第二十七話 真の皇統
桜桃は心の中で焦っていた。
(この人は、気づいているの!? それとも、ただの世間話!?)
頭の中で警告音が大音量で鳴り響く。ここでボロを出すわけにはいかない。
「……い、田舎の方で、奉公をしておりました」
「どの辺りだ」
「少し、あの、山を越えて、川を渡った先の……辺鄙なところで……」
「辺鄙というと、具体的には」
「ええと、たぶん、昊夜様がご存じの地名ではないかと思います。 イノシシとかが出ます!」
「言ってみろ」
逃げ道のない本棚の狭間。どこまでも穏やかに、けれど確実に逃げ道を塞いでいく彼の視線に、桜桃は限界を迎えた。
「あの」
桜桃は抱えていた文書を胸元で持ち直した。
「届け物の時間が、少し迫っておりまして」
「そうか」
昊夜はもう一度、短く言った。
桜桃の、今にも泣き出しそうなほどの動揺と赤面を、彼は楽しむようにしばらく見つめていたが、やがて、ゆっくりと身体を引き、通路を開けた。
「行け」
「……し、失礼いたします!」
桜桃はやっとの思いで棚の隙間をすり抜け、書庫を飛び出した。
無人の廊下の角を曲がったところで、壁に手をついて「はぁぁ……」と深く息を吐き出す。
心臓が、耳の奥であり得ないほど速く鳴っていた。
正体がバレるかもしれないという恐怖のせいか。それとも、あの暗がりで触れられた、大人の男の体温と色気のせいか。
「よく見ている、か……」
彼が半分引き抜いていった帳簿の残りが、腕の中で今もまだ、じんわりと熱い気がした。
桜桃は、誰も見ていない廊下でそっと顔を覆い、今度こそ真っ赤に赤らめた。
◇
その頃、朝凪は門に立っていた。
姫様観察日記、臨時記録。
角の向こうから、姫様が出てきた。ずいぶんな早足だった。
それから、誰もいない壁に片手をついて、はぁ、と静かに深い息を吐き出した。
何かあったのだろうか。怪我をしている風ではない。
体調が悪そうでもない。ただ、少しだけ、いつもと様子が違う。遠目からでも、その白い頬が赤くなっているのが分かった。
「……また見てる」
隣に立つ門番仲間が、呆れたように言った。
「見ていません」
「あの侍女だろ、また。分かりやすすぎるんだよ」
「仕事中です。前方警戒をしています」
「だから、あの侍女は前方の敵に関係ないって」
朝凪はそれには答えず、ただ真っ直ぐ前を見つめた。
遠くの廊下で、桜桃がもう一度、大きく息を吐いた。
それから、胸元に抱えた文書をぎゅっと抱き直し、いつもの凛とした歩き方に戻る。そのまま、足早に朝堂院の方へと去っていった。
「……姫様」
かすかな呟きが漏れる。
「え? いま何か言ったか?」
「いいえ。気のせいです」
朝凪は冷静に視線を戻した。
すると、桜桃が曲がってきた角の向こうから、今度は昊夜がゆっくりと現れた。庭の景色を眺めながら歩いているが、その端正な顔は、何か深く考え込んでいるようだった。
(……昊夜と、鉢合わせたのか)
朝凪は、ほんの少しだけ目を細めた。
(それで、姫様の顔があれほど赤かったのか)
二人の間にどんな会話があったのかは分からない。ただ、自分の知らないところで桜桃の心を揺さぶった男の存在に、朝凪の胸の奥で、静かで暗い火種がわずかに動いた。
(そもそも、姫様はこの手の男に免疫がないのだ)
姫様は宮廷でお育ちになった。
年頃の男といえば、自分か、自分が非番のときに護衛についていた者くらいしか、まともに顔を合わせたことがないはずだ。
だから少しのことで動揺なさる。
それだけのことだ。
(そうに違いない)
朝凪はもう一度、桜桃の赤い顔を見た。
(誰にでも、あんな風に顔を赤くするはずだ。……そう、思いたいが)
世間知らずで純粋な主の反応に、朝凪は言いようのない焦燥感を覚えていた。
夜。如月は、積み上げられた調書を、一枚ずつ確かめていた。
記録は断片的で、どれも決定的とは言い難い。
だが、その断片同士が、わずかに繋がり始めていた。
ふと、如月の手が止まる。視線が、机の上ではなく――別のところへ向いた。
昨夜の出来事。あの少女の姿が、脳裏に浮かぶ。
真っ直ぐな瞳。迷いながらも、それでも前に進もうとする意思。
(……あの娘)
無意識に、思考が巡る。
血筋。
立場。
そして、今この国に残されているもの。
(確か、母親の出自は玄英家だったな……)
低く息を吐く。
頭の中で、系譜が組み上がっていく。
点と点が、線になっていく。
青陽清明。
白蔵如月。
朱明日向。
そして母方の叔父は玄英家。
それぞれが関わる位置にいる者たち。
静かに、言葉が落ちる。
(……四家と繋がりを持つ姫君は、天下に最も近くなる)
その結論が胸の奥に落ちた瞬間、如月の思考がわずかに止まった。
(……あの娘が)
確信に近い何かが、静かに形を持つ。
だが。
調べていた調書の束に、視線が戻る。
その中の一枚に――わずかな"歪み"があった。
整っているはずの記述。
だが、ほんの僅かに――“消された痕跡”。
「……ん?」
指でなぞる。書き換えられた跡。意図的に、消されている。それも、極めて丁寧に。
気付かれないことを前提にした隠し方。
背筋に、冷たいものが走る。
(これは……)
顔を上げる。
迷いはなかった。確かめる必要がある。
如月はゆっくりと立ち上がった。
戸籍の保管庫は、さらに奥だ。
重く閉ざされた扉の向こう。
普段なら、簡単に踏み込む場所ではない。
だが今は違う。歩を進める。足音がやけに大きく響いた。
扉に手をかける。
軋む音とともに、静かに開いた。
中は薄暗く、古い紙の匂いが濃く残っている。棚に並ぶ、膨大な記録。
その中から、該当するものを探す。指先で、背表紙をなぞり、ひとつの帳簿で止まる。
それを引き抜こうとした、そのとき。
首筋に、冷たいものが触れた。
刃だった。動きを止める。
呼吸が、わずかに浅くなる。
「……何故、そこに辿り着いたのですか?」
背後から、低い声が落ちた。抑えた声。
だが、確かな殺意が含まれている。
「出自は、完璧に隠してあったはずです」
如月は振り返らない。
刃の感触だけを感じながら、静かに口を開く。
「……帝位を狙って謀反を起こしたのか」
問いは、低く、しかし揺らがない。
背後の気配が、わずかに揺れる。
「帝位を狙う……?」
かすかな笑みが混じる。
「そんな、軽いものではない」
刃が、わずかに押し当てられる。
「真の帝が、玉座に着くべきなんだ」
その言葉が落ちた瞬間、如月の思考が一気に動いた。
「……真の帝」
小さく繰り返す。断片だったものが、ひとつの形を成す。
「……そうか」
胸の奥で、何かが固まる。
「この事実が公になれば――天地が覆る」
確信だった。背後の男は、何も答えない。ただ、静かに言い放つ。
「お前は、知りすぎた」
刃が、さらに深く食い込む。
「ここで死んでもらわないと困る」
言葉が終わるより早く、鋭い痛みが身体を貫いた。
持っていた調書の束が床に散らばる。
揉み合う中で、男の首元に手がかかった。
乾いた音がした。玉が、床を転がる。
いくつも、いくつも。暗い書庫の石畳の上を、散り散りに。
視界が揺れる。
刃を引き抜くと、手応えは十分だった。
抵抗は、もうない。
床に崩れ落ちた身体を一瞥する。呼吸は浅く、意識もほとんど残っていない。
これ以上確かめるまでもない、と判断するには十分だった。
男は、ゆっくりと刃の血を払う。布で拭い取り、何事もなかったかのように収める。
その動作に、迷いはない。
視線をもう一度だけ落とす。
倒れたまま動かない姿。
それ以上、近づくことはしなかった。
書庫の奥に沈む影の中へ、静かに溶けていく。
最期を見届ける必要はない。
足音は、来たときと同じく静かだった。
扉が開き、閉じる。わずかな軋み。
書庫の中には、倒れたままの如月だけが残された。
(……まだだ)
如月は歯を食いしばった。意識を手放すには、早い。
(伝えなければ)
喉が動く。だが、声にならない。
血の味が広がる。それでも、指は動いた。
震える手で、散らばった書類から一枚を抜き取り、近くの本を一冊引き寄せ、紙を挟む。
さらに、その本を――奥へ。
棚の、影になる位置へ押し込む。
指先から力が抜ける。
視界が、暗くなっていく。
(……あとは)
ふと、あの日の光景がよぎる。
謀反の、数日後。崩れた宮廷の中で。
四大貴族に推される形で、1人の男が前に出る。
――その方は言った。
「帝になる」
迷いのない声音。
「……本気ですか」
静かに。
「覚悟は、ありますか?」
あのとき、確かに見た。
逃げずに、立つと決めた目を。
だから――
(……ならば)
心の中で、そう呟く。
目の前に立つ者と同じ場所に、自分も立つのだと。
この国のために。
逃げずに、背を向けずに。
その覚悟だけは、確かにそこにあった。
思考が、そこで途切れた。
身体が、ゆっくりと崩れ落ちる。
書庫の中は、再び静寂に包まれた。




