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狂桜華《きょうおうか》~亡国の姫は、名を捨て帝を目指す~  作者:
第一章 桜、散る夜に

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第二十五話 星河帝の娘

 そこには、如月がいた。


 見慣れない部屋。簡素だけれど整えられていて、外の喧騒とは切り離されている。


 立ち上がろうとして、力が入らない。


「無理をするな」


 短く制されて、桜桃は力を抜いた。


 しばらく沈黙があった後、如月が先に口を開く。


「……先に、詫びておく」


 声音が低くなった。


「お前を利用した」


 はっきりとした言葉だった。


「疑いを向けさせることで、動く者を炙り出すつもりだった。結果として、お前を危険に晒した」


 視線を逸らさず、ただ事実を告げる。


「……すまなかった」


 深く頭を下げるわけではない。でも、その言葉には誤魔化しがなかった。

 桜桃はすぐに返事ができず、ただ黙ってそれを受け止めた。


 如月はそのまま続けた。


「星河帝のもとには、多くの者がいた。その中で最後まで傍にいたのが日向だ」


 過去をなぞるように、如月はゆっくりと語る。


「謀反のあと、国を動かす立場にあった高官たちのほとんどが、宮廷を去った。日向もその一人だ。帝を看取り、糸が切れたのだろう。……残ったのは、形だけの制度と、主を失って空っぽになった宮廷だった」


 一瞬、言葉を切る。胸の奥にこみ上げる苦い感情を、無理やり飲み込むような間だった。


「……そんな中でただ一人、戻ってきた人がいる。清明様だ」


 その名を口にしたときだけ、如月の声がほんの少し柔らかくなった。


「逃げることもできたはずだ。それなのに清明様は戻ってきた。この国を、民を見捨てていなかった。……主を殺され、絶望のどん底にいた俺の手を引いてくれたのも、清明様だった」


 静かに、けれど確かな熱を込めて言い切る。


「そのとき、約束した。清明様が前を向くなら、俺も共に泥水をすする。必ず、この国を立て直すと」


 桜桃は黙って聞いている。


 如月はゆっくりと、自分自身に言い聞かせるように言葉を重ねる。


「……本当は、耐え難かった。あの方以外の誰かを『陛下』と呼ばねばならない我が身が、吐き気がするほど忌々しかった。毎朝、新しい帝の前に跪くたび、自分の忠義が死んでいくような痛みがした。日向のようにすべてを捨てて去れたなら、どれほど楽だったか」


 如月の目が、かすかに揺れる。しかし、その瞳の奥にある芯の強さは、決して折れていなかった。


「だが、俺たちが誇りや感傷のために宮廷を去れば、この国は本当に終わっていた。帝が誰であろうと関係ない。この国を良くしたい、民を救いたいという思いが変わらないなら、俺はどんな汚名を受け入れてでも仕えるだけだ」


 もう、そこに迷いのない声だった。


「たとえ、かつての仲間に裏切り者と罵られようがな」


 星河帝の忠臣「玉兎」と呼ばれていた男が、主を替え、他の帝に仕える。

 それは死ぬよりも重い屈辱であり、耐え難い苦痛だった。

 けれど、如月にはそれ以上に、何があっても守り抜きたい国と、共に誓い合った人があった。


「清明様のやり方は正しい。制度に従い、手続きを踏んで進める。時間はかかるが、筋は通る」


 如月は続ける。


「……だが、それでは間に合わない案件もある。だから俺は、書庫の書類の順を入れ替えた。地方への支援を、一番の急務として先に通すためにだ。……もちろん正式な手続きを踏んだ上で、より早く処理させるつもりだった」


 如月は言葉を切った。


「だが、そのわずかな時間さえ待てない連中がいた」


 部屋の空気が、わずかに冷える。


「清明様を追い落とそうと動いた者がいる。俺が良かれと思って書類に触れた、その事実だけを都合よく切り取って、まるで清明様が裏で不正を働いたかのように見せかけたのだ」


 桜桃の胸が強く打つ。


「俺のやり方では生ぬるいと、判断されたのだろう。……そして、お前がその現場を見た」


 如月の静かな視線が、まっすぐに向けられる。


「お前が書類の乱れに気づいたことで、敵は『この侍女は何かを知っている可能性がある』と判断した。」


 如月の声から、感情が消える。


「俺は、敵が口封じのために必ず実力行使に出ると踏んだ。だから、お前をそのまま泳がせた。敵が尻尾を出すための、囮にするために」


 回廊で聞いた、風を裂く矢の音が脳裏をよぎる。自分が狙われたのは、偶然ではない。


「結果として、お前を危険に晒した」


 すべてが、一本の線に繋がった。


 不自然な帳簿の並びも、自分にかけられた疑いも、あの闇の中での襲撃も。

 誰か一人の悪意ではない。制度の歪みが生んだ連鎖だった。


 桜桃は、張り詰めていた息をゆっくりと吐き出した。

そして、目の前に立つ如月を見上げる。


 その横顔には、先ほどまで感じていた冷徹さとは違う、不器用な温かさがあった。


(この人は……)


 新しい帝への忠誠のためではない。

 ただひたすらに、この国を、民を救うために動いている。


 そう思った瞬間、桜桃の胸の奥から、熱い言葉が込み上げてきた。


 まだ自分が何者でもない侍女だとしても、もし、いつか。こんなにも頼もしく、国を想う臣下を味方に得られたら、どれほど素晴らしいだろうかと、願わずにはいられなかった。 


(この人に私が星河帝の娘だと言いたい)


 迷いは一瞬だった。


「……あの」


 如月がこちらを見る。


「あなたは、父に仕えていた方なのですね」


 如月の眉がわずかに動く。


「……日向に、か?」


「いいえ」


 桜桃は一度息を吸い、まっすぐに見上げた。


「私の父は、星河です」


 その名をはっきりと告げる。


「私は――星河帝の娘、咲宮 桜桃です」


 空気が変わった。


 如月は、しばらく動かなかった。普段は落ち着いている目が、初めて揺れている。


「……あなたが……!」


 まじまじと見つめる。


 確かに、と思う。その真っ直ぐな瞳が、どこかあの人に似ている。


「六花は……私の身代わりになって死んだんです」


 声は震えていない。でも、その奥にあるものは重い。


「父や六花の仇を取りたいと、そう思って今日まで生きてきました」


 静かに、しかし確かに言い切る。


「なぜ、父は殺されなければならなかったのか。私は、その真実を知りたくて」


 言葉が途切れた。

 如月はしばらく何も言わなかった。


 胸の奥で何かが動いているのが、沈黙の重さから伝わってくる。

 やがて、こらえるように一度だけ、長く息を吐いた。


「……そうでしたか」


 その一言に、様々な感情が滲んでいた。


「俺は……私は、長く地方に派遣されていて、謀反の日は宮廷にはいませんでした」


 あのときほど、帝のそばにいなかったことを後悔したことはない。


 如月は改めて、桜桃を皇女として見た。


「だから、あの日の詳細は分かりません」


 如月は答える前に、わずかに顔を伏せた。


「だが……その前から、確かに妙な空気はありました。調べてはいましたが、宮廷が混乱していて……中途半端なままになっている」


 苦いものを噛みしめるような声音。

 そのまま桜桃を見据える。

 

「……改めて、話しましょう」


 はっきりと言う。


「私が知っていることを、きちんと整理して。その上で、全部話す場を設けます」


 逃げる気はない、という意思がそのまま表れていた。

 桜桃はその言葉を、静かに受け止めた。


 胸の奥で、何かが少しだけ形を持ち始める。

 やっと、前に進める気がした。


 ***


 朝凪が回廊に出ると、そこに日向がいた。

 壁に背を預け、腕を組んでいる。


 いつものように無駄のない立ち姿。だが、その目はわずかに鋭かった。

 朝凪は、数歩手前で足を止める。


 そして、深く頭を下げた。


「……“六花”を助けられず、申し訳ございませんでした」


 静かな声だった。それだけで、何を指しているか分かる。本物の六花のことを。


 日向の瞳がわずかに揺れる。沈黙が落ちた。


「……顔を上げろ」


 低く、短い声。

 朝凪はゆっくりと頭を上げた。


 日向はしばらく何も言わなかった。 


「覚悟は、していた」


 ぽつりと言葉が落ちる。


「臣下は、帝や皇女を優先する。それはあの子も同じだ」


 一瞬、視線が逸れる。


「……お前のせいではない」


 日向は続ける。


「帝を護れなかった俺が、責める資格はない」


 淡々としている。でも、その奥にあるものは隠しきれていない。


『桜桃様を頼んだぞ』


 胸の奥で、声が落ちる。


 あの一言が、六花を動かしたのかもしれない。そこまで考えが及んだとき、日向の目がわずかに伏せられた。自分を責めているのではない。ただ、その可能性だけが、静かに胸に刺さったまま抜けていない。


「……どんな最期だった」


 低い問いに、朝凪はわずかに間を置いた。


 脳裏を過るのは、あの燃え盛る宮廷の記憶。


 桜桃を隠し通路へ押し込んだ直後、朝凪は六花のもとへ引き返した。自分なら、助けられるという傲りがあったのかもしれない。


 だが、見つけたとき、彼女はすでに致命傷を負っていた。


 血の海の中で朝凪を見た六花は、息も絶え絶えに、けれど呆れたように笑ったのだ。


『姫様を一人にしちゃダメじゃない』 


 急いでその身体を抱き上げ、隠し通路へと走った。

けれど、彼女の体温はみるみるうちに冷たくなっていく。薄れゆく意識のなかで、彼女は朝凪の衣を小さく掴んだ。


『姫様をお願い……ね……』


『私をここに置いて……逃げて……』


 最期まで自分の命ではなく、主の身だけを案じていた。


 朝凪は小さく息を吐き、目の前で待つ男を見つめた。余計な言葉で飾る必要はない。


「……立派でした」


 日向の肩から、わずかに力が抜けた。


(桜桃様が生きている。あの子が、守ったのだな)


 胸の奥に静かに沈むものがある。悲しみはある。だが、それ以上に。


(誇りに思う)


 不意に廊下の奥から足音が近づいた。昊夜だった。

 整えられた衣、乱れのない姿勢。その目は静かに冷えていた。三歩後ろに千弦がついている。


 周囲を一撫でするように見渡し、わずかに口元を歪める。


「……随分と騒がしいな」


 軽く言う。でも、声には温度がない。

 視線がまっすぐ日向へ向く。


「日向。ここは宮廷だ。勝手に入ってこられては困る」


 日向は動かない。ただ、その視線を受け止める。


「……昊夜」


 一瞬だけ、呼び方に迷うような間があった。


「殿下」


 言い直す。


「お前は気付いていただろう」


 低い声が落ちる。


「六花が動いたあと、どうなるか」


 昊夜は静かに立ったまま、視線を横へ流した。


「何のことだ」


「お前なら読めたはずだ。止められたはずだ。……しかし止めなかった」


 沈黙が落ちる。

 昊夜の口元が、わずかに動いた。


「面白いな」


 低く、楽しむような声音。


「止める理由が、どこにある。誰を護るか、何を優先するか。選んだだけの話だ」


「……それを、お前が言うのか」


 日向の声にわずかな苦さが混じる。昊夜は笑みを崩さない。


「事実だ」


 あっさりとした肯定。


 日向はしばらく何も言わなかった。やがて、堪えるように一度だけ長く息をついた。


「それが…お前の思う皇族としてのやり方か」


 廊の空気が、わずかに張り詰める。朝凪は息を潜めた。

 昊夜はすぐには答えない。ほんの一瞬だけ、何かを測るような間があった。

 それから、静かに口を開いた。


「……それは、お前には関係のないことだ」


 あまりにもあっさりと、切り捨てる。


「お前が尽くしていた星河帝は、もういない」


 昊夜が続ける。感情を乗せることなく、ただ事実を告げるように。

 朝凪の指先が、わずかに強く握られた。


「……」


 何かを言いかける。だが、その前に日向の手がわずかに動いた。制するように。ほんの小さな仕草だった。


 朝凪は口を閉ざす。


 昊夜はそのやり取りを見ていたが、何も言わない。ただ、静かに言葉を重ねる。


「金烏、今のお前は主を亡くし、宿り木を失った、ただの鳥だ」


 一歩、距離を詰める。


「星河帝の影を追っている限り、お前の居場所は、ここにはない」


 廊の空気が冷えた。

 日向は何も返さない。ただ、まっすぐに昊夜を見ている。その沈黙に、揺らぎはなかった。昊夜はその目を受け止めながら、口元だけをわずかに動かした。


「……今日は見逃してやる」


 軽い言い方だった。でも、裏にあるものは明白だった。


「だが次はない。宮廷に仕える気がないなら、二度と私の前に現れるな」


 そして視線が横へ移る。朝凪へ。


「……朝凪、お前もだ」


 短く、言い切る。

 

 朝凪は何も答えない。ただ、まっすぐに立っている。


 やがて昊夜は踵を返した。

 千弦が三歩後ろについて歩き出す。その直前、千弦だけが一度振り返った。


 朝凪と、一瞬だけ目が合う。


 千弦は何も言わない。ただ、わずかに頭を下げて、前を向いた。

 昊夜の背中が廊下の角に消えていく。


 日向はその背中が見えなくなるまで、黙って見ていた。

 ただ、同じ場所に立ったままでいた。


 かつて、同じ主に仕えていたはずの人間。

 今、目の前にいた昊夜は、その記憶の中の姿と重ならなかった。


(でも)


 ふと、思う。


(それが、本来の姿なのかもしれない)


 清明も、如月も、皆それぞれに前を向いている。

 朝凪だけが、まだ立ち止まったままだ。


(……姫様が生きている)


 それだけは、確かだった。

 それだけで、まだ動ける。



 少し離れた場所で。静かに、その様子を見ている影があった。


 清明だった。

 

 何も言わない。ただ、すべてを見ている。

 誰がどう動き、何が起きたのか。

 その流れを、ひとつも逃さずに。



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