終 左大臣、遺す
如月の訃報が届いたのは、翌日だった。
書庫で倒れているのが見つかった。凶器も、犯人も、見つかっていない。
桜桃は、その知らせを廊下で聞いた。言葉が出なかった。
二日前の声が、まだ残っていた。
『改めて話しましょう。全部話す』
その約束は、果たされなかった。
しばらくして、桜桃は清明の執務室の前に立っていた。
入っていいのかも分からないまま、襖の前に立ち続けていた。
やがて襖が開いた。
清明が出てきて、桜桃を見下ろした。
「……入りなさい」
短く言って、戻っていく。
部屋に入ると、清明は机に座って書類に手を伸ばした。
書きながら話す気らしい。
桜桃は何も言えなかった。
「……泣きそうな顔をしていますね」
「泣いていません」
「そうですか」
清明はわずかに微笑んで、帳簿に視線を落とした。
「如月殿が何をしていたか、記録しています」
手が、静かに動く。
「各州から寄せられた窮状と、如月殿が講じた救済策。その経緯と、残された課題も」
「でも如月様はもう……」
「だから残すのです。正しさは、人に残るものではない」
清明の手が、頁を整える。
「記録に残る」
静かな声だった。だが否定の余地を与えない響きがあった。
「人の言葉は、やがて忘れられます。ですが、何を考え、何をしようとしたのか。それを記録に残すことはできる。それが、我々の仕事です」
桜桃は唇を噛んだ。
守りたいものはある。それだけは確かだった。だが、それをどう残すのか。そこまで考えたことはなかった。
胸の奥に、声が重なる。
六花の声。
『あなたが生きることに、意味があります』
如月の声。
『ここは、地方を見捨てるための言い訳を探す場所じゃない。民の命を守る場所だ』
「……六花も、そうだったんでしょうか」
「何がですか?」
「誰かを守って、何をしたのかも知られないまま亡くなった人たちが、きっとたくさんいるんですよね」
「……そうですね」
「その人たちのことも、残せるんでしょうか」
清明は筆を置いた。
「残さなければならないのでしょうね。我々が覚えている限りは」
一瞬で失われたものは、二度と戻らない。
だからこそ残るもの。それが記録なのだと。
「如月様は、本当にこの国が好きだったんですか」
清明の手が、止まった。
それから、ゆっくりと顔を上げる。
「好きでなければ、あんな意地を張れませんよ」
穏やかな声だった。
「困った人でしたがね。……とても、真っ直ぐな人でした」
その言葉だけが、静かに響いた。
桜桃は頷いた。泣かなかった。泣いたら、ここで終わる気がしたから。
「……私は、どうすればいいんですか」
問いは、自分でも気づかずにこぼれていた。
清明はしばらく桜桃を見ていた。
「今はまだ、六花として生きなさい」
穏やかな声だった。
「その答えは、あなた自身が見つけるものです」
「でも」
「焦ることはありません」
穏やかに微笑んだまま、帳簿を閉じた。
「ただ……目を逸らさないことです」
それだけを言って、清明は席を立った。
桜桃は、しばらくその場に座ったままでいた。
***
桜桃が如月の訃報を聞く前。夜明け前の宮廷の外れ。
人の気配の少ない中庭で、日向は大きく張り出した木の太い枝に腰を掛け、片膝を立てて座っていた。
地上から遠く離れた高い場所は、騒がしい宮廷の喧騒を忘れさせてくれる。
日向は、ゆっくりと夜空を仰いだ。
「……玉兎」
ぽつり、と零したその名は、かつて共に戦場を、そして時代を駆け抜けてきた友の星河帝から下賜された如月の名だった。
如月の机には、白い兎の文鎮がいつも置かれていた。
星河が「玉兎」に与えた、小さな賜り物だった。
目を閉じれば、今でも鮮明に蘇る記憶がある。
まだ皇子だった頃の星河は、笑って杯を掲げた。
『お前は玉兎だ。如月』
如月は眉をひそめる。
『兎、ですか』
『なら俺は何です』
日向が不満そうに尋ねると、星河は声を上げて笑った。
『お前は金烏だ。月には兎がいて、太陽には烏がいる。太陽と月は決して出会わぬ。だが、この国を照らすにはどちらも欠かせん』
若き日の自分たちは、何者にも代えがたい固い絆で結ばれた同志だった。
星河と、そして如月と。この木の上のようにはるか高い場所から帝都を見下ろしながら、三人で、この国の未来を夜通し語り合った。
けれど、星河帝も、如月も、もうこの世には居ない。
(……俺だけが、取り残されたな)
かつて未来を誓い合った友たちの姿はどこにもなく、今この高みに座っているのは、自分ひとりだけだ。
胸を突き刺すような哀愁と、凍えるような寂しさが、静かに日向を包み込んでいく。
何も言わない。
ただ、静かに目を閉じる。
失った瑞々しい日々も、最愛の友たちも、もう二度と戻ってはこない。
それでも―─あの日、三人で紡いだ熱い想いと、遺された者としての執念だけが、日向の胸の奥で消えない残り火のように、静かに残り続けていた。
別の場所では。
昊夜が、報せを受けていた。
視線を落とし、考えるように沈黙する。
そして、すぐに顔を上げた。表情は、変わらない。
だが、その奥で何かが動いている。
──如月の死。
それが意味するものを、理解している顔だった。
さらに、その影で。
朝凪は何も言わずに立っていた。
門から、ただ宮廷を見上げている。
踏み込むことはしない。
だが――視線だけは、逸らさない。
守るべきものが、そこにあると知っているから。
夜は、静かに明けようとしていた。
何かが終わり。
そして、確かに――動き出していた。
***
鈴の拘束が解かれたのは、数日後のことだった。
改めて行われた取り調べで、鈴は謀反の夜、近衛の指示を受けて八重御所の東の詰所へ逃げ込んだと証言した。
帝都に残っていた当夜の近衛たちにも確認が取られ、その証言が一致したことで、鈴の居場所は裏づけられた。
宮内省の門を出た鈴は、久しぶりに浴びる陽射しに目を細めた。
「あなたが、鈴?」
声をかけられて振り向くと、ひとりの侍女が立っていた。
「うん……そうだけど」
「私は六花と申します。少し、お話を伺ってもいいかしら」
鈴は少しだけ驚いたように目を見開いて、侍女を見つめた。
「六花って、近衛の当直割を調べてくれた……」
「あ、うん。えっと、鈴にあの夜のことを聞きたくて……」
鈴はしばらく桜桃を見つめていたが、やがて小さく頷いた。
二人は人通りの少ない回廊へ移った。
鈴は両手を握りしめて、あの夜のことを話し出した。
「……私は、八重御所から逃げられなくなってしまって。どこへ行けばいいのか分からなくて、必死に逃げ道を探していたの。そしたら、綺麗な表着を着た方が倒れていて……顔は暗くてわからなかったけど、皇女様だと思って……」
桜桃の表情が強張った。
「……皇女様?」
「うん。血を流していたから、助けようとしたの。でも、私一人ではどうにもできなくて……そうしたら、近衛の方が来て、その方が、倒れていた方を抱き上げて……」
桜桃は息を詰めた。
鈴は目を閉じて、会話を思い出すように語った。
『この方は、私が連れていきます。あなたはお逃げください』
『でも……』
『東の詰所に近衛の者がいるはずです。中将に言われて来た、と伝えれば保護してもらえます』
桜桃は息を呑んだ。
心臓が鳴る。
「中将……?」
「うん。朝凪中将だよ」
「……朝凪?」
「知ってる? 皇女様付きの近衛中将だった方。侍女の間でも、よく名前が上がってたから。……朝凪中将が来たからやっぱり皇女様だって思ったの。」
鈴は少し懐かしそうに微笑んだ。
「私に向かってきた賊も、朝凪中将が斬ってくれて……皇女様が気がかりだったけど、私がいる方が邪魔になると思って私は東の詰所に逃げたの」
「……そう、なの……」
鈴の話を聞きながら、桜桃は震える指を握りしめた。
「朝凪は……助かったの?」
「分からない。私を逃がしたあと、どうなったのかは……」
鈴は申し訳なさそうに目を伏せた。
「ただ、最後まで皇女様を守ろうとしてたわ」
桜桃はしばらく何も言えなかった。
鈴は少し不思議そうに首を傾げた。
「大丈夫?」
「……ええ」
桜桃が微笑むと、鈴はそれ以上尋ねなかった。
「今日はありがとう。あの夜のことを話すのは、つらかったでしょうに」
「私の話が、何かの役に立てたなら……」
「ええ。とても。本当にありがとう」
桜桃が鈴の手を取りそっと握ると、鈴が力強く握り返した。
「ううん。お礼を言うのはこっちだよ。私のこと、助けてくれたんだよね」
鈴は目を潤ませ、何度も頭を下げた。
その姿を見送ってから、桜桃も侍女部屋へ戻る道を歩き始めた。
回廊には、初夏の風が吹き抜けていた。庭の木々は若葉を広げ、軒先に落ちる陽射しも、春の頃よりいくらか強くなっている。
しばらく歩いたところで、桜桃はふと足を止めた。
胸元から、ひとつの香袋を取り出す。
凶手に襲われたあと、目を覚ましたときに枕元へ置かれていたものだった。
六花が身につけていたのは、白檀の奥からやわらかく甘い蘭の香りだった。けれど、桜桃に贈られたものは、早春の寒気の中で咲く梅のように、凛とした香りを纏っていた。
謀反の夜に失くした、あの香袋と同じ香り。
ふと、幼い日の記憶が蘇る。
『同じものではありません。ですが、似せてあります』
少年はそう言って、二つの香袋を差し出した。
『どうして?』
幼い桜桃が尋ねても、少年は目を細めるだけで、答えなかった。
蘭の香袋は六花へ。梅の香袋は桜桃へ。
どちらも白檀を基に調えられた、よく似た香りだった。
桜桃は手の中の香袋を見つめた。
あの夜、失くしたはずのものが、今こうして手元にある。
皇女の装束を着た六花を抱き上げ、鈴を逃がした朝凪。
そして、凶手に襲われた自分を救ってくれた男。
意識の薄れる中で見た赤褐色の髪。静かな声と、差し伸べられた手。
それらが、幼い日の少年の面影と重なりかけた。
桜桃は香袋を握りしめた。
でも、まだ確信にはならない。
ただ、失くしてしまったはずの「梅の香」を、もう一度こうして新しく仕立てて届けてくれた人間が、今もどこかで自分を思っているような気がした。
桜桃は何も言わず、ただ愛おしそうに目を閉じる。
かすかに冷たく、どこまでも高潔な梅の香りだけが、静かに残った。
季節は、春の名残を残しながら、静かに夏へと移ろい始めていた。
◇◆◇
帝崩ず。
宮廷はその夜、静かに崩れたとされる。
この一夜の出来事は、後に「八重御所の変」と称され、天和国の歴史を大きく二分する転換点として、後世に伝えられることとなる。
その夜、帝とともに、多くの皇族、臣下が命を落とした。
その中には、先帝の娘――咲宮桜桃の名もあった。
皇女、薨ず。
そう記された名が、再び帝記に現れるのは、それから数年の後である。
そこにはただこう記されていた。
「女帝、即す」と。
――『帝記 八重御所の変の項』より




