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狂桜華《きょうおうか》~亡国の姫は、名を捨て帝を目指す~  作者:
第二章 乾いた地と、雨の記憶

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序 如月が残したもの

 二官八省の重臣たちが居並ぶ中、式部卿のごころみやびがひと呼吸置いてから口を開いた。


「先の如月左大臣の御薨去に伴い、右大臣の空位を補する件について申し上げます」


 誰も口を挟まない。


「雲英紫苑殿を右大臣に任ずることが決まりました」


 一瞬の静寂。それから、わずかなざわめきが起きる。


「大納言や清明殿ではなく?」


 若い官が思わず漏らす。


 雅がゆっくりと場を見渡す。


 清明は静かに扇を揺らしていた。


 大納言・蘇芳一心は目を閉じたまま動かない。


 清明とほぼ同じ年頃だろう。

 白髪はまだ少なく、黒髪に銀がわずかに混じる程度。後ろで端正に束ねられた髪にも、一切の乱れはない。


 皺は目元にだけ静かに刻まれている。


「左大臣如月殿の薨去以来、何名かには人事の打診はいたしました」


少し間を置く。


「しかし、皆様それぞれ現在のお役目を優先なさいました。今、その席を動かす方が朝廷にとって痛手ですので」


雲英は表情を変えない。ただ静かに一礼した。


ざわめきが収まるのを待って、雅は続けた。


「なお、現在の官職の空位については以下の通りです」


書簡を広げる。


「太政大臣、空位」


「左大臣、空位」


「大納言、三名空位」


「参議、二名空位」


「右大弁、空位」


 読み上げるたびに、室内の空気がじわじわと重くなる。


「式部少輔、空位。民部大輔、民部卿への繰り上がりに伴い空位。兵部少輔、空位——」


「分かった」


 清明が穏やかに遮った。


「要するに、人がいない」


「……端的に申せば、そうなります。多くの者が二つ以上の役職を兼任しています」


 雅自身、神祇官長官と式部卿を兼任していた。


「猫の手でも借りたいわけですな」


「は」


「いえ、こちらの話です」


 清明は扇を開く。


「字の読める侍女を文官手伝いに回す件、すでに動いておりますな」


「はい。前例のない措置でしたが、各部署より概ね好評との報告が」


 雲英が答えた。


「結構です。引き続き」


「承知いたしました」


「人手不足はしばらく続きます。工夫できるところは工夫しながら、粛々と進めるしかありませんな」


 清明はそこで一度、扇をぱちりと閉じた。何事もなかったような顔だった。


「では、次の議題へ」


 話が動き出す気配がして、室内がわずかに緩んだ。

 そのとき、末席近くから声が上がった。


「あの……よろしいでしょうか」


 たちばなぶきだった。

 如月の後を継いで民部卿となって間もない、まだ若い官だった。声に、わずかな緊張があった。


「何ですか」


「今年の猛暑に伴い、問題が——」


 空気が変わった。


 緩んだはずの室内が、また引き締まる。誰かが、わずかに姿勢を正す。

 雲英の動きが、一拍だけ止まった。


「……続けてください」


「因州より報せが届いております」


 一言ずつが、重く落ちた。


***


 書庫の奥は、外界から切り離されたように静まり返っていた。


 厚い壁に囲まれ、光は高い位置の小窓からわずかに落ちるだけだ。


 日向は、その奥へと進んでいた。足音は抑えている。だが、石床に落ちるそれはわずかに響き、すぐに飲み込まれる。


 視線を落とす。


 床に、わずかな変色があった。靴跡だ。まだ新しい。


 靴跡を辿ると、足取りは一定で、迷いがない。やがて行き止まりに当たる。

 壁際に低い机が置かれていた。その上には何もない。紙一枚、残っていない。

 机の端に、わずかな擦れがある。何かを重ねて、まとめて持ち去ったような跡だ。


 棚の並びは整っている。欠けているようには見えない。だが、整いすぎている。本来あるべき乱れが、ない。


 目をこらすと、血の跡が見えた。


 血の量は多くないが、確かにここで流れている。


 ――如月。


 名を口にすることはなかった。しかし、ここにいたのはあの男だ。


 わざわざここまで来て、目にする必要のあるもの。


 日向は、血の跡をもう一度見た。血の跡はほとんど動いていない。


 ここで刺されたのだ。


(――何を見た)


 問いの答えは、形にならないが、確かにそこにある。


 如月は、何かを掴んだ。


 持ち去られたものが何かは分からない。

 しかし、消さなければならなかったものが、確かにここに存在した。


 日向は、ゆっくりと立ち上がった。


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