第十八話 如月と文鎮
書庫には、紙をめくる音だけが静かに響いていた。
桜桃は雲英の指示通り、棚から古い記録を運び出しては並べ直していく。
そのとき、廊下から迷いのない足音が近づいてきた。
「雲英」
低く、よく通る声だった。雲英が顔を上げる。
「これは如月大臣。どうなさいました」
如月は軽く書庫の中を見回し、その視線が桜桃で止まる。
「雲英。その侍女を借りていいか」
あまりに自然な口調だった。人手を強引に連れ去る上司のそれである。雲英は少し目を瞬かせる。
「ええ、構いませんが……」
桜桃は思わず自分を指差した。
「え……私、ですか?」
「そうだ」
即答だった。一瞬の迷いもない勧誘である。
「字は読めるな」
「は、はい」
「計算は」
「できます」
「十分だ」
それだけ言うと, 如月は踵を返す。まるで断られる世界線など存在しないかのような足取りだった。桜桃は戸惑ったまま雲英を見る。
「ど、どういう……」
雲英は苦笑しながら、同情を込めて肩をすくめた。
「如月大臣は、人使いが荒いことで有名なんです」
「えっ」
「能力があると分かると、身分なんてお構いなしですよ。徹底的に使われます」
雲英は小さく笑う。
「頑張ってください。帰れる頃には、あなたの気力と体力が尽き果てているかもしれません」
桜桃は思わず如月の去っていった廊下を見つめた。大臣自ら侍女を借りに来るなど聞いたことがない。しかも、名前すら尋ねられなかった。
字が読めるか。
計算ができるか。
それだけだった。人間扱いされているのか怪しい。
「……変な人」
小さく呟き、桜桃は慌てて如月の後を追いかけた。
書庫を出ると、如月は一度も振り返らずに歩き続けた。
長い回廊を抜け、文官たちが「助けてくれ」と言い出しそうな顔で慌ただしく出入りする執務室へ入る。
机の上には、もはや要塞と化した書類の山がそびえ立っていた。
「そこだ」
桜桃は書類の山の高さに目を丸くする。まるで巨大な山脈のようだった。
「えっと……」
如月は迷いなく机の上から数冊を抜き取り、次々と桜桃へ容赦なく手渡した。
「それは州別に分けろ」
さらに一冊。
「これは年ごとに並べ替えろ」
さらにもう一冊。
「それは控えと照合して不足があれば付箋を付ける」
さらに棚を指差す。
「あの棚の記録を全部持ってこい」
桜桃は腕いっぱいに書類を抱えたまま固まった。
「え……」
「出来ないのか」
淡々とした声だった。挑発でも嫌味でもない。純度十割の「できるよね?」という圧力である。
桜桃は慌てて帳簿を抱え直す。
「い、いえ……。やります」
「そうか」
如月は頷きもせず、机の上へ視線を戻した。
「一刻後に戻る。それまでに終わらせておけ。」
言い残すと、疾風のように執務室を出ていく。残されたのは、山積みの書類と絶望する一人の少女である。
桜桃はぽかんと扉を見つめた。
侍女相手とは思えない量だった。説明も最低限。終わるかどうかなど、彼の頭の中には「終わらせる一択」しか存在しないらしい。
「……鬼だ」
ぼやきながらも、桜桃は反射的に書類を机へ広げた。文句を言っても書類は減らない。一つずつ終わらせるしかない。
桜桃は驚異的な速さで書類を州ごとに仕分けながら、ふと一枚の紙に目を留めた。他の書類とは違い、何度も生々しい文字で書き込みが加えられている。
表題には、『謀反調査』とだけ記されていた。
思わず、息をのむ。
その紙の周りには、年代も役所も異なる帳簿がいくつも山のように積まれていた。
(如月様は……謀反を調べてる?)
そう思いながら、桜桃は冷や汗を拭い、震える手で一冊を手に取った。
頁をめくり、墨で書かれた日付を順に追っていく。
その途中で、不意に指先が止まった。
胸の鼓動がわずかに速くなるのを感じながら、もう一冊の帳簿を手元へ引き寄せる。同じ時期の記録ではあったが、役所の異なる別の書物だった。
二冊を並べ、同じ日付が記された頁を開く。
かすかな衣擦れの音だけが響く静寂のなか、文字の列を指先でなぞった。
同じ人物の名前が、それぞれの帳簿に別々の形で残されている。
片方には「視察のため不在」とあり、もう片方には、全く同じ日に「宮廷内にて執務」と記されていた。
落とした視線が、その日付の数字に釘付けになる。
――あの夜に近い。
桜桃はしばらくの間、呼吸を忘れたように二冊の記述を見比べた。
同じ日に、同じ人間が二つの場所に存在することになっている。どちらかの記述に偽りがある。それだけは、疑いようのない事実だった。なぜこのような齟齬が生まれているのかは、今の桜桃には分からない。
この名が示す人物が誰なのか、その繋がりもまだ見えなかった。ただ、何かがおかしい。
その奇妙な感覚だけが、胸の奥底へとはっきりと残った。
(あの日付に、一体何があったの……)
いくら考えても、まだ答えは出ない。けれど、閉ざされた過去を解き明かすための糸口だけは、確かにここに存在していた。
***
一刻後、如月が執務室へ戻ると、机の上に積まれていた書類は、指示された通りにすべて分けられていた。
州ごとに揃えられた報告書は美しく年代順に並び、控えとの齟齬がある箇所には、小さく切った付箋が挟まれている。棚への返却待ちの帳簿すら、崩れずに美しき地層を作っていた。
如月は足を止め、無言で机上を見渡した。
「終わったのか」
「終わりました」
桜桃はわずかに胸を張って答えた。
如月の眉が、ほんの僅かに動く。
(嘘だろ、もうか)
そんな心の声が一瞬だけその無愛想な顔をよぎったが、すぐに普段の無表情へと戻った。
「そうか。では、次はこれだ」
如月は今しがた持ち帰ったばかりの重い書類を、一切の慈悲なく桜桃の腕へ積み落とした。先ほどより分厚い。
「これは役所別に分けたあと、去年の控えと見比べろ。額が変わっているものには赤で印を付けておけ」
「……はい」
受け取った腕が、物理的にも精神的にもずしりと沈む。
一刻かけてようやく終わらせたと思った矢先のこれである。
桜桃は如月に悟られぬよう小さく息を吐いた。
本当に、この男は人使いを通り越して魔王の類かもしれない。
如月はそんな桜桃の胸中など知る様子もなく、文机の前へ腰を下ろした。
「その帳簿を取ってくれ」
「どれですか」
「右から二つ目だ」
桜桃は腕の書類をどこかにぶちまけたい衝動を抑えつつ、書類を傍らに置くと、指定された帳簿を持ち上げた。
文机まで運んで如月の手元へ置こうとしたとき、その傍らにある不自然な「白い異物」が目に入る。
白磁で作られた、丸い兎の文鎮だった。
二つの長い耳を背へペタッと伏せ、前足をきちんと揃えて座っている。顔立ちはなぜか妙に愛嬌があり、宮中の謀反やら過酷な税の計算やらで殺伐とした文机の上では、全方位に癒やしを放つあまりに場違いな置物だった。
桜桃は思わず、その兎と、目の前の仏頂面な如月の顔を交互に見比べた。
まさかこの男、意外と可愛らしいものが好きなのだろうか。
「なんだ」
気配に気づいた如月が冷ややかに顔を上げる。
「い、いえ何でも……その、趣味が意外だなと」
「文鎮だ」
「それは見れば分かります。兎なんですね」
「何か文句でもあるのか」
じっと見つめ返すと、如月は僅かに目を細めた。
怒ったのかと思いきや、何も言わずにすっと視線を外し、帳簿を開く。
その様子からは、兎の文鎮を可愛らしい相棒として愛でているのか、それとも単に目の前に転がっていたから鎮めているだけなのか、微塵も読み取れなかった。
如月は一枚の紙をその兎の下からひょいと抜き取り、筆を取る。
数行書き、ピタリと手が止まる。
しばらく真剣な顔で紙面を睨みつけたあと、その紙をぐしゃっと雑に丸め、足元の塵箱へ放り投げた。綺麗な弧を描いて塵箱に吸い込まれる。
新しい紙を取り出し、また書き始める。
今度は半ばまで書いたところで急に険しい顔になり、再び丸めて投げる。
それを何度か繰り返すうち、足元の塵箱から丸めた紙が溢れ出し、雪崩を起こし始めた。
桜桃は仕分けの手を止め、床に転がった紙を拾い集める。
「あの、もの凄く書き直されてますけど……」
「通らなければ意味がない」
「何がですか」
「お前には関係ない」
冷たい返し。しかし桜桃は、拾い上げた丸められた一枚の紙の皺を、なんとなく指で伸ばしてしまった。
表題には、地方から出された必死の救済願いが記されている。春先の空梅雨で田畑が育たず、税の猶予と食糧の貸し出しを求める悲鳴のような内容だった。
しかし、途中から何本もの線が引かれ、その脇には別の言葉が書き添えられていた。
「地方から届いた稟議書だ」
「書き直されているのですか。」
「このままでは、あの石頭のところで一秒で却下される」
「石頭……?」
「左大弁だ」
左大弁……確か清明様だったはずだ。
如月は筆を走らせたまま、鼻でフンと笑う。
「あいつは融通という言葉を辞書から剥ぎ取って生きている。法だの前例だの、そんな綺麗事ばかり並べ立てて地方の窮状を見ようともしない」
「では……仲が悪いんですか」
「最悪だ」
間髪入れずの即答である。
「俺が書いた稟議を、あいつは何度差し戻したことか。あいつの眉間に皺を刻むのが最近の密かな楽しみだ」
また一枚、紙が豪快に丸められて塵箱へ飛んだ。
「だから、あいつが絶対に文句を言えないように論理武装し直す。あの石頭を完全論破するための文をな」
「でも、帝都も謀反の一件でまだ全然立て直っていませんよね。地方の稟議なんて、今の朝廷に通る余裕あるんですか?」
如月は筆を止めることなく、淡々と墨を紙に染み込ませる。
「知っている。そんなことは端から分かっている」
淡々とした低い声だったが、その指先には妙に力がこもっていた。
「石頭だけではない。今の宮中は誰も彼も、自分の足元と帝都の復興を優先したがる。仮にあの石頭が通したところで、大納言や他省から予算がないの大合唱だ」
「でしたら、諦めた方が……」
「だからといって、民部省までそれに倣うわけにはいかん」
如月は新しい半紙を広げ、背筋を伸ばした。
「ここは、地方を見捨てるための言い訳を探す場所じゃない。民の命を守る場所だ」
「……」
「通らぬなら、通る形を捻り出す。それが俺の仕事だ」
如月はそれ以上語らず、桜桃の方を見もしないまま、二冊の帳簿を机の上に押し出した。
「おしゃべりは終わりだ。それが終わったら、この宮廷出入り記録を書庫へ戻してこい。それとこの決裁済み書類もだ」
「はい」
桜桃は二冊の帳簿と書類を受け取り、書類に何気なく目を落とした。
決裁欄には、左大弁・清明の印が押されている。だが、その押し方が少し変わっていた。
印は紙の端ではなく、綴じられた二枚の用紙にまたがるように捺されている。
「……?」
桜桃は思わず首を傾げた。
「如月様、この印の押し方は……」
如月は手元の書類から一切目を離さず、淡々と答える。
「ああ、清明様の癖だ」
「癖、ですか」
「不正に紙を差し替えられぬよう、綴じたまま二枚にまたがって割印を押される。決裁済みの証明でもあり、徹底的な改ざん防止でもある」
桜桃はなるほどと感心したように頷いた。
「細かなところまで、本当に気を配っていらっしゃるのですね」
「だからこそ、あいつの決裁に異を唱える者は誰もおらん」
如月はそれだけ言うと、彼は再び手元の戦場である難解な稟議書の山へと没頭していった。
21時頃もう一話投稿します。




