第二十三話 沈香
――あの日のことを、忘れたことはない。
謀反の報が届いたのは、地方にいた時だった。
知らせを受けた瞬間には、もう馬を走らせていた。
夜を越え、ただ宮廷へ向かう。
間に合え、と。
それだけを胸に抱えて。
だが。
辿り着いた時には、すでにすべてが終わっていた。
血の匂い。
崩れた建物。
声を失った宮廷。
かつて人で満ちていた場所は、静まり返っていた。
何もかもが遅かったのだと、思い知らされる。
その中を、歩いた。
名を思い浮かべながら。
だが――誰もいない。
共に国を支えてきた者たちは、もうそこにはいなかった。
残されたのは、空白だけだった。
それでも。
立ち止まることは許されなかった。
国は、まだ残っている。
ならば。
誰かが、支えなければならない。
──あの方は言った。
「帝になる」
呟くような小さな声音。
その声は、それをそのまま受け取らせなかった。
「……本気ですか」
静かに。
「覚悟は、ありますか?」
言葉が、深く差し込む。
試すように。
見極めるように。
まだ未熟でも構わない。
だが、この国を背負うというのなら。
逃げ場はない。
戻るしかないのだ。
あの場所へ。
すべてが崩れた、あの宮廷へ。
もう一度、立て直すために。
だから。
自分も戻った。
失ったものの中へ。
何もかもが足りないままでも。
それでも。
この国のために。
***
廊下の奥から呼び出しの声がした。
強くはない。だが、拒むことを前提としていない声だった。
桜桃は一度だけ手元を整え、帳簿のある部屋へと入る。
中は静かだった。
紙の匂いと、いくつかの視線だけがそこにある。
「……六花さん」
雨宮が、確認するように名を呼ぶ。
机の上には開かれた帳簿が置かれていた。
「この整理に関わりましたね」
「はい」
桜桃は短く答える。
手伝いとして呼ばれ、指示に従って動いただけだ。それ以上のことはない。
雨宮は帳簿を指で示した。
「この経路です」
そこには、補助作業としての記録が小さく挟まれている。
「この流れに、触れていますね」
「触れたといっても、手伝いの範囲で……」
言いかけたところで、帳簿が静かにめくられた。
その手つきは迷いがない。だが、どこか最初から答えを持っているようでもあった。
「あなたが文書室へ入るのを見ていた人物がいます」
淡々と積み上げられる言葉の中で、桜桃の立ち位置だけが静かに確定していく。
「六花さん」
再び名が呼ばれる。
今度は少し間があった。
「この整理の経路に、関わった自覚はありますか」
桜桃は帳簿を見る。
自分が関わったのは、ほんの補助の作業にすぎない。
だが、その“ほんの一部”が、今は流れの中心に置かれている。
「文書室では何も触っていません。書庫で指示に従い、手伝いをしました」
沈黙が落ちる。
「……偶然にしては出来すぎています」
ぽつりと落ちた一言。
胸が、強く鳴る。
「え……」
「あなたが整理をしていたところだけが浮いています」
視線が上がる。真っ直ぐに、桜桃を見る。
否定したいのに、言葉が出ない。
確かに触れた。確かに見た。
でも――。
「私は……!」
「やったと言ってるわけではありません」
淡々と続く。
「でも、関係ないとも言い切れません」
足元が、冷える。
「違います……!」
ようやく声が出た。
「私は、ただ……」
ただ、整理していただけ。そう言いたいのに。
「では説明できますか」
その問いに桜桃は答えられない。
分からない。分からないまま、ここにいる。
そのとき。
「その辺りでよろしいのでは」
やわらかな声が入る。
振り向くと、雲英が立っていた。
「彼女は侍女です」
静かに言う。
「扱う範囲も限られています」
周囲の文官が雲英を見た。
「単独でこの状態を作るのは、少々無理があります」
穏やかだった。
けれど、はっきりと桜桃を“外す”言葉だった。
少しの沈黙。
やがて、雨宮が言った。
「……分かりました」
桜桃を見る。
「一旦下がってください」
力が抜ける。
その場に崩れそうになるのを、なんとか堪えた。
やがて帳簿が閉じられる音がした。
乾いた音だけが、部屋に残った。
桜桃が呼び出しの部屋を出たとき、廊下は先ほどよりも静かだった。
だが、その静けさは安心ではない。
人の気配が減ったのではなく、意図的に間引かれたような空白だった。
帳簿の確認が終わった直後ということもあり、誰もが次の判断を待っている。動く者だけが動き、残る者はただ流れを見ているだけだった。
桜桃は、胸の奥に残るざらつきを抱えたまま廊下を歩いていた。
――疑われた。
その言葉だけが、まだ喉の奥に引っかかっている。
帳簿の流れ。補助記録。ただ書類に触れたという一点だけを切り取られ、完全に「不審な動きをする侍女」として、目をつけられてしまった。
私はただ調べていただけだ。そう否定できるはずの場面なのに、思い出すだけでなぜか息が浅くなる。
『元の場所に戻せ。余計な足跡を残すな』
文書室で昊夜に言われた、あの静かな警告が、いまさら重く胸に蘇る。
昊夜の言う通りだった。あのとき足跡を残してしまったから、こうして別の人間を刺激し、目をつけられる羽目になった。
けれど、あの奇妙な帳簿の動きを、どうしても無視することはできなかった。
桜桃は周囲を警戒しながら、ひっそりとした回廊を急ぐ。
書棚の配置が、わずかに違っていた。
昨日見た位置と、明らかに違う。それは初めてではなかった。数日前にも、同じ違和感があった。整えられたはずの書類が、翌日には別の棚へ移されている。
誰かが、意図的に書類の順を組み替えている。
整っているようで、どこか噛み合わない。
不意に別の記憶が浮かんだ。
数日前の、何でもない会話。
鈴が書類を抱えながら、軽く言っていた。
『さっきね、――様が来ていたよ』
あのときは、ただの雑談だと思って聞き流していた。
だが、別の人間に動きを疑われたいま、その言葉だけが妙に重く残る。
鈴は一体、誰が来ていたと言っていた?
書類を整え直し、流れを変えようとしていた人物。自分を不審者として追い詰めた人。
桜桃の中で、点と点がゆっくりと結ばれかける。
書類の位置が変わること。整え直されたはずの配置が、さらに組み替えられていること。そして、あの日そこにいたのは――。
だが、その名前が形になる、まさにその一瞬前だった。
ひゅん、と風が裂ける音がした。
理解するより先に、すぐ横の柱に矢が深く突き刺さる。
乾いた衝撃が廊下に響き、桜桃の呼吸が一瞬で止まった。
間髪入れず、次の矢が飛んでくる。それは床に突き刺さり、逃げ道を塞ぐように行く手を阻んだ。
(――狙われている!)
真相に気づき、動きすぎた自分を消し去ろうとする、容赦のない殺気が闇から押し寄せていた。
逃げようとして、足がうまく動かない。
「下がってください」
低い声と同時に腕が引かれた。
抵抗する間もなく、狭い通路へと押し込まれる。
その瞬間、背後で激しい金属音が響いた。
追手が放った容赦のない剛矢を、男がその身を盾にしながら、一瞬の抜刀で叩き落としたのだ。
凄まじい衝撃の風圧と、抱きすくめられた勢いで、桜桃の頭が激しく揺さぶられる。
さらに次の矢が、二人のすぐ脇の石壁に当たり、不気味で乾いた音を立てて弾け飛んだ。
追手の気配が、通路の外へと遠のいていく。
狭い通路の中だけが、世界のすべてから切り取られたように静かだった。
恐怖と衝撃で息が詰まる中、背中と肩を包み込む手の、 確かな温度を感じた。
ゆっくりと、重い視線を上げる。
すぐ近くから、微かな香りがした。
白檀に似ているのに、違う。もっと深く、静かで、地層の奥に眠る古木のように厳かな――「沈香」の香りだった。
(この香りは……)
知っている。この香りを、ずっと前から知っている。
その先に届く前に、視界がぐらりと揺れた。
力が抜けていく。支えられているはずなのに、足の感覚が遠のく。
音が遠くなる。
誰かに呼ばれている気がした。
けれど、その声の主を確かめる前に桜桃の視界は真っ暗になり、完全に意識が沈んでいった。
朝凪は、ぐったりと倒れ込んできた桜桃の身体を、両腕でしっかりと受け止めた。
腕の中の桜桃に、意識はない。しかし、胸元に手をあてると、かすかだが確かな鼓動が手の平に伝わってきた。衣服の隙間から漏れる呼吸も、深く、安定している。
ひとまずは、無事だ。
朝堂院に張りつめた空気が戻りきらないまま、桜桃は別室へと運ばれる途中だった。
まだ意識は戻らない。
その姿を見ながら、朝凪の中ではすでにひとつの結論が形を持ち始めていた。
――これは、ただの襲撃ではない。
流れが、作られている。
帳簿の入れ替え。位置の変更。整理の歪み。
そして、桜桃がそこに関わっていたという記録。
点はすでに揃っている。あとは線を引くだけだった。
「……疑いを逸らすためだ」
朝凪の声は低い。誰に向けたものでもない。
「清明様を狙う流れの中で、姫様を“犯人側”に見せている」
そして
「口封じ」
言葉が落ちるたびに、結論は固くなる。
書類の流れを変えられる者。
記録を整え直せる者。
それは限られている。
この時点で、朝凪の視線はすでに一人に向かっていた。
――如月。
その名前を口にはしないが、そこに収束している。
清明の近くで流れを操れる者。
整理を変えられる者。
そして、状況を“正しく見せる”ことができる者。
その条件が揃うのは一人しかいない。
そして あの人員の配置。
まだ襲撃は終わっていない。
(もう一度来る)
清明の執務室に、異変が走ったのは一瞬だった。
空気がわずかに沈み、次の瞬間には刃の気配が混じる。
凶手は迷いなく清明へと踏み込んでいた。
書類机と棚の間、逃げ道は細く、最初からそこへ追い込まれていたかのような動きだった。
清明が逃げるように部屋から出てきたのと、朝凪がそこを通りかかったのは同時だった。
朝凪が駆け寄ろうとして立ち止まる。
桜桃を安全な場所へ移動しなければ。
「清明様……!」
兇手が清明に飛びかかろうとした。
その刹那。
一陣の風が吹いた。
次の瞬間には、十数人いたはずの影が、一斉に形を失う。
立っていたはずの男たちの首が、順番すら残さず転がり落ちた。
その崩れていく様は、まるで糸を断たれた人形のようだった。
音が空間を満たしたときには、もう立っている者はいなかった。




