第二十五話 忠臣、道を違える
騒ぎがようやく収まり始めた頃、朝凪は桜桃を休ませるため、別室へ向かうことになった。
清明もまた、襲撃の後始末を指示するため、その場を離れていった。
人払いをしたわけではなかったが、やがて回廊には如月と日向だけが残された。
如月はしばらく、目の前の男を見つめていた。
二ヶ月前まで、宮廷にいて当然だった男。
星河帝の傍らで剣を振るい、幾度となくその命を守ってきた男が、今は何事もなかったかのように目の前に立っている。
「……日向、お前は、宮廷に戻らないのか」
日向は答えない。如月は日向を見据えながら続けた。
「お前がどれほど星河帝に尽くしていたか、俺は知っている。主を失った悲しみがどれほど深かったかもな。……それでも、自分の役目は果たすべきだ」
如月の声は静かだったが、その奥には強い怒りが滲んでいた。
「官は、国のためにある。あの夜に先帝が崩御されたからといって、すべてが終わったわけではない。先帝の『武』を支え、誰よりも強かったお前の力があれば……この二ヶ月の凄まじい混乱の中でも、もっと暴動を抑え、多くの民を救えたはずだ」
如月が一歩、踏み込む。文官である彼の拳は、血が滲むほど強く握りしめられていた。
「あの日からこの二ヶ月、残された俺たちがどんな思いで宮廷の混乱を片付け、新しい権力に頭を下げながら、必死にこの国を繋ぎ止めてきたと思っている!」
かつて、星河帝の側近として、如月が「文」で支え、日向が「武」で敵を退けた。並び立つ者のない忠臣だった二人の道は、あの夜を境に完全に分かれてしまっていた。
日向は、己の大きく無骨な手のひらを見つめた。先帝を護れず、守るべき主を失った、いまやただ敵を倒すことしかできない。
「……分かっている」
「分かっていない! すべてを放り出して宮廷を去ったお前には、この苦しみは分からない……!」
激昂する如月に対し、日向はただ静かに見返す。
「宮廷へ戻れば、まだ救えた命もあっただろう。何度も考えた」
「ならば、なぜ——」
「戻れなかった」
日向は静かに、しかし断固とした響きで言い切る。
「……あの人を護れなかったこの手で、どの面を下げて戻れる。何食わぬ顔で新しい玉座にひざまずき、次の帝を護ることだけは……俺にはどうしてもできなかった」
張り詰めた空気の中に、冷たい静寂が落ちる。
日向の言葉に何も言えず、如月は奥歯を噛み締めた。
日向はそんな如月をただ静かに見ていた。
「……お前はいつだって、どうしようもなく気高いな、玉兎」
日向が、ぽつりとかつて先帝が如月に授けた懐かしい名を零す。その声には、怒りも言い訳もなく、ただ果てしない寂寥だけが滲んでいた。
如月は一瞬だけ息を呑み、見開いた目を揺らした。だが、すぐに苦悶に歪んだ口元を引き結び、掠れた声で言い返す。
「お前ほどではないさ」
それ以上、二人の間に言葉は続かなかった。
かつて同じ理想を掲げ、同じ主君の背中を追いかけていた二人の影は、二度と交わらないそれぞれの夜の闇へ、静かに溶けていった。
***
朝凪は桜桃を別室へ運び終えたあと、眠る彼女を布団へ寝かせた。
乱れた掛け布団を、音を立てないようにそっと整える。
寝顔を見ながら、朝凪は愛おしさを滲ませて、苦笑混じりの声を零す。
「……相変わらず、あなたは私の心臓に悪いことばかりしますね」
桜桃の白い頬に、一筋の黒髪が掛かっていた。
直そうと手を伸ばしかけるが、ぴたりと空中で止まる。
これ以上踏み込んではいけないと分かっていながら、指先がわずかに震える。
その迷いを断ち切るように手を引こうとした瞬間、眠っているはずの桜桃が、無意識に彼の袖をぎゅっと掴んだ。
予想外の温もりに、朝凪の息が小さく詰まる。
桜桃は微かに唇を動かした。
「……朝凪……」
聞きなれた、自分を真っ直ぐに呼ぶその声に、胸の奥が締め付けられる。
朝凪は痛みを堪えるように目を伏せた。
これ以上ここにいては、せっかく決めた覚悟が音を立てて崩れてしまう。
朝凪は、桜桃に握られていた袖を、優しくほどくようにそっと外した。
そして、部屋を出ると、静かに襖を閉める。室内に残るのは微かな寝息だけ。
朝凪は、それを一度だけ確かめてから、背を向けた。
桜桃が目を覚ましたのはそれから少ししてからのことだった。
見慣れない部屋。簡素ながらも整えられていて、外の喧騒とは切り離されている。
意識が途切れる直前の香りが、まだかすかに残っている。誰かの声もした気がするが、それが誰だったのかは思い出せない。
頭の横に手を付き、ゆっくりと起き上がると、指先に何かが触れた。
布の感触。枕元に、小さな香袋が置かれていた。
見覚えがある形だった。でも自分が持っているはずのものは、胸元にある。
確かめると、確かにそこに六花の香袋があった。
(これは……?)
色も、結び方もわずかに違う。
誰かが置いたのだろうか。
手を伸ばしかけて、ふと動きが止まる。
触れてしまえば、何かがはっきりしてしまうような気がした。
代わりにじっと見つめると、布の重なりからかすかに香りが立った。
似ているのに、同じではない。
(この香りは……)
答えを見出せないまま、不意に視界が揺れた。
「……気が付いたか」
落ち着いた声に、桜桃はゆっくりと顔を向けた。
そこには、如月がいた。
立ち上がろうとして、力が入らなかった。
「無理をするな」
短く制されて、桜桃は力を抜いた。
しばらく沈黙が落ちた。如月が口を開いたのは、桜桃の呼吸が落ち着いてからだった。
「お前に一つ聞いておきたいことがある」
「何でしょうか」
「お前は先日、近衛府へ忍び込もうとしていただろう」
「……!」
桜桃の肩が跳ねた。
「な、なぜそれを……」
「時雨と話しているのを聞いた。あれほど忠告したというのに、本当に忍び込んだそうだな」
「……申し訳ありません」
「謝罪を聞きたいわけではない。何を調べていた」
桜桃は少し迷ったが、やがて顔を上げた。
「謀反の夜の、近衛の当直割です」
「……あの夜の?」
「はい。宮内省の作業所に、鈴という侍女が捕らわれています。謀反の夜、どこにいたのか証明できないという理由で……でも、鈴は東の詰所にいて、近衛の方に保護者していただいたそうです。その方を見つけられれば、鈴がそこにいたことを証明できるかもしれないと思って」
「……それで、当直割を?」
「はい。東の詰所にいた近衛の名前が、三人分記されていました」
如月は怪訝そうに眉を寄せた。
「確かに鈴はそう証言していたが、近衛の当直割がどこにあるか分からないと、近衛が言っていたぞ。お前、どこで見つけた?」
「え? すぐ見つかりましたけど」
「……すぐ?」
「はい。書庫の棚にありました。ちょうど探していた日のところに、目印まで挟んであって」
「…………」
如月はしばらく桜桃の顔を見つめた。
本人は何ひとつ不思議に思っていないらしい。
先ほど顔を合わせた日向と朝凪の姿が、如月の脳裏をよぎった。
(……どっちかだな)
如月は深く追及するのをやめた。
「……まあいい。三人の名前は覚えているのか」
「もちろんです」
「ならば、聞かせてみろ」
桜桃は記憶をたどりながら、あの夜の勤務記録に記されていた三人の名前を、一人ずつ口にした。
桜桃が答えると、如月は筆を取った。
書き終わると、如月は誰かの面影を探すように、桜桃の目を覗き込んだ。
「……お前は日向の娘か」
「え……」
桜桃はすぐに返事ができず、ただ黙って如月を見つめ返した。




