第二十二話 元近衛中将、出られない
(――見つかった)
背筋が強張った。
ほんの少しだけ近づいたように思えた距離など、最初から存在しなかったかのようだった。
──怖い。
(動いたら、終わりだ)
息を潜めた。胸の中で心臓だけが、うるさく打っている。
「聞こえなかったか。そこで何をしているのか聞いている」
「あ、あの……それは……」
「なんだ」
冷たい瞳が、まっすぐに自分を見ていた。
宴で舞台から落ちた自分を受け止めてくれたときとも、墓所で静かに言葉を交わしたときとも違う。
そこにいるのは、近衛中将として宮城の警備を預かる男だった。
心臓が凍りついたように、胸の奥が冷たくなる。
「ここが何を保管している場所か、知らないわけではあるまい」
桜桃は帳簿を抱き締めたが、その仕草に気づいた昊夜の眉がわずかに動いた。
「隠すつもりか」
「ち、違います!」
「何をしていたか早く言え」
桜桃は声が震えるのを必死に抑えながら、口を開いた。
「……謀反の夜のことです。あの夜、東の詰所にいた近衛の方を捜していて……」
「誰の許可を得た」
「……え?」
「誰の許可を得て、その記録を調べている」
桜桃は言葉に詰まった。
昊夜はしばらく返事を待っていたが、やがて静かに口を開いた。
「許可もなく、近衛府の記録を調べているのか」
「……はい」
「それがどういうことか、分かっているのか」
桜桃は俯いた。
分かっている。だからこそ、人のいない夜を選んだのだ。
けれど、目の前の男にそれを告げる勇気はなかった。
「……申し訳ございません」
「戻せ」
それだけを言って、昊夜はすっと身を引いた。
影が離れた瞬間、桜桃は詰めていた息を吐いた。
膝から力が抜けそうになる。 怖かった。 間違いなく怖かった。
けれど、それ以上に、自分が昊夜を怒らせてしまったことが胸に重く残っていた。
踵を返した昊夜の後ろから、千弦が棚の端に現れた。
最初からそこにいたらしい。
「……災難でしたね」
千弦が小声で言う。
「心臓が止まるかと思いました」
「お咎めがなかっただけ、幸運ですよ」
「え?」
千弦はそれ以上答えず、昊夜のあとを追っていった。
去っていく昊夜の背中を見ながら、桜桃はまだ落ち着かない胸の鼓動を抑えるように、胸の前でぎゅっと拳を握った。
(もし……)
込み上げてくる恐怖と心細さの中で、桜桃の脳裏に、いつも静かに自分の後ろに控えていた男の姿が浮かんだ。
(こんなとき、朝凪がいてくれたら……。あの人なら、私の前にさりげなく割って入って、この窮地から当たり前のように連れ出してくれたのに)
いないと分かっているのに、無意識に彼の姿を、その救いを求めてしまう。ぎゅっと書類を抱きしめ、桜桃は唇を噛んだ。
――だが、桜桃は知る由もなかった。 求めたその男が、今まさに、壁一枚隔てたすぐそこにいるということを。
***
少し前、朝凪は桜桃が書庫へ入るのを見届けたあと、念のため近くに残っていた。しばらくして、別の足音が聞こえた。長い廊下の奥から、迷いのない足取りでこちらへ向かってくる。
昊夜だ。千弦を伴って、書庫の扉の前で足を止める。中の気配を確かめるような、不気味な間があった。そして、扉を開けた。
(まずい――)
朝凪の体が、反射的に動きかけた。しかし、辛うじて踏みとどまる。
書庫の中から、声が聞こえた。低い声。昊夜の声だ。
距離が近い。棚の軋む音と、壁際に追い詰められたような気配。明らかに至近距離だった。
(姫様に、何をしている……!)
胸の奥で、激しい怒りと焦燥がせり上がり、声にならない叫びとなった。
今すぐあの扉を蹴破り、あの方を背中に隠したい。衝動が足を動かしかける。
だが、出られない。
ここで姿を見られるわけにはいかない。元近衛中将である自分が、夜更けに近衛府の東書庫の前をうろついていたと知れれば、説明のしようがなかった。
まして、桜桃と一緒にいるところを見られれば、桜桃の正体まで引きずり出され、すべてが終わる。
(分かっている。分かっている、だが……!)
万が一、あの方の身に何かあれば。
朝凪は衝動を必死に抑え、柱の角を素手で強く握りしめた。
指先が白くなり、爪が石肌にきしむほど力がこもる。足元の石床から伝わる冷たさだけが、辛うじて彼の理性を繋ぎ止めていた。
守るための刃を持っていながら、今その身を隠さねばならない無力さが、鋭い痛みとなって胸を刺す。
永遠のようにも思える寸刻の間の後、ようやく書庫の扉が開いた。
昊夜と千弦が出てくる。二人は何も言わず、そのまま廊下を歩いていく。やがてその足音が完全に遠のいた。
さらに少しして、桜桃が姿を現した。
顔色は悪くない。酷い目に遭わされた様子もない。ただ、よほど恐ろしい圧に晒されたのか、少しだけ膝が笑っているような、おぼつかない歩き方だった。
朝凪は、そこで初めて、止めていた息を深く吐き出した。
(……無事だった)
そればかりを、心の中で繰り返していた。
駆け寄りたい体を抑え、再び影へと身を潜める。
(生きて、そこにいてくださる。今は、それだけでいい)
柱から手を離した朝凪の指先は、自分の感情を抑えていた反動で、まだ微かに震えていた。
朝凪が門へ戻ろうと踵を返しかけると、薄暗い回廊の奥で、昊夜がふいに歩みを止めた。三歩後ろに控えていた千弦も、気配を消したままその場で静止する。
「……厄介だな」
昊夜の口から、微かな呟きが床へと落ちた。
「清明様の件ですか」
千弦が低い声で問いを重ねる。
「ああ。どうにも腑に落ちないことが多い」
昊夜の視線が、先ほどの書庫へ一瞬だけ流れた。
「……それだけではないがな」
そう言い残すと、昊夜は衣の裾を揺らして再び歩き出す。千弦が無駄のない足取りで後に続いた。
やがて、遠ざかる二人の気配は、回廊の深い暗がりの向こうへと完全に消え去っていった。
柱の影に身を潜めていた朝凪は、しばらくの間、微動だにせずその場に立ち尽くしていた。
『それだけではない』
耳の奥に残るその言葉の意味を、深く探ろうとする。だが、すぐに思考を打ち切った。
ここでいくら考えを巡らせたところで、今は確かな答えなど出ない。
朝凪は静かに呼吸を整えると、自身の詰所である門へ向かって歩き出した。
門へ戻ると、隣の門兵が怪訝そうにこちらへ顔を向けた。
「どこ行ってたんだよ」
「少し見回りを」
「門番が見回りするか普通」
「気になることがあったので」
門兵は、あきれたように短いため息を漏らした。
「あんた、ほんとよく分からんな」
朝凪はそれには答えず、ただ真っ直ぐに前を見据えた。
門の前に立つ。いつもの位置。いつもの見慣れた宮城の景色。だが今は、いつもより少しだけ胸のざわめきが収まらなかった。
先ほど、昊夜が書庫へ入っていった瞬間の、あの肌が粟立つような感覚。本能的に足が一歩前へ出かかり、寸前で思い止まった。
あの場で踏み止まったことは、冷静に考えても正しい判断だった。もしあの時、感情に任せて動いていれば、すべてが終わっていた。
(分かっている)
頭では、嫌というほど理解しているのだ。
それでも、強く柱を握り締めていた指先が、まだ熱を帯びているような錯覚が消えなかった。
翌日、仕事を終えた侍女たちの列が門を通りかかった。
その並びの中に、桜桃の姿があった。
《姫様観察日記》
十一日目。
いつもと変わらない歩き方。いつもと変わらない顔。少しだけ、歩き方に力が戻っている。
朝凪は、胸の奥に溜まっていた重い塊を吐き出すように、静かに息を漏らした。
「……またあの侍女か」
隣の門兵が、その視線の先を読み取るようにして呟いた。
「違います」
「見てるじゃないか」
「仕事です」
「門番の仕事に侍女は関係ないだろ」
朝凪は、今度こそ完全に口を閉ざした。
侍女たちの長い列が、門の向こうの影へと消えていく。
(無事だった)
ただ、彼女が今日も何事もなくそこにいる。それだけでいい。今はそれ以上の感傷を抱くべきではないと、自分に言い聞かせるように、心の中で呟いていた。
***
「ねぇ、六花」
書類を抱えて回廊を歩いていた桜桃は、呼び止められて振り返る。
時雨が小走りで後ろから追いかけてきた。
「昨日、ずいぶん遅くに戻ってきたみたいだけど、どこに行ってたの?」
「あ……ちょっと、用事があって」
「用事?」
時雨は手を止め、桜桃の顔をじっと見つめた。
「……まさか、近衛府に行ったんじゃないでしょうね」
桜桃は答えに詰まった。
その反応だけで察したらしく、時雨は目を見開いた。
「嘘でしょう!? 本当に行ったの?」
「しっ、時雨。声が大きいわ」
「そんなこと言ってる場合じゃないでしょう!」
「でもね、ちゃんと見つけたのよ。謀反の夜の近衛の当直割」
「……え?」
「昊夜様に見つかってしまったから持ち出せなかったけど、名前は覚えたわ」
時雨の動きが止まった。
「……名前?」
「ええ。東の詰所にいた近衛は三人だったの。その名前をもとに調べれば、鈴を保護した方が見つかるかもしれないでしょう?」
桜桃は嬉しそうに続けた。
「清明様に相談すれば、今どこにいるのかも調べていただけるかもしれないし――」
「何やってんのよ!」
突然の大声に、桜桃はびくりと肩を揺らした。
「そんな危ないことしないでって言ったじゃない!」
「……時雨?」
「近衛府に忍び込んだんでしょう? しかも昊夜様に見つかったって……! もし捕まっていたら、どうするつもりだったの!」
「ご、ごめんなさい。でも、何もなかったから……」
「何もなかったからいいって話じゃないでしょう!」
時雨はそこまで言うと、はっとして口を閉じた。
回廊を歩くほかの侍女たちがこちらを振り返っている。時雨は気まずそうに視線を伏せ、声を落とした。
「……ごめん。大きな声を出して」
「ううん。心配してくれたのよね」
桜桃がそう言うと、時雨はすぐには答えなかった。
「でもね、時雨。せっかく手掛かりが見つかったんだもの。もう少し調べてみたいの」
「……まだ、続けるつもりなの?」
「もちろんよ。鈴があそこから出られるかもしれないんだから」
「……そう……ね」
時雨は俯いた。
「……もう、危ないことはしないでね」
「ええ。気をつけるわ」
桜桃が微笑むと、時雨も小さく笑みを返した。
けれど、桜桃が去ったあとも、時雨はしばらくその場から動かなかった。




