第二十話 記録のない侍女
近くの棚に、帳簿が差し込まれていた。侍女の名を記したものだ。何気なく一冊を抜き、頁を開く。
整った文字が、同じ調子で並んでいる。上段には人数と役目だけがまとめられていた。
──皇女付き 三名
簡素な一行。その下に、名が続く。
指先で、行を追う。
途中で止まる。
――六花。
その名は、確かにあった。だが。その先へ視線を滑らせる。何も続かない。役目と期間が記されているはずの欄が、空白だった。
戻る。もう一度、同じ行を見る。名はある。でも、上の一行とも、他のどれとも結びつかない。記されているはずなのに、どこにも収まっていない。
六花だけではない。
母に仕えていた侍女の記録もなかった。
もう一冊手に取り、頁を繰る。
それでも見つからない。
「おかしい……」
小さく呟いた時、背後で声がした。
「侍女は記録が雑ですからね」
雨宮だった。軽い調子だった。
桜桃は帳簿を閉じ、元の場所へ戻す。
雨宮は書類の山を前にして、しばらく黙ってそれを見ていた。整えられたはずの帳簿は、しかしどこか歪んで見える。
やがて雨宮は、静かに口を開いた。
「全部を同じように残す必要はないでしょう」
その声は穏やかだったが、どこか揺らぎのない断定を含んでいた。少し間を置いて、続ける。
「動きが遅い方が、かえって混乱を招きます」
まるで当然の理屈を述べるような調子だった。
「残す必要がないって、どれのことですか」
深黎が顔を上げた。場の空気を読んでいない声だった。
雨宮は少しだけ間を置いた。
「書類の話です」
「どの書類ですか」
「全体の話をしています」
「全体って、具体的にどれですか」
雨宮は答えなかった。
深黎はしばらく雨宮を見てから、また書類に視線を落とした。
「……まあいいですけど」
桜桃は二人を横目で見て書庫を出た。
皇居に戻ると、回廊で侍女たちの声が聞こえた。
「謀反後、捕らえられた侍女もいるって」
「見たの?」
「ううん、話だけ。でも結構聞くよ」
「顔も分からないのに?」
「もう上にはいないしね」
小さく笑う声。
「名前、知ってる?」
「似たようなの多くて……」
間が空く。
「まあ、私たちには関係ないしね」
それで話は終わる。
桜桃はそのまま通り過ぎた。
(六花という名前は、記録の中にある)
でも、それ以上の記録はない。誰も知らない。
まるで、最初からそこに存在しなかったように。
風が一度、通り抜けた。
***
翌日、書庫の奥で、桜桃は文官用の帳簿を開いていた。
手にしていたのは、同じ出来事を別の層で記した記録だった。頁をめくる。そこには、侍女側の簡素な記録とは明らかに違う密度があった。命令の発出元、経路、誰の手を経て現場に届いたか。一つの出来事が、線ではなく層として積み重ねられている。
桜桃は視線を落としたまま、もう一冊を引き寄せた。
侍女側の帳簿。そこには日付と役目だけが並ぶ。同じ事柄であるはずなのに、片方にはあるものが、片方にはない。
その差は内容だけではなかった。
桜桃は二冊を並べる。ふと、気づく。並び順が違う。同じ日付の記録でさえ、文官側は「命令の流れ」に沿って並び、侍女側は「作業の順」に並んでいる。同じ出来事が、別の秩序で配置されていた。
桜桃は指先で頁をなぞる。
どちらが正しいかではない。どちらも正しいのだとすれば――揃えること自体に意味があるのか。
本来なら、片方に寄せて整理し直すべきなのだろう。そうすれば、後の確認は容易になる。
だが、桜桃は手を止めた。
今、順番を揃えてしまえば、この違いは見えなくなる。どこで、何が優先されていたのか。何が基準として扱われていたのか。その痕跡ごと、消えてしまう。
しばらく頁を見つめたあと、桜桃は帳簿を閉じた。整えかけた書類を、そのまま元の位置へ戻す。わずかにずれた順番のまま、棚に収められる。
『形が揃っていると、後が楽ですよ』
どこかで聞いた言葉が、静かに脳裏をかすめた。続けて、別の声も重なる。
『残す必要がないって、どれのことですか』
あの無邪気な問いが、なぜか今になって引っかかる。雨宮は答えなかった。
それでも桜桃は、揃えなかった。このままの方が、まだ見えるものがある。そう思ったからだった。
書庫の外では、まだ人の出入りが絶えなかった。
書類の移動、棚の入れ替え、確認の声。誰もが急かされるように動いているのに、その流れ自体はどこか不安定だった。
桜桃はその端で、未処理として仕分けられた書類を見ていた。
棚には「急務」「通常」「雑務」の三つの束があった。急務が最優先。一番上に置かれたものから処理される。
この未処理書類の束は、まだ決裁の降りていない申請書類を管理する「文書室」へこのままの形で文官の手によって移される。
桜桃は棚に目を止めた。
急務の束の一番上に、妙なものが入っていた。地方への支援書類だ。形式からすると「通常」に分類されるはずのもの。なのに急務の一番上に置かれている。
逆に、本来なら一刻の猶予も許されないはずの「帝都復興・配給予算」の書類が、束の一番下に追いやられていた。
そこには「書類不備」という付箋が貼られている。だが、どこが不備なのか、何度読み返しても分からない。
二つの書類を抜き出し、机の上に並べて見比べる。不備の具体的な理由は一行も書かれておらず、ただ付箋が貼ってあるだけだ。
(……わざと、止めているの?)
この書類が「不備」として後回しにされれば、手続きは数週間停止する。その間に、最優先にされた地方の支援へ予算と人員が流れていってしまう。
「それ、また位置が変わってる」
横から、軽い声が落ちる。振り向くと、鈴が書類を抱えたまま立っていた。
「昨日はあの棚だったのに、今日はこっち」
鈴は棚を顎で示した。
「全部、同じように見えて違うんだね」
何気ない言い方だった。だが、その「違う」という言葉だけが、妙に引っかかる。
桜桃は手元の帳簿を見下ろす。確かに、並びは揃っているようで揃っていない。
「誰かが直してるの?」
問いかけると、鈴は少しだけ視線を逸らした。
「さあ……直してるっていうより、変えてるのかも」
その言葉のあと、わずかに間が空く。
「さっきね、如月様が来てたよ」
鈴は続ける。
「すごく早く全部見てた。あれ、分かってやってる人の動きだよね」
「へぇ」
桜桃は書類を抱え直した。よく見ている。
「……いい香りだね」
鈴が、ふと近づく。
「え?」
「その香袋。白檀に……少し混ざってる」
指先で軽く空気をなぞる。
「白檀だけじゃなくて、こういう組み合わせって珍しいよ」
「……そうね」
桜桃は胸元の香袋に触れた。六花のものだ。
「こういうの、意味を持たせることもあるんだよ」
鈴はそれ以上は言わない。ただ、少しだけ笑って、別の棚へと歩いていった。
桜桃は鈴の背中を見送った。
意味を持たせる。
(六花は、この香りに何か意味を込めていたのだろうか)
答えは出ない。ただ、手の中の香袋が、少しだけ重く感じた。
鈴が別の棚へ歩いていった後、桜桃はしばらく香袋を握ったまま立っていた。
もう一度、未処理の書類の束を見る。
度々変わる書類の順。帝都予算の書類不備の付箋。
桜桃の背中に、冷たいものが走った。
あの凄惨な謀反によって、帝都は今も機能不全に陥っている。大火で家を失った民が溢れ、治安は悪化し、明日の配給すら滞っている状態だ。
一刻も早くこの予算を通して物資を動かさなければ、餓死者が出かねない。帝都の足元から、さらなる大規模な暴動が起きて国が完全に崩壊していくのは目に見えていた。
(帝都を見捨てて、誰かが混乱を望んでいるの?)
お役所仕事の間違いなどではない。これは、誰かが明確な意図を持って仕掛けられている。
(……確かめなければ)
桜桃は書類を抱え直して、文書室へ向かった。




