第二十六話 皇女、名を明かす
如月は桜桃を見つめたまま続けた。
「星河帝のもとには、多くの者がいた。その中で最後まで傍にいたのが日向だ」
過去をなぞるように、如月はゆっくりと語る。
「謀反のあと、国を動かす立場にあった高官たちのほとんどが、宮廷を去った。日向もその一人だ。帝を看取り、糸が切れたのだろう。……残ったのは、形だけの制度と、主を失って空っぽになった宮廷だった」
一瞬、言葉を切る。胸の奥にこみ上げる苦い感情を、無理やり飲み込むような間だった。
「……そんな中でただ一人、戻ってきた人がいる。清明だ」
その名を口にしたときだけ、如月の声がほんの少し柔らかくなった。
「逃げることもできたはずだ。それなのに清明は戻ってきた。この国を、民を見捨てていなかった。……主を殺され、絶望のどん底にいた俺の手を引いてくれたのも、清明だった」
静かに、けれど確かな熱を込めて言い切る。
「そのとき、約束した。清明が前を向くなら、俺も共に泥水をすする。必ず、この国を立て直すと」
桜桃は黙って聞いている。
如月はゆっくりと、自分自身に言い聞かせるように言葉を重ねる。
「……本当は、耐え難かった。あの方以外の誰かを『陛下』と呼ばねばならない我が身が忌々しかった。毎朝、新しい帝の前に跪くたび、自分の忠義が死んでいくような痛みがした。日向のようにすべてを捨てて去れたなら、どれほど楽だったか」
如月の目が、かすかに揺れる。しかし、その瞳の奥にある芯の強さは、決して折れていなかった。
「だが、俺たちが誇りや感傷のために宮廷を去れば、この国は本当に終わっていた。帝が誰であろうと関係ない。この国を良くしたい、民を救いたいという思いが変わらないなら、俺はどんな汚名を受け入れてでも仕えるだけだ」
迷いのない声だった。
「たとえ、かつての仲間に裏切り者と罵られようがな」
星河帝の忠臣「玉兎」と呼ばれていた男が、主を替え、他の帝に仕える。
それは死ぬよりも重い屈辱であり、耐え難い苦痛だった。
けれど、如月にはそれ以上に、何があっても守り抜きたい国と、共に誓い合った人があった。
桜桃は、張り詰めていた息をゆっくりと吐き出した。
そして、目の前の如月を見上げる。
(この人は……)
新しい帝への忠誠のためではない。
ただひたすらに、この国を、民を救うために動いている。
桜桃の胸の奥から、熱い言葉が込み上げてきた。
まだ自分が何者でもない侍女だとしても、もし、いつか。こんなにも頼もしく、国を想う臣下を味方に得られたら、どれほど素晴らしいだろうかと、願わずにはいられなかった。
(この人に私が星河帝の娘だと言いたい)
迷いは一瞬だった。
「……あの」
如月が桜桃に視線を向ける。
「あなたは、父に仕えていた方なのですね」
その言葉に、如月の眉が動く。
「……日向に、か?」
「いいえ」
桜桃は一度小さく息を吸い、まっすぐに見上げた。
「私の父は、星河です」
その名をはっきりと告げる。
「私は――星河帝の娘、咲宮桜桃です」
場の空気が一変した。
如月は、しばらく言葉を失ったように動かない。普段の落ち着いた目が、激しく揺れていた。
「……あなたが……!」
信じられないというように、まじまじと見つめ返す。
言われてみれば、確かにそうだ。そのまっすぐな瞳が、あの人の面影を色濃く宿している。
「六花は……私の身代わりになって死んだんです」
声は震えていない。だが、その言葉の奥に秘められた重みは隠しようがなかった。
「父や六花の仇を取りたいと、そう思って今日まで生きてきました。なぜ、父は殺されなければならなかったのか。私は、その真実を知りたくて……」
桜桃は如月をまっすぐに見据える。
「如月様は、謀反を調べていましたよね? ……あの日、何があったかを教えてくれませんか?」
桜桃を見つめていた如月は、しばらく何も言わなかった。
ただ、その沈黙の重さから、胸の奥で何かが激しく波立っているのが伝わってくる。
やがて、如月は、こらえるように一度だけ、長く息を吐いた。
「……そうでしたか」
その一言に、悔悟と痛切な感情が滲む。
「私は、長く地方に派遣されていて、謀反の日は宮廷にはいませんでした」
あのときほど、帝のそばにいなかったことを後悔したことはない。
如月は改めて、目の前の少女を皇女として見た。
「だから、あの日の詳細は分かりません。だが……その前から、確かに妙な空気はありました。調べてはいましたが、宮廷が混乱していて……中途半端なままになっている」
苦いものを噛みしめるような声音だった。如月は、そのまま桜桃を見据える。
「……改めて、話しましょう。私が知っていることを、きちんと整理して。その上で、全部話す場を設けます」
逃げる気はないという強い意志が、その瞳に表れていた。
桜桃はその言葉を、静かに受け止める。
胸の奥で、張り詰めていた何かが少しだけ形を持ち始めた。
――やっと、前に進める気がした。
***
朝凪が回廊に出ると、そこに日向がいた。
壁に背を預け、腕を組んでいる。
いつものように無駄のない立ち姿だが、その目は鋭かった。
朝凪は、数歩手前で足を止め、深く頭を下げた。
「……“六花”を助けられず、申し訳ございませんでした」
静かな声だった。それだけで、何を指しているか伝わる。本物の六花のことだ。
日向の瞳が揺れた。静まり返った空間に重い沈黙が落ちる。
「……顔を上げろ」
低く、短い声だった。
朝凪はゆっくりと頭を上げる。
日向はしばらく何も言わず、ただ前だけを見ていた。
「覚悟は、していた」
ぽつりと、掠れた言葉が落ちる。
「臣下は、陛下や皇女を優先する。それはあの子も同じだ。……お前のせいではない。陛下を護れなかった俺が、責める資格はない」
その声は淡々としていた。だが、その奥に押し隠された痛切なものは、隠しきれていない。
『桜桃様を頼んだぞ』
あのときの声が蘇る。
あの一言が、六花をあのような選択へ向かわせたのかもしれない。そこまで考えが及んだとき、日向の目が静かに伏せられた。
自分を責めているわけではない。ただ、そのやるせない可能性だけが、胸に刺さったまま抜けないでいる。
「……どんな最期だった」
低い問いに、朝凪は少し間を置いた。
脳裏を過るのは、あの炎に包まれた宮廷の記憶。
六花が囮になって走り出したとき、桜桃を逃がした後に引き返せば、自分なら助けられるという傲りがあったのかもしれない。だから彼女を止めなかった。
そして、桜桃を隠し通路へ押し込んだ直後、朝凪は六花のもとへ引き返した。
だが、見つけたとき、彼女はすでに致命傷を負っていた。
六花の傍にいた近衛や侍女に指示を飛ばすと、朝凪は六花を抱き上げた。
六花は、息も絶え絶えに、けれど呆れたように笑ったのだ。
『姫様を……一人にしちゃダメじゃない』
『喋るな』
朝凪は急いで隠し通路へと走った。
けれど、彼女の体温はみるみるうちに冷たくなっていく。薄れゆく意識のなかで、彼女は朝凪の衣を小さく掴んだ。
『姫様をお願い……ね……。私をここに置いて……逃げて……』
最期まで自分の命ではなく、主の身だけを案じていた。
朝凪は小さく息を吐き、目の前で待つ男を見つめた。余計な言葉で飾る必要はない。
「……立派でした」
その言葉に、日向の肩から、力が抜けた。
(桜桃様が生きている。あの子が、守ったのだな)
胸の奥に静かに沈むものがある。もちろん悲しみは消えない。だが、それ以上に。
(誇りに思う)
不意に廊下の奥から重い足音が近づいた。目を向けると昊夜が歩いてくるのが見えた。
整えられた衣、乱れのない姿勢。その目は静かに冷えていた。三歩後ろに千弦がついている。
周囲を一撫でするように見渡し、口元を歪める。
「……随分と騒がしいな」
軽く言う。でも、声には温度がない。
視線がまっすぐ日向へ向く。
「日向。ここは宮廷だ。勝手に入ってこられては困る」
日向は動かず、その視線を受け止める。
「……昊夜」
一瞬だけ、呼び方に迷うような間があった。
「殿下」
言い直す。
「お前は気付いていただろう。六花が動いたあと、どうなるか」
昊夜は静かに立ったまま、視線を横へ流した。
「何のことだ」
「お前なら読めたはずだ。止められたはずだ。……しかし止めなかった」
沈黙が落ちる。
昊夜の口元が、動いた。
「すべてを止めれば、何も出てこない。六花が何を調べているのかは知らなかったが、あの娘の動きを警戒している者がいることは分かっていた。調べる者がいなくなれば、隠している者も動かなくなる。ならば、動かすしかないだろう」
「だから、あの娘を使ったのか」
「誰を護るか、何を優先するか。選んだだけの話だ」
――誰を護るか。何を優先するか。
六花は、それを選んで死んだ。桜桃を護り、桜桃を優先して。
そして昊夜は、同じ理屈で桜桃を囮にした。
日向の声にわずかな苦さが混じる。
「……それを、お前が言うのか」
「事実だ」
あっさりとした肯定。
日向はしばらく何も言わなかった。やがて、堪えるように一度だけ長く息をついた。
「それが……お前の思う皇族としてのやり方か」
廊下の空気が、張り詰める。朝凪は息を潜めた。
昊夜はすぐには答えない。ほんの一瞬だけ、何かを測るような間があった。
それから、静かに口を開いた。
「……それは、お前には関係のないことだ」
あまりにもあっさりと、切り捨てる。
「お前が尽くしていた星河帝は、もういない」
昊夜が続ける。感情を乗せることなく、ただ事実を告げるように。
朝凪の指先が、強く握られた。
「……」
何かを言いかける。だが、その前に日向の手が微かに動いた。制するように。ほんの小さな仕草だった。
朝凪は口を閉ざす。
昊夜はそのやり取りを見ていたが、何も言わない。ただ、静かに言葉を重ねる。
「金烏、今のお前は主君を亡くし、宿り木を失い、地に落ちた鳥だ」
一歩、距離を詰める。
「星河帝の幻影を追っている限り、お前の居場所は、ここにはない」
廊下の空気が冷えた。
日向は何も返さず、まっすぐに昊夜を見ている。その沈黙に、揺らぎはなかった。昊夜はその目を受け止めながら、口元だけを動かした。
「……今日は見逃してやる。だが次はない。宮廷に仕える気がないなら、二度と私の前に現れるな」
そして視線が横へ移る。朝凪へ。
「……朝凪、お前もだ」
短く、言い切る。
朝凪は何も答えなかった。
やがて昊夜は踵を返した。
千弦が三歩後ろについて歩き出す。その直前、千弦だけが一度振り返った。
朝凪と、一瞬だけ目が合う。
千弦は何も言わなかった。ただ、わずかに頭を下げて、前を向いた。
昊夜の背中が廊下の角に消えていく。
朝凪はその背中が見えなくなるまで、黙って見ていた。
かつて、同じ主に仕えていたはずの人間。
今、目の前にいた昊夜は、その記憶の中の姿と重ならなかった。
(でも)
ふと、思う。
(それが、正しい姿なのかもしれない)
清明も、如月も、新しい朝廷の中で、それぞれの役目を果たそうとしている。
けれど、朝凪も日向も、あの夜に失ったものを、まだ手放すことができずにいた。
それでも。
(……姫様が生きている)
その事実だけが、朝凪を再び前へ進ませていた。




