第二十話 侍女、恋話する
書庫へ戻ると、ちょうど時雨が桜桃を捜しに来たところだった。
「あっ、六花! どこに行ってたの? ずっと捜してたのよ」
「ごめんなさい。如月大臣のお仕事を手伝っていたの」
「如月大臣?」
時雨が驚いたように目を丸くする。その声を聞きつけた雲英が、書類の束から顔を上げた。
「お戻りでしたか。どうでしたか、如月大臣のところは」
「……魂が抜けかけました」
桜桃が疲れ切った顔で答えると、雲英は思わず吹き出し、くすくすと笑みを漏らした。
「噂通りですね」
「えっ、噂なんですか?」
「ええ。謀反が起きるまで、如月大臣は長らく地方へ赴いておられましたから。帝都の表舞台では、あまりお見かけする機会がなかったのですよ」
「そうだったんですね……」
(地方にいたから、地方支援に力を入れているのかしら)
鬼のように人使いの荒い男だったが、あの頑なな態度の奥にあるものが、ほんの少しだけ分かった気がした。
「そういえば、如月大臣と清明さんって、相当仲が悪いらしいですね」
書庫の奥から、深黎が口を挟んだ。
「そうなの?」
時雨が尋ねると、深黎は帳簿を棚へ収めながら頷いた。
「ええ。地方で人が死んでいるのに、清明さんは『急いで崩れるより、遅くても保つほうがましだ』って言ったそうですよ。如月大臣が随分怒っていたって、雲英さんも話してましたよね」
「え……」
「深黎……」
雲英が困ったように眉を寄せた。
「何です?」
「人から聞いた話を、あまり軽々しく口にするものではありませんよ」
「雲英さんから聞いたんですけど」
「……そういうことではなくてですね」
雲英は小さく息をついた。
桜桃は先ほどの如月の姿を思い出した。
何度も書き直された稟議書と、地方を見捨てるわけにはいかないと言い切った、あの頑なな横顔。
「……確かに、如月大臣は清明様に随分腹を立てていらっしゃいました」
「ほら」
深黎はどこか楽しそうに笑った。
「……そうなんだ」
小さく呟く時雨の声に桜桃が振り返ると、時雨は「あ」と思い出したように声を上げた。
「六花、お客様が来てるの。ちょっと来てくれる?」
「私に?」
「うん。花梨様と椎香様。さっきから捜していらしたわよ」
「お二人が?」
桜桃は首を傾げながらも、雲英へ一礼し、書庫をあとにした。
桜桃がいなくなるのを見送ると、時雨は深黎の傍に近寄った。
「……ねぇ、さっきの話、もう一回聞かせてくれる?」
***
桜桃が朝堂院から続く回廊を抜け、中庭へ向かうと、木陰の下に二人の娘が待っていた。
「六花ちゃん!」
先に気づいたのは花梨だった。桜桃の姿を認めるなり、ほっとしたように駆け寄ってくる。
「よかった。ずっと気になっていたのよ。宴のときのお怪我は大丈夫だった?」
「あ……はい。おかげさまで、もう大丈夫です」
「本当に? あんな高さから落ちたんだもの。あとから痛むところが出てきたんじゃないかって、心配していたの」
「本当に大丈夫です。ご心配をおかけしました」
「ほら、言ったでしょう? 昊夜様が受け止めてくださったんだから、きっと大丈夫だって」
椎香が横から口を挟むと、花梨は少しだけ頬を膨らませた。
「それでも心配なものは心配でしょう」
「はいはい。花梨は優しいわね」
二人のやり取りに、桜桃は思わず笑みをこぼした。
花梨は桜桃の顔色を確かめるようにしばらく見つめていたが、ようやく安心したらしく、近くの腰掛けを指した。
「せっかくだから、少しお話ししていかない? お仕事の邪魔でなければだけれど」
「はい。少しでしたら」
三人は中庭の縁に並んで腰を下ろした。午後の柔らかな日差しが木々の葉を透かし、足元の石畳に細かな影を落としている。
「ところで、六花。昊夜様とは、親しいの?」
椎香が袂を整えながら、楽しそうに身を寄せてきた。
「……え?」
「花梨が気にしていたのよ」
「ちょっと、椎香ちゃん!」
花梨が慌てて椎香の袖を引いた。
「だって、昊夜様が侍女を助けるなんて意外だって、花梨も言ってたでしょう?」
「それは言ったけれど、だからって六花ちゃんにそんなことを……!」
「意外ではありません」
不意に、落ち着いた男の声が割って入った。
三人が揃って振り返ると、少し離れた柱の傍らに、若い男が立っていた。脇に書状を抱え、至極真面目な顔でこちらを見ている。
「……柳お兄様?いつからそこにいたの?」
花梨が目を瞬かせ、立ち上がった。
「最初からだ」
「最初から!?」
「お前たちが来る前から、ここにいた」
「だったら声くらいかけてくれればいいのに!」
「話の途中だったので、邪魔をしないほうがいいかと思ってな」
「十分邪魔しているわよ……」
花梨は額に手を当てた。
椎香が桜桃の方を向いて、小声で言う。
「花梨のお兄様なの。似てないわよね」
桜桃は柳と花梨を見比べた。穏やかで柔らかい花梨と、真面目そうなこの男が兄妹とは。確かに、まったく似ていない。
「……はい」
正直に答えると、椎香がくすりと笑った。
柳は桜桃へ視線を向けた。
「先日の宴で、昊夜様にお姫様抱きをされていた侍女ですね」
「……っ!」
桜桃は思わず息を詰まらせた。
「お兄様! 言い方!」
「何か間違っているか?」
「間違ってはいないけれど!」
「では、横抱きにされていた、と言うべきだったか」
「言い換えればいいという話ではないの!」
椎香が声を上げて笑い出した。
「でも、本当に驚いたわよね。昊夜様があんなふうに女の子を抱き留めるなんて」
「だから、意外ではありません」
柳は真顔で繰り返した。
「以前にも、廊下で転びかけた女官を支えておられました」
「えっ、そうなの?」
花梨が身を乗り出す。
「はい。書類を抱えた女官が足を滑らせたのですが、昊夜様は咄嗟に腕を伸ばし、転倒を防がれました」
「まあ……!」
「ただ、あの反応速度には驚きました。女官の腕を掴んだ瞬間、身体を引き寄せる力を緩めておられた。強く引けば肩を痛めかねませんから、実に正確な判断だったと思います」
「……お兄様?」
「先日の宴でも同様です。六花殿を受け止めた際には片足を引き、衝撃を逃がしておられました。あの状況であれほど正確に身体を動かせるとは、さすが戦場で長く指揮を執られていただけのことはあります」
「お兄様、私たちは昊夜様が女性にお優しいかどうかを話しているのだけれど」
「だから、怪我をさせないための配慮があると言っている」
「もう、そういうことじゃなくて……!」
花梨は呆気に取られたような顔で石の縁に戻る。
「お兄様ってほんとうに……」
「何か?」
「……何でもないです」
兄妹のやり取りを見守っていた椎香は楽しそうに笑っている。
桜桃も、つられるように小さく笑った。
あの宴で自分を受け止めた腕は、確かに力強かった。けれど、少しも痛くはなかった。
冷徹無比な宮廷の剣。歩く氷山。
そんな噂ばかりを耳にしていたが、思い返せば、昊夜はいつも必要以上に乱暴なことをしない。
「それで、六花殿。お怪我がなくて何よりでした」
柳が改めて桜桃を見た。
「あ……ありがとうございます」
「礼には及びません。私は何もしておりませんので」
至極真面目にそう答えると、柳は花梨へ向き直った。
「私はそろそろ戻る。お前もあまり遅くならないようにな」
「はいはい。分かっております」
「返事は一度でいい」
「お兄様!」
柳は妹の抗議など意に介さず、回廊の向こうへ去っていった。
その背中を見送りながら、椎香がぽつりと言った。
「……花梨のお兄様って、本当に変わってるわよね」
「否定できないわ……」
花梨が深々とため息をつく。
桜桃は笑いをこらえきれなくなった。
「でも、昊夜様がお優しい方だということは、よく分かりました」
「へぇ~」
椎香が面白そうに桜桃の顔を覗き込む。
「六花は昊夜様にあんなふうに助けてもらったものね。胸がときめいたりしなかった?」
「え……」
桜桃は返答に詰まった。
宴の夜、舞台から落ちた自分を受け止めた腕。菖蒲殿で間近に見た冷ややかな瞳。そして、墓所で静かに語られた言葉。
『……会ってみたかったとは思う』
思いがけずその声まで蘇り、桜桃は慌てて視線を落とした。
「あら?」
椎香が目ざとく身を乗り出した。
「今、何か思い出したでしょう?」
「い、いいえ」
「六花ちゃん、お顔が赤いわよ?」
「違います。少し暑いだけです」
「今日は涼しいけど?」
「……私には暑いんです」
椎香と花梨が顔を見合わせ、楽しそうに笑った。
「ふふ。そういうことにしておきましょうか」
花梨はそれ以上追及せず、話題を変えるように椎香へ向き直った。
「そういう椎香ちゃんは、疾風様とのお話はどうなっているの?」
椎香の笑みが、わずかに薄れた。
「……お父様はね、疾風との婚姻には、わりと好意的なのよ」
「飛燕様が?」
「ええ。あの人は、そういうところは冷たいほどに現実的だから。『悪くない、娘をやる』って、勝手に盛り上がっちゃって」
椎香は袂の端を指先で弄びながら、小さく息を吐きながら続ける。
「でも、それには私の気持ちなんて一文字も入っていないじゃない」
「……そうね。家を重んじる殿方にとっては、娘の恋心なんて後回しなのかもしれないわね」
花梨は否定せず、そっと椎香の肩に自分の肩を寄せた。椎香も花梨に肩を預ける。
「だからこそ、それが我慢できないのよ。一度きりの人生だもの。添い遂げるなら、自分が恋い慕う人がいいわ。そうでなければ、一生恨んでしまいそう」
「椎香ちゃんは相変わらず情熱的ね。私は、政略結婚だって利用するつもりよ。好きな方がいるなら、その方との婚姻が家のためにもなるように考えるわ」
「出た、花梨の恐ろしいところ」
「恐ろしいって何よ」
「だって、恋をする前から婚姻の算段までしているんだもの」
「そうやって考えなければ、思いどおりになんてならないでしょう?」
花梨は涼しい顔で答えた。
桜桃は二人のやり取りを聞きながら、そっと視線を落とした。
自分には、婚姻相手を選ぶという発想そのものがなかった。
父が選んだ相手ならば、きっと間違いはない。そう信じていたし、疑ったこともなかった。
けれど、今はどうだろう。
昊夜と出会い、言葉を交わすようになった今でも、彼のことをどれほど知っているのかと問われれば、答えに困ってしまう。
「六花は好きな人ができたらどうする?」
不意に椎香が尋ねた。
「花梨みたいに何とか結婚しようとする? それとも見てるだけ?」
「……まだ、分かりません」
正直に答えると、椎香は意外そうに目を丸くした。
「そうなの?」
「はい。好きになるということが、どういうことなのかも、まだよく分からなくて」
花梨が柔らかく微笑む。
「だったら、これから知っていけばいいのよ」
「そうそう。案外、すぐ近くにいるかもしれないしね」
椎香が意味ありげに笑う。
桜桃はその視線の意味が分からず、ただ不思議そうに首を傾げた。




