第二十八話 左大臣、気付く
夜、如月は、積み上げられた謀反の調書を一枚ずつ確かめていた。
記録は断片的で、どれも決定的とは言い難い。
だが、その断片同士が静かに繋がり始めていた。
ふと、如月の手が止まる。視線が、机の上ではなく――別のところへ向いた。
如月は調書を置くと、傍らに積んであった皇族系譜を引き寄せ、厚い表紙を開いた。
皇統は代々の帝を中心に記され、そこから皇子女や宮家へと枝分かれしている。
その中で、星河帝の名を探す。そこには、皇女として桜桃の名があった。
昨夜の出来事、あの少女の姿が、如月の脳裏に浮かぶ。
まっすぐな瞳。迷いながらも、それでも前に進もうとする意思。
(……あの娘)
無意識に、思考が巡る
(確か、母親の出自は玄英家だったな……)
頭の中で、系譜が組み上がっていく。
青陽清明。
白蔵如月。
朱明日向。
そして母方の叔父は玄英家。
彼女と関わる位置にいる者たち。
静かに、言葉が紡がれていく。
(……四家と繋がりを持つ姫君は、天下に最も近くなる)
その結論が胸に落ちた瞬間、如月の思考が止まった。
(……あの娘が)
確信に近い何かが、静かに形を持つ。
如月はしばらく系譜を眺めていたが、やがて最初の頁を開いた。
建国の記録に続き、初代帝の名がある。その次には、二代帝の即位と皇子女の記録が続いていた。
一見、何もおかしくはない。
だが、初代帝の治世に記された年号と、次の頁にある年号の間には、説明のつかない空白があった。
如月は眉を寄せ、綴じ目へ目を落とした。
古い糸の奥に、異なる色の紙の端が見える。
指先でそっと確かめると、数枚分の紙が抜き取られ、丁寧に綴じ直されていることが分かった。
如月は抜き取られた頁の前後を、もう一度確かめた。
欠けているのは、建国から間もない時代の記録だった。
「……何を隠した」
単に都合の悪い皇族の名を消したかっただけなら、その者に関わる記載を改めれば済む。だが、ここでは数枚もの頁が、綴じ目から丁寧に取り除かれていた。
しかも、抜き取られた頁の前後には、記録の続きを示すわずかな痕跡が残っている。
消されたのは、一人の名だけではないのかもしれない。
如月はしばらく考え込んだ。
皇族系譜から名を消された者は、その後、どうなったのか。
命を奪われたのなら、死亡の記録が残るはずだ。だが、皇族の身分を失い、別の名で生きることになったのだとしたら。
「……戸籍か」
如月は顔を上げた。
皇族としての記録を消しても、人が生きていく以上、どこかにその存在を記したものが残る。
特に、ある年代を境に突然戸籍へ編入された者がいれば、その出自を確かめる手がかりになるかもしれない。
如月は系譜を閉じ、立ち上がった。
一般の戸籍が収められているのは、書庫のさらに奥だった。
如月は重い扉を押し開けた。
戸籍の保管庫には、古い紙と木の匂いが満ちていた。壁一面に設けられた棚には、長い年月をかけて集められた戸籍簿が、年代ごとに整然と収められている。
如月は手燭を棚の脇に置き、先ほど皇族系譜で確認した年代を探した。
建国から間もない時代。
皇族系譜から数枚の頁が抜き取られていた、あの年代だ。
「……このあたりか」
如月は古い戸籍簿を一冊引き抜き、慎重に頁をめくった。
皇族系譜から数枚の頁が抜き取られていた年代。その頃に新たに編入された家がないか、記録を一つずつ確かめていく。
出生、婚姻、死亡。古い帳簿には、幾代にもわたる家々の記録が細かな文字で記されていた。
如月は頁をめくり、時折、別の帳簿と照らし合わせながら調べ続けた。
やがて、ある記載に目が留まった。
それ以前の戸籍には見当たらない家の名が、ある年を境に突然現れていた。
如月はその記載を指先でたどり、編入された年月を確かめた。
「……やはり」
皇族系譜から頁が抜き取られていた年代と一致している。
如月は手元にもう一冊の帳簿を引き寄せ、その家の記録を追い始めた。
最初はゆっくりと頁をめくっていたが、やがて、その手が次第に速くなった。
ある記載を確かめ、前の頁へ戻る。さらに別の帳簿を開き、何かを照らし合わせる。
そして、不意に手が止まった。
「……これは……」
如月は目を見開いた。
もう一度、目の前の記載へ視線を落とす。
そのときだった。
首筋に、ひやりと冷たいものが触れた。
刃だった。
「……何故、そこに辿り着いたのですか?」
背後から、低い声が落ちた。
如月は振り返らなかった。首筋に当てられた刃の感触を確かめながら、静かに口を開いた。
「……帝位を狙って、謀反を起こしたのか」
問いは低く、しかし揺らぎがなかった。
背後の気配が、わずかに動いた。
「帝位を狙う……?」
声に、かすかな笑みが混じる。
「そんな、軽いものではない」
刃が、さらに強く押し当てられた。
「真の帝が、玉座に着くべきなんだ」
その言葉に、如月の目が細められた。
「……真の帝」
小さく繰り返す。
先ほど目にした記録と、背後の男が口にした言葉。別々に存在していたものが、ひとつの意味を持って繋がっていく。
如月はゆっくりと顔を動かした。
刃が首筋を浅く裂いたが、構わず背後へ目を向ける。
手燭の頼りない光が、男の顔を照らした。
「……深黎」
如月は目を見開いた。
「お前が……!」
深黎は薄く笑った。
「驚きましたか?」
如月は答えなかった。
目の前の男と、古い戸籍に記されていた事実。その二つを確かめるように、しばらく深黎を見据えていた。
「……そうか」
やがて、低く呟いた。
「この事実が公になれば――天地が覆る」
深黎は何も答えない。ただ、刃を握る手にわずかに力を込めた。
如月はその顔を見つめたまま、ふと別のことを思い出した。
「……お前は、時雨と話をしていたな」
深黎の眉が、わずかに動いた。
「時雨に何を言った? 突然あの娘が清明を襲うわけがない」
「清明が、また地方への支援を遅らせようとしていることを話しただけですよ」
深黎は何でもないことのように答えた。
「あんただって、困るでしょう? 清明がいつまでも書類を抱え込んでいては、助かる者も助からない」
「だからといって、清明を失脚させることなど望んでいない」
「そうですか。あんたなら、少しくらい喜ぶと思ったんですがね」
深黎は肩をすくめた。
「まあ、時雨は素直でしたよ。鈴が自分のしたことを知っていると言ったら、面白いように動いてくれた」
如月の表情が険しくなる。
「……何だと」
「誰だって、他人より自分の身が可愛いでしょう。あの娘も同じだったというだけです」
「鈴は本当に、時雨がしたことを知っていたのか」
「さあ?」
深黎は首を傾げた。
「鈴には聞いていませんから、知りません」
如月は唇を引き結んだ。
鈴が知っていたかどうかなど、深黎にはどうでもよかったのだ。ただ時雨にそう信じ込ませれば、それでよかった。
「……兇手を手配したのも、お前か」
「兇手?」
深黎は少し考えるように視線を上げた。
「ああ、謀反のときの話ですか? それとも、清明を襲わせた連中のことですか?」
如月は息を呑んだ。深黎は、その反応を楽しむように笑った。
「まあ、どちらも私ですけど」
「深黎……!」
如月の声が、怒りに震えた。
「お前は、何人の命を奪えば気が済む!」
「何人でしょうね」
深黎は平然と答えた。
「数えたことがないので」
如月は一歩踏み出しかけた。
だが、深黎の刃がその動きを制した。
「それに、あんたも人のことは言えないでしょう。如月殿。民を救うためなら、随分と無茶なことをしてきた」
「俺のしたことと、お前のしたことを一緒にするな」
「そうでしょうか」
深黎の笑みが、ゆっくりと消えた。
「まあ、もういいでしょう」
書庫に、重い沈黙が落ちた。
深黎は如月を見据え、静かに言い放った。
「お前は、知りすぎた」
刃が、さらに深く食い込む。
「ここで死んでもらわないと困る」
言葉が終わるより早く、鋭い痛みが如月の身体を貫いた。
「ぐっ……!」
如月は咄嗟に深黎の腕を掴んだ。手にしていた調書の束が床へ散らばり、古い書類が石畳の上を滑っていく。
深黎が刃を引こうとする。
如月はその腕を離さず、残る力で相手の胸元を掴んだ。
指が、襟元に掛かっていた首飾りに触れる。
乾いた音がした。
紐が切れ、玉が床を転がった。
一つ、また一つ。
いくつもの小さな玉が、暗い書庫の石畳の上を散り散りになっていく。
如月の膝が折れた。
深黎は刃を引き抜き、倒れかけた身体を突き放した。
如月は棚に肩をぶつけ、そのまま床へ崩れ落ちた。
深黎はしばらく、その姿を見下ろしていた。
呼吸は浅い。衣の下には血が広がり、抵抗する力も残っていないように見えた。
これ以上確かめるまでもない。
深黎は刃の血を払い、懐から取り出した布で丁寧に拭い取ると、何事もなかったかのように鞘へ収めた。
その動作に迷いはなかった。
床に散った玉へ一度だけ視線を向けたが、拾おうとはしなかった。
倒れた如月をもう一度見下ろす。
それ以上、近づくこともなかった。
やがて、深黎は書庫の奥に沈む影の中へと歩き出した。最期を見届ける必要はない。
足音は、来たときと同じく静かだった。
扉が開き、閉じる。わずかな軋みが消えると、書庫には倒れたままの如月だけが残された。
しばらく、何の物音もしなかった。
やがて、床に投げ出されていた指が、かすかに動いた。
(……まだだ)
如月は歯を食いしばった。
意識を手放すには、まだ早い。
あの記録を、誰かに伝えなければならない。
如月は震える腕を伸ばした。
床には、先ほど散らばった書類がある。その中から一枚を引き寄せ、血に濡れた指で筆を握った。
文字が乱れる。
それでも、如月は手を止めなかった。
一字、また一字。
書き終えると、近くに落ちていた古い本を引き寄せ、紙を挟んだ。
そして、その本を棚の奥へ押し込む。
人の目につきにくい、影になる場所へ。
最後に指先で背表紙を押したところで、腕から力が抜けた。
如月の身体が、ゆっくりと床へ沈む。
視界が暗くなっていく。
(……あとは)
ふと、あの日の光景がよぎる。
謀反の、数日後。崩れた宮廷の中で。
四大貴族に推される形で、虚空が前に出る。
虚空は言った。
「帝になる」
迷いのない声音。
「……本気ですか」
静かに。
「覚悟は、ありますか?」
あのとき、確かに見た。
逃げずに、立つと決めた目を。
だから――
(……ならば)
心の中で、そう呟く。
目の前に立つ者と同じ場所に、自分も立つのだと。
この国のために。逃げずに、背を向けずに。
その覚悟だけは、確かにそこにあった。
思考が、そこで途切れた。
如月の身体が、ゆっくりと崩れ落ちる。
しばらくして、書庫の扉が再び開き、数人の男が足を忍ばせて入ってきた。
いずれも口を閉ざしたまま、倒れた如月には目もくれず、それぞれ別の棚へと向かう。
一人が机の上に広げられていた皇族系譜を閉じ、別の男が如月の調べていた戸籍簿を回収する。床に散らばった調書も、散り散りになった玉も拾い集められていった。
いくつかの玉を一粒ずつ布に包むと、男たちは手分けして室内を見回した。
やがて、先頭の男が小さく顎を引いた。
誰も言葉を交わさなかった。
回収した帳簿と書類を抱え、男たちは入ってきたときと同じように足音を忍ばせて出ていった。
扉が静かに閉じられる。
書庫には、再び静寂が戻った。
古い紙の匂いが漂う薄闇の中、如月だけが、冷たい石畳の上に残されていた。




