第十六話 高官たちのお茶会
廊の奥の小部屋は、外の喧騒からわずかに切り離されていた。
机の上に茶と菓子が並んでいる。葛饅頭が三つ。それから小さな干菓子の盛り合わせ。高官たちのお茶会である。
先に男が来ていた。
白蔵如月――太政官の左大臣と地方行政を司る民部卿を兼任している。
深紫の文官服、袖口に刻まれた紋が、燭台の光の中でわずかに浮き上がっている。この場で最も位が高いことを示す紋だった。
細身で、背筋が伸びている。
無駄のない座り方だった。湯呑みを手に、書類を読んでいる。
「如月殿」
雲英紫苑が入ってくる。濃紺の文官服。胸元の紋が、如月のものとわずかに違う。衿から裾まで一切の隙がない。どんな場にも同じ顔で現れる、用意の整った人間の立ち方だった。穏やかな顔立ちで、物腰が柔らかい。
中務卿として宮中の事務や女官を統括する立場の者だ。
「早いですね」
如月は書類から目を上げない。
「ここでですか」
「どこでやっても同じだ」
雲英は少しだけ口元を緩めて、椅子に座った。茶を一口飲む。
それからふと机の上を見て、眉をわずかに寄せた。菓子の盆が、少しだけ傾いている。そっと直す。水平になった。満足して茶を飲む。
「清明殿は」
「もうすぐ来られるでしょう」
言い終わる前に、扉が開いた。
治部卿と実務を統括する左大弁を兼ねる、青陽清明が入ってくる。穏やかに笑っているが、その笑みの奥に何があるのか、簡単には読めない。
「お待たせしました」
「遅い」
如月が短く言う。書類から目を上げないまま。
「そうですか。丁度いい時間と思いましたが」
「俺の時間のほうが丁度いいと思うな」
「これはこれは」
清明はまったく気にした様子もなく椅子に座った。そして自然な動作で葛饅頭を一つ取る。一番大きいものだった。
雲英が横目で見た。如月も横目で見た。
清明は静かに茶を一口飲んだ。
沈黙。
「……ところで」
如月が書類を最終決済のための上申箱へと移そうとするが、その手前で清明が指先でその書類の端を軽く押さえた。如月が書類から目を上げる。
「書類の処理が滞っている。文官の人手が足りていない」
「知っておりますよ」
清明は葛饅頭を食べながら答える。その声は穏やかだが、知っている、という言葉に重みがあった。把握した上で、ここにいる。そういう人だと分かる。
「だから困っておるんです」
「対策は」
「そうですな」
清明はしばらく考えてから答える。
「順を追って処理するほかないでしょうな」
「順を追っていたら、因州が干上がります」
如月が書類を一枚、机に置く。
「地方支援の稟議、もう三月止まっています」
「止まっているのではありません。積み上がっているのです」
「同じことでしょう。俺が民部卿として、左大臣として通すと言っている」
「いくら如月殿が最高位の大臣であっても、左大弁たる私が太政官会議へ上進させ、決裁経路に乗せねば書類はただの紙切れです」
清明は穏やかに言う。その穏やかさは、苛立ちを抑えているのではない。本当に揺れていない。
扉がもう一度開いた。
「失礼いたします」
入ってきたのは財政を司る大蔵卿の鷹取大和だった。
年の頃は五十前後。柔和な顔立ちだが、どこか胃痛を抱えていそうな男である。
「おや」
清明が笑う。
「珍しいですね」
「珍しくも何もありません」
鷹取はため息をついた。
「また民部省が金を使おうとしていると聞きましたので」
如月が顔を上げた。
「使うのではない。必要な支出だ」
「大蔵省からすると同じです。因州支援に幾ら必要なのです」
「七万両」
「無理ですな」
「まだ何も言っておりません」
「七万両と聞いた時点で無理です」
鷹取は毅然として言い、清明が頷く。
「前例のない支出を、前例通りの順で通す。それだけのことです」
「その間に死ぬ人間がいます」
「それも、分かっております」
如月は少しだけ黙った。
清明の声は変わらない。穏やかで、しかし芯がある。
「前例のない支出を、前例通りの順で通す。それだけのことです」
「その間に死ぬ人間がいます」
「それも、分かっております」
如月は少しだけ黙った。清明の声は変わらない。穏やかで、しかし芯がある。
「如月殿、あなたが案じる気持ちは分かります。だが、朝廷も先の謀反で崩れかけておるのです。まずはこの朝廷の足元を完全に立て直してからでなければ、手順一つ崩しただけで、そこから全てが雪崩を打って崩壊しますよ」
「……」
「地方支援は通します。ただし、順通りに」
如月は書類を手に取った。
「遅い」
「急いで崩れるより、遅く保つほうがましです」
「その理屈、因州の民に言えますか」
「言えません」
清明は静かに答えた。
「だから私は、ここで茶を飲んでいるのです」
沈黙が落ちた。
雲英は静かに茶を飲んでいた。
「……そういえば、昊夜殿下が侍女を一人回してくださるそうで」
「侍女が」
如月の声が少しだけ低くなる。
「書類整理に、か」
「昊夜殿下の指示ですから、それなりに使えるのでしょう」
「六花という者のようです」
雲英が静かに補足する。
「……女官の管理は私の職掌ですから、手続きは確認しておきます。ただ」
雲英がわずかに眉を寄せた。
「侍女が書類に触れることについては、少し気になりますね」
「人手は人手だ。使えるものは使わないと」
如月が実務的に言った。
「昊夜殿下が直接動かれるとは珍しいですね」
「そうですな」
清明は茶を一口飲んだ。
白磁の茶器が、微かな音を立てて卓に戻される。
清明の目がわずかに細くなる。
笑みは消えない。声音も変わらない。
ただ、その目だけが違う色をしていた。
「昊夜殿下が直接選んだ者ですから」
穏やかな声だった。
「それだけの理由があるということでしょう」
「……それは理由になりませんが」
鷹取が静かに返す。
「理由になりますよ」
清明は短く、遮るように言った。
その一言に宿った静かな響きに、雲英がわずかに息を呑む。
清明は茶器に指を添えたまま、二人をまっすぐに見据えた。
「殿下は『秤』を置かれたのです。我々がその娘をどう扱うかで、こちらの出方と器を測るために」
簡潔極まるその指摘は、まるで盤上に一本の鋭い楔を打ち込まれたようだった。
「……面白いことになるかもしれませんな」
誰に言うわけでもなく、清明はそう呟いた。
また茶に口を付ける。その横顔には、すでに盤面の結末まで見えているかのような、不気味な静けさがあった。
如月は少しだけ黙った。
清明と付き合いは長い。
この人が「面白い」と言う時は、大抵もう答えが出ている。
「……まあ、その侍女のことは注意して見ておこう」
「そうしましょう」
清明が干菓子に手を伸ばした。
如月は書類に視線を戻した。
雲英はその横で、さりげなく盆の位置を直していた。
清明が干菓子に手を伸ばす。雲英がまた直す。清明が取る。雲英が直す。
「……雲英殿」
如月が静かに言う。
「はい」
「それは何をしているんだ」
「盆が傾いていますので」
「傾いていない」
「傾いています」
「どこがだ」
雲英が盆を指で示す。
「ここが、ほんの少し」
如月には分からなかった。清明はにこやかに干菓子を食べている。
沈黙。
如月が書類に視線を戻す。
「ところで」
清明がふと言う。
「葛饅頭、皆さんは召し上がらないのですか」
残り二つが、まだ盆の上にある。
「食べます」
如月が素早く答えた。雲英と鷹取も静かに手を伸ばした。二人の手が同時に、残り二つの葛饅頭へ向かった。
一瞬だけ、空気が止まる。
「……どうぞ」
雲英が引く。
「いただきます」
如月と鷹取が取る。雲英は静かにお茶を飲んだ。
清明は微笑みながら全部を見ていた。
「……何が可笑しいんですか」
如月が言う。
「いいえ」
清明は首を振る。
「何も」
そう言って、また茶を一口飲んだ。
廊下の外では、まだ書類を運ぶ足音が続いていた。




