第二十一話 皇子、壁ドンする
翌日の夕刻、桜桃は朝堂院に入る前の回廊で時雨を見つけた。
時雨は庭に面した柱の傍らに立ち、手にした布巾を何度も畳み直していた。いつもなら桜桃を見つけると真っ先に声をかけてくれるのに、今日は近づいても気づく様子がない。
「時雨?」
「あ……六花」
呼びかけると、時雨はようやく顔を上げた。
「どうしたの? 何か考え事?」
「ううん。別に、何でもないよ」
そう言って笑ったものの、どこか元気がない。桜桃はしばらくその顔を見つめ、ふと思い当たった。
「……鈴のこと?」
時雨の指が、布巾の端をきゅっと握った。
「え?」
「ずっと心配しているんでしょう。まだ作業所から出られないものね」
「……うん」
時雨は小さく頷いた。
桜桃はその隣に立ち、声を少し落とした。
「でもね、もしかしたら鈴を助けられるかもしれないの」
「……どういうこと?」
「あの日の近衛の当直割が残っていれば、鈴を東の詰所で保護してくれた人が分かるかもしれないでしょう? その人に話を聞ければ、鈴がどこにいたのか証言してもらえるわ」
時雨は驚いたように桜桃を見た。
「そんなの、どうやって手に入れるの?」
「近衛府は朝堂院から近いわ」
「……えっ?」
「書庫の南側から行けば、すぐでしょう?」
「ちょっと待って。まさか、忍び込むつもり?」
時雨が思わず声を上げた。
「危ないわよ! 近衛府でしょう? 見つかったらどうするの!」
「だから、忍び込まなくていい方法をまだ考えているところなの」
「そんな方法あるの?」
「昊夜様にお願いしてみるとか」
「……見せてくれるわけないでしょう」
「そうかしら。事情をお話しすれば、少しくらい協力してくださるかもしれないわ」
「六花……」
「大丈夫。私が何とかするから」
桜桃は安心させるように微笑んだ。
「当直割を調べて、あの夜の証人が見つかれば、清明様に頼んでもう一度調べてもらうわ。 そうすれば、鈴だって――」
「そこまでしなくてもいいって!」
思いがけず鋭い声が響き、桜桃は目を見開いた。
時雨も自分の声に驚いたらしく、はっと口元を押さえた。
「……ごめん」
「時雨?」
「でも、そんな危ないことまでしなくていいわよ。六花が捕まったら、どうするの?」
「私は大丈夫よ」
「どうしてそんなことが言えるの!」
時雨は言いかけて、唇を噛んだ。
回廊の向こうから、官吏たちの話し声が近づいてくる。時雨は慌てて俯き、布巾を胸元へ抱き寄せた。
「……鈴だって、六花にそこまでしてほしいとは思わないわよ」
桜桃は少し考えてから、静かに答えた。
「でも、何もしなければ、鈴はいつまでもあそこから出られないでしょう?」
「それは……そうだけど」
「まだ、当直割が残っているかも分からないもの。まずはそれを確かめるだけよ」
「……六花は、どうしてそこまでしてくれるの?」
「どうしてって……鈴は、何も悪いことをしていないもの」
時雨ははっとしたように動きを止めた。
桜桃はそれには気付かず、言葉を続ける。
「それに、あの夜のことを知っている人がいるなら、私も話を聞いてみたいの。きっと、まだ分かっていないことがたくさんあると思うから」
「……そう」
時雨はようやく、それだけ答えた。
「ごめんね、六花。ちょっと疲れているみたい。先に戻ってもいい?」
「ええ。無理しないでね」
「……ありがとう」
時雨は足早に回廊を去っていった。
桜桃はその背中を見送り、心配そうに眉を寄せた。
いつもなら、鈴を助けられるかもしれないと聞けば、真っ先に喜んでくれるはずだった。けれど、今日の時雨はどこか様子がおかしい。
それほどまでに、鈴のことが心配なのだろうか。
桜桃はしばらく時雨の去った方角を見つめていたが、やがて朝堂院への回廊を歩き出した。
二人の足音が遠ざかり、辺りに静けさが戻る。
回廊の角にある柱の陰から、二人の様子を見ていた男がいた。如月である。
片手には書類の束を抱え、もう片方の手には読みかけの書状を持っている。
如月は桜桃が去った方角へ目を向け、それから、時雨が立ち去った反対側の回廊を見やった。
しばらくその場に立っていたが、やがて何事もなかったように書状を畳み、懐へ収めた。
そして、如月もまた朝堂院のほうへ歩き去った。
***
桜桃が如月の執務室で手伝いを終えた頃、如月はできあがったばかりの稟議書を手に取り、しばらく黙って読み返していた。
「……これでいい」
小さく呟くと、カチリと音を立てて筆を置く。
桜桃は机の上に積み上がった幾重もの書類の山を見つめながら、そっと口を開いた。
「如月様は、ずっと地方にいらしたんですよね。雲英様から聞きました」
「……そうか」
如月はそれだけ答えると、机の隅に置かれた白磁の兎へ手を伸ばした。指先で持ち上げ、長い耳を親指でひと撫でする。
桜桃はその仕草をじっと見つめた。
やはり、この兎が相当お気に入りなのだろうか。
「それで、地方の稟議を?」
「それだけではない」
如月は兎へ視線を落としたまま言った。
「見てきたから知っているだけだ」
「何をですか」
「中央で一枚の紙を退けることが、地方で何人の冬を奪うのかを」
桜桃は言葉を失った。
如月はそれ以上語らず、兎を元の場所へ戻した。
「……今度こそ、通るといいですね」
桜桃が祈るように呟くと、如月は臆することなく言い放った。
「祈る必要はない」
如月は書き上げた稟議書を兎の文鎮の下へ差し入れた。
「――通らせる」
それは、一切の妥協を排した、確固たる決意に満ちた声だった。
桜桃は思わず背筋を伸ばし、深々と頭を下げた。
「では、私はこれで失礼いたします」
「ああ」
如月はすでに次の書類へ手を伸ばしていた。
桜桃が扉に手をかけた、そのときだった。
「……近衛府は、侍女が勝手に出入りできる場所ではないぞ」
桜桃の手が止まった。
「……え?」
振り返ると、如月は書類に目を落としたまま、筆を走らせていた。
「用が済んだなら、さっさと戻れ」
「……はい」
桜桃はもう一度頭を下げ、静かに扉を閉めた。
如月は顔を上げなかった。
***
夜も更け、宮城の灯が、一つ、また一つと落とされていく頃、朝凪は近衛府の東書庫へ続く回廊を歩いていた。
見回りの近衛が角を曲がるのを待ち、柱の陰から静かに身を滑らせる。足音を殺して進んだ先には、東書庫へ通じる渡り廊下があった。
朝凪は周囲を一瞥し、眉を寄せた。
謀反以前なら、この時刻にここまで容易く入り込めることなど、まず考えられなかった。
近衛府は宮城の警備を担う要所である。夜間の巡回はもちろん、東書庫への出入りにも厳しい決まりがあり、当直の近衛が必ず目を光らせていた。
(なのになんだ、この有様は)
見回りの間隔は不自然に長く、東書庫へ続く回廊には誰もいない。先ほどすれ違った近衛も、こちらの姿を確かめようとさえしなかった。
朝凪は小さく息を吐いた。
もっとも、今夜に限っては助かったと言うべきなのだろう。
東書庫の扉へ近づき、耳を澄ませる。内部に人の気配はない。
朝凪は扉を開け、暗い室内へ滑り込んだ。
月明かりが格子窓から差し込み、整然と並んだ書架の輪郭を淡く浮かび上がらせている。紙と古い木の匂いが漂う室内は、記憶にある頃とほとんど変わっていなかった。
奥から二番目の棚。
朝凪は迷わずそこへ向かった。
棚の奥には、錠前のついた木製の保管箱が収められていた。
朝凪はそれを引き出すと、懐から取り出した鍵を差し込んだ。かすかな金属音とともに錠が外れる。
蓋を開けると、中には数冊の帳面が収められていた。
いずれも、特別な警固の際に作成された臨時の当直割を綴じたものだった。
朝凪はその中から、八重御所の警固に関する一冊を取り出した。
頁をめくり、二ヶ月前の日付を探す。
皇族が八重御所に集められたあの日は、通常とは異なる持ち場が定められていた。開いた頁には、近衛の名と、それぞれに割り当てられた場所が細かく記されている。
あとは、これを桜桃へ渡せばいい。
(問題は、どうやって渡すかだ)
朝凪は当直割を手にしたまま、しばし考え込んだ。
そのときだった。
廊下の向こうで、かすかな衣擦れの音がした。
朝凪は顔を上げた。
足音が近づいてくる。
見回りにしては妙に慎重で、しかも、こちらの様子を窺うように何度も立ち止まっていた。
朝凪は素早く書架の陰へ身を寄せた。
やがて、扉がほんの少しだけ開いた。
細い隙間から、誰かがそっと顔を覗かせる。
月明かりに浮かんだその顔を見た瞬間、朝凪は危うく声を上げかけた。
(ひ、姫様……!)
桜桃は左右を確かめ、誰もいないと思ったらしく、そろそろと書庫へ入ってきた。
朝凪は書架の陰で固まった。
(何をしていらっしゃるんですか、姫様)
もちろん、答えなど聞くまでもない。
桜桃は書架を見上げ、目当てのものを捜すように一つ一つ棚を確かめ始めた。
朝凪は手元の当直割へ視線を落とした。
迷った末、朝凪は開いていた頁を閉じ、記録を棚の手前へ置いた。
ほかの帳簿に紛れないよう、背表紙をこちらへ向ける。さらに、謀反当夜の頁に細い紙片を挟んでおいた。
これなら、見つけられるだろう。
朝凪は桜桃が反対側の書架へ向かった隙を見計らい、音もなく移動した。
そして、入ってきたときと同じように、誰にも気づかれず書庫を抜け出した。
回廊へ出ると、夜気が頬を撫でた。
朝凪はしばらく扉を見つめ、それから深々と息を吐いた。
近衛府の警備が甘くなっているとは思っていた。
(だが、まさか姫様まで忍び込めるほど落ちぶれているとは)
かつて自分が守っていた近衛府の惨状に、朝凪は何とも言えない顔で額を押さえた。
しかし、今ここで警備を厳しくすれば、書庫にいる桜桃が見つかってしまう。
「……今夜だけは、見逃すか」
元近衛中将は、もう一度、閉じた扉を振り返り、誰にともなく呟いた。
***
近衛府の東書庫へ忍び込んだ桜桃は、拍子抜けするほどあっさりと目当てのものを見つけてしまった。
夜の書庫には人の気配がなく、格子窓から差し込む月明かりが、棚の間に細長い影を落としている。古い紙と木の匂いが漂う中、桜桃は足音を忍ばせながら奥へ進んでいた。
どの棚に何が収められているのかも分からず、見つからないまま朝になってしまうのではないかと案じていたのだが、手前の棚を覗いたところで、思わず足を止めた。
そこに、目当ての臨時当直割が置かれていた。
しかも、ほかの帳簿より少し手前に出されており、背表紙がこちらを向いている。
「……あった」
桜桃は思わず小さく呟いた。
恐る恐る手を伸ばし、帳簿を取り出す。頁の間には細い紙片が挟まれており、開いてみると、ちょうど謀反当夜の当直割が現れた。
八重御所周辺の警備配置。夜間の巡回。東の詰所に勤務していた近衛の名前。
探していたものに間違いない。
桜桃はほっと息をついた。
あとは、これをもとに当夜の近衛を捜し出せばいい。鈴を東の詰所で保護した人物が見つかれば、清明にもう一度調べてもらえるかもしれない。
桜桃は帳簿を手元へ引き寄せ、東の詰所の欄に目を落とした。
そこには、三人の近衛の名が記されていた。
「……三人」
桜桃は小さく呟き、指先で一人ずつ名前を辿った。
このうちの誰かが、鈴を保護した近衛なのだろうか。
いずれにしても、三人ならば捜し出せるかもしれない。
桜桃は記された名前を順に読み、もう一度、最初から確かめた。忘れないように、文字の形までしっかりと目に焼きつける。
帳簿を閉じようとした、そのときだった。
「そこで何をしている」
刃物のように鋭い声に、心臓が跳ね上がった。
振り返る前に、すでに距離が近い。
腕を引かれ、桜桃の身体が棚の間へ押し込まれた。
視界が、衣で塞がれる。棚に手をついた男の腕が、桜桃の頭のすぐ横にあった。
「侍女はここには入ってはいけないはずだが」
冷ややかで、けれど高貴な白檀の香りが、すぐ近くに満ちていた。
昊夜だった。




