷に打たれたかのように、桜桃の全身が強張った。

 なぜ。どうしてこの人が、今、その名前を呼ぶのか。


 それは新体制となったこの宮廷において、決して口にしてはならない、歴史の闇に葬られたはずの自分の本名。


 驚きと動揺で頭の中が真っ白になる。


 しかし、そんな桜桃の困惑を置き去りにするように、昊夜の呼吸はさらに激しく乱れ、何かを求めるように泳ぐ。まるで、今まさに目の前で誰かが殺されるのを、必死に止めようと手を伸ばしているかのように。


(あ……)


 考えるより先に、手が動いていた。

桜桃は、迷いから覚めたように手を伸ばし、彼の動く指先にそっと触れた。


 ひやり、とした。

 驚くほど冷たい指先だった。


「大丈夫ですよ……」


 少しでもその悪夢から救い出せるようにと、桜桃は無意識に、その冷え切った大きな手を両手でそっと包み込んだ。


 その、瞬間だった。


「っ……!」


 弾かれたように、昊夜の目が見開かれた。


 ぼんやりとした覚醒ではない。はっきりと、凄まじいまでの鋭い眼光が、至近距離にいる桜桃を捉える。


「あ、申し訳ございま――」


 驚いて手を引こうとした桜桃の手首が、それよりも早い速度で、強い力によって、ぐい、と 掴まれた。


「きゃっ!?」


 短い悲鳴を上げる間もなく、強い力で引き寄せられる。体勢を崩した桜桃の身体は、座ったままの昊夜の胸元へと倒れ込む形になった。


 彼の衣の奥から、激しく脈打つ心臓の音が伝わってくる。


 鼻腔を満たすのは、すれ違ったときと同じ、冷たくて、けれど熱を帯びた白檀の香り。


「……誰だ」


 地を這うような低い声。掴まれた手首が、折れそうなほどに強く締め上げられる。


 昊夜の目はまだ完全に覚醒しておらず、目の前の桜桃を、襲撃者か何かと誤認しているようだった。鋭い殺気が、狭い室内にぴりぴりと張り詰める。


「う……あ、あの、昊夜様……っ。侍女の、六花です……!」


 あまりの痛さと恐怖、そして至近距離にある美貌と、彼から受ける男としての体格差に、桜桃の心臓は破裂しそうに跳ね上がった。顔が、一気にカッと熱くなる。


 必死に名前を呼ぶと、昊夜の瞳の奥で、じわじわと焦点が合っていくのが分かった。


「……六、花……?」


 呟かれた声に、先ほどの鋭い殺気が、霧が晴れるようにふっと消えていく。

 昊夜は自分の状況を把握したのか、小さく息を吐き、ゆっくりと指の力を緩めた。けれど、手首を掴んだ手は離してくれない。そのまま、じっと伏せ目で桜桃を見つめてくる。


「申し訳ございません! 悪夢にうなされていらっしゃったので、その、つい……! 勝手に触れてしまい、本当に、申し訳ありません……っ!」


 桜桃は顔を真っ赤に染め、掴まれた手をぶんぶんと引いて、あわあわと必死に弁明した。恥ずかしさと申し訳なさで、今すぐこの場から逃げ出したい心地だった。


 そんな彼女の慌てぶりを、昊夜は静かに見つめていた。やがて、その端正な唇の端が、微かに、本当に微かに持ち上がる。まだ夢の縁にいるせいか、宴のときよりも、ずっと柔らかく、どこか子供っぽいような笑みだった。


 手首を掴んでいた手が、するりと離れる。


「いや」


 昊夜は軽く首を振り、乱れた前髪を無造作にかき上げた。


「……冷たかっただろう」


「え……?」


「手が。……お前に触れられて、目が覚めた」


 穏やかに、けれどはっきりと告げられた言葉に、桜桃は息が止まりそうになった。

 心臓の音がうるさくて、彼の顔を真っ直ぐに見ることができない。


 沈黙が落ちる。


 桜桃は赤くなった顔を隠すように、慌てて一歩後ろに下がり、深々とお辞儀をした。


「あの……! 宴の折は、ありがとうございました。お礼も申し上げられず……」


「ああ」


 昊夜は思い出したように息をつく。わずかに表情が柔らかくなる。


「大したことはしていない」


「ですが……」


「転びかけただけだろう」


 声音は穏やかだった。責める色はない。


「そういうこともある」


 さらりと言う。その言葉に、桜桃はわずかに肩の力を抜いた。

 昊夜は視線を外し、机の上を見る。


「母も、舞が上手かった」


 ふと、そう口にする。何気ない調子だった。


「……未散様が」


「いや、あの人は疾風……弟の母だ」


 わずかに笑う。だが、その次の言葉で空気が変わる。


「私の母はもういない」


 一拍。


「殺された」


 声音は変わらない。だが、そこに温度はなかった。感情を削ぎ落としたような響き。まるで、何度も繰り返してきた事実を、ただ口にしているだけのように。

 桜桃は息を呑む。


(……この目)


 一瞬だけ向けられた視線に、覚えがあった気がした。どこかで見たことがある。でも、それがどこなのかは分からない。


 昊夜はすぐに視線を戻す。何事もなかったかのように、整えられた書類に手を伸ばす。


「……お前」


 桜桃を見る。


「名は」


「六花と申します」


「六花か」


 小さく繰り返す。


「覚えておこう」


 軽い言い方だったが、言葉は残る。桜桃は一瞬だけ戸惑い、すぐに頭を下げた。


「勝手なことをしてしまい、申し訳ございません」


「構わない。人手が足りていないのは事実だ」


 書類を机に戻す。


「文官の方も滞っている。手が回るなら、そちらも手伝ってやってくれ」


 命令というより、任せるような口調だった。桜桃は一瞬だけ迷い――


「……承知いたしました」


 静かに答える。

 昊夜はそれ以上何も言わなかった。ただ、穏やかな表情のまま桜桃を見ていた。その奥に、わずかな興味を残しながら。


 扉が静かに開いた。


 盆を持った男が入ってきた。桜桃は見覚えがあった。廊下で声をかけてきた、あの男だ。部屋に入りかけて、桜桃を見て、昊夜を見て、机の上を見た。


「……整理してくださったんですか」


 桜桃に向かって言う。


「手伝いを頼まれましたので」


「そうですか」


 男は盆を机の端に置いた。湯気の立つ椀がある。


「昊夜様、食事です」


「……今は要らない」


「要ります」


千弦ちづる


「昨夜から何も召し上がっていないでしょう」


 昊夜が少しだけ黙る。


「……なぜ知っている」


「見ていたので」


「見ていたのか」


「はい」


 淡々とした答えだった。昊夜はため息をついた。

 桜桃は頭を下げた。


「では私はこれで……」


「少し待て」


 昊夜が言う。桜桃は足を止める。


「文官の手伝いに回る件、千弦に話を通しておく。困ったことがあればこいつに言え」


「……はい」


 千弦が桜桃の方を向いた。


「よろしくお願いします、六花さん」


 名前が知られている。どこから聞いてたんだろう、と桜桃は思った。


「こちらこそ」


 千弦はわずかに目を細めた。笑ったのかどうか、よく分からない顔だった。


 桜桃が部屋を出ようとしたとき、後ろから千弦の声が落ちた。


「……昊夜様が整理されたものを褒めるのは、珍しいですよ」


 小さな声だったが、聞こえた。

 桜桃は振り返らないまま、少しだけ足を速めた。


 廊下に出ても、白檀の香りが鼻の奥に残っている気がした。


(……覚えておこう)


 昊夜の言葉が、ふと戻ってくる。軽い調子だった。たぶん何でもない一言だ。それなのに、桜桃の胸の中でその言葉だけが妙に静かに響いていた。


 昊夜の言葉が、ふと戻ってくる。軽い調子だった。たぶん何でもない一言だ。それなのに、桜桃の胸の中でその言葉だけが妙に静かに響いていた。


 名前を、覚えておいてもらう理由が自分にはない。六花という名は、仮の名だ。それでも――それでも、なぜかその言葉が耳に残った。


(……それに、あのとき)


 歩きながら、桜桃の思考は、彼の手を握る直前のあの瞬間に引き戻されていた。

 悪夢の中で、彼は確かに、掠れた声で呟いたのだ。


 ――桜桃、と。


(名前を、呼ばれた……?)


 鼓動が痛いほどに跳ね上がる。


 聞き間違いだったかもしれない。あの薄暗い部屋で、ただ似た響きの違う言葉を聞き落としただけかもしれない。

 だって、彼が自分の正体に気づいているはずがないのだから。


 けれど、激しい動揺の波が引いたあとに、ひとつの事実が、すとんと桜桃の胸に落ちてきた。


(……ああ、そうか。あの方も)


 これまで、新帝の息子としてすべてを奪い取った側の人間だとばかり思っていた。


 けれど、世間から見れば、そして彼自身にとっても。


 ――昊夜はあの謀反の夜に、翌日に会うはずだった「婚約者候補」を亡くした男、ということになっているのだ。


 あの夜、父を殺され、帰る場所を失ったのは自分だけではなかったのかもしれない。

 彼もまた、あの炎の中で、約束されていたはずの未来を失った一人だったのだろうか。だからこそ、夢の中で、今なおあの名前を呼ぶほど深い傷を負っているのか。


 あの冷え切った指先と、夢の中の必死な表情が、重なって離れない。


 考えれば考えるほど、あの整いすぎた横顔にまとっていた、酷く冷たい孤独の理由が分かってしまう気がして、桜桃は胸が苦しくなった。

 知ってはいけないものに、触れてしまった。


 桜桃は少しだけ歩みを速めた。

 まとわりつく白檀の香りが追いかけてくる気がして、それを振り払うように、足早に廊下の向こうへと消えていった。

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