序 如月が残したもの
二官八省の重臣たちが居並ぶ中、式部卿の八意雅がひと呼吸置いてから口を開いた。
「先の如月左大臣の御薨去に伴い、右大臣の空位を補する件について申し上げます」
誰も口を挟まない。
「雲英紫苑殿を右大臣に任ずることが決まりました」
一瞬の静寂。それから、わずかなざわめきが起きる。
「大納言や清明殿ではなく?」
若い官が思わず漏らす。
雅がゆっくりと場を見渡す。
清明は静かに扇を揺らしていた。
大納言・蘇芳一心は目を閉じたまま動かない。
清明とほぼ同じ年頃だろう。
白髪はまだ少なく、黒髪に銀がわずかに混じる程度。後ろで端正に束ねられた髪にも、一切の乱れはない。
皺は目元にだけ静かに刻まれている。
「左大臣如月殿の薨去以来、何名かには人事の打診はいたしました」
少し間を置く。
「しかし、皆様それぞれ現在のお役目を優先なさいました。今、その席を動かす方が朝廷にとって痛手ですので」
雲英は表情を変えない。ただ静かに一礼した。
ざわめきが収まるのを待って、雅は続けた。
「なお、現在の官職の空位については以下の通りです」
書簡を広げる。
「太政大臣、空位」
「左大臣、空位」
「大納言、三名空位」
「参議、二名空位」
「右大弁、空位」
読み上げるたびに、室内の空気がじわじわと重くなる。
「式部少輔、空位。民部大輔、民部卿への繰り上がりに伴い空位。兵部少輔、空位——」
「分かった」
清明が穏やかに遮った。
「要するに、人がいない」
「……端的に申せば、そうなります。多くの者が二つ以上の役職を兼任しています」
雅自身、神祇官長官と式部卿を兼任していた。
「猫の手でも借りたいわけですな」
「は」
「いえ、こちらの話です」
清明は扇を開く。
「字の読める侍女を文官手伝いに回す件、すでに動いておりますな」
「はい。前例のない措置でしたが、各部署より概ね好評との報告が」
雲英が答えた。
「結構です。引き続き」
「承知いたしました」
「人手不足はしばらく続きます。工夫できるところは工夫しながら、粛々と進めるしかありませんな」
清明はそこで一度、扇をぱちりと閉じた。何事もなかったような顔だった。
「では、次の議題へ」
話が動き出す気配がして、室内がわずかに緩んだ。
そのとき、末席近くから声が上がった。
「あの……よろしいでしょうか」
橘伊吹だった。
如月の後を継いで民部卿となって間もない、まだ若い官だった。声に、わずかな緊張があった。
「何ですか」
「今年の猛暑に伴い、問題が——」
空気が変わった。
緩んだはずの室内が、また引き締まる。誰かが、わずかに姿勢を正す。
雲英の動きが、一拍だけ止まった。
「……続けてください」
「因州より報せが届いております」
一言ずつが、重く落ちた。
***
書庫の奥は、外界から切り離されたように静まり返っていた。
厚い壁に囲まれ、光は高い位置の小窓からわずかに落ちるだけだ。
日向は、その奥へと進んでいた。足音は抑えている。だが、石床に落ちるそれはわずかに響き、すぐに飲み込まれる。
視線を落とす。
床に、わずかな変色があった。靴跡だ。まだ新しい。
靴跡を辿ると、足取りは一定で、迷いがない。やがて行き止まりに当たる。
壁際に低い机が置かれていた。その上には何もない。紙一枚、残っていない。
机の端に、わずかな擦れがある。何かを重ねて、まとめて持ち去ったような跡だ。
棚の並びは整っている。欠けているようには見えない。だが、整いすぎている。本来あるべき乱れが、ない。
目をこらすと、血の跡が見えた。
血の量は多くないが、確かにここで流れている。
――如月。
名を口にすることはなかった。しかし、ここにいたのはあの男だ。
わざわざここまで来て、目にする必要のあるもの。
日向は、血の跡をもう一度見た。血の跡はほとんど動いていない。
ここで刺されたのだ。
(――何を見た)
問いの答えは、形にならないが、確かにそこにある。
如月は、何かを掴んだ。
持ち去られたものが何かは分からない。
しかし、消さなければならなかったものが、確かにここに存在した。
日向は、ゆっくりと立ち上がった。




