第二十七話 皇子、距離が近い
昊夜は立ち止まり、回廊から庭に目を向けた。星が出ている。
冷たい夜気が、額を心地よく撫でていった。
目を閉じれば、またあの凄惨な夜の光景が脳裏をよぎる。
謀反の夜、あたり一帯が血の海となり、その中には何人もが倒れていた。
昊夜はあの日、多くを失った。
仕えてきた主君、共に戦った者たち……。
そして――あの日、あと少し謀反が遅ければ、会うはずだった婚約者候補。
(……桜桃様)
その姿を一度も見ることはなく、彼女は炎の中に消えてしまった。
救えなかった過去への悔恨は、今も悪夢となって昊夜の心を縛り続けている。あの夜、自分はすべてを失ったのだと、星を見るたびに思い知らされる。
――もう、終わったことだ。今更何を悔やんでも、あの日は戻らない。
そう、割り切って思考を打ち切ろうとした、その時だった。
なぜか、暗闇の中にひとりの侍女の顔が唐突に思い浮かんだ。
――六花。
昼下がり、自室でうなされる自分を真っ直ぐに見つめていた、あの娘の顔だった。
はじまりは、回廊ですれ違っただけの、ただの偶然だった。
一瞬すれ違っただけなのに、なぜか妙に記憶に残った。新体制に伴って急に寄せ集められた侍女にしては、何かが決定的に違う。だがその違和感を言葉にする前に、彼女は通り過ぎて行った。
次に見たのは、宴の舞台の上だった。
気になる、と思った。理由は分からない。ただ、どうしても目が離せなかった。
彼女は、ただの侍女の佇まいではない。
かといって、貴族の娘のような作られた優雅さとも違う。皇族として育てば自然と身につく、あの気品に近い。
本人はそれを隠そうとしているが、隠しきれずに滲み出ている、という方が正確だった。
それは、自分がずっと追い求めていた姿のような気がした。
なにより――。
昊夜は、自分の大きな手のひらをじっと見つめた。
悪夢に狂わされ、冷え切っていた指先。
暗闇の中で孤独に凍えそうになっていたあのとき、そっと差し伸べられ、自分を両手で包み込んでくれた、あの小さな手の温もりが、今も肌に生々しく残っている。
あの温もりに触れた瞬間、いつも自分を襲っていた恐ろしい悪夢が、嘘のように消えていったのだ。
冷徹無比、歩く氷山とまで称される自分が、あんな名もなき侍女に救われ、あまつさえその手を離したくないとさえ願ってしまった。
昊夜は静かに考えを巡らせた。
元近衛大将である日向が気にする少女。「六花」は、一体何者だ。
***
翌日の朝、桜桃は書類の届け物をするために廊下を歩いていた。
まだ少し、身体が重いが、昨日よりは動ける。それだけを確かめて、ゆっくりと歩き始めた。
書庫へ続く廊下の角を曲がったところで、雲英と鉢合わせた。隣に、深黎がいた。
書類を抱えて、どこかへ向かう途中らしかった。
雲英は桜桃を見ると足を緩めた。
「六花殿、大変でしたね」
「……おかげさまで」
桜桃は頭を下げた。
「怪我はありませんか」
「はい。少し身体が重いだけで、もう大丈夫です」
「それはよかった。あまり無理はなさらないでくださいね」
雲英は穏やかに頷いた。
桜桃は礼を述べかけ、ふと思い出したように顔を上げた。
「あの、雲英様。時雨を見かけませんでしたか?」
「……時雨ですか」
「はい。昨日から姿が見えなくて。何かあったのでしょうか」
雲英は一瞬だけ視線を落とした。
「……まだ、お聞きになっていないのですね」
「え?」
「時雨は、昨日の襲撃に関わった疑いで、取り調べを受けています」
桜桃は目を見開いた。
「……時雨が?」
「ええ。詳しいことは、まだ調べているところですが」
「そんな……」
桜桃は言葉を失った。
つい先日まで、時雨は近衛府へ忍び込もうとする自分を必死に止めていた。危ないことはしないでほしいと、あれほど怒っていたのに。
その時雨が、自分を襲ったというのだろうか。
「……何かの間違いではありませんか」
「そうであれば、よいのですが」
雲英は静かに答えた。その隣で、深黎が口を開いた。
「時雨さんも、ずいぶん思い詰めていましたからね」
「……え?」
「最近、よく眠れていなかったようですし。何か悩みでもあるのかと思っていましたが。まさか、こんなことになるとは」
桜桃は深黎を見つめた。
「……時雨から、何か相談を受けていたのですか?」
「いいえ。大した話はしていませんよ。ただ、随分と昔のことを気にしているようでしたから」
「昔のこと……?」
「それ以上のことは聞いていません」
深黎はそこで口を閉ざした
雲英が深黎に視線を移す。
「書類が止まっています」
「あとで届けますよ」
「今です」
「……はい」
深黎は小さく頷いて、歩き出した。桜桃とすれ違う際、一度だけ視線が合ったが、何も言わなかった。
深黎の背中が廊下の角に消えていく。
「六花殿、書庫へ行くならこの帳簿をしまっておいてくれますか」
雲英は、手に持っていた一冊の帳簿を差し出した。
「はい」
桜桃は、その帳簿を受け取った。
雲英も頭を下げ、別の方向へ歩いていく。
「お大事に」
その一言だけを残して。
桜桃はしばらく、その場に立っていた。
『時雨さんも、ずいぶん思い詰めていましたからね』
その言葉が、胸の中で妙に残った。
上手く言葉にできないが、胸に小さな石が落ちたような感覚だけが、消えなかった。
桜桃が書庫に着いた頃、窓からさす夕日で書庫内が赤く染まっていた。
雲英から頼まれた帳簿を棚に納めようと、背の高い本棚が並ぶ狭い通路の奥へと歩みを進める。
(よし、これをあそこの棚に――)
「六花」
不意に、耳元のすぐ近くから低い声が降ってきた。
「ひゃ───っ」
驚きのあまり、棚に納めようと持ち上げた帳簿を落としそうになる。視界のすぐ脇に、腕が滑り込んできて、いつの間にか、昊夜がすぐ斜め後ろに立っていた。
「昊夜様……!」
昊夜は桜桃を怯えさせるつもりなどないように、ただ静かに、桜桃が帳簿を持つ手に自分の手を重ねる形で、すっと長い腕を伸ばした。
千弦の姿はない。一人だった。
背後から包み込まれるような形になり、彼の着物から香る、冷たくも気高い白檀の香りが、狭い空間に濃く満ちていく。
「帳簿か」
「はい。これをしまおうと……」
「どこへ納める」
昊夜は腕を引かない。桜桃の肩越しに、棚を覗き込むようにして少しだけ顔を近づけてくる。
彼のきれいな黒髪が、桜桃の頬をかすめそうな距離だ。大柄な彼の体温が背中越しにじんわりと伝わってきて、桜桃は息の仕方を忘れそうになる。
「……あ、あの、三段目の、右の奥です」
「ここか」
昊夜は桜桃の腕から、重い帳簿を大きな手で無造作に抜き取ると、手際よく棚の奥へと滑り込ませた。
ただ書類を整理しているだけなのに、その流れるような所作と、大人の男の余裕に満ちた空気に圧倒される。
「先日の書類整理、あれはどこで覚えた」
棚に手を伸ばした姿勢のまま、昊夜が横顔で問いかけてきた。端正な美貌がすぐ横にある。
「……しょ、書庫の手伝いをしているうちに、自然と」
桜桃の心臓が、どくんと跳ねた。内心の緊張を悟られないよう、必死で平静を装う。
「……そうか」
昊夜はゆっくりと腕を引き、身体を正面に戻して、桜桃の瞳をまっすぐに見下ろしてきた。値踏みではなく、まるで心の奥を透かして、何かを確かめるような目だった。
「お前は、よく見ている。誰が何をして、どこに何が置かれているか。把握して動いていた」
「 ……え」
「侍女にしておくのは惜しい。文官に移ることも考えてみろ」
「……恐れ入ります」
必死で顔を伏せるが、薄暗い棚の隙間だ。至近距離で見つめ合う形になり、今の自分の顔がどれほど赤くなっているか、想像するだけで恐ろしかった。
この人の目から逃げたくて、でも目を逸らしたら負けるような、妙な感覚に陥る。
「ところで」
不意に、昊夜の声音が一段と低く変わった。
「侍女になる前は、どこで何をしていた」
一瞬で空気が凍りついた。
桜桃は心の中で焦っていた。
(この人は、気づいているの!? それとも、ただの世間話!?)
頭の中で警告音が大音量で鳴り響く。ここでボロを出すわけにはいかない。
「……い、田舎の方で、奉公をしておりました」
「どの辺りだ」
「少し、あの、山を越えて、川を渡った先の……辺鄙なところで……」
「辺鄙というと、具体的には」
「ええと、たぶん、昊夜様がご存じの地名ではないと思います。猪とかが出ます!」
「言ってみろ」
逃げ道のない本棚の狭間。どこまでも穏やかに、けれど確実に逃げ道を塞いでいく彼の視線に、桜桃は限界を迎えた。
「あの」
桜桃は抱えていた文書を胸元で持ち直した。
「届け物の時間が、少し迫っておりまして」
「そうか」
昊夜はもう一度、短く言った。
桜桃の今にも泣き出しそうなほどの動揺と赤面を、彼は楽しむようにしばらく見つめていたが、やがて、ゆっくりと身体を引き、通路を開けた。
「行け」
「……し、失礼いたします!」
桜桃はやっとの思いで棚の隙間をすり抜け、書庫を飛び出した。
無人の回廊の角を曲がったところで、壁に手をついて「はぁぁ……」と深く息を吐き出す。
心臓が、耳の奥であり得ないほど速く鳴っていた。
正体がバレるかもしれないという恐怖のせいか。それとも、あの暗がりで触れられた、大人の男の体温と色気のせいか。
「よく見ている、か……」
彼が引き抜いていった帳簿の残りが、腕の中で今もまだ、じんわりと熱い気がした。
桜桃は、誰も見ていない回廊でそっと顔を覆い、今度こそ顔を真っ赤に赤らめた。
***
その頃、朝凪は朝堂院入口の門に立っていた。
《姫様観察日記》
臨時記録。
角の向こうから、姫様が出てきた。ずいぶんな早足だった。
それから、誰もいない壁に片手をついて、はぁ、と静かに深い息を吐き出した。
何かあったのだろうか。怪我をしている風ではない。
体調が悪そうでもない。ただ、少しだけ、いつもと様子が違う。遠目からでも、その白い頬が赤くなっているのが分かった。
「……またあの侍女を見てる」
隣に立つ門兵が、呆れたように言った。
「仕事です。前方警戒をしています」
「だから、あの侍女は前方の敵に関係ないって」
朝凪はそれには答えず、ただまっすぐ前を見つめた。
遠くの回廊で、桜桃がもう一度、大きく息を吐いた。それから、胸元に抱えた文書をぎゅっと抱き直し、いつもの凛とした歩き方に戻る。そのまま、足早に朝堂院の奥の方へと去っていった。
「……姫様」
かすかな呟きが漏れる。
「え? いま何か言ったか?」
「いいえ。気のせいです」
朝凪は冷静に視線を戻した。
すると、桜桃が曲がってきた角の向こうから、今度は昊夜がゆっくりと現れた。庭の景色を眺めながら歩いているが、その端正な顔は、何か深く考え込んでいるようだった。
(……昊夜と、鉢合わせたのか)
朝凪は、ほんの少しだけ目を細めた。
(それで、姫様の顔があれほど赤かったのか)
二人の間にどんな会話があったのかは分からない。ただ、自分の知らないところで桜桃の心を揺さぶった男の存在に、朝凪の胸の奥で、静かで暗い火が灯った。
(そもそも、姫様はあの手の男に免疫がないのだ)
姫様は宮廷でお育ちになった。
年頃の男といえば、自分か、自分が非番のときに護衛についていた者くらいしか、まともに顔を合わせたことがないはずだ。
だから少しのことで動揺なさる。
それだけのことだ。
(そうに違いない)
朝凪はもう一度、桜桃の赤い顔を見た。
(誰にでも、あんな風に顔を赤くするはずだ。……そう、思いたいが)
世間知らずで純粋な主の反応に、朝凪は言いようのない焦燥感を覚えていた。




