第二十三話 元近衛中将、姫を助ける
――あの日のことを、忘れたことはない。
謀反の報が届いたのは、地方にいた時だった。
知らせを受けた瞬間には、もう馬を走らせていた。
夜を越え、ただ宮廷へ向かう。
間に合え、と。
それだけを胸に抱えて。
だが。
辿り着いた時には、すでにすべてが終わっていた。
血の匂い。
崩れた建物。
声を失った宮廷。
かつて人で満ちていた場所は、静まり返っていた。
何もかもが遅かったのだと、思い知らされる。
その中を、歩いた。
名を思い浮かべながら。
だが――誰もいない。
共に国を支えてきた者たちは、もうそこにはいなかった。
残されたのは、空白だけだった。
それでも。
立ち止まることは許されなかった。
国は、まだ残っている。
ならば。
誰かが、支えなければならない。
──あの方は言った。
「帝になる」
呟くような小さな声音。
その声は、それをそのまま受け取らせなかった。
「……本気ですか」
静かに。
「覚悟は、ありますか?」
言葉が、深く差し込む。
試すように。
見極めるように。
まだ未熟でも構わない。
だが、この国を背負うというのなら。
逃げ場はない。
戻るしかないのだ。
あの場所へ。
すべてが崩れた、あの宮廷へ。
もう一度、立て直すために。
だから。
自分も戻った。
失ったものの中へ。
何もかもが足りないままでも。
それでも。
この国のために。
◇
朝凪が異変を感じたのは、朝の交代を終えて間もない頃だった。
宮城はいつもどおりの朝を迎えていた。官吏たちは書状を抱えて朝堂院へ急ぎ、女官たちは廊下を行き交い、門を出入りする者たちの声も絶えない。
警備にあたる兵の数も、普段と変わらなかった。
それなのに、何かが違った。
朝凪は門の前に立ったまま、行き交う人々へ視線を巡らせた。
この違和感に、朝凪には覚えがあった。
あの夜、八重御所が炎に包まれる前も、宮城は不思議なほど静かだった。
普段なら聞こえるはずの声が聞こえず、いるはずの者がいない。
ひとつひとつは些細な違和感にすぎなかったが、あとになって思えば、あれがすべての始まりだった。
朝凪はゆっくりと背筋を伸ばした。
「……どうした?」
隣に立っていた門兵が、怪訝そうに尋ねた。
「いや」
朝凪は短く答え、もう一度、朝堂院へ続く回廊を見やった。
昨夜、東書庫の前で聞いた昊夜の声が蘇る。
『清明様の件ですか』
『ああ。どうにも腑に落ちないことが多い』
そして、書庫へ向けられた視線。
『……それだけではないがな』
昊夜も何かを感じ取っていたのだろうか。
清明に関わる何かが動いているのか。それとも、昨夜の桜桃の行動と関係があるのか。
朝凪はしばらく考え、やがて門兵へ向き直った。
「少し持ち場を外します」
「おいおい、またか? 今度は何だよ」
「少し確かめたいことがありますので」
「何を?」
朝凪はそれには答えず、腰の佩刀を確かめると門を離れた。
行き先は決まっている。
昨夜、昊夜に見つかりながらも、近衛の当直割を調べようとしていた桜桃。彼女なら、手掛かりを得たからといって、そこで諦めるはずがない。
おそらく今頃は、次に何を調べるべきか考えていることだろう。
朝凪は朝堂院へ続く回廊を曲がり、桜桃の姿を捜した。
***
夕暮れに赤く染まる頃、朝堂院の回廊を歩いていた桜桃は、治部省の執務室の前で清明を見つけ、足を速めた。
ちょうど執務室へ入るところらしく、数枚の書状を手に、傍らの官吏と何事か話している。
桜桃はほっと息をついた。
昨夜、近衛府の東書庫で確かめた三人の名前は、今もはっきり覚えている。清明に相談すれば、当夜の勤務者が今どこにいるのか調べてもらえるかもしれない。
「清明様!」
声をかけながら、桜桃は一歩踏み出した。
その瞬間だった。
ひゅ、と空気を裂く音がした。
何かが頬のすぐ脇を通り過ぎ、横の柱へ深々と突き刺さった。
「……え?」
乾いた衝撃音が回廊に響く。
桜桃は目を見開いた。
柱から伸びているのは、一本の矢だった。
何が起きたのか理解するより早く、背後から強い力で腕を引かれた。
「っ……!」
身体が後ろへ引き戻され、声を上げかけた口を大きな手で塞がれる。
「声を出すな」
耳元で低い声がした。
振り返った桜桃は、驚きに目を見開いた。
「……如月様!?」
口元を覆っていた手が離れる。
如月は桜桃の問いには答えず、鋭い目で回廊の先を見据えていた。
間髪入れず、二本目の矢が飛んできた。
それは二人のすぐ前の床へ突き刺さり、硬い音を立てて震えた。
「こちらへ来い」
如月は桜桃の腕を掴んだまま、回廊の脇へ身を寄せた。
そこには、普段は道具を収めている小さな物置があった。
如月は素早く戸を開けると、桜桃を中へ押し込んだ。
「ここに入れ」
「え、如月様……!?」
「お前はここから出るなよ」
「ちょっと……」
桜桃が手を伸ばすより早く、戸が閉められた。
カチリ、と重い鍵の回る音がした。
その乾いた音が、脳天を突き抜ける。
瞬間、桜桃の意識はあの謀反の夜へと強制的に引き戻された。
(――まただ。また、閉じ込められる……っ!)
あの夜、崩れ落ちる宮殿のなかで、朝凪に冷たく扉を閉められた記憶と重なる。
引き裂かれるような恐怖に駆られ、桜桃は縋るように暗闇の中で鍵穴に視線を落とした。
鍵穴の向こう。
あのとき覗いた光景が頭の中に蘇る。
すべてを焼き尽くす燃え盛る回廊。朝凪に抱き抱えられる六花。炎のなかで、六花を守ろうとする朝凪。世界が焼き払われるような、凄まじい炎と血の赤。
「……っ!」
胸を抉られるような激しい動悸がして、肺の空気が一気に奪われたように息が浅くなる。
逃げ場がない。息ができない。
もう二度とあんな光景を見たくない。
思い出したくない。怖い。
思考を無理やり遮断すると、暗闇の底へ意識が遠のいていく。
助けて、誰か、助けて――。
不意に目の前の扉が荒々しく開き、低い声が響いた。
「遅くなり申し訳ございません」
細い腕を引かれる。恐怖で震える中、怯える肩を包み込む大きな手の、確かな体温を感じた。
泣きたいほどにほっとして、ゆっくりと重い瞼を持ち上げる。 すぐ近くから、微かな香りがした。
白檀に似ているのに、違う。
もっと深く、静かで、地層の奥に眠る古木のように厳かな――「沈香」の香りだった。
(この香りは……)
知っている。この香りを、ずっと前から知っていた。
そう思った瞬間、視界がぐらりと揺れた。
力が抜けていく。支えられているはずなのに、足の感覚が遠のく。 音が遠くなる。 誰かに名を呼ばれている気がした。
けれど、その声の主を確かめる前に桜桃の視界は真っ暗になり、完全に意識が沈んでいった。
朝凪は、ぐったりと倒れ込んできた桜桃の身体を、両腕でしっかりと受け止めた。
腕の中の桜桃に、意識はない。
しかし、胸元に手をあてると、かすかだが確かな鼓動が手の平に伝わってきた。
衣服の隙間から漏れる呼吸も、深く、安定している。
ひとまずは、無事だ。
暗い物置の中は、甘い香りが充満している。
(眠気を催す香か……)
朝堂院に張りつめた空気が戻りきらないまま、桜桃を別室へと運ぶために朝凪は、桜桃を抱き上げた。
「……姫様」
小さな呟きは、闇に溶けた。まだ桜桃の意識は戻らない。
***
治部省の執務室に、鋭い音が響いた。
清明が顔を上げたときには、一本の矢が背後の柱へ深々と突き刺さっていた。
机上に積まれていた書状が衝撃で崩れ、数枚の紙が床へ舞い落ちる。
「……これはまた、随分と物騒ですね」
清明は椅子から立ち上がり、矢の飛んできた方角へ目を向けた。
開け放たれた戸の向こうでは、官吏たちが悲鳴を上げて逃げ惑っている。
そこへ、回廊から足早に近づいてくる者があった。
清明はその姿を認めると、眉を上げた。
「如月殿」
「お前が地方支援の稟議書を差し戻すから、こうなる」
吐き捨てるような言葉に、清明の表情が変わった。
「……あなたが仕組んだのですか」
「お前は――」
如月が口を開きかけた、その瞬間。
二本目の矢が飛び込んできた。
清明のすぐ脇を掠め、背後の棚へ突き刺さる。木片が飛び散り、積まれていた書物が音を立てて崩れ落ちた。
清明は身を低くし、机を回り込むと、執務室を飛び出した。
回廊は、すでに騒然としていた。
逃げ惑う官吏たちの向こうに、顔を覆った男たちがいる。手には抜き身の刀や弓を携え、逃げる者には目もくれず、清明の姿を探していた。
「……私が狙いですか」
清明が低く呟いた。
その声を聞きつけたのか、男たちの一人がこちらを振り返る。
「いたぞ!」
鋭い叫びが上がった。
十数人の男が一斉に駆け出す。
そのとき、回廊の向こうから、桜桃を抱えた朝凪が現れた。
物置から救い出した桜桃は、まだ意識を取り戻していない。朝凪は少女の身体を抱え、騒ぎを避けながら安全な場所へ運ぼうとしていた。
だが、曲がり角を抜けたところで、清明の姿が目に入った。
「清明様――!」
朝凪は思わず声を上げた。
清明の背後では、抜き身の刀を持った男が距離を詰めていた。
朝凪は咄嗟に駆け寄ろうとした。
しかし、腕の中には桜桃がいる。
桜桃を安全な場所へ移動しなければ。
「清明様、伏せてください!」
朝凪が叫んだ。
兇手が清明に飛びかかろうとした──その刹那。
一陣の風が吹いた。
次の瞬間には、十数人いたはずの影が、一斉に形を失う。
立っていたはずの男たちの首が、順番すら残さず転がり落ちた。
その崩れていく様は、まるで糸を断たれた人形のようだった。
刀が床を打つ音。
重い身体が倒れる音。
そのすべてが回廊を満たしたときには、もう立っている刺客は一人もいなかった。




