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狂桜華《きょうおうか》~亡国の姫は、名を捨て帝を目指す~  作者:
第一章 桜、散る夜に

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第十八話 貴族娘の恋愛事情

 桜桃が次の仕事へ向かおうと、貴族が出入りする中庭の傍を歩いていたときだった。


「六花!」


 背後からの呼び声に振り返ると、椎香だった。その後ろから花梨も、楽しそうな足取りで続いている。


「ちょうどいいところにいたわ。ねえ、少しお話ししよう?」


「少しだけ付き合ってね」


 断る間もなく左右の袖を引かれ、三人は中庭の縁に並んで腰を下ろしていた。貴族が通る区画の少し外側。

 侍女の動線からもわずかに外れた、静かな場所だった。


「ねえ、六花」


 椎香が袂を整えながら、少しだけ身を寄せてくる。


「単刀直入に聞くけど……心惹かれる人とか、いないの?」


「心惹かれる方……ですか」


 唐突な問いに面食らいながらも、桜桃は少し考えてから首を振る。


「そういうものは、まだよく分かりません」


「だと思った!」


 椎香が笑う。


「そういう顔をしてるもの」


「そのような顔、とは?」


「恋の関わりなんて露ほども頭にない、生真面目な顔よ」


 花梨も袖で口元を隠しながら、くすくすと笑った。


「六花ちゃん、少し眉間に皺が寄ってるわよ。真剣に考えたことなど、一度もないのね?」


「……はい」


 見透かされて、素直に頷くしかない。


「お二人は考えてるんですか?」


「当たり前よ」


 椎香がきっぱりと言う。


「添い遂げるなら、自分が恋い慕う人がいいもの。そうでなければ、一生恨んでしまいそうだわ」


「相変わらず情熱的ね、椎香ちゃんは」


 花梨が呆れたように言うと、椎香はふんと鼻を鳴らす。


「当たり前でしょう? 一度きりの私の人生なんだから」


 花梨は少しだけ視線を空へやった。


「まあ、翠陰の家であれば、婚姻が政治的な意味を持つのも仕方ないわよ。うちの家系も同じだし」


 軽く言うが、その響きには諦めに似た慣れがあった。


「私はね、政略結婚も利用する。恋愛結婚ができないなら、好ましい殿方を政略結婚に持っていくの」


「出た、花梨の恐ろしいところ」


 椎香が楽しそうに笑う。


「そういうところ、本当に容赦がないわね」


「容赦がないというか……そうやって割り切らなければ、生きていけないもの」


 さらりと言う。その言葉は軽いようで、どこか現実的だった。


 少しだけ間が空く。


 椎香が、ふとつま先を見つめて肩をすくめた。


「……お父様はね、疾風との婚姻には、わりと好意的なのよ」


 急に音の落ちた、何気ない口調。


「あら」


 花梨がすかさず目を光らせる。


「飛燕様が?」


「ええ。あの人は、そういうところは冷徹なほど現実的だから。『悪くない、娘をやる』って、勝手に盛り上がっちゃって」


 言葉を区切り、椎香は少しだけ視線を落とす。


「……けれど、それには私の気持ちなんて一文字も入っていないじゃない」


 小さく吐き出された本音。

 花梨はそれを否定せず、そっと椎香の肩に自分の肩を寄せた。


「関係ないとは言わないけど……。家を重んじる殿方にとっては、娘の恋心など優先順位の一番下よね」


「だからこそ、それが我慢できないのよ」


 椎香は即座に返す。迷いのない、意地を張ったような声だった。


 桜桃は二人のやり取りを聞きながら、静かに息をつく。


(……私は)


 どちらでもない。決まった相手がいるならば、それに従うのが当たり前だと思っていた。自分で選ぶ、あるいは利用するという発想自体が、自分の中になかった。


「それで? お話を戻すけど」


 椎香がすかさず、再び桜桃の顔を覗き込んできた。


「六花は本当に、誰も気になる人はいないの? 少し見栄えが良いなとか、あのお役人の声が素敵、とかさ!」


「いません」


「本当に〜?」


「……はい」


 言い切った瞬間、なぜかふと、頭の裏側を白檀の香りがかすめた気がした。


 菖蒲殿で、至近距離で自分を見つめていた昊夜の、冷ややかで静かな香り。


(……え? なぜ今、あの方のことが)


 桜桃は慌てて、ぶんぶんと小さく首を振った。違う。関係ない。あれはただ、かつての記憶の香りに反応しただけだ。


 だが、その一連の挙動を、二人が見逃すはずがなかった。


「あ――っ!」


 椎香が小さく声を上げる。


「今、絶対に誰かを思い出したわね?」


「思い出してません」


「嘘よ。今、あからさまに目が泳いだもの」


「泳いでいません。正面を見ています」


「顔が少し赤くなってるわよ、六花ちゃん?」


 今度は花梨がにこにこしながら、反対側から顔を寄せてくる。左右からの挟み撃ちだった。


「気のせいです。この中庭が少し蒸し暑いだけです」


「本当に? 怪しい」


「本当です。何もありません」


 花梨がくすくすと肩を揺らした。


「六花ちゃん、言い訳をするとき急に早口になるのね。お人よしだから、態度に全部出てるわよ」


「……そんなことは、ありません」


 完全に形勢不利だった。桜桃はそれ以上言い返せず、耳まで熱くなっていくのを感じた。


 椎香が満足そうに微笑んだ。


「まあいいわ、今日のところは見逃してあげる。そのうち、じっくり聞き出さなくちゃね」 


「お話しすることなど、何もありません」


「ふふ、そのうちね」


 楽しげに微笑むばかりで、誰も聞いていなかった。


 桜桃は小さくため息をついた。中庭の向こうで、からかうような風がひとつ、悪戯っぽく吹き抜けていった。


***


 桜桃が廊下に戻り歩いていると、前方から女官が近づいてきた。


「そこの侍女、少しよろしいですか」


 立ち止まると、女官は桜桃を上座の方角へと案内した。


 通された先にいたのは、現皇后、未散だった。


 穏やかな顔立ちで、こちらを見ている。近づきがたい、というほどではない。けれど、その笑みの奥は、どこか壁があって読めなかった。


「これを、女官頭のところへ届けてもらえますか」


 差し出されたのは、丁寧に封じられた文だった。


「承知いたしました」


 桜桃は頭を下げて、両手で文を受け取る。


「名は?」


「六花、と申します」


「六花……」


 未散の動きが、ぴたりと止まった。

 桜桃は何気なく顔を上げる。


 未散の表情は、先ほどとほとんど変わらない。微笑を浮かべたままだ。

 それなのに、桜桃の背中に、じっとりと冷たい汗がにじんだ。


 未散の目の奥が、異様な鋭さで動いていた。


 その視線は「六花」という名前に驚いたというよりは、桜桃の目元や、鼻の形、顔の輪郭を、じっと値踏みするように這い回っている。

 まるで、自分の大嫌いな誰かの顔を、そこに重ねて見ているかのような、冷たくて不気味な目だった。


 沈黙が、妙に長く感じられた。


 同じ名前の侍女など、宮廷にはいくらでもいるはずだ。けれど、未散のその視線には、あきらかな不快さと、微かな動揺が混ざっているように見えた。


「……そう。下がりなさい」


 それだけを言って、未散は顔をそむけ、視線を窓の外へ向けた。それ以上は、もう桜桃のことを見ようともしなかった。


「失礼いたします」


 桜桃は一礼して、その場を辞した。

 廊下に出てから、自然と歩みが速くなる。心臓の音が、耳の奥でうるさいほどに鳴り響いていた。


 あの一瞬の間と、あの刺すような視線は何だったのだろう。


 ただの偶然だろうか。顔立ちが誰かに似ていただけだろうか。そう思い込もうとしても、あの目の動きが頭から離れない。


(気のせいだ、と思いたいけれど……)


 何かに触れてしまったような恐怖を抱えながら、桜桃は文を強く握りしめ、逃げるように廊下を急いだ。


 それからしばらくの間、桜桃は用がない限り、未散のいる方角へは決して近づかなかった。




21時頃もう一話投稿します。

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