第十九話 変わった名前
本日二度目の投稿です。
桜桃が書庫へ戻ると、そこには積まれた古文書の整理に追われる雲英の姿があった。
「戻りました」
声をかけると、雲英は顔を上げる。
「お疲れ様でした。どうでしたか、如月殿のところは」
「……人使いが荒すぎて、魂が抜けかけました」
雲英は思わず吹き出し、クスクスと笑みを漏らした。
「噂通りですね」
「え、噂なんですか?」
「ええ。謀反が起きるまで、如月殿は長らく地方へ赴いておられましたから。帝都の表舞台では、あまりお見かけする機会がなかったのですよ」
「そうだったんですね……」
呟きながら、桜桃の脳裏にあの男の姿が蘇る。
(地方にいたから、あんなに必死に地方の窮状を……)
地方から届いた稟議書を、役人たちに突き返すために何度も何度も書き直していたあの背中。
鬼だと思っていたが、その奥にある頑なな意地が、ほんの少しだけ分かったような気がした。
桜桃が、ふと書庫の奥を見ると、薄暗い端に一人の男が座り込んでいた。
大きな書類の束を膝の上に乗せたまま、ぼんやりと天井を見上げている。その手は全く動いていない。首元が動くたびに、細い紐で連なった玉の飾りが小さく揺れて擦れ合った。
長い黒髪を首の後ろの低い位置でひとつに結んでいる。およそ朝廷の文官には似つかわしくない、どこか異国めいた衣服を大着に纏っていた。
「深黎」
雲英の声が落ちた。穏やかだが、有無を言わせない響きがある。
「はい」
深黎は天井を見上げたまま、視線も動かさずに生返事をした。
「書類が止まっています」
「見てました」
「見ていたなら動いてください」
「もう少ししたら」
「今です」
深黎は、ようやく瞼を動かして視線を落とした。
雲英の顔を正面から見据える。雲英はあきれ果てた様子で、ただ無言でその怠け者を見下ろしていた。しばらくの間、静まり返った書庫の空気のなかで、二人の視線が真っ直ぐにぶつかり合う。
やがて、深黎が小さく肩をすくめ、膝の上の書類を手に取った。
「……はい」
雲英が満足したように視線を外す。
棚に帳簿を仕舞おうとしていた桜桃は、足を止めてその一部始終をじっと見つめていた。
しばらくすると、深黎が桜桃のすぐ隣にある棚へと、仕分けた書類を収めに来た。不意に二人の目が間近で合う。
「侍女が書庫に?」
「手伝いに来ています」
「珍しい」
深黎は手際よく帳面を隙間へ滑り込ませながら、桜桃の顔をじっと見つめた。
「昊夜の指示?」
「……そうです」
「へえ、ご愁傷様」
からかうような響きがあった。言葉が途切れ、ふたりの間に奇妙な静けさが流れる。
「あの」
桜桃は思わず口を開いた。
「変わったお名前ですね」
「そうですか?」
「深黎様、とお呼びすればいいですか」
「深が苗字で黎が名前。狄族出身だから、こういう響きになる」
「狄族……?」
「北の果ての民族ですよ。知らない?」
桜桃は小さく首を横に振った。
「この国の公的な記録にはあまり出てこないから、知らない人の方が多いか」
深黎はそれだけ言って、また別の棚へ向かいかけ、不意に足を止めた。
「どんな民族なんですか」
桜桃が問いかけると、深黎はそれには答えず、ただ淡々と言い残して衣の裾を翻した。
「……今度、気が向いたら話します」
振り返ることはせず、ただ気だるげな低い声だけを闇に残して歩き出す。
「深黎」
すかさず、部屋の反対側から雲英の鋭い指摘が飛んだ。
「その棚は昨日整えたばかりです。触れないでください」
「書類を収めようとしただけですけど」
「それが余計なことです。そこは私の管轄だ」
「……はいはい」
深黎は面倒臭そうに息を吐き、また別の棚の暗がりへと消えていった。
桜桃は、その背中が見えなくなるまで静かに見送った。狄の族。北の民族。この国の記録にはあまり残されない存在。その言葉の響きだけが、なぜか引っかかって離れなかった。
桜桃は二冊の出入り記録の帳簿を棚へ収めた。
(謀反に関係する帳簿……)
その棚の位置を、静かに頭と目で確かめる。
(覚えておこう)
またすぐに調べに来られるように。
不意に、すぐ背後から雨宮の穏やかな声が聞こえた。
「形が揃っていると、後で探すときが楽ですよ」
桜桃は少し歪んでいた帳簿の背を、慌てて綺麗に整え直した。
「……そうですね」
「別に揃ってなくても、探せばいいじゃないですか」
少し離れた棚の影から、深黎が気怠げに口を挟む。
「揃っている方が圧倒的に早いです」
「慣れれば同じですよ」
「あなたに慣れさせる必要はありません」
「効率が違うと思いますけど」
「あなたの効率の話はしていません」
雨宮と深黎は、それぞれ手元の書類を淡々と捌きながら、互いに視線すら交わさずに言い合っている。どちらの表情も驚くほど冷めているのに、途切れることなく言葉の応酬だけが続いていく。
桜桃は次の書類をしまうために別の棚へ歩みを進めながら、その奇妙なやり取りをさりげなく横目で見た。
(あの二人、仲がいいのか悪いのか……)
「六花さん」
雨宮が手元の束から目を離さず、桜桃に声をかける。
「その束はあちらの棚です。二段目の左側へ」
「あ、それは右側ですよ」
少し離れた帳簿の影から、深黎が気怠げに訂正を入れる。
「左側です」
「右側だと思いますけどね」
桜桃は、埃の舞う棚の前で大きな紙束を抱えたまま立ち尽くした。右か、あるいは左か。
二人が絶妙な頃合いで、短く言葉を投げてくる。
「左です」
「右です」
完全に割れた返答に、桜桃は再び目の前の棚へと視線を落とした。薄暗い隙間のなか、どちらの側にも、似たような表紙の書物がびっしりと詰まっている。
「深黎」
部屋の隅から、雲英の静かな、しかし一切の妥協を許さない声が飛んできた。
「書庫での私語は控えてください」
「雨宮さんも話してましたよ」
「あなたに言っています」
「……はい」
深黎はふっと小さく肩をすくめ、すんなりと口を閉じた。雨宮はそれ以上余計な言葉を返さず、何事もなかったかのように、ただ静かに紙をめくる音だけを室内に響かせている。
桜桃が一瞬迷った末にそっと左側の棚へ書物を収めると、深黎が周囲を窺うようにして、きわめて小声で呟いた。
「……右だったのに」
「聞こえていますよ」
すかさず雲英の冷ややかな声が追い討ちをかける。
今度こそ深黎は完全に黙り込み、手元の作業に没頭するふりをした。
桜桃はこみ上げてくる笑いを必死に堪えながら、次の仕分けに取りかかるため、静かに別の棚へと足を運んだ。
***
回廊は、せわしなく行き交う人の波が絶えなかった。
その内と外を分かつ境界に、ひとりの男がいた。
朝凪は、門の柱にもたれることなく、ただ静かに背筋を伸ばしてそこに佇んでいた。
清明からの指示が、今日は三度も変わっていた。伝える内容は同じながら、物資を運ぶ経路だけがその都度違っている。実務にあたる現場が小さく混乱に陥るのも、仕方のないことだった。
朝凪は、その流れる人の群れを、瞬きも惜しむように見つめていた。
よく見れば、人の波がわずかに滞っている場所がある。左から進んでくる列と、右から歩んでくる列が、ちょうど御門の正面で衝突しかけていた。
周囲の誰も、その小さな不都合に気づいていない。このままでは互いがぶつかり、持った荷が崩れてしまう。
朝凪は、ほんの数歩だけ、自身の立ち位置を静かに変えた。
門兵が不意に位置をずらしたことで、右から進んできた列が、自然と少しだけ進路を外側へ変えた。
結果として、左の列との間に、通り抜けるための隙間が生まれる。人々は互いに触れ合うこともなく、滑らかにすれ違っていった。
誰もその意図には気づかない。
「あんた、さっきそこにいなかったか?」
隣に並ぶ門兵が、不思議そうに声をかけてきた。
「そうですか」
「なんか気づいたら位置が変わってるんだよな、あんた」
「気のせいでしょう」
門兵はしばらく朝凪の横顔を覗き込んでいたが、やがて首を小さく振り、再び前方へ視線を戻した。
五日目。
姫様が侍女の列に混じって回廊を通った。
荷を抱えて、足早に歩いている。顔色は悪くない。足取りも安定している。ただ、少し俯き加減だった。何かを考えている顔だ。
(……何を考えている)
胸の中で問いかけても、その声が届くことはない。届かせるつもりも、初めからなかった。
ただ、遠ざかる背中を静かに見送る。それだけでいいと、あの朝に心へ誓ったはずだった。
七日目。
姫様が朝堂院の門から出てきた。書類を抱えている。顔色は普通だ。
少し歩き方が速い。何かを調べているときの癖だ。
朝凪は視線だけで追った。
桜桃が回廊の角を曲がる。見えなくなる。
(……何を調べている)
抱えていた書類の厚みから察するに、相当な量の過去の記録に目を通しているはずだ。あの謀反の夜に起こった出来事の真相を、一人で探しているのだろう。
止めるべきだろうか。いや、たとえ言葉を尽くして止めたところで、決して聞き入れるお人ではない。あの人は、昔からそういう人だ。
朝凪は、小さく息を整えて視線を再び御門へと戻した。
すると、隣のも門兵がまた怪訝そうな眼差しをこちらに向けていた。
「あんた、今あの侍女のこと見てたよな」
「見ていません」
「見てたよ。すごい目で」
「仕事中です」
「門番の仕事に侍女は関係ないだろ」
朝凪はそれ以上、言葉を返さなかった。
門兵は短いため息を漏らすと、それ以上は追及してこなかった。
「……まあいいけどさ」
九日目。
姫様が侍女部屋へ戻っていくのが見えた。少し、疲れた顔をしていた。
朝凪は、一瞬だけ目元を険しくした。
すかさず、隣の門兵が呟く。
「あんた今、心配そうな顔してたよな」
「していません」
「してたよ。眉が寄ってた」
「そういう顔ではありません」
「じゃあどういう顔だよ」
「仕事中の顔です」
門兵が、今度はあきれたように深く息を吐いた。
「……あの侍女と知り合いか?」
朝凪は、ほんの少しだけ間を置いた。喉の奥が、わずかに乾く。
「違います」
「そうか」
門兵はそれきり、何も聞いてはこなかった。
ただ、その日の夕方あたりから、隣の門兵が、桜桃の歩いていく方向を時折、さりげなく目で確認するようになった。
朝凪には、その理由がどうしても分からなかった。




