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狂桜華《きょうおうか》~亡国の姫は、名を捨て帝を目指す~  作者:
第一章 桜、散る夜に【帝都崩落編】

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第二十話 令嬢たちの恋愛事情

 桜桃が次の仕事へ向かおうと、貴族が出入りする中庭の傍を歩いていたときだった。


「六花!」


 背後からの呼び声に振り返ると、椎香だった。その後ろから花梨も、楽しそうな足取りで続いている。


「ちょうどいいところにいたわ。ねえ、少しお話ししよう?」


「少しだけ付き合ってね」


 断る間もなく左右の袖を引かれ、三人は中庭の縁に並んで腰を下ろしていた。貴族が通る区画の少し外側。侍女の動線からも外れた、静かな場所だった。


「ねえ、六花」


 椎香が袂を整えながら、少しだけ身を寄せてくる。


「単刀直入に聞くけど……心惹かれる人とか、いないの?」


「心惹かれる方……ですか」


 唐突な問いに面食らいながらも、桜桃は少し考えてから首を振る。


「そういうものは、まだよく分かりません」


「だと思った!」


 椎香は得心したように笑う。


「そういう顔をしてるもの」


「そのような顔、とは?」


「恋の関わりなんて露ほども頭にない、生真面目な顔よ」


 花梨も袖で口元を隠しながら、くすくすと笑った。


「六花ちゃん、少し眉間に皺が寄ってるわよ。真剣に考えたことなど、一度もないのね?」


「……はい」


 見透かされて、素直に頷くしかない。


「お二人は考えてるんですか?」


「当たり前よ」


 椎香がきっぱりと言う。


「添い遂げるなら、自分が恋い慕う人がいいもの。そうでなければ、一生恨んでしまいそうだわ」


「相変わらず情熱的ね、椎香ちゃんは」


 花梨が呆れたように言うと、椎香はふんと鼻を鳴らす。


「当たり前でしょう? 一度きりの私の人生なんだから」


 花梨は少しだけ視線を空へやった。


「まあ、翠陰の家であれば、婚姻が政治的な意味を持つのも仕方ないわよ。うちの家系も同じようなものだし」


 軽く言うが、その響きには諦めに似た慣れがあった。


「私はね、政略結婚も利用する。恋愛結婚ができないなら、好ましい殿方を政略結婚に持っていくの」


「出た、花梨の恐ろしいところ」


 椎香が楽しそうに笑う。


「そういうところ、本当に容赦がないわね」


「容赦がないというか……そうやって割り切らなければ、この宮廷では生きていけないもの」


 さらりと言う。その言葉は軽いようで、どこか現実的だった。


 少しだけ間が空く。


 椎香が、ふとつま先を見つめて肩をすくめた。


「……お父様はね、疾風との婚姻には、わりと好意的なのよ」


 急に音の落ちた、何気ない口調。


「あら」


 花梨がすかさず目を光らせる。


「飛燕様が?」


「ええ。あの人は、そういうところは冷たいほどに現実的だから。『悪くない、娘をやる』って、勝手に盛り上がっちゃって」


 言葉を区切り、椎香は少しだけ視線を落とす。


「……けれど、それには私の気持ちなんて一文字も入っていないじゃない」


 小さく吐き出された本音。

 花梨はそれを否定せず、そっと椎香の肩に自分の肩を寄せた。


「関係ないとは言わないけど……。家を重んじる殿方にとっては、娘の恋心など優先順位の一番下よね」


「だからこそ、それが我慢できないのよ」


 椎香は即座に返す。迷いのない、意地を張ったような声だった。


 桜桃は二人のやり取りを聞きながら、静かに息をつく。


(……私は)


 どちらでもない。決まった相手がいるならば、それに従うのが当たり前だと思っていた。自分で選ぶ、あるいは利用するという発想自体が、まだ自分の中になかった。


「それで? お話を戻すけど」


 椎香がすかさず、再び桜桃の顔を覗き込んできた。


「六花は本当に、誰も気になる人はいないの? 少し見栄えが良いなとか、あのお役人の声が素敵、とかさ!」


「いません」


「本当に〜?」


「……はい」


 そう言い切ったあと、なぜかふと、頭の裏側を白檀の香りがかすめた気がした。

 菖蒲殿で、至近距離で自分を見つめていた昊夜の、冷ややかで静かな香り。 


(……え? なぜ今、あの方のことが)


 桜桃は慌てて、ぶんぶんと小さく首を振った。違う。関係ない。あれはただ、かつての記憶の香りに反応しただけだ。


 だが、その一連の挙動を、二人が見逃すはずがなかった。


「あ――っ!」


 椎香が小さく声を上げる。


「今、絶対に誰かを思い出したわね?」


「思い出してません」


「嘘よ。今、あからさまに目が泳いだもの」


「泳いでいません。正面を見ています」


「お顔が少し赤くなってるわよ、六花ちゃん?」


 今度は花梨がにこにこしながら、反対側から顔を寄せてくる。左右からの挟み撃ちだった。


「気のせいです。この中庭が少し蒸し暑いだけです」


「本当に? 怪しい」


「本当です。何もありません」


 花梨がくすくすと肩を揺らした。


「六花ちゃん、言い訳をするとき急に早口になるのね。態度に全部出てるわよ」


「……そんなことは、ありません」


 完全に形勢不利だった。桜桃はそれ以上言い返せず、耳まで熱くなっていくのを感じた。


 椎香が満足そうに微笑んだ。


「まあいいわ、今日のところは見逃してあげる。そのうち、じっくり聞き出さなくちゃね」


「お話しすることなど、何もありません」


「ふふ、そのうちね」


 楽しげに微笑むばかりで、誰も聞いていなかった。


 桜桃は小さくため息をついた。中庭の向こうで、からかうような風がひとつ、悪戯っぽく吹き抜けていった。


***


 翌日、如月の元へ帳簿を届ける途中、薄暗い回廊の先に昊夜の姿が見えた。


 濃灰の近衛の正装を隙なく纏い歩いてくる。


 その威容を認めた途端、回廊に控えていた近衛兵たちは慌てて壁際に寄り、一斉に深く頭を下げた。


「中将、お疲れ様です」


 誰も顔を上げない。

 誰も、そこに私語や冗談を挟む者などいない。


 張り詰めた冷気のような空気のまま、昊夜は短く一つ頷くだけで、淀みなく通り過ぎていく。


 桜桃はその圧倒的な重圧に、思わず足を止めかけた。


(……朝凪と、全然違う)


 朝凪が近衛の間を歩けば、部下たちは自然に笑顔を浮かべ、競うように声を掛けていた。


『中将、お疲れ様です』


『今度、手合わせをお願いします』


 誰もが気負わず笑い、朝凪もまたそれに応じていた。同じ近衛の中将でありながら、纏う空気はこうも違うものか。


 昊夜の周りにあるのは、敬意というよりも、背筋が凍るような緊張感だった。


(御殿でお会いしたときは、あんなに柔らかい雰囲気だったのに……)


 部屋の片付けを手伝ったあの日は、まだ寝起きで気が緩んでいたからだろうか。


 あの穏やかな表情は幻だったのではないかと思えるほど、今の昊夜は冷たく、到底近寄りがたく見えた。


(やっぱり……怖い人)


 これ以上視線を向けるまいと、桜桃はそっと目を伏せ、そのまま足早に如月の執務室へと向かった。


 桜桃が如月の執務室に足を踏み入れると、如月は書き終えたばかりの稟議書を手に取り、しばらく黙って読み返していた。


「……これでいい」


 小さく呟くと、カチリと音を立てて筆を置く。


 桜桃は机の上に積み上がった幾重もの書類の山を見つめながら、意を決したようにそっと口を開いた。


「如月様は、地方がお好きなのですか」


 不意を突かれたように、如月はスッと顔を上げる。


 如月は答えず、机の隅に置かれた白い兎の文鎮へ手を伸ばした。


 書類が散らぬよう重しにしていた小さな兎を指先で持ち上げ、ころりと一度掌の上で転がす。


(――あの兎をいじってる。よほどあの白兎がお気に入りなのかしら……それとも、難しい話をするときの手持ち無沙汰をごまかす癖……?)


 愛らしい文鎮と、恐ろしく険しい如月の横顔を見ながら、桜桃は内心でこっそり首を傾げた。


 しかし、ふと目が合った気がして、桜桃は「なんだか見てはいけないものを見てしまったような……」と急に居心地が悪くなり、慌てて視線を宙に泳がせた。


 如月の端正な顔立ちは、少しも和らがない。


「好き嫌いなどで動いているわけではない。」


 静かな声だった。


「帝都には、自分の足で立ち、自分で声を上げられる人間がいくらでもいる。」


 桜桃はわずかに首を傾げる。


 如月は兎の耳を親指でなぞりながら、淡々と言葉を続けた。


「だが地方は違う。中央から見捨てられれば、一度稟議が退けられただけで、次の季節を越えられずに潰れる州もある。」


 容赦のない事実を告げるその言葉に、桜桃は息を呑み、何も言い返すことができなかった。


 如月は兎の文鎮をそっと机へ戻すと、改めて厚い紙束を手に取る。


「地方稟議の改定稿が仕上がった。明日これを、直接弁官文書室へ持っていく。」


「でしたら、私が……」


「いや、文書室や弁官の詰所に侍女は入れん」


 如月は静かに首を横に振る。


「あの石頭の左大弁が決裁する部屋だ。一歩も引けぬ重要書類が多すぎる」


「……今度こそ、通るといいですね」


 桜桃が祈るように呟くと、如月は臆することなく言い放った。


「祈る必要はない。――通らせる」


 それは、一切の妥協を排した、確固たる決意に満ちた声だった。


***


 翌朝、まだ人影もまばらな早朝の文書室に如月が現れた。


「……この並びでは、稟議書が通らない」


 誰に向けるでもなく低く呟きながら、如月は猛烈な勢いで書類の束を動かし続ける。


 左大弁である清明の目を掻い潜り、民部省の管轄である「地方支援の稟議」を、少しでも早く上申経路に乗せるための別の理屈――如月なりの再構成だった。


 そうしていくうちに、元あった頑なな順序は少しずつ姿を失っていった。整理されているはずの書類は、全体の処理状況が見えにくくなっていく。


 同じ部屋の隅で、決裁待ち書類を持ってきた雨宮が、その様子を窺いながら、恐る恐る如月に近づいた。


「あの、如月大臣……。そんな風に書類を動かしてしまっては、余計清明殿の許可が通らなくなるのでは……」


 如月は手元を止めないまま、忌々しげに吐き捨てた。


「あの石頭め。都の足元ばかりに固執して、地方の民をいつまで待たせるつもりだ。手段など、選んでいる余裕はないというのに」


「……そ、そんなこと言っていいのですか。誰が聞いているか……」


「構わん!」


 如月は雨宮の制止をはねのけるように、手元にあった帝都予算の書類を机に叩きつけるように置いた。


 苛立ちを隠そうともしない、明確な反発だった。


「これ以上、あやつの遅すぎる手順に付き合ってはいられん。終わり次第、すぐに上へ回せ」


 如月はそれだけを言い残し、足早に部屋を出ていった。


 残された雨宮は、困ったように、如月が乱していった書類の山と扉を交互に見つめ、それから仕方がないといった様子で、その歪な書類の束を手元で揃え直し始めた。


***


 桜桃は、書庫へ向かう静かな朝堂院の回廊を鈴と共に歩いていた。


「如月様のお手伝いなんて大変ね。あの方、宮中じゃ『鬼上司』って噂だよ」


「そんなことないわ。如月様は、ちゃんと地方の生活のことを考えてくださっているだけだもの」


「へぇ……」


 面白がるように、鈴がふと桜桃の肩へと近づいてくる。


「ねえ、なんかいい匂いがする」


「え?」


「その香袋。白檀に、何か別の香りが混ざってる。こういうのって、身につける人によってちゃんと意味を持たせたりもするよね」


「……意味……?」


 言葉の意図を測りかねていると、鈴はふっと悪戯っぽく笑い、そのまま先を急ぐように書庫の方へと歩いていってしまった。


(六花も、この香袋に何か意味を持たせていたのかな……)


 鈴の背中を見送りながら桜桃が歩き始めると、冷たい板張りの床に、ハラリと一枚の白い紙が落ちているのが目に入った。


 かがみ込んで拾い上げると、それは『帝都予算案』と記された重要な公文書だった。


 表紙には、鮮やかな赤字で『不備あり』の付箋が雑に貼られている。


 しかし、どこがどう不備なのかを指し示す訂正や理由は、どこにも書き記されていなかった。


(不備の内容が書かれていない……?)


 もしこの書類が、理由不明の「不備」として意図的に後回しにされれば、帝都の復興手続きは数週間もの間停止する。その空白の時間の間に、如月が必死に守ろうとしている地方の支援へと、優先的に予算と人員が流れ込むことになる。


『今の宮中は誰も彼も、自分の足元と帝都の復興を優先したがる』


 如月の低い声が、桜桃の頭の中に鮮やかに蘇った。


(……まさか、わざと……?)


 ふと顔を上げたその視線の先に、重々しい佇まいの左弁官棟が見えた。


『文書室や弁官の詰所に侍女は入れん』


 如月のその警告が頭を掠めたが、次の瞬間には、桜桃の足はすでにその禁忌の場所へと向かって動き出していた。



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