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狂桜華《きょうおうか》~亡国の姫は、名を捨て帝を目指す~  作者:
第一章 桜、散る夜に【帝都崩落編】

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第二十三話 沈香

 ――あの日のことを、忘れたことはない。


 謀反の報が届いたのは、地方にいた時だった。


 知らせを受けた瞬間には、もう馬を走らせていた。

 夜を越え、ただ宮廷へ向かう。


 間に合え、と。


 それだけを胸に抱えて。


 だが。


 辿り着いた時には、すでにすべてが終わっていた。


 血の匂い。

 崩れた建物。

 声を失った宮廷。


 かつて人で満ちていた場所は、静まり返っていた。

 何もかもが遅かったのだと、思い知らされる。


 その中を、歩いた。

 名を思い浮かべながら。

 だが――誰もいない。


 共に国を支えてきた者たちは、もうそこにはいなかった。 

 残されたのは、空白だけだった。


 それでも。


 立ち止まることは許されなかった。 


 国は、まだ残っている。


 ならば。


 誰かが、支えなければならない。


 ──あの方は言った。


「帝になる」


 呟くような小さな声音。


 その声は、それをそのまま受け取らせなかった。


「……本気ですか」


 静かに。


「覚悟は、ありますか?」


 言葉が、深く差し込む。


 試すように。

 見極めるように。


 まだ未熟でも構わない。


 だが、この国を背負うというのなら。


 逃げ場はない。

 戻るしかないのだ。

 あの場所へ。

 すべてが崩れた、あの宮廷へ。

 もう一度、立て直すために。


 だから。


 自分も戻った。

 失ったものの中へ。


 何もかもが足りないままでも。

 それでも。

 この国のために。


***


 廊下の奥から呼び出しの声がした。


 強くはない。だが、拒むことを前提としていない声だった。

 

 桜桃は一度だけ手元を整え、帳簿のある部屋へと入る。


 中は静かだった。

 紙の匂いと、いくつかの視線だけがそこにある。


「……六花さん」


 雨宮が、確認するように名を呼ぶ。

 机の上には開かれた帳簿が置かれていた。


「この整理に関わりましたね」


「はい」


 桜桃は短く答える。

 

 手伝いとして呼ばれ、指示に従って動いただけだ。それ以上のことはない。

 雨宮は帳簿を指で示した。


「この経路です」


 そこには、補助作業としての記録が小さく挟まれている。


「この流れに、触れていますね」


「触れたといっても、手伝いの範囲で……」


 言いかけたところで、帳簿が静かにめくられた。


 その手つきは迷いがない。だが、どこか最初から答えを持っているようでもあった。


「あなたが文書室へ入るのを見ていた人物がいます」


 淡々と積み上げられる言葉の中で、桜桃の立ち位置だけが静かに確定していく。


「六花さん」


 再び名が呼ばれる。

 今度は少し間があった。


「この整理の経路に、関わった自覚はありますか」


 桜桃は帳簿を見る。

 自分が関わったのは、ほんの補助の作業にすぎない。


 だが、その“ほんの一部”が、今は流れの中心に置かれている。


「文書室では何も触っていません。如月様と雲英様の指示に従い、手伝いをしました」


 沈黙が落ちる。


「……偶然にしては出来すぎています」


 ぽつりと落ちた一言。

 胸が、強く鳴る。


「え……」


「あなたが整理をしていたところだけが浮いています」


 視線が上がる。真っ直ぐに、桜桃を見る。

 否定したいのに、言葉が出ない。

 確かに触れた。確かに見た。


 でも――。


「私は……!」


「やったと言ってるわけではありません」


 淡々と続く。


「でも、関係ないとも言い切れません」


 足元が、冷える。


「違います……!」


 ようやく声が出た。


「私は、ただ……」


 ただ、整理していただけ。そう言いたいのに。


「では説明できますか」


 その問いに桜桃は答えられない。


 分からない。分からないまま、ここにいる。


 そのとき。


「その辺りでよろしいのでは」


 やわらかな声が入る。

 振り向くと、雲英が立っていた。


「彼女は侍女です」


 静かに言う。


「扱う範囲も限られています」


 周囲の文官が雲英を見た。


「単独でこの状態を作るのは、少々無理があります」


 穏やかだった。

 けれど、はっきりと桜桃を“外す”言葉だった。


 少しの沈黙。


 やがて、雨宮が言った。


「……分かりました」


 桜桃を見る。


「一旦下がってください」


 力が抜ける。

 その場に崩れそうになるのを、なんとか堪えた。


 やがて帳簿が閉じられる音がした。

 乾いた音だけが、部屋に残った。


 桜桃が呼び出しの部屋を出たとき、廊下は先ほどよりも静かだった。

 だが、その静けさは安心ではない。


 人の気配が減ったのではなく、意図的に間引かれたような空白だった。

 帳簿の確認が終わった直後ということもあり、誰もが次の判断を待っている。動く者だけが動き、残る者はただ流れを見ているだけだった。


 桜桃は、胸の奥に残るざらつきを抱えたまま廊下を歩いていた。


 ――疑われた。

 

 その言葉だけが、まだ喉の奥に引っかかっている。


 帳簿の流れ。補助記録。ただ書類に触れたという一点だけを切り取られ、完全に「不審な動きをする侍女」として、目をつけられてしまった。


 私はただ調べていただけだ。そう否定できるはずの場面なのに、思い出すだけでなぜか息が浅くなる。


『元の場所に戻せ。余計な足跡を残すな』


 文書室で昊夜に言われた、あの静かな警告が、いまさら重く胸に蘇る。


 昊夜の言う通りだった。あのとき足跡を残してしまったから、こうして別の人間を刺激し、目をつけられる羽目になった。


 けれど、あの奇妙な帳簿の動きを、どうしても無視することはできなかった。


 桜桃は周囲を警戒しながら、ひっそりとした回廊を急ぐ。


 誰かが、意図的に地方稟議書を通そうとしている。

 そのために帝都予算案を差し戻したのだとしたら。


 真っ先に思い浮かんだのは、如月だった。


 地方を救うためなら、誰よりも執念を燃やしていた人。


 あれほど熱心に地方稟議書を書き直していた人。


(でも……)


 桜桃は小さく首を振る。


(あの方が、こんなやり方を選ぶ……?)


 信じられなかった。


 それでも、先ほど文官たちに向けられた疑いの目が脳裏をよぎる。


『地方稟議書を通したかったのは、民部卿だ。』


 そんな声が聞こえてきそうだった。


(……分からない)


 桜桃が思考を巡らせながら歩いていると、ひゅん、と空気を裂く鋭い音がした。


 理解するより先に、すぐ横の柱へ一本の矢が深く突き刺さる。乾いた衝撃が回廊に響き渡り、桜桃の呼吸が一瞬止まった。


 間髪入れず、次の矢が飛んでくる。それは床へ激しく突き刺さり、逃げ道を塞ぐように行く手を阻んだ。


(――狙われている!)


「六花」


 前方から低い声が響く。前から歩いてきたのは、如月だった。


「文書室で何を見た」


 桜桃は息を呑む。


「え……?」


「お前は見てはいけないものを見た」


 容赦のない追撃の矢が、再び彼らに向かって放たれる。恐怖で足がすくみ、動けない。


 如月は素早く桜桃の腕を掴み、すぐ傍にあった暗い物置へと勢いよく押し込んだ。


「狙われたのは、お前が見てはいけないものを見たからだ」


 暗い。微かに、甘い香りが漂う……。


 カチリと、重い鍵が回る音がした。


 その音に、桜桃はあの謀反の夜、朝凪に扉を閉められた記憶を激しく呼び起こされる。


 鍵穴に視線が落ちた。


 あのとき、鍵穴から覗いた、燃え盛る回廊、倒れている六花。膝をつく朝凪。炎と血の赤。


 胸を突くような激しい動悸と共に、息が浅くなる。


 怖い。思い出だしたくない。息ができない。意識が暗闇の底へ遠のいていく。


 どれほどの時間が経ったのか、不意に目の前の扉が開き、低い声が聞こえた。


「遅くなり、申し訳ございません」


 細い腕を引かれる。恐怖で震える中、怯える肩を包み込む大きな手の、確かな体温を感じた。


 ゆっくりと、重い瞼を持ち上げて視線を上げる。


 すぐ近くから、微かな香りがした。


 白檀に似ているのに、違う。もっと深く、静かで、地層の奥に眠る古木のように厳かな――「沈香」の香りだった。


(この香りは……)


 知っている。この香りを、ずっと前から知っていた。

 そう思った瞬間、視界がぐらりと揺れた。


 力が抜けていく。支えられているはずなのに、足の感覚が遠のく。

 音が遠くなる。


 誰かに呼ばれている気がした。


 けれど、その声の主を確かめる前に桜桃の視界は真っ暗になり、完全に意識が沈んでいった。


 朝凪は、ぐったりと倒れ込んできた桜桃の身体を、両腕でしっかりと受け止めた。


 腕の中の桜桃に、意識はない。しかし、胸元に手をあてると、かすかだが確かな鼓動が手の平に伝わってきた。衣服の隙間から漏れる呼吸も、深く、安定している。


 ひとまずは、無事だ。


 暗い倉庫の中は、甘い香りが充満している。


(眠気を催す香か……)


 朝堂院に張りつめた空気が戻りきらないまま、桜桃を別室へと運ぶために朝凪は、桜桃を抱き上げた。


 まだ桜桃の意識は戻らない。


 その姿を見ながら、朝凪の中ではすでにひとつの結論が形を持ち始めていた。


 大きな流れが、背後で作られている。

 桜桃がそこに関わっていたという不自然な記録。


 点はすでに揃っている。あとは線を引くだけだった。


「……疑いを逸らすためだ」


 朝凪の声は低い。誰に向けたものでもない。


「清明様を狙う流れの中で、姫様を“犯人側”に見せている」


 そして


「口封じ」


 言葉が落ちるたびに、結論は固くなっていく。


 そして、あの奇妙な人員の配置。

薄暗い回廊の奥を見据える朝凪の瞳が、鋭く引き締まる。

 まだ襲撃は、終わっていない。


(もう一度来る) 


 清明の執務室に、異変が走ったのは一瞬だった。


 空気がわずかに沈み、次の瞬間には刃の気配が混じる。

 凶手は迷いなく清明へと踏み込んでいた。


 書類机と棚の間、逃げ道は細く、最初からそこへ追い込まれていたかのような動きだった。


 清明が逃げるように部屋から出てきたのと、朝凪がそこを通りかかったのは同時だった。


 朝凪が駆け寄ろうとして立ち止まる。


 桜桃を安全な場所へ移動しなければ。


「清明様……!」 


 兇手が清明に飛びかかろうとした。


 その刹那。

 一陣の風が吹いた。


 次の瞬間には、十数人いたはずの影が、一斉に形を失う。


 立っていたはずの男たちの首が、順番すら残さず転がり落ちた。

 その崩れていく様は、まるで糸を断たれた人形のようだった。


 音が空間を満たしたときには、もう立っている者はいなかった。


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