第十八話 侍女、攫われる
朝堂院では、滞っていた書類の整理に追われていた。
書庫の一角には臨時の作業場が設けられ、桜桃も図書寮の役人たちに交じって、山のように積まれた文書の仕分けにあたっていた。
昊夜からの指示で、文官の手伝いに回されたのだ。本来なら侍女の務めから外れる役目だったが、謀反以降、官吏の数が大幅に減ったこともあり、書類の整理だけでも人手が欲しいらしい。
桜桃は腕に抱えた帳面を棚へ収めながら、窓の外へ目を向けた。
朝堂院の南側には、近衛府がある。
謀反当夜の当直割が残されているとすれば、そこだろう。門兵の話では、当直割の所在は分からないということだったが、近衛府へ行けば何か手がかりが見つかるかもしれない。
(……ここからなら、そう遠くないわね)
桜桃は窓の外に続く回廊を目で辿った。
昼間は人の出入りが多いものの、夕刻を過ぎれば行き交う官吏も少なくなる。建物の裏手を回れば、人目につかずに近衛府へ近づけるのではないだろうか。
もっとも、侍女が勝手に立ち入っていい場所ではない。
(……でも、少し中を確かめるだけなら)
そこまで考えて、桜桃は小さく首を振った。
まだ朝堂院へ来たばかりだというのに、早くも別の役所へ忍び込む算段をしている。
「そこではありませんよ」
不意に背後から声がして、桜桃はびくりと肩を揺らした。
振り返ると、濃紺の文官服をまとった男が立っていた。穏やかな顔立ちで、桜桃の抱えた書類へ視線を向けている。
「その束は、あちらの棚です。二段目の右側ですね」
「……はい。失礼しました」
「いいえ。初めてでは、分かりにくいでしょう」
男は穏やかに笑った。
「私は雲英と申します。中務省におりますが、こちらの整理も手伝っていまして」
「六花と申します。よろしくお願いいたします」
「こちらこそ。昊夜殿から話は伺っていますよ。書類の扱いに慣れていらっしゃるそうですね」
「いえ、そのような……」
「助かります。ご覧のとおり、どこも人手が足りませんので」
雲英はそう言って、書庫の中を見渡した。
机には未整理の帳面が積み上がり、棚の前には運び込まれたばかりの文箱がいくつも並んでいる。奥では数人の官吏が黙々と書類を綴じ直していた。
「こちらを片づけても、明日にはまた別の書類が届くのです。なかなか終わりが見えませんね」
「……大変なのですね」
「ええ」
雲英は困ったように笑うと、桜桃の抱えていた書類の一部を受け取った。
「では、六花殿。この棚が終わりましたら、奥の古い記録もお願いできますか」
「はい」
「ありがとうございます。分からないことがあれば、遠慮なく聞いてください」
雲英はそう言い残し、別の机へ向かっていった。
桜桃は教えられた棚へ書類を収めると、奥に積まれた古い帳面へ手を伸ばした。
年月を重ねたものほど、和紙の端が茶色く黄ばんでいる。
その中に、宮廷で働く侍女たちの名や素性を記した帳簿が混じっていた。
桜桃は何気なく頁を繰り、ある一行で指を止めた。
──六花。
そこには、確かに彼女の名があった。
皇女付きの侍女。その役目と、仕えていた宮の名。記されているのは、それだけだった。
桜桃はしばらく、その短い一行を見つめていた。
幼い頃から自分のそばにいて、髪を結い、衣を選び、何かにつけて小言を言ってくれた六花。
あの夜、自分を逃がすために命を懸けた彼女のことを、この帳簿は何も語らない。
ここに残されているのは、ただの侍女の名前だった。
桜桃はそっと帳簿を閉じ、元の棚へ戻した。
ふと書庫の奥を見ると、薄暗い一角に、一人の男が座り込んでいた。
大きな書類の束を膝に載せたまま、ぼんやりと天井を見上げている。首元には細い紐で連ねた玉飾りがあり、身じろぎするたびに小さく触れ合っていた。
「深黎」
雲英の声が響いた。
「はい」
男は天井を見上げたまま、生返事をした。
「書類が止まっていますよ」
「見てました」
「見ているだけでは終わりません」
「もう少ししたら」
「今、お願いします」
深黎はようやく視線を下ろした。
雲英と目が合う。
しばらく互いに黙っていたが、やがて深黎が小さく肩をすくめ、膝の上の書類を手に取った。
「……はい」
「まったく。あなたが少しでも早く片づけてくだされば、私も助かるのですが」
「急いだところで、また次が来ますよ」
「それを言わないでください」
雲英は疲れたように息をつき、別の官吏に呼ばれて書庫の奥へ向かっていった。
桜桃は、そのやり取りを思わず見つめていた。
しばらくすると、深黎が仕分けた書類を抱えて、桜桃の隣の棚へやってきた。
不意に、二人の目が合う。
「侍女が書庫に?」
「お手伝いに来ています」
「珍しい」
深黎は帳面を棚へ収めながら、桜桃の顔を眺めた。
「昊夜の指示?」
「……そうです」
「へえ。ご愁傷様」
からかうような響きがあった。
桜桃は返答に迷ったが、ふと男の名が気になった。
「……変わったお名前ですね」
「そうですか?」
「深黎様、とお呼びすればよろしいのでしょうか」
「深が姓で、黎が名。狄族出身だから、こういう響きになる」
「狄族……?」
「北の果ての民族ですよ。知らない?」
桜桃は小さく首を横に振った。
「この国の公的な記録には、あまり出てこないからね。知らない人のほうが多いか」
深黎はそれだけ言うと、別の棚へ向かいかけた。
「どんな民族なのですか?」
桜桃が尋ねると、深黎は足を止めた。
けれど、振り返りはしなかった。
「……今度、気が向いたら話します」
「深黎」
すかさず、書庫の向こうから雲英の声が飛んだ。
「まだそちらにいらしたのですか。次の書類が届いていますよ」
「……はいはい」
「返事は一度で結構ですから、こちらを手伝ってください」
深黎は面倒くさそうに息を吐き、雲英のいる机へ歩いていった。
桜桃は、その背中が見えなくなるまで静かに見送った。
狄族。北の果てに暮らす、この国の記録にはあまり残されない人々。
先ほど目にした帳簿の空白と重なるように、その言葉だけが妙に胸に残った。
***
書庫には、紙をめくる音だけが静かに響いていた。
桜桃は雲英の指示通り、棚から古い記録を運び出しては並べ直していく。
そのとき、廊下から迷いのない足音が近づいてきた。
「雲英」
低く、よく通る声だった。雲英が顔を上げる。
「これは如月大臣。どうなさいました」
如月は軽く書庫の中を見回し、その視線が桜桃で止まる。
「雲英。その侍女を借りていいか」
あまりに自然な口調だった。人手を強引に連れ去る上司のそれである。雲英は少し目を瞬かせる。
「ええ、構いませんが……」
桜桃は思わず自分を指差した。
「え……私、ですか?」
「そうだ」
即答だった。一瞬の迷いもない勧誘である。
「字は読めるな」
「は、はい」
「計算は」
「できます」
「十分だ」
それだけ言うと、如月は踵を返す。まるで断られる世界線など存在しないかのような足取りだった。桜桃は戸惑ったまま雲英を見る。
「ど、どういう……」
雲英は苦笑しながら、同情を込めて肩をすくめた。
「如月大臣は、人使いが荒いことで有名なんです」
「えっ」
「能力があると分かると、身分なんてお構いなしですよ。徹底的に使われます」
雲英は小さく笑う。
「頑張ってください。帰れる頃には、あなたの気力と体力が尽き果てているかもしれません」
桜桃は思わず如月の去っていった廊下を見つめた。大臣自ら侍女を借りに来るなど聞いたことがない。しかも、名前すら尋ねられなかった。
字が読めるか。
計算ができるか。
それだけだった。人間扱いされているのか怪しい。
「……変な人」
小さく呟き、桜桃は慌てて如月の後を追いかけた。
書庫を出ると、如月は一度も振り返らずに歩き続けた。
長い回廊を抜け、文官たちが「助けてくれ」と言い出しそうな顔で慌ただしく出入りする執務室へ入る。
机の上には、もはや要塞と化した書類の山がそびえ立っていた。
「そこだ」
桜桃は書類の山の高さに目を丸くする。まるで巨大な山脈のようだった。
「えっと……」
如月は迷いなく机の上から数冊を抜き取り、次々と桜桃へ容赦なく手渡した。
「それは州別に分けろ」
さらに一冊。
「これは年ごとに並べ替えろ」
さらにもう一冊。
「それは控えと照合して不足があれば付箋を付ける」
さらに棚を指差す。
「あの棚の記録を全部持ってこい」
桜桃は腕いっぱいに書類を抱えたまま固まった。
「え……」
「出来ないのか」
淡々とした声だった。挑発でも嫌味でもない。純度十割の「できるよね?」という圧力である。
桜桃は慌てて帳簿を抱え直す。
「い、いえ……。やります」
「そうか」
如月は頷きもせず、机の上へ視線を戻した。
「一刻後に戻る。それまでに終わらせておけ」
言い残すと、疾風のごとく執務室を出ていく。残されたのは、山積みの書類と絶望する一人の少女である。
桜桃は、ぽかんと扉を見つめた。
侍女相手とは思えない量だった。説明も最低限。終わるかどうかではなく、彼の頭の中には「終わらせる一択」しか存在しないらしい。
「……鬼だ」
ぼやきながらも、桜桃は反射的に書類を机へ広げた。文句を言っても書類は減らない。一つずつ終わらせるしかない。
桜桃は驚異的な速さで書類を州ごとに仕分けながら、ふと一枚の紙に目を留めた。他の書類とは違い、何度も生々しい文字で書き込みが加えられている。
表題には、『謀反調査』とだけ記されていた。
その紙の周りには、年代も役所も異なる帳簿がいくつも山のように積まれていた。
(如月様は……謀反を調べてる?)
そう思いながら、桜桃は冷や汗を拭い、震える手で一冊を手に取った。
頁をめくり、墨で書かれた日付を順に追っていく。
その途中で、不意に指先が止まった。
胸の鼓動が速くなるのを感じながら、もう一冊の帳簿を手元へ引き寄せる。同じ時期の記録ではあったが、役所の異なる別の書物だった。
二冊を並べ、同じ日付が記された頁を開く。
かすかな衣擦れの音だけが響く静寂のなか、文字の列を指先でなぞった。
同じ人物の名前が、それぞれの帳簿に別々の形で残されている。
地方への出張記録には「地方視察」とあり、宮廷出入り記録には、全く同じ日に「宮廷内にて執務」と記されていた。
落とした視線が、その日付の数字に釘付けになる。
――あの夜に近い。
桜桃はしばらくの間、呼吸を忘れたように二冊の記述を見比べた。
同じ日に、同じ人間が二つの場所に存在することになっている。どちらかの記述に偽りがある。それだけは、疑いようのない事実だった。なぜこのような齟齬が生まれているのかは、今の桜桃には分からない。
この名が示す人物が誰なのか、その繋がりもまだ見えなかった。ただ、何かがおかしい。
その奇妙な感覚だけが、胸の奥底へとはっきりと残った。
(あの日付に、一体何があったの……)
いくら考えても、まだ答えは出ない。けれど、閉ざされた過去を解き明かすための糸口だけは、確かにここに存在していた。
***
一刻後、如月が執務室へ戻ると、机の上に積まれていた書類は、指示された通りにすべて分けられていた。
州ごとに揃えられた報告書は美しく年代順に並び、控えとの齟齬がある箇所には、小さく切った付箋が挟まれている。棚への返却待ちの帳簿すら、崩れずに美しき地層を作っていた。
如月は足を止め、無言で机上を見渡した。
「終わったのか」
「終わりました」
桜桃は少しだけ胸を張って答えた。
如月の眉が、ほんのわずかに動く。
(嘘だろ、もうか)
そんな心の声が一瞬だけその無愛想な顔をよぎったが、すぐに普段の無表情へと戻った。
そのとき。
「……何をしている」
聞き覚えのある声に、桜桃の肩がびくりと揺れた。昊夜の声だ。
「……六花?」
「は、はい!」
思いのほか大きな声が出た。
21時頃もう一話投稿します。




