第十七話 記録のない侍女
朝堂院では、崩れた区画の修復と滞っていた書類の整理に追われ、廊下には人の気配が絶えない。
朝堂院の書庫の一角が作業場として設けられ、桜桃はそこで、文書整理の仕事にあたっていた。
昊夜からの指示で、文官の手伝いに回された。本来なら侍女の務めから外れる役目だ。
だが――この場所には、残されているものがある。あの夜に関わる記録も、その中に含まれているはずだった。手を伸ばせば届く位置にある。そう思えば、断る理由はなかった。
書類の束を抱えて棚へ向かうと、奥から声がした。
「そこではありませんよ」
静かだが、はっきりした声だった。振り返ると、濃紺の文官服をまとった雲英が立っていた。穏やかな顔をしている。怒気も威圧もない。
「その束は、あちらの棚です。二段目の右側」
「……はい、失礼しました」
「いいえ」
雲英は、かすかに口元を綻ばせた。
「初めての方には分かりにくいですよね。私は雲英といいます」
「六花と申します。よろしくお願いします」
「よろしくお願いします」
雲英は桜桃の抱えていた重い紙の束を代わりに受け取ると、澱みのない手際で指定の棚の隙間へと収めた。衣服が擦れ合うかすかな音が、静まり返った書庫に響く。
「あの」
桜桃は、その流れるような一連の動作をじっと見つめていたが、思わず言葉を零した。
「整理が、お上手ですね」
「そうですか」
雲英は少しだけ目元を和らげた。
「部下に厳しい者がいまして。おかげで私もこうなりました」
「部下の方に、ですか」
「ええ。場所が決まっていれば探す時間が省ける、迷わなくて済む、と。毎度言われているうちに、自然と」
淡々とした、しかし丁寧な口調だった。度重なる忠告に呆れているのか、あるいは深く感謝しているのか、どちらとも取れる言い回しに、桜桃は小さく息を吐く。
「ここの書類、かなり乱れていたんですよ」
雲英は並んだ背表紙をゆっくりと見渡した。窓外からの光が、積もった微かな埃を照らし出している。
「どちらにしても、整えれば済む話ですが」
そのとき、廊下からこちらへ近づいてくる足音が届いた。
「雲英様」
もう一人の男が部屋に入ってきた。まだ年若く、腕に新たな帳面を抱えている。
「雨宮です。先ほどの束を持参しました」
「ありがとうございます」
雲英がその手から書類を受け取る。綴じ紐を解き、中身を確認しようとした、まさにその時だった。
「端を揃えてからお持ちしました」
雨宮が、じっと雲英の手元を見つめながら言った。
「はい」
「読む際は、端を揃えたまま読んでいただけると」
雲英の指先が、わずかに静止する。
「……そうですか」
「崩れると、次の方に渡す際にまた整える手間が生じますので」
「……わかりました。気をつけます」
雨宮は満足したように深く頭を下げ、棚の方に向かった。
桜桃は、その実直な背中が遠ざかるのをしばらく見送った。
(……この人が、その部下か)
先ほど雲英が口にしていた、整理整頓に関して一切の妥協を許さないという者。
なるほど、と胸の内で小さく得心がいく。
雲英はしばらく手の中の書類に視線を落としていた。やがて、呼吸を整えるように静かに中身をめくり始める。雨宮の言葉通り、四方の端は丁寧に揃えられたままだった。
「六花殿」
雲英がふと振り返り、桜桃の目をまっすぐに見据えた。
「この棚の分類が終わったら、次はあちらをお願いできますか。古い記録の束を奥の棚に移してください」
「分かりました」
雲英はそれだけ言うと、衣の裾を小さく揺らしながら、別の棚へと静かに移っていった。
桜桃は言われた通りに棚を確かめながら、古い記録の束を一つずつ手にとった。年月を重ねたものほど、和紙の端が茶色く黄ばんでいる。
棚の片隅に、一冊の古い帳簿が差し込まれているのが見えた。宮廷で働く侍女たちの名や素性を個別に記したものだ。何気なくその背表紙を引き抜き、手元で静かに頁を繰る。
炭書きの整った文字が、どれも同じ筆致で整然と並んでいた。上段には、割り振られた人数とそれぞれの役目だけが簡素にまとめられている。
──皇女付き 三名。
墨色の薄い、ただ一行の記述。その下に、いくつかの名が連なっていた。
桜桃は、じっと指先でその文字の列を追っていく。
ある一箇所で、その指がぴたりと止まった。
――六花。
その名は、確かにそこに墨で書かれていた。
だが、その先へ視線を滑らせた桜桃の眉が、わずかに寄る。そこから右の欄には、何も続いていなかった。
本来であれば、細かな役目や奉公の期間が記されているはずの場所が、空白のまま残されている。
それだけではない。
かつて母に仕えていたはずの、古い侍女たちの記録をどれほど探しても、その文字は見当たらない。
もう一冊、隣にあった分厚い帳簿を手に取り、頁を細かくめくっていく。
それでも、求めるべき過去の痕跡は、どこにも見つからなかった。
「おかしい……」
ひんやりとした書庫の空気のなか、桜桃の唇から、形にならない呟きが小さくこぼれ落ちた。
桜桃が小さく呟いた時、背後から雨宮の声が届いた。
「侍女は記録が雑ですからね」
その口調は軽かったが、どこか事務的な冷ややかさを孕んでいる。
桜桃は手元の帳簿を静かに閉じ、元の場所へと滑り込ませた。
(六花という名前は、確かにこの記録の中にある)
でも、そこから先へ伸びる過去の痕跡は、どこを探しても見当たらない。もう、誰もあの名の真実を知る者はいないのだ。
まるで、最初からこの広い宮城のどこにも、存在していなかったかのように。




