第二十二話 疑いという名の罠
朝凪が門へ戻ろうと踵を返しかけた、その時だった。
廊下の奥で、昊夜が立ち止まっていた。千弦が三歩後ろで待っている。
「……厄介だな」
昊夜が小さく呟く。
「清明様の件ですか」
千弦が静かに問う。
「ああ。なにか仕掛けられている」
一拍。
「……それだけではないがな」
視線が、文書室の方へ一瞬だけ流れた。それだけだった。昊夜はすぐに歩き出す。千弦がその後に続く。やがて二人の気配が、廊下の奥へ消えていった。
朝凪はしばらく、その場に立ったままでいた。
『それだけではない』
その言葉の意味を、考える。考えて、やめる。今は分からない。
朝凪は門へ向かって歩き出した。
門へ戻ると、隣の兵がこちらを見た。
「どこ行ってたんだよ」
「少し見回りを」
「門番が見回りするか普通」
「気になることがあったので」
兵がため息をついた。
「あんた、ほんとよく分からんな」
朝凪は答えなかった。
門の前に立つ。いつもの位置。いつもの景色。だが今日は、いつもより少しだけ落ち着かなかった。
昊夜が文書室に入った瞬間の、あの感覚。足が出かかって、止まった。正しい判断だった。動いていれば全部終わっていた。
(分かっている)
でも。
柱を握っていた指先が、まだわずかに熱い気がした。
「あんた今日、ずっとそわそわしてるな」
隣の兵が言う。
「していません」
「してるよ。いつもは石みたいに動かないのに」
「石ではありません」
「そうだけど、今日は特に落ち着きないじゃないか」
朝凪は視線を門へ戻した。
「……気のせいです」
「そうかあ」
兵は首を傾げながら、前を向いた。
夕刻が近づいた頃、侍女の列が通りかかった。
その中に、桜桃がいた。
姫様観察日記十一日目。
いつもと変わらない歩き方。いつもと変わらない顔。少しだけ、歩き方に力が戻っている。
朝凪は息を吐いた。
「……またあの侍女か」
隣の兵が言う。
「違います」
「見てるじゃないか」
「見ていません」
「今見てたよ」
「仕事中です」
「門番の仕事に侍女は関係ないだろ」
朝凪は答えなかった。
桜桃の列が、門の向こうへ消えていく。
(無事だった)
それだけでいい。
そう思うことにした。
***
清明の権限逸脱が発覚した知らせは、文官区画に静かに広がった。
桜桃がその話を聞いたのは、廊下で鈴と荷を運んでいる最中だった。
「清明様の件、聞いた?」
鈴が小声で言う。
「なんでも権限外の案件が清明様の決裁として処理されてたって」
「……それはどういうことなの?」
「要するに、やってないことをやったことにされてたみたいな話。でも帳簿上はそうなってるから、否定しにくいっていう」
桜桃は荷を持ったまま、少し考えた。
(帳簿上では……)
文官の手伝いをしながら見た、あの書類の束が頭をよぎる。順番が入れ替えられていた束。「書類不備」の付箋。中間の承認記録が消えていた流れ。
(もしあれが、意図的に作られた歪みだとしたら)
「六花、顔色悪いよ」
鈴の声で我に返る。
「大丈夫。少し考えてただけ」
「考えすぎだって。あたしたちには関係ない話でしょ」
関係ない、とは言えなかった。
文官区画には妙な静けさが落ちていた。
整え直された帳簿は机の上に広げられたまま、誰もすぐには次の判断に進めないでいる。忙しさの中に満ちていた喧騒が、嘘のように薄れていた。
「……決裁の経路が、完全に歪んでいますね」
誰かがそう言った。指先が帳簿の一点をなぞる。
左大弁である清明が「保留」としたはずの地方支援の稟議が、なぜか清明の検閲印がある帝都予算の束に紛れ込み、そのまま帝の最終決裁を通過してしまっている。
「完全に証拠が消されたわけではありません」
別の文官が小さく返す。
「むしろ、意図的に書類を重ね、二つの案件を一括で処理しようとした形です。ご覧ください、帝都予算の書類から、この地方支援の稟議にまたがるようにして、清明殿の割印が残されています。……まるで、堂々と通せない書類を、正規の経路に紛れ込ませて隠蔽しようとしたかのように」
その言葉で、空気がわずかに変わった。
隠蔽、そして権限の逸脱。
その単語だけが、妙に重い。
「都の復興予算の計算すら終わっていないのに、地方への前例のない支援をいきなり通せるわけがない」
「もし後から『不正な横領だ』とつつかれたら、責任を取らされるのは書類を作った俺たちです」
あれほど頑なに手順を守れと言っていた左大弁の清明が、経路を捻じ曲げたというのか。文官たちの間に、取り返しのつかない不信感が広がっていく。
「いや、清明様は通すはずはない。何者かが意図的に裏から手を回したんじゃないんですか」
帳簿がもう一度めくられる。紙の擦れる音だけがやけに大きく響く。
「ここです」
指が止まる。
混雑に紛れて書類が動かされたと思われる時間帯、朝堂院への出入りを許されていた者の控帳。そこには、あってはならない名が記されていた。
「……本来、ここは侍女が立ち入って良い場所ではないはずですが」
不審を露わる問いは空間に投げられたまま、すぐには返らない。やがて、雨宮が当時の目撃記録を静かに読み上げる。
「書類の入れ替えがあったとされる時刻、人目を盗んで文書室に勝手に入っていく姿を文官が目撃しています。――侍女、六花」
その名が出た瞬間、ほんのわずかに間が空いた。
──六花。
誰も即座に否定しない。だが、肯定もしない。
「補助作業です」
誰かが言い直すように付け加える。
「決裁には関わっていません」
「それでも」
別の声が重なる。
「この経路には"触れている"ことになります」
沈黙が落ちる。帳簿の上では、それは単なる補助記録だ。だが今は、その一点だけが浮いて見える。水面に落とした一粒の雫が、静かに波紋を広げていくように。
「呼びましょう」
短く言われた。反対は出ない。理屈としては、それが最も早い確認だった。
やがて、侍女への呼び出しが告げられる。
その場にいた誰もが、まだ断定はしていない。ただ一つだけ、記録の上で桜桃が「そこにいる」という事実だけが残っていた。




