第二十六話 夕暮れの書庫
昊夜は立ち止まり、廊下から庭に目を向けた。
星が出ている。
冷たい夜気が、額を心地よく撫でていった。
目を閉じれば、またあの凄惨な夜の光景が脳裏をよぎる。
謀反の夜、あたり一帯が血の海となり、その中には何人もが倒れていた。
そして――あの日、あと一日謀反が遅ければ、会うはずだった婚約者候補、桜桃。
(……桜桃)
彼女の姿を一度も見ることもなく、炎の中に消えてしまった。
救えなかった過去への悔恨は、今も悪夢となって昊夜の心を縛り続けている。あの夜、自分はすべてを失ったのだと、星を見るたびに思い知らされる。
――もう、終わったことだ。今更何を悔やんでも、あの日は戻らない。
そう、冷徹に割り切って思考を打ち切ろうとした、その時だった。
なぜか、暗闇の中にひとりの侍女の顔が唐突に思い浮かんだ。
――六花。
昼下がり、自室でうなされる自分を真っ直ぐに見つめていた、あの娘の顔だった。
はじまりは、廊ですれ違っただけの、ただの偶然だった。
一瞬すれ違っただけなのに、なぜか妙に記憶に残った。
新体制に伴って急に寄せ集められた侍女にしては、何かが決定的に違う。だがその違和感を言葉にする前に、彼女は通り過ぎて行った。
次に見たのは、宴の舞台の上だった。
気になる、と思った。理由は分からない。ただ、どうしても目が離せなかった。
侍女の佇まいではない。かといって、貴族の娘のような作られた優雅さとも違う。皇族として育てば自然と身につく、あの気品に近い。本人はそれを隠そうとしているが、隠しきれずに滲み出ている、という方が正確だった。
それは、自分がずっと追い求めていた姿のような気がした。
なにより――。
昊夜は、自分の大きな掌をじっと見つめた。
悪夢に狂わされ、冷え切っていた指先。
暗闇の中で孤独に凍えそうになっていたあの瞬間、そっと差し伸べられ、自分を両手で包み込んでくれた、あの小さな手の温もりが、今も肌に生々しく残っている。
あの温もりに触れた瞬間、いつも自分を襲う恐ろしい悪夢が、嘘のように消えていったのだ。
冷徹無比、歩く氷山とまで称される自分が、あんな名もなき侍女に救われ、あまつさえその手を離したくないとさえ願ってしまった。
昊夜は静かに、けれど熱を帯びた考えを巡らせた。
『六花』は、一体何者だ。
◇
翌日の朝、桜桃は書類の届け物をするために廊下を歩いていた。
まだ少し、身体が重い。昨日よりは動ける。それだけを確かめて、ゆっくりと歩き始めた。
書庫へ続く廊の角を曲がったところで、雲英と鉢合わせた。
隣に、深黎がいた。
書類を抱えて、どこかへ向かう途中らしかった。雲英は桜桃を見ると、わずかに足を緩めた。
「六花殿」
穏やかな声だった。
「大変でしたね」
「……おかげさまで」
桜桃は頭を下げた。
「怪我はありませんか」
「はい」
「よかった」
雲英は小さく頷いた。それだけだった。責めるでも、案じすぎるでもない。ただ、ちょうどよい重さで言葉を置いた。
「雨宮さんが……企てたと、聞きました」
桜桃は静かに言った。
「ええ」
雲英は頷く。表情は動かない。
「把握できていなかったことは、私の落ち度です。申し訳なかった」
軽くではなく、しかし深く詫びるでもなく、事実として言い置く。
その隣で、深黎が口を開いた。
「雨宮さんらしいと思いましたよ」
淡々とした声だった。
「え?」
桜桃は思わず深黎を見た。
「整えることに、一番こだわっていた人ですから」
深黎は書類に視線を落としたままだった。
「邪魔なものを取り除けば楽になる、って、よく言ってましたし」
「……そうですか」
桜桃はそれだけ返した。
深黎の言葉はおかしくない。
おかしくないのに、どこかが引っかかった。
悼んでいない、ということではない。ただ——まるで、もうずっと前に終わった話をしているような口ぶりだった。
雲英が深黎を見た。
「書類が止まっています」
「あとで届けますよ」
「今です」
「……はい」
深黎は小さく頷いて、歩き出した。桜桃とすれ違う際、一度だけ視線が合った。
何も言わなかった。
笑いもしなかった。
深黎の背中が廊の角に消えていく。
「六花殿、書庫へ行くならこの帳簿をしまっておいてくれますか」
雲英は、手に持っていた一冊の帳簿を差し出した。
「はい」
桜桃は、その帳簿を受け取った。
雲英も頭を下げ、別の方向へ歩いていく。
「お大事に」
その一言だけを残して。
桜桃はしばらく、その場に立っていた。
(雨宮さんらしい)
その言葉が、胸の中で妙に残った。
らしい、と言える人間は、その人をよく知っていた人間だ。
でも──あれは、知っていた人間の顔ではなかった。
上手く言葉にできない。
ただ、胸の奥に小さな石が落ちたような感覚だけが、消えなかった。
桜桃が書庫に着いた頃、窓からさす夕日で書庫内が赤く染まっていた。
雲英から頼まれた帳簿を棚に納めようと、背の高い本棚が並ぶ狭い通路の奥へと歩みを進める。
(よし、これをあそこの棚に――)
「六花」
不意に、耳元のすぐ近くから低い声が降ってきた。
驚いて振り返ろうとした瞬間、視界のすぐ脇に、腕が滑り込んでくる。いつの間にか、昊夜がすぐ斜め後ろに立っていた。千弦の姿はない。一人だった。
「ひゃ――っ、あ、昊夜様」
あまりの近さに、抱えていた帳簿を落としそうになる。
昊夜は桜桃を怯えさせるつもりなどないように、ただ静かに、桜桃が帳簿を持つ手に自分の手を重ねる形で、棚の空きへとすっと長い腕を伸ばした。
背後から包み込まれるような形になり、彼の着物から香る、冷たくも気高い白檀の香りが、狭い空間に濃く満ちていく。
「帳簿か」
「はい。これをしまおうと……」
「どこへ納める」
昊夜は腕を引かない。桜桃の肩越しに、棚を覗き込むようにして少しだけ顔を近づけてくる。
彼のきれいな黒髪が、桜桃の頬をかすめそうな距離だ。大柄な彼の体温が背中越しにじんわりと伝わってきて、桜桃は息の仕方を忘れそうになる。
「……あ、あの、三段目の、右の奥です」
「ここか」
昊夜は桜桃の腕から、重い帳簿の半分を大きな手で無造作に抜き取ると、手際よく棚の奥へと滑り込ませた。ただ書類を整理しているだけなのに、その流れるような所作と、大人の男の余裕に満ちた空気に圧倒される。
「先日の書類整理、あれはどこで覚えた」
棚に手を伸ばした姿勢のまま、昊夜が横顔で問いかけてきた。端正な美貌がすぐ横にある。
「……しょ、書庫の手伝いをしているうちに、自然と」
桜桃の心臓が、どくんと跳ねた。内心の緊張を悟られないよう、必死で平静を装う。
「文、官の……雨宮様が教えてくれました。形を揃えると後が楽だと」
「雨宮が」
「はい」
昊夜はそれを聞いて、短く息をついた。口元がわずかに動く。笑ったのか、呆れたのか、判断がつかなかったが、その微かな吐息がすぐ前髪を揺らした。
「雨宮らしい。あの男は、整えることに執着する」
事実を言うだけの口調だった。だが、ふっと空気が緩んだ気がして、桜桃が小さく息を吐きかけた、その時だった。
彼がゆっくりと腕を引き、身体を正面に戻して、桜桃の瞳を真っ直ぐに見下ろしてきた。値踏みではなく、まるで心の奥を透かして、何かを確かめるような目だった。
「お前は、よく見ている。書庫での動きを見ていた。誰が何をして、どこに何が置かれているか。把握して動いていた」
「 ……え」
「侍女にしておくのは惜しい。文官に移ることも考えてみろ」
「……恐れ入ります」
必死で顔を伏せるが、薄暗い棚の隙間だ。至近距離で見つめ合う形になり、今の自分の顔がどれほど赤くなっているか、想像するだけで恐ろしかった。
この人の目から逃げたくて、でも目を逸らしたら負けるような、妙な感覚に陥る。
「ところで」
不意に、昊夜の声音が一段と低く変わった。
「侍女になる前は、どこで何をしていた」
一瞬で空気が凍りついた。




