第十九話 変わった名前
本日二度目の投稿です。
書類の整理が始まってから、三日が経っていた。
この日は、記録の整理と滞っていた未処理書類の仕分けをしていた。
書庫の端に、一人の男が座っていた。書類を膝の上に乗せ、天井を見上げている。仕事をしていない。首元に、玉が連なった飾りが揺れていた。長い髪を下の方でひとつに結んでいる。文官には似つかわしくない、どこか異国めいた身なりだった。
「深黎」
雲英の声が落ちた。穏やかだが、有無を言わせない響きがある。
「はい」
深黎は天井を見たまま答えた。
「書類が止まっています」
「見てました」
「見ていたなら動いてください」
「もう少ししたら」
「今です」
深黎はゆっくりと視線を落とした。雲英を見る。雲英も深黎を見ている。しばらく、二人の視線がぶつかった。
やがて深黎は書類を手に取った。
「……はい」
雲英が視線を外す。
桜桃はその一部始終を見ていた。
「変な人ね」
桜桃に着いてきた鈴が小声で言う。
「雲英様が?」
「違う違う、深黎様の方」
鈴は深黎をちらりと見た。
「あの人、いつもああなの。雲英様に注意されてようやく動く」
「文官なのに?」
「文官なのに。でも仕事はできるらしくて、それで首にならないんだって」
桜桃は深黎を見た。書類を捌く手は、確かに速い。流れるような動きで、迷いがない。やる気がないだけで、できないわけではないらしい。
しばらくして、深黎が桜桃の隣の棚に書類を収めに来た。目が合う。
「侍女が書庫に?」
「手伝いに来ています」
「珍しい」
深黎は書類を棚に収めながら、桜桃を見た。
「昊夜の指示?」
「……そうです」
「へえ」
少し間があった。
「あの」
桜桃は思わず口を開いた。
「変わったお名前ですね」
「そうですか」
「深黎様、と呼べばいいですか」
「深が苗字で黎が名前。狄族出身だから」
「狄族……」
「北の民族ですよ。知らない?」
桜桃は首を振った。
「この国の記録にはあまり出てこないから、知らない人の方が多いか」
深黎はそれだけ言って、また別の棚へ向かいかけた。
「どんな民族なんですか」
深黎が足を止めた。少しだけ間があった。
「……今度時間があれば」
振り返らないまま言う。
「深黎」
雲英の声が飛ぶ。
「その棚は昨日整えたばかりです。触れないでください」
「書類を収めようとしただけですけど」
「それが余計なことです」
「……はい」
深黎は別の棚へ向かった。
桜桃は深黎の背中を見送った。狄族。北の民族。記録にあまり出てこない。その言葉だけが、静かに胸の中に残った。
そこへ、如月が現れた。無駄のない歩き方で部屋に入り、紙束を見るなり短く言う。
「整理が遅い」
「申し訳ありません。人手が少なくて」
雲英は軽く頭を下げる。
如月はため息をつくでもなく、淡々と未処理分の書類を手に取る。
「基準が曖昧ですね」
雲英は紙束に視線を落とした。
「分類を変えよう」
短いやり取り。感情の起伏はないが、互いに話が通じているのが分かる。
桜桃はその横で黙って書類の仕分けをしていた。如月は桜桃には目を向けないまま、紙を捌いていく。ただ仕事としてそこにいるだけ、といった態度だった。
「終わり次第、次の区画へ回す」
「承知しました」
雲英は柔らかく答える。二人は、こちらを見ずにそのまま部屋を後にした。足音が遠ざかり、やがて完全に消えた。
***
如月が書類の分類を変えたことで、未処理書類の滞りは一時的に少し落ち着いたように見えた。
しかし翌朝、まだ人影もまばらな早朝の部屋に、再び如月が現れた。
「……この並びでは、流れが重なりすぎる」
誰に向けるでもなく低く呟きながら、如月は猛烈な勢いで書類の束を動かし続ける。
左大弁である清明の目を掻い潜り、民部省の管轄である「地方支援の稟議」を、少しでも早く上申経路に乗せるための別の理屈――如月なりの再構成だった。
そうしていくうちに、元あった頑なな順序は少しずつ姿を失っていった。
整理されているはずの書類は、むしろ一度目よりも全体の処理状況が見えにくくなっていく。
同じ部屋の隅で、帳面を整理していた雨宮が、その様子を窺いながら、恐る恐る如月に近づいた。
「あの、如月大臣……。そんな風に書類を動かしてしまっては、清明殿の許可が通らなくなるのでは……」
如月は手元を止めないまま、忌々しげに吐き捨てた。
「あの石頭め。都の足元ばかりに拘泥して、地方の民をいつまで待たせるつもりだ。手段など、選んでいる余裕はないというのに」
「……そ、そんなこと言っていいのですか。誰が聞いているか……」
「構わん!」
如月は雨宮の制止をはねのけるように、手元にあった帝都予算の書類を机に叩きつけるように置いた。
苛立ちを隠そうともしない、明確な反発だった。
「これ以上、あやつの遅すぎる手順に付き合ってはいられん。終わり次第、すぐに上へ回せ」
如月はそれだけを言い残し、足早に部屋を出ていった。
残された雨宮は、困ったように、如月が乱していった書類の山と扉を交互に見つめ、それから仕方がないといった様子で、その歪な書類の束を手元で揃え直し始めた。
***
その日の午後。薄く開いた窓から、乾いた風が入り込んでいた。書庫の空気は静まり返り、紙と墨の匂いだけが満ちている。
桜桃は書物の束を抱え、指示された場所へと運ぶ。
書庫に、深黎と雨宮が同時にいた。
「それ、重そうですね」
視線を上げずに、雨宮が言う。
「大丈夫です」
「そうですか」
紙をめくる音が続く。
「形が揃っていると、後が楽ですよ」
「……そうですね」
桜桃は書物を棚に収めた。崩れない。それだけを確かめて、指先を引く。
「別に揃ってなくても探せばいいじゃないですか」
深黎が口を挟んだ。
「揃っている方が早いです」
「慣れれば同じですよ」
「慣れさせる必要はありません」
「効率が違うと思いますけど」
「あなたの効率の話はしていません」
雨宮と深黎が、書類を捌きながら言い合っている。どちらも相手を見ていない。淡々としているが、言葉だけが続いていく。
桜桃は棚へ向かいながら、二人を横目で見た。
(仲がいいのか、悪いのか)
「六花さん」
雨宮が桜桃に声をかける。
「その束はあちらの棚です。二段目の左側」
「あ、それは右側ですよ」
深黎が言う。
「左側です」
「右側だと思いますけど」
桜桃は棚の前で立ち尽くした。右か左か。
二人が同時に言う。
「右です」
「左です」
桜桃は二人を見た。二人とも書類から目を上げない。
「……どちらですか」
「右」
「左」
また同時だった。
桜桃は棚を見た。右側と左側、どちらにも似たような書類が入っている。
「深黎」
雲英の声が飛んできた。
「書庫での私語は控えてください」
「雨宮さんも話してましたよ」
「あなたに言っています」
「……はい」
深黎が口を閉じた。雨宮は何も言わない。静かに書類を捌いている。
桜桃はそっと左側の棚に書物を収めた。しばらくして、深黎が小声で言った。
「右だったのに」
「聞こえています」
雲英の声が返ってきた。
深黎は黙った。桜桃は笑いを堪えながら、次の棚へ向かった。




