第二十四話 金烏と玉兎
清明の部屋から遅れて出てきた如月が、息を止める。
(……何が起きた)
理解しようとした思考だけが、取り残される。
空気がもう一度揺れた。
そこに、最初からいたように男が立っていた。
如月の目に驚愕の色が浮かぶ。
「……お前は……星河帝の金烏……」
如月の声に、空気が変わる。
「日向!!」
男は顔を隠していた頭巾を外した。
現れたのは、見覚えのある顔だった。
「久しぶりだな」
それは誰に向けられた言葉だっただろう。
日向は静かに視線を横へ向けた。
朝凪の腕の中で、意識を失ったままの少女へ。
わずかに、その目元が和らぐ。
それは――戦場で見せるものではない、あまりに静かな安堵だった。
如月は、その眼差しに引っかかりを覚える。
(……何だ、その目は)
場違いなほどに、柔らかい。
ふと、過去の記憶が脳裏をよぎった。
(六花……)
かつて、日向がそう呼んでいた娘と、目の前の侍女の年頃が重なる。
(……そういうことか)
静まり返る空気の中、朝凪は如月へと視線を戻した。
「書類を差し戻したのはあなたですね」
朝凪の問いは、責めではなく確信に満ちていた。
「あなたは清明様を狙う者をおびき出そうとしていた。……けれど、分からないことがあります」
少しだけ間を置く。
「あなたほどの方なら、侍女の手など借りなくとも仕事は回せるはずです。それなのに、なぜ六花をあえてご自身の傍に置いたのですか」
朝凪がまっすぐに目を向ける。沈黙が落ちた。
それまで黙って聞いていた日向が口を開く。
「如月が、六花を手元に置いたのは、護るためだ」
低い声が廊下に響く。
「お前は、書庫整理に携わる者の中に清明を狙う者がいると踏んだ。だから六花を危険から遠ざけたかった」
如月はしばらく押し黙っていたが、やがて小さく息を吐いた。
「その通りだ。なのに……あの侍女はなんなんだ。文書室へ行くなと言えば行き、勝手に動き回る」
日向と朝凪は、示し合わせたように揃って目を逸らした。
如月は呆れたように大きな溜息をつく。
「お前の娘か、日向」
日向を見据えたまま、如月が皮肉ともつかない声音で続ける。
「……彼女が、お前を引き寄せたというわけか」
日向は否定しない。
如月は一度目を伏せ、やがて、ゆっくりと顔を上げた。その鋭い瞳が、再び日向を射抜く。
「お前は、宮廷に戻らないのか」
如月の問いに、日向は答えない。ただ、朝凪の腕の中にいる桜桃を見つめ、それから如月へと視線を戻した。
如月はそんな日向の動きを見ながら、口を開いた。
「お前がどれほど星河帝に尽くしていたか、俺は知っている。主を失った悲しみがどれほど深かったかもな。……それでも、自分の役目は果たすべきだ」
如月の声は静かだったが、その奥には強い怒りが滲んでいた。
「官は、国のためにある。あの夜に前帝が崩御されたからといって、すべてが終わったわけではない。前帝の『武』を支え、誰よりも強かったお前の力があれば……この三ヶ月の凄まじい混乱の中でも、もっと暴動を抑え、多くの民を救えたはずだ」
如月が一歩、踏み込む。文官である彼の拳は、血が滲むほど強く握りしめられていた。
「あの日からこの三ヶ月、残された俺たちがどんな思いで宮廷の混乱を片付け、新しい権力に頭を下げながら、必死にこの国を繋ぎ止めてきたと思っている!」
かつて、星河帝の側近として、如月が「文」で支え、日向が「武」で敵を退けた。並び立つ者のない忠臣だった二人の道は、あの夜を境に完全に分かれてしまっていた。
日向は、己の大きく無骨な手のひらを見つめた。前帝を護れず、守るべき主を失った、いまやただ敵を倒すことしかできない。
「……分かっている」
「分かっていない! すべてを放り出して都を去ったお前には、この苦しみ分からない……!」
激昂する如月に対し、日向はただ静かに見返す。
「宮廷へ戻れば、まだ救えた命もあっただろう。何度も考えた」
「ならば、なぜ——」
「戻れなかった」
日向は静かに、しかし断固とした響きで言い切る。
「……あの人を護れなかったこの手で、どの面を下げて戻れる。何食わぬ顔で新しい玉座にひざまずき、次の帝を護ることだけは……俺にはどうしてもできなかった」
張り詰めた空気の中に、冷たい静寂が落ちる。
奥歯を噛み締める如月を、日向はただ静かに見ていた。
「……お前はいつだって、どうしようもなく気高いな、玉兎」
ぽつりと、かつて前帝が如月に授けた懐かしい名を零す。その声には、怒りも言い訳もなく、ただ果てしない寂寥だけが滲んでいた。
如月は一瞬だけ息を呑み、見開いた目を揺らした。だが、すぐに苦悶に歪んだ口元を引き結び、掠れた声で言い返す。
「お前ほどではないさ」
それ以上、二人の間に言葉は続かなかった。
かつて同じ理想を掲げ、同じ主君の背中を追いかけていた二人の影は、二度と交わらないそれぞれの夜の闇へ、静かに溶けていった。
***
石壁に囲まれた静かな一室。
灯りは落とされ、影が深く沈んでいる。
その中央に、雨宮は座らされていた。
拘束はされていない。だが動かない。動けないのではなく、動く意味がないと分かっているようだった。
向かいに立つのは昊夜。その視線は穏やかで、しかし一切の逃げ場を残していない。
部屋の端に、もう一人いた。
雲英だった。
壁際に立ち、書類を手にしている。雨宮を見るでもなく、昊夜を見るでもなく、ただ静かにそこにいる。
「……どこから、気づいていましたか」
雨宮が口を開く。声に焦りはない。
鋭さを帯びた昊夜の目が雨宮を捉える。
「清明殿の検閲印だ。あの方はいつも、確認を終えた公文書の端に、改ざん防止のためあえて半分はみ出すように印を押される。お前はその完璧な習性を利用した」
昊夜の淡々とした声が、静まり返った部屋に響く。
「清明殿が見ていたのは、一番上の正規の帝都予算だけだ。だがお前は、その下の地方支援の稟議まで転写されるよう仕込んだ。二つの公文書にまたがっていた割印は、寸分の狂いもなくあまりに美しく重なりすぎていた」
だが、と昊夜は言葉を継ぐ。
「それだけではお前と雲英殿、どちらかまでは絞れなかった。二人とも几帳面だ。文書の扱いにも癖がない。どちらが仕掛けても不思議ではなかった」
雲英は無言のまま書類へ視線を落としている。
「だから六花を泳がせた」
その言葉に、雨宮の眉がわずかに動く。
「お前は六花を犯人に仕立て上げた。だが、雲英殿は違った。雲英殿は六花を犯人から外した。ならば、六花を消そうとする理由があるのはお前だけだ」
雨宮は小さく息を漏らし、ふっと笑った。
「整えれば楽になると思ったんですがね」
その言葉に後悔の色はない。
「遅いものが混ざると、全体が止まる。ならば切るべきだ。今回の件も、その延長です」
昊夜はそれを否定せず、さらに問う。
「如月殿の指示か」
「……いいえ」
雨宮は首を振った。
「如月様は、帝都予算を不備として扱い、地方支援を早く通そうとされた。それだけです」
少し間を置いて、再び口を開く。
「やり方は、私が決めました」
「如月殿は知らなかったのか」
「知らせる必要がないと判断しました」
昊夜の鋭い瞳が雨宮を見据える。
「……お前なりの解釈で動いた、ということか」
「遠回りでは間に合わない。だから最短を選んだ。実行したのは、私です」
悪意がないことが、かえってその罪の重さを際立たせていた。
「雨宮」
静かに落ちた雲英の声に、雨宮がなんの感情もない瞳を向ける。
「……雲英様」
雲英は書類から顔を上げた。穏やかな表情だ。
「あなたが単独でここまでやったとは……把握できていませんでした」
声に、困惑を滲ませた。
「申し訳ありません、昊夜殿下。私の管轄内でこのようなことが起きながら、気づけませんでした。」
昊夜に向かって、深く頭を下げた。
「処分については追って沙汰する」
「……承知しました」
雲英は頭を下げたまま、静かに答えた。
部屋を出ていく足音が遠ざかる。
雨宮はその背中を見送った。
表情は変わらない。ただ静かに、前を向いた。
***
桜桃を別室へ運び終えたあと。朝凪は静かに襖を閉めた。
室内に残るのは、微かな寝息だけ。
それを一度だけ確かめてから、背を向けた。
桜桃が目を覚ましたとき、天井が見えた。
意識が途切れる直前の香りが、まだかすかに残っている。誰かの声もした気がする。でも、それが誰だったのかは思い出せない。
ゆっくりと起き上がると、指先に何かが触れた。
布の感触。
枕元に、小さな香袋が置かれていた。
見覚えがある形だった。でも自分が持っているはずのものは、胸元にある。
袖を確かめると、確かにそこに六花の香袋があった。
では、これは……?
色も、結び方もわずかに違う。
誰かが置いた。
手を伸ばしかけて、止まる。
触れてしまえば、何かがはっきりしてしまうような気がした。
代わりに、ただ見つめた。かすかに香りが立っていた。
似ているのに、同じではない。
(この香りは……)
思い出せないまま、視線が揺れた。
「……気が付いたか」
落ち着いた声に、桜桃はゆっくりと顔を向けた。




