第十六話 元近衛中将、姫から逃げる
回廊は、人がせわしなく行き交っていた。
その内と外を分かつ境界に、朝凪は立っていた。
朝凪は、門の柱にもたれることなく、ただ静かに背筋を伸ばしてそこに佇んでいた。
《姫様観察日記》
五日目。
姫様が侍女の列に混じって回廊を通っておられた。重たそうな荷を両手で抱え、足早に歩いている。顔色は悪くない。足取りも安定している。ただ、少し俯き加減だった。あの表情は間違いなく、何かを考えている顔だ。
(……何を考えている)
胸の中で問いかけても、その声が届くことはない。届かせるつもりも、初めからなかった。
ただ、遠ざかる凛とした背中を静かに見送る。それだけでいいと、あの朝に心へ誓ったはずだった。
……はずなのだが、なぜこうも「何を悩んでいるのか今すぐ教えてください」と胃がキリキリと痛むのだろうか。
七日目。
姫様が宮内省の方角から歩いてこられた。手には小さな紙片を握りしめ、時折それに目を落としては、行き交う女官に何かを尋ねている。顔色は普通だ。だが、歩き方が妙に速い。これは間違いなく、昔からの「没頭すると周囲が見えなくなる悪癖」が出ている証拠だ。
(……何を調べている)
いっそ目の前に現れて、何をしているのか問いただすべきだろうか。いや、たとえここで言葉を尽くして止めたところで、姫様は「嫌です」の一言で聞き入れるわけがない。知っている。あの方は昔から、一度決めたら梃子でも動かないお人なのだ。
ため息をつきながらも、遠くからはらはらと見守る。今日も私の寿命は確実に縮んでいる気がする。
朝凪は、小さく息を整えて視線を再び御門へと戻した。
すると、隣の門兵がまた怪訝そうな眼差しをこちらに向けていた。
「あんた、今あの侍女のこと見てたよな」
「見ていません」
「見てたよ。すごい目で」
「仕事です」
「門番の仕事に侍女は関係ないだろ」
朝凪はそれ以上、言葉を返さなかった。
門兵は短いため息を漏らすと、それ以上は追及してこなかった。
「……まあいいけどさ」
九日目。
姫様が侍女部屋へ戻っていくのが見えた。少し、疲れた顔をしていた。
朝凪は、一瞬だけ目元を険しくした。
すかさず、隣の門兵が呟く。
「あんた今、心配そうな顔してたよな」
「そういう顔ではありません」
「じゃあどういう顔だよ」
「仕事中の顔です」
門兵が、今度はあきれたように深く息を吐いた。
「……あの侍女と知り合いか?」
朝凪は、ほんの少しだけ間を置いた。喉の奥が、わずかに乾く。
「違います」
「そうか」
門兵はそれきり、何も聞いてはこなかった。
ただ、その日の夕方あたりから、隣の門兵が、桜桃の歩いていく方向を時折、さりげなく目で確認するようになった。
朝凪には、その理由がどうしても分からなかった。
そんなある日、朝凪がいつものように門に立っていると、背後から聞き覚えのある声が聞こえた。
「元近衛中将ともあろう方が、こんなところで何をしているのです」
朝凪が振り返ると、そこには呆れたような顔をした清明が立っていた。
「……清明様」
「宮廷は人手不足なのです。戻るなら戻ってください。門の陰に隠れていられても困ります」
「今はまだ戻れません。私がここにいることは、どうか内密に」
「あなたは目立つのですから、いずれ見つかると思いますよ」
清明は小さく息をついた。
「それで、桜桃殿にも正体を隠すおつもりですか」
「はい」
「あなたが生きていると知れば、あの方は喜ばれるでしょうに」
その言葉に、朝凪は視線を落とした。
「私は近衛中将として顔を知られています。私が姫様と親しくしていれば、あの方が何者なのか、疑う者も出てくるでしょう」
「では、人目を忍んで会えばよいのでは?」
「……姫様は、隠し事がお得意ではありませんから」
清明は一瞬黙り、それから何とも言えない顔になった。
「それは、否定できませんね」
「一度お会いすれば、きっとまた会いたくなるでしょう。私も、あの方も」
朝凪は静かに続けた。
「今は、あの方の正体を知られるわけにはいきません」
清明はしばらく朝凪を見つめていたが、やがて諦めたように息をついた。
「……まったく。あなた方は、揃って厄介なことをなさいますね」
「申し訳ございません」
「謝るくらいなら、もう少しご自分を大切になさってください。あなたがここにいると知ったら、どれほど仕事を押しつけたい者がいることか」
「……ご忠告、感謝いたします」
「感謝するだけなら、誰にでもできますよ」
清明はそう言い残し、朝堂院へ向かって歩いていった。
朝凪はその背中を見送ると、再び門へと向き直った。
ちょうどそのとき、門の向こうから、見覚えのある少女が歩いてくる。
薄い色の衣に、見慣れた歩き方。こちらへ向かってくるその姿を認めた瞬間、朝凪は思わず身を強張らせた。
(姫様……!)
朝凪は咄嗟に身を翻し、門柱の陰へ滑り込んだ。
(……気付かれた?)
先ほどまで清明に堂々と語っていた決意が、わずか数息で試されることになるとは思わなかった。
しかし、桜桃は朝凪の隠れた門柱には目もくれず、隣に立つ門番へ声をかけた。
「あの、少しお尋ねしてもよろしいでしょうか」
「ん? 何だ?」
隣の門兵が答える。
その門兵が、ちらりと朝凪の隠れた柱へ目を向けた。
朝凪は無言で首を横に振った。
門兵が訝しげに眉を上げる。
朝凪は、もう一度首を振った。
今度は少し強く。
「……」
「あの……」
「ああ、悪い。何だった?」
門兵は慌てて桜桃へ向き直った。
「謀反の夜の、近衛の当直割を見たいのですけれど……」
「……当直割?」
「はい。あの日、ある場所を担当していた方のお名前を、確かめたいのです」
「お前、侍女だろう? 当直割なんぞ見せられるわけがないだろう」
「お前、侍女だろう?」
「はい」
「侍女に当直割を見せられるわけがないだろう」
「そこを、何とかお願いできませんか?」
「何とかって言われてもなあ……」
門兵は困ったように頭をかいた。
「あの日は皇族方が八重御所に集まっていたからな。特別な配置が組まれていたはずだ。そういうものは、俺たちが勝手に見せられる文書じゃない」
「では、近衛府には残っているのでしょうか?」
「残ってはいるだろうが、謀反のあとで人員も入れ替わり、俺たちには、どこに保管されているのかまでは分からん」
柱の陰で、朝凪は静かに目を伏せた。
(……近衛府の東書庫の奥、二番目の棚だ)
あの日は皇族が八重御所に集められるため、警備の配置は事前に細かく定められおり、臨時当直割は通常の当直割とは別に保管されていた。
保管箱が動かされてなければ、まだそこにあるはずだった。
ただし、問題が一つあった。
(……鍵は、私が持っている)
朝凪はそっと懐へ手を入れた。
謀反の後、朝凪は一度も近衛府には戻っていない。
臨時当直割を収めた施錠箱の鍵は、朝凪が管理していたため、あの日からずっと朝凪の懐に入っていた。
指先に、使い慣れた小さな鍵が触れる。
「……では、どなたにお尋ねすればよろしいのでしょう?」
「さあな。近衛府の上の人間なら、何か知っているかもしれんが……」
「そうですか。ありがとうございます」
桜桃は丁寧に頭を下げた。
「お忙しいところ、申し訳ありませんでした」
「いや、別に構わんけど……」
桜桃はもう一度礼をすると、来た道を戻っていった。
朝凪はその姿が見えなくなるまで待ち、ようやく柱の陰から出た。
隣の門兵が、じっとこちらを見ていた。
「……おい」
「何でしょう」
「あんた、さっき何で隠れたんだ?」
「……別に」
「別にってことはないだろ。あの侍女が来た途端、ものすごい速さで隠れたじゃないか」
「気のせいです」
「いや、見たから」
朝凪は答えなかった。
門兵はしばらくその横顔を眺めていたが、やがて何かを納得したように頷いた。
「……なるほどな」
「何がです?」
「いや、何でもない」
妙に含みのある声だった。
朝凪は怪訝に思ったが、追及するより先に、懐の鍵へ意識を戻した。
姫様は、あの夜の臨時当直割を探しておられる。
何のためかは分からない。だが、必要だというのなら、何とかしてお渡ししたかった。
しかし、直接お渡しするわけにはいかない。
(……どうしたものか)
朝凪が思案している傍らで、門兵はひとり、何やら訳知り顔で頷いていた。
***
桜桃が昊夜の姿を見つけたのは、日も傾きはじめた頃だった。
回廊の向こうを、一人で歩いている。
(……昊夜様?)
先ほど、門兵に言われたことを思い出す。
『近衛府の上の人間なら、何か知っているかもしれんが……』
(……昊夜様なら、ご存じかしら)
昊夜は近衛中将だ。少なくとも、門兵よりは詳しい事情を知っているはずだった。
けれど、素直に教えてくれるだろうか。
八重御所で肖像画に水をかけたときのことを思い出し、桜桃は思わず眉を下げた。あのときも、昊夜には随分と呆れられてしまった。
それに、菖蒲殿での出来事もある。
冷え切った指先。苦しげに寄せられた眉。そして、眠りの中で零れた、自分の名。
途端に頬が熱くなり、桜桃は頭の中の光景を振り払うように小さく首を振った。
(……でも、聞くだけなら)
もう一度、昊夜へ目を向ける。
供も近衛も連れていない。いつもなら人目を集める男が、今日はむしろそれを避けるように、ひっそりと宮の奥へ向かっていた。
桜桃は少し迷った末、そのあとを追いかけた。
声をかける機会をうかがいながら、見失わない程度に距離を置いて歩く。けれど、昊夜は人の少ない回廊を選ぶように進み、なかなか足を止めようとしない。
(……どちらへ向かわれるのかしら)
やがて昊夜が角を曲がり、その背が見えなくなった。
桜桃は慌ててあとを追ったが、角を曲がったところで足を止めた。
その先にあるのは、皇族墓所だった。
(……こんなところまで来てしまった)
今さら引き返すことも考えたが、昊夜に尋ねたいことはまだ何一つ聞けていない。
桜桃はしばらく迷い、結局、そのまま墓所へ足を踏み入れた。
焚かれたばかりの香の匂いがした。
昊夜は、墓碑の前に立っていた。
そこに刻まれている名を見て、桜桃の足が止まる。
星河帝。
昊夜は何も言わず、香を手向けていた。
そして、もうひとつ。
その隣にある、小さな墓碑にも。
咲宮桜桃。
自分の名の前に、星河帝へ供えたものと同じ香が立っている。
桜桃は思わず息を呑んだ。
「誰だ」
低い声が飛んできた。
桜桃の肩がびくりと揺れた。
「……申し訳ございません」
昊夜が振り返り、桜桃を見る。
「何をしている」
「お掃除に……」
「ここをか」
「……はい」
昊夜の視線が、ゆっくりと桜桃の手元へ落ちた。
何も持っていない。
箒もなければ、布一枚ない。
「…………」
「…………」
逃げ道を探すように桜桃が目を泳がせる。
けれど昊夜は追及することなく、
「そうか」
とだけ言って、再び墓碑へ向き直った。
(絶対、信じていない……)
それでも帰れとは言われなかった。
桜桃はしばらく迷った末、父の墓碑へ視線を向けた。
細い煙が、夕暮れの空へ静かに昇っている。
「……先帝に、ですか」
「世話になった。幼い頃から、随分とな」
桜桃は驚いて、その横顔に目を向けた。
意外だった。
桜桃にとって昊夜は、父の死後に帝位へ就いた虚空帝の長子であり、今の宮廷を支える側の人間だった。
もちろん、それだけで父を憎んでいたことにはならないけれど。
こうして誰にも見られぬところで父へ香を手向ける姿を見ると、自分の中にあった警戒が、ほんの少しだけ揺らいだ。
そして桜桃の目は、どうしてもその隣へ向かってしまう。
自分の名が刻まれた墓碑。そこにも、同じ香がある。
「……その」
「何だ」
「皇女殿下にも……?」
昊夜は答えなかった。
桜桃は迷いながら、六花として知っていてもおかしくない言葉を選ぶ。
「婚約者候補でいらしたと……お聞きしたことがあります」
わずかな沈黙のあと、昊夜が口を開いた。
「……そうなるはずだった」
その声には、悔恨とも寂しさともつかない、微かな響きがあった。
「会ったこともない」
「……」
「一度もな」
昊夜の視線が、墓碑に刻まれた「桜桃」の二文字へ落ちる。
「会う予定だった。あの夜に」
桜桃の指先が、袖の中で強張った。
あの夜、父が殺され、六花が死に、自分が桜桃ではなくなった夜。
もし、あの夜がなかったなら。
自分は今頃、この男とどのような関係になっていたのだろう。
桜桃は墓碑を見つめる昊夜の横顔を見上げた。
「……皇女殿下のことを、お好きだったのですか」
言ってから、自分で息を止めた。




