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狂桜華《きょうおうか》~亡国の姫は、名を捨て帝を目指す~  作者:
第一章 桜、散る夜に

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終 記録に残らない者

 如月の訃報が届いたのは、翌日だった。

 書庫で倒れているのが見つかった。凶器も、犯人も、見つかっていない。


 桜桃は、その知らせを廊下で聞いた。言葉が出なかった。


 数日前の声が、まだ残っていた。


『改めて話しましょう。全部話す』


 その約束は、果たされなかった。


 しばらくして、桜桃は清明の政務室の前に立っていた。

 入っていいのかも分からないまま、扉の前に立ち続けていた。


 やがて扉が開いた。

 清明が出てきた。桜桃を見た。


「……入りなさい」


 短く言って、戻っていく。

 部屋に入ると、清明は机に座って書類に手を伸ばした。


 書きながら話す気らしい。

 桜桃は何も言えなかった。


「……泣きそうな顔をしていますね」


「泣いていません」


「そうですか」


 清明は僅かに微笑んで、帳簿に視線を落とした。


「如月殿が何をしていたか、記録しています」


 手が、静かに動く。

  

「地方支援を通すために書類の順を変えたこと。その経緯。その意図」


「でも如月様はもう……」


「だから残すのです」


 清明の手が、頁を整える。


「正しさは、人に残るものではない」


 少し間を置く。


「記録に残る」


 静かな声だった。だが否定の余地を与えない響きがあった。


「誰が何を思ったかは、いずれ消える。残るのは、何がどう処理されたかだけ。それが制度です。国は、それで保たれるのです」


 桜桃は唇を噛んだ。

 守りたいものはある。それだけは確かだった。だが、それをどう残すのか。そこまで考えたことはなかった。


 胸の奥に、声が重なる。

 六花の声。


『あなたが生きることに、意味があります』


 如月の声。


『改めて話しましょう』


「……六花は」


 声が出た。


「侍女として生きた六花は、如月様と同じでした。名前を残さずに、誰かのために動いていた」


「知っています」


 清明は静かに言った。


「記録に残らない者たちが、この国を動かしていました」


 一瞬で失われたものは、二度と戻らない。

 だからこそ残るもの。それが記録なのだと。


「……清明様」


「はい」


「如月様は、本当にこの国が好きだったんですか」


 清明の手が、わずかに止まった。

 それから、ゆっくりと顔を上げる。


「好きでなければ、あんな意地を張れませんよ」


 穏やかな声だった。


「困った人でしたがね」


 少しだけ、顔を上げる。


「……とても、真っ直ぐな人でした」


 その言葉だけが、静かに響いた。


 桜桃は頷いた。泣かなかった。泣いたら、ここで終わる気がしたから。


「……私は、どうすればいいんですか」


 問いは、自分でも気づかずにこぼれていた。

 清明はしばらく桜桃を見ていた。


「今はまだ、六花として生きなさい」


 穏やかに言う。


「その答えは、あなた自身が見つけるものです」


「でも」


「焦ることはありません」


 穏やかに微笑んだまま、帳簿を閉じた。


「ただ……目を逸らさないことです」


 それだけを言って、清明は席を立った。

 桜桃は、しばらくその場に座ったままでいた。



 桜桃が訃報を聞く少し前。

 夜。宮廷の外れ。


 人の気配の少ない中庭で、日向は大きく張り出した木の太い枝に腰を掛け、片膝を立てて座っていた。

地上から遠く離れた高い場所は、騒がしい宮廷の喧騒を忘れさせてくれる。


 日向は、ゆっくりと夜空を仰いだ。


「……玉兎」


 ぽつり、と零したその名は、かつて共に戦場を、そして時代を駆け抜けてきた友の星河帝から下賜された名だった。


 目を閉じれば、今でも鮮明に蘇る記憶がある。


 まだ星河帝が皇太子だった頃、若き日の自分たちは、何者にも代えがたい固い絆で結ばれた同志だった。

 星河帝と、そして如月と。この木の上のようにはるか高い場所から帝都を見下ろしながら、三人で、この国の未来を夜通し語り合った。


 けれど、星河帝も、如月も、もうこの世には居ない。


(……俺だけが、取り残されたな)


 かつて未来を誓い合った友たちの姿はどこにもなく、今この高みに座っているのは、自分ひとりだけだ。

 胸を突き刺すような哀愁と、凍えるような寂しさが、静かに日向を包み込んでいく。


 何も言わない。

 ただ、静かに目を閉じる。

 失った瑞々しい日々も、最愛の友たちも、もう二度と戻ってはこない。


 それでも――

 あの日、三人で紡いだ熱い想いと、遺された者としての執念だけが、日向の胸の奥で消えない残り火のように、静かに残り続けていた。



 別の場所では。

 昊夜が、報せを受けていた。

 わずかに視線を落とし、考えるように沈黙する。


 そして、すぐに顔を上げた。表情は、変わらない。

 だが、その奥で何かが動いている。


 如月の死。


 それが意味するものを、理解している顔だった。



 さらに、その影で。

 朝凪は何も言わずに立っていた。

 門から、ただ宮廷を見上げている。


 踏み込むことはしない。


 だが――視線だけは、逸らさない。


 守るべきものが、そこにあると知っているから。



 夜は、静かに深まっていく。

 何かが終わり。

 そして、確かに――動き出していた。



 桜桃は縁に座り、空を見上げていた。

 全てが終わったあとの静けさが、重く積もっている。

 ふわりと風が抜けた。白檀に、凛とした香が混じる。


 胸元に触れると、指先に当たるのはひとつの香袋。

 凶手に襲われたあと目を覚ましたとき、枕元にそっと置かれていたものだ。気づけば手に取り、そのまま持ち歩くようになっていた。


 どこか懐かしいと思った。理由は分からなかったが、そう感じたことだけははっきりしている。


 ずっと身につけていた六花の香袋は、やわらかく、微かに甘い「蘭」の香りだった。


 だが今、新しく懐に滑り込ませた香袋から漂っているのは違う。


 白檀の奥から匂い立つ、早春の寒気のなかで一輪だけ咲くような、凛とした「梅」の香り。少しだけ輪郭のあるその香りが、胸の奥に静かに触れる。


 ふと、記憶が揺れた。


『同じものではありません。ですが、似せてあります』


 幼い日の少年の声。静かで、どこか距離を置いた響き。

 当時、桜桃は首をかしげていた。


「どうして?」


 問いに、少年はわずかに目を細めた。それ以上は語らない。

 ただ、差し出されたのは二つの香袋だった。


 幼い桜桃と六花は、一つずつそれを受け取った。

 ひとつは六花に手渡された、やわらかく馴染む蘭の香り。

 そして、もうひとつは桜桃の手の平に残された、どこか凛とした気配を含んでいる梅の香り。


 幼い桜桃は、その調香の違いに込められた意味を、まだ理解できなかった。


 ――けれど今は。


 指先が、そっと梅の香袋へ触れる。

 似ているのに、違う。違うのに、根底にある白檀の香りで深く繋がっている。


(あの少年は……)


 記憶の中の声と、闇の中で自分を救ってくれた男の声が重なりかける。赤褐色の髪。あの静かな立ち方。待つような手の差し出し方。


 でも、まだ確信にはならない。


 ただ。


 失くしてしまったはずの「梅の香」を、もう一度こうして新しく仕立てて届けてくれた人間が、今もどこかで自分を思っているような気がした。


 桜桃は何も言わず、ただ愛おしそうに目を閉じる。

 かすかに冷たく、どこまでも高潔な梅の香りだけが、静かに残った。


 季節は、春の名残をわずかに残しながら、静かに夏へと移ろい始めていた。


 ◇◆◇


 書庫の奥に、ひとつの影があった。

人の気配がなくなってから、しばらく経つ。


 男は、刃の血を静かに払う。

 布で拭い取り、何事もなかったかのように収める。その動作に、迷いはない。


 視線をもう一度だけ落とす。


 床に倒れたまま動かない姿。


「真の皇統のため」


 低く呟く。


 それだけだった。


 男は踵を返した。足音は、来たときと同じく静かだった。

 扉が開き、閉じる。わずかな軋み。


 書庫の中には、静寂だけが残された。

 廊下の灯りの中に、男は溶け込んでいく。


 昼間とは別の顔をしている。


 いつもの不真面目な雰囲気も、雲英に注意される様子も、今はない。

 ただ静かに、真っ直ぐに歩いていく。


 その足が、どこへ向かうのかを知っている者は――この場にはいない。



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