序
因州において水の流れに異常あり。
備州よりの供給は一時途絶し、記録の一部に欠損が見られる。
同時期、局地的な降雨が確認されるが、その要因は定まっていない。
ある者は救済と記し、ある者は災いと記す。
人の手による調整の痕跡あり。
ただし、その詳細は記されていない。
死と救済は同時に発生し、区別はなされていない。
――水利記録より
◇
陽は、いつからこうも苛烈になったのか。
雲ひとつない青空は、いまや地を焼く刃でしかなかった。
土は割れ、井戸はとうに底を見せた。水がない――ただそれだけのことで、人は静かに倒れ、気づけば息を引き取っている。苦しむ力すら残されていない死が、地を埋めていく。
――似たような光景を、知っている。
かつて、別の場所で。
乾いた地に転がる身体。動かぬ手。濁ったまま閉じぬ瞳。
あの時は血の匂いが立ち込め、今は乾いた土と腐敗の気配が混じる。
だが、同じだった。
命が奪われていく速さも、理由のなさも。そして、それを止められぬ己の無力さも。
守るため、終わらせるためと信じて剣を振るった。
だが、どれほど斬っても倒れる者は増え続け、泣き声は絶えなかった。その果てに剣を置き、二度と同じものは積み上げないと誓ったはずだった。
だが、いま目の前にある光景は、あの戦場と何も変わらない。
違うのは、誰も刃を振るっていないということだけ。
それでも人は、理由もなく、救いもなく死んでいく。
遥か先、霞む方角に帝都がある。
あそこにはまだ、水も、人も、国を動かせる力も残っているはずだ。
ここには、何もない。天を仰いでも、ただ陽が等しくすべてを焼いていくだけだ。
それでも、人は救いを求めるように帝都の空を仰ぐ。自分もまた、同じだった。
乾いた手のひらに、ぎゅっと爪を食い込ませる。
――動かねばならない。
あの戦場と違うのは、ひとつだけ。
まだ、何も終わってはいない。終わらせてなどいない。
***
二官八省の重臣たちが居並ぶ中、式部卿の八意雅がひと呼吸置いてから口を開いた。
「先の如月左大臣の御薨去に伴い、右大臣の空位を補する件について申し上げます」
誰も口を挟まない。
「雲英紫苑殿を右大臣に任ずることが決まりました」
一瞬の静寂。それから、わずかなざわめきが起きる。
「大納言や清明殿ではなく?」
若い官が思わず漏らす。
雅がゆっくりと場を見渡す。
清明は静かに扇を揺らしていた。
大納言・蘇芳一心は目を閉じたまま動かない。
清明とほぼ同じ年頃だろう。
白髪はまだ少なく、黒髪に銀がわずかに混じる程度。後ろで端正に束ねられた髪にも、一切の乱れはない。
皺は目元にだけ静かに刻まれている。
「左大臣如月殿の薨去以来、何名かには人事の打診はいたしました」
少し間を置く。
「しかし、皆様それぞれ現在のお役目を優先なさいました。今、その席を動かす方が朝廷にとって痛手ですので」
雲英は表情を変えない。ただ静かに一礼した。
ざわめきが収まるのを待って、雅は続けた。
「なお、現在の官職の空位については以下の通りです」
書簡を広げる。
「太政大臣、空位」
「左大臣、空位」
「大納言、三名空位」
「参議、二名空位」
「右大弁、空位」
読み上げるたびに、室内の空気がじわじわと重くなる。
「式部少輔、空位。民部大輔、民部卿への繰り上がりに伴い空位。兵部少輔、空位——」
「分かった」
清明が穏やかに遮った。
「要するに、人がいない」
「……端的に申せば、そうなります。多くの者が二つ以上の役職を兼任しています」
雅自身、神祇官長官と式部卿を兼任していた。
「猫の手でも借りたいわけですな」
「は」
「いえ、こちらの話です」
清明は扇を開く。
「字の読める侍女を文官手伝いに回す件、すでに動いておりますな」
「はい。前例のない措置でしたが、各部署より概ね好評との報告が」
雲英が答えた。
「結構です。引き続き」
「承知いたしました」
「人手不足はしばらく続きます。工夫できるところは工夫しながら、粛々と進めるしかありませんな」
清明はそこで一度、扇をぱちりと閉じた。何事もなかったような顔だった。
「では、次の議題へ」
話が動き出す気配がして、室内がわずかに緩んだ。
そのとき、末席近くから声が上がった。
「あの……よろしいでしょうか」
橘伊吹だった。
如月の後を継いで民部卿となって間もない、まだ若い官だった。声に、わずかな緊張があった。
「何ですか」
「今年の猛暑に伴い、問題が——」
空気が変わった。
緩んだはずの室内が、また引き締まる。誰かが、わずかに姿勢を正す。
雲英の動きが、一拍だけ止まった。
「……続けてください」
「因州より報せが届いております」
一言ずつが、重く落ちた。
***
夜の宮廷書庫は、じんわりと汗ばむほどに熱気がこもっていた。
日向は灯火を片手に、奥の戸籍保管庫へと歩みを進めた。
視線を落とす。
床に、わずかな変色があった。靴跡だ。まだ新しい。
靴跡を辿ると、足取りは一定で、迷いがない。やがて行き止まりに当たる。
壁際に低い机が置かれていた。その上には何もない。紙一枚、残っていない。
しかし、机の端に、わずかな擦れがあった。何かを重ねて、まとめて持ち去ったような跡だ。
視線を落とし、目をこらすと、血の跡が見えた。
量は多くないが、確かにここで流れている。
――如月。
ここにいたのはあの男だ。
血の跡を辿り、日向は視線を上げる。
目の前の棚の一角だけが、不自然にぽっかりと空間を空けていた。
「……なんだ?」
周囲の他の古い記録は、手を付けられた形跡もなく残されていた。なくなったのは、ただ一冊。 “そこにあったはずの本”だけだ。
(持ち去られたのか?)
日向は棚へ手を伸ばし、木札の『書庫管理札』を引き抜いた。
残されている前後の記録と照合すれば、抜けている分類を特定するのは容易だった。
戸籍関連。
州民登録。流民編入。そして、辺境戸籍。
やはり、そのあたりの記録だった。
日向は灯火の光の中で、静かに眉を寄せる。
如月は元々、戸籍管理の職務にも就いていた男だ。中央へ招聘される以前も、各州の煩雑な人口整理に深く関わっていた公的な記録が残っている。
だが、彼が命を賭してまで追っていたのは、単なる帳簿の整理などではない。その確信に似た予感があった。
「お前は何を見つけた」
呟きに、答える者は誰もいない。
ただ静かな書庫の中で、日向の持つ灯火だけが微かに揺れていた。
棚の歪な並びを指先で確かめながら、ゆっくりと、何かを呼び起こすように歩く。
生真面目だった如月だ。もしもの時、自分が追っていた何かを、敵に奪われぬようどこかへ残そうとしたのではないか。
不意に、日向の足がぴたりと止まった。
棚の最下段、深い影になっている一角。
他の書物ときっちり面が合わされている中で、一冊だけ、奥へと強く押し込まれた古い本があった。
日向は膝をつき、手を伸ばしてその本を引き抜く。
表紙を見る限り、何の変哲もない、ただの古い歴史書だった。
だが、慎重に頁をめくっていくと、その間に紙が一枚、隠されるように挟まっていた。
広げると、そこには細かな文字と、複雑に交差する無数の線が並んでいる。
――系図のようなものだった。
日向は灯火を限界まで近づけ、その文字を凝視した。
書き込みはひどく丁寧で、膨大な歳月と労力をかけて綿密に調べ上げられたものであることが一目で分かった。
だが。
その系図の最後の一角だけ、筆跡が異常なほどに乱れている。
さらに、そこには生々しい、赤黒い血が擦れたように滲んでいた。
死の間際、残された最後の力で、この頁の間に挟み込んだのだろう。
日向はしばらくの間、その血塗られた紙を無言で見つめていた。
やがて、それを丁寧に折り畳み、書物を元の場所へと戻した。
立ち上がり、床をゆっくりと、今度はより細かく見渡す。
書庫の隅、棚の足元の暗がりに、何かがごく微かに灯火の光を反射させているのが見えた。
日向はそこへ近づき、再び膝をついて、長い指先でそれを拾い上げる。
それは、小さな、丸い玉だった。
ほんのりと白みがかった、美しい玉。
首飾りか、あるいは高貴な者が身につける帯飾りの一部だろうか。
施された細工は極めて丁寧で、お世辞にも安物とは言えない代物だった。
日向はそれを掌の真ん中に乗せ、じっと見つめた。
……如月の遺品ではない。如月は、この手の装飾品を、何より嫌う男だった。
ならば。
あの夜、この閉ざされた空間で、激しいもみ合いが起きた際に衣服から脱落したものだ。
犯人本人のものか。あるいは、犯人がどこかから奪い、持っていた何かから外れ落ちたものか。
日向は、血痕の残る系図と、その白みがかった小さな玉を、それぞれ清潔な布で厳重に包み、静かに懐の奥深くへと収めた。
如月が命と引き換えに遺した、二つの決定的な手がかり。
日向はゆっくりと立ち上がった。
宮廷の誰も、この静寂の底で何が起き、何が見つかったのかを、まだ知らない。
日向は静かに灯火を消し、書庫をあとにした。
彼の確かな足音だけが、暗い廊下の向こうへと消えていく。
あとに残された書庫には、再び、すべてを覆い隠すような深い静寂だけが戻っていた。




