第二十一話 静かな牽制
宮廷の混乱が続く中、指示系統は日ごとに揺れていた。
朝凪は門番として、その流れを外側から見ている。昨日と今日で、同じ内容の指示が別の経路で届く。あるときは清明の名で。あるときは、別の名で。そのたびに、現場の判断は揺れた。
「また変わったぞ」
隣に立っていた兵が、小さく吐き捨てた。
「何がですか」
「人の通し方だよ。昨日と逆じゃないか」
「そうですね」
「統一してくれればいいのに。上は何考えてんだか」
朝凪は頷いた。それ以上は言わない。
兵は少しだけ朝凪を見た。
「あんた、いつも静かだな」
「仕事ですから」
「愛想のない奴だな」
笑いながら行ってしまった。
朝凪は視線を門へ戻した。
内容そのものは大きく変わらない。
だが、通り方が違う。清明から出たはずの指示が、途中で別の系統に乗り換えられているように見えるものがある。あるいは逆に、別の流れが清明の判断として落ちてくるものもあった。
線が、まっすぐではない。どこかで折れ、重なり、ずれている。
――清明様の動きと、噛み合っていない。
意図的なのか、伝達の問題なのかは分からない。ただ、現場が安定しない理由は、その「ずれ」にあるように思えた。朝凪はそれ以上踏み込まない。確信ではなく、違和感としてだけ受け取る。
午後になって間もない頃だった。
桜桃が書類を抱えて廊下を歩いているのが見えた。足が少し速い。何かを確かめに行く顔だ。
朝凪は視線だけで追った。
文書室の扉を開けて、入っていく。
(……また何かを調べている)
朝凪は少しだけ間を置いてから、文書室の外の廊下へ移動した。
***
桜桃が文書室の中に入ると、中は薄暗かった。誰もいない。
目的の棚を探して奥へ進む。急務の束を引き出す。
地方支援の書類が、一番上にある。
(やっぱり……)
夢中になっていた。だから気づかなかった。足音が近づいていることに。
背後から気配が迫る。
「侍女が文書室で何をしている」
心臓が跳ね上がった。
振り返る前に、すでに距離が近い。
棚の間に体を押し込むように引かれた。視界が、衣で塞がれる。棚に手をついた男の腕が、桜桃の頭のすぐ横にあった。
「侍女が入っていいのは書庫だけのはずだが」
凍てつくように冷ややかで、けれど高貴な白檀の香りが、すぐ近くに満ちていた。
昊夜だった。
(――見つかった)
頭の中が、真っ白になる。
書類の並びが勝手に変えられていることに気づいて、誰にも言わずに自分で確かめに来た。ただそれだけのことなのに、いま、この男の前では何の言い訳にもならない気がした。
至近距離で、冷淡な目が静かにこちらを見つめている。何かを確かめるような目だった。
(動いたら、終わりだ)
息を潜めた。胸の中で心臓だけが、うるさく鳴っている。
「……書類を抱えているな」
昊夜の目が、手元で強く抱きしめている書類へと動く。
桜桃は答えられない。唇が震えて、声が出なかった。
「お前が並び替えたのではないな」
短い指摘だった。
桜桃の呼吸が止まる。この男は、文書室の書類が何者かによって動かされていたことにも、桜桃がそれを「調べに来た側」であることにも、一目で見抜いている。
「……違います」
掠れた声で、それだけを返すのが精一杯だった。
昊夜は表情を変えない。ただ、その目が桜桃の怯えを静かに見下ろしていた。
「ならば、元の場所に戻せ。余計な足跡を残すな」
それだけを言って、昊夜はすっと身を引いた。
影が離れ、押し寄せていた圧迫感が一気に薄れる。
踵を返した昊夜の後ろから、千弦が棚の端に現れた。最初からそこにいたらしい。
「……災難でしたね」
千弦が小声で言う。
「心臓が止まるかと思いました」
「昊夜様は怪しいと思ったら、黙って距離を詰める方ですから」
「……圧をかけるのですか」
「あれが昊夜様なりの確認です」
桜桃はしばらく棚に寄りかかっていた。膝が、少し震えていた。
千弦が続ける。
「一つだけ、教えて差し上げますね」
「はい」
「元に戻せとおっしゃいましたが、昊夜様はあの書類の中身をすでに把握されています。つまり、あなたが何を見ようとしていたかも、すべて」
「……それって」
「気づいていて、お咎めなしにされたということです。――深入りするな、という警告を兼ねてね」
桜桃は、その言葉をゆっくりと飲み込んだ。
抱えた書類の重みが、先ほどよりもずっと重く感じられた。
(もし……)
じわじわと込み上げてくる恐怖と心細さの中で、桜桃の脳裏に、いつも静かに自分の後ろに控えていた男の姿が浮かんだ。
(こんなとき、朝凪がいてくれたら……。あの人なら、私の前にさりげなく割って入って、この窮地から当たり前のように連れ出してくれたのに)
いないと分かっているのに、無意識に彼の姿を、その救いを求めてしまう。ぎゅっと書類を抱きしめ、桜桃は唇を噛んだ。
――だが、桜桃は知る由もなかった。
求めたその男が、今まさに、壁一枚隔てたすぐそこにいるということを。
文書室の外。
朝凪は、桜桃が文書室へ入るのを陰から見届けていた。しばらくして、別の足音が聞こえた。長い廊下の奥から、迷いのない足取りでこちらへ向かってくる。
昊夜だった。千弦を伴って、部屋の扉の前で足を止める。中の気配を確かめるような、不気味な間があった。そして、扉を開けた。
(まずい――)
朝凪の体が、反射的に動きかけた。しかし、辛うじて踏みとどまる。
部屋の中から、声が聞こえた。低い声。昊夜の声だ。距離が近い。棚の軋む音と、壁際に追い詰められたような気配。明らかに至近距離だった。
(姫様に、何をしている……!)
胸の奥で、激しい怒りと焦燥がせり上がり、声にならない叫びとなった。
今すぐあの扉を蹴破り、あの方を背中に隠したい。あの男の手からむしり取りたい。衝動が足を動かしかける。
だが、出られない。
ここで自分が動けば、正体が露見する。それだけではない。桜桃の正体まで引きずり出され、すべてが終わる。
(分かっている。分かっている、だが……!)
万が一、あの方の身に何かあれば。
朝凪は衝動を必死に抑え、柱の角を素手で強く握りしめた。
指先が白くなり、爪が石肌にきしむほど力がこもる。足元の石床から伝わる冷たさだけが、辛うじて彼の理性を繋ぎ止めていた。
守るための力を持っていながら、今その身を隠さねばならない無力さが、鋭い痛みとなって胸を刺す。
永遠のようにも思える数寸の間の後、ようやく文書室の扉が開いた。
昊夜と千弦が出てくる。二人は何も言わず、そのまま廊下を歩いていく。やがてその足音が完全に遠のいた。
さらに少しして、ようやく桜桃が姿を現した。
顔色は悪くない。酷い目に遭わされた様子もない。ただ、よほど恐ろしい圧に晒されたのか、少しだけ膝が笑っているような、おぼつかない歩き方だった。
朝凪は、そこで初めて、止めていた息を深く吐き出した。
(……無事だった)
そればかりを、心の中で繰り返していた。
駆け寄りたい衝動を抑え、再び影へと身を潜める。
(生きて、そこにいてくださる。今は、それだけでいい)
柱から手を離した朝凪の指先は、自分の感情を殺し尽くした反動で、まだわずかに震えていた。




