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狂桜華《きょうおうか》~亡国の姫は、名を捨て帝を目指す~  作者: 澪
第一章 桜、散る夜に【帝都崩落編】

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第十七話 重臣、饅頭を取り合う

(何を聞いているの!?)


 皇女を好きだったかなんて、侍女が皇子に尋ねることではない。


 それ以前に、本人が自分の墓の前で、自分との婚約について聞いている。


 昊夜もさすがに桜桃を見た。


「…………」


「……申し訳ございません。今のは」


「分からない」


「え?」


「会ったこともない相手を、好きだったかと聞かれても分からない」


 あまりにも真っ当な答えに、桜桃は何も言えなくなった。


 昊夜は再び墓碑へ視線を戻した。


 しばらくして、ぽつりと続ける。


「……会ってみたかったとは思う」


 胸の奥が、微かに揺れた。


 あの文を、彼は捨てていなかった。


 何年も前に一度だけ交わした、好きな花を尋ねただけの文を。


 そして会ったこともない自分の墓へ、こうして香を手向けている。


「……あのっ」


 声が出た。


 昊夜が振り返る。


「何だ」


 桜桃は唇を開いた。


(私は、ここにいます)


 ほんの一言だった。


 けれど、喉元までせり上がった言葉を、桜桃は呑み込んだ。


 ここで名乗れば、何が起こるのか。


 自分だけの問題ではない。


 六花が命を懸けて残してくれた名も、朝凪が守ろうとした命も、父の死の真相も、まだ何一つ分かっていない。


 今の自分には、桜桃へ戻る覚悟も、その名がもたらすものを背負う力もない。


 桜桃は、衣の袖をきつく握った。


「……なんでも、ありません」


「そうか」


 昊夜はそれ以上は問わなかった。


 桜桃も握りしめていた袖からゆっくりと指を離す。


「六花」


 不意に名を呼ばれて、少しだけ居心地が悪くなった。


「はい」


「お前は侍女に向いていない」


「……え?」


 思いがけない言葉に、桜桃は目を瞬かせた。


「掛け軸に水をかけるわ、掃除に来たと言いながら掃除道具ひとつ持ってこない」


「…………」


 桜桃は返す言葉を失った。


 どちらも事実である。


 もっとも、掛け軸に水をかけたのには事情があったし、今も本当は掃除をしに来たわけではない。けれど、それを説明できるはずもなかった。


「……申し訳ございません」


「文官の仕事を手伝え。そちらのほうが向いているだろう」


「……文官の、お仕事ですか?」


「ああ。許可は取ってある。明日から朝堂院の書庫へ行け」


「……書庫へ」


「図書寮の役人を手伝え。話は通してある」


 桜桃は目を瞬いた。


 謀反のあと、多くの官吏や女官が宮を去ったとは聞いている。


 ただの侍女である自分まで書庫へ駆り出されるのなら、宮廷の内側は、外から見える以上に人手を失っているのかもしれない。


「……分かりました。精一杯務めさせていただきます」


 昊夜は短く頷くと、墓碑を最後に一瞥し、出口へ向かって歩き出した。


 桜桃も慌てて頭を下げ、その背中を見送った。


 夕暮れの光が墓碑を淡く照らし、手向けられた香から細い煙が昇っている。


 桜桃はしばらくその場に立ち尽くしていたが、やがて小さく息を吐いた。


(……あ)


 ふと、あることに気づく。


(当直割がどこにあるのか、聞くのを忘れた……)


 昊夜の姿は、すでに墓所の向こうへ消えていた。


 ***


 八省の文官たちが勤める朝堂院。その奥にある小部屋では、三人の高官が茶を囲んでいた。


 机の上には葛饅頭が三つと、小さな干菓子の盛り合わせ。


 傍から見れば、何とも優雅なお茶会である。


「清明、いつになったらこの因州支援の稟議書を通してくれるんだ」


 ただし、当人たちの機嫌は、あまりよろしくなかった。


 民《みん》部《ぶ》卿《きょう》と左大臣を兼ねる白蔵《はくぞう》如月は、手にしていた書類を清明の前へ突き出した。


「何度も申し上げておりますが、まずは帝都を立て直さなければなりません」


 清明は書類を一瞥しただけで、ゆっくりと茶に手を伸ばした。


「帝都、帝都と、そればかりではないか。地方の民は待ってくれんぞ」


「承知しております」


「承知しているなら通せ」


「それとこれとは別の話です」


「……この石頭め」


「何かおっしゃいましたかな?」


「いや、何も」


「そうですか。では、こちらの書類は一旦お返しします」


「聞こえているではないか!」


 如月が声を荒らげると、清明は涼しい顔で葛饅頭を一つ取る。


 清明は治部《じぶ》卿《きょう》と左大弁を兼ねている。


 左大弁とは、各省から上がってきた稟議書を審査し、決裁する役職だった。


 つまり、民部卿である如月が地方支援の稟議書を作成し、左大弁である清明がそれを決裁し、さらに左大臣である如月が承認するという、何ともややこしい仕組みになっている。


 それもこれも、謀反によって多くの官吏が失われ、残された者たちがいくつもの役職を兼ねているせいだった。


「そもそも、俺が最後に承認する書類を、なぜお前に止められねばならんのだ」


「そういう制度ですので」


「制度を変えろ」


「左大臣である如月殿が、正式にご提案なさればよろしいかと」


「その提案書もお前が止めるのだろう!」


「内容によりますな」


 清明はにこやかに答えた。


 向かいに座る中《なか》務《つかさ》卿《きょう》の雲英《きら》志《し》恩《おん》は、困ったように二人を見比べている。


「まあまあ、お二方とも。せっかくのお茶が冷めてしまいますよ」


「雲英、お前からも何か言ってやれ」


「ええと……」


 突然話を振られた雲英は、少し考えた。


「如月殿のおっしゃることも、もっともかと」


「そうだろう」


「ですが、清明殿にもお考えがあるのでしょうし……」


「どちらの味方だ」


「……できれば、どちらの敵にもなりたくありませんね」


 雲英が苦笑すると、清明は楽しそうに茶を飲んだ。


「賢明な判断ですな」


「お前は黙っていろ」


「これは手厳しい」


 そのとき、襖の向こうから声がした。


「失礼いたします」


 入ってきたのは、朝廷の財政を一手に握る大蔵《おおくら》卿《きょう》・鷹取《たかとり》大和《やまと》だった。


 年齢は五十の手前ほど。柔和な面立ちではあるが、眉間の皺に絶えぬ心労を滲ませている。


「おや、珍しいですな」


 清明が小さく口元を綻ばせた。


 鷹取は、座へ近づきながら深くため息をついた。


「珍しくも何もありません。また民部省が金を使おうとしていると聞きましたので」


 如月が顔を上げた。


「使うのではない。必要な支出だ」


「大蔵省からすると同じです。因州支援に幾ら必要なのです」


「七万両」


「無理ですな」


「まだ何も要望を言っておりません」


「七万両と聞いた時点で無理です」


 鷹取は頑ななまでに言い切り、その言葉を引き取るように清明が頷く。


「如月殿。あなたが案じる気持ちは分かります。ですが、帝都も先の謀反で大きな傷を負っているのです。まずは朝廷を立て直さねば、地方へ送る支援さえ続けられなくなります」


「その間に死ぬ人間がいる」


「分かっております」


「ならば、急げ」


「急いで崩れるより、遅く保つほうがましです」


 如月は、手元の書類を強く握り直した。


「……その理屈、因州の民に言えますか」


「言えません」


 清明はただ静かに答えた。


「だから私は、ここで茶を飲んでいるのです」


 如月は口を閉ざした。


 清明もそれ以上は何も言わなかった。


 雲英は二人の顔を見比べたが、今度は仲裁の言葉を挟まなかった。


 しばらくして、清明が茶器を置いた。


「……ところで、昊夜殿下から侍女を一人、こちらへ回してくださるという話がありましてな」


「侍女? 書類整理に、か」


 清明は再び茶を一口飲んだ。 


 白磁の茶器が、微かな音を立てて卓に戻される。


「昊夜殿の指示ですから、それなりに使えるのでしょう」


「六花という侍女だそうです」


 雲英が静かに補足する。


「女官の管理は中務省の職掌ですから、こちらでも手続きを確認しておきましょう。ただ、侍女に書類を扱わせるとなると、少々気になるところではありますね」


「人手が足りんのだ。使える者は使わねばなるまい」


 如月はあっさりと言った。


「昊夜殿下がわざわざ人を寄越されるのです。少しは仕事が進むかもしれませんな」


「そう願いたいものだ。特に、俺の稟議書がな」


「それは書類の出来次第でしょう」


「決裁するのはお前だろうが!」


 再び始まった言い合いに、雲英は天井を仰いだ。


 鷹取は何も聞こえなかったことにして、葛饅頭へ手を伸ばす。


「……あ」


 雲英が小さく声を漏らした。


 盆に残っていた葛饅頭は、あと一つ。


 雲英が手を伸ばすと、如月もちょうど手を伸ばしたところだった。


 二人の視線が、盆の上で交わる。


「……どうぞ」


 雲英が手を引いた。


「いや、そちらこそ」


 如月も譲る。


「私は結構ですので」


「俺も今は食べる気分ではない」


「では、私がいただきましょう」


 横から清明の手が伸びてきた。


 葛饅頭が、消えた。


「……」


「……」


 如月と雲英が同時に清明を見る。


 清明は何事もなかったように葛饅頭をかじった。


「いやはや。今日の葛饅頭は、なかなかのものですな」


 如月は深く息を吸った。


「……清明」


「何でしょう」


「お前とは、一度じっくり話し合う必要がありそうだ」


「稟議書の件でしたら、また後日に」


「葛饅頭の話だ!」


 再び声を荒らげた如月に、雲英はとうとう額へ手を当てた。

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