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狂桜華《きょうおうか》~亡国の姫は、名を捨て帝を目指す~  作者:
第二章 乾いた地と、雨の記憶

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第一話 水が来ない

 宮中の夏は、静けさの中に熱を孕んでいる。


 石畳は昼の陽を吸い込み、夜になってもなお、じわりと足裏に残る温もりを返していた。風はあるが弱く、池の水面もわずかに揺れるのみで、涼を運ぶには足りない。


 桜桃は、名を六花りっかと偽り、宮廷で侍女として働いていた。


 今日の担当は、皇后・未散の居室である。


 皇女として過ごしていた頃なら、こうして皇后の部屋に出入りすることなど珍しくもなかった。だが、今は違う。些細な仕草ひとつで正体を疑われるかもしれないと思うと、自然と肩に力が入った。


「失礼いたします」


 静かに茶器を運び入れる。

 室内では未散が書物を読んでいた。新帝の即位に伴い、皇后となった女性。穏やかな顔立ちの奥に、何を考えているのか分からない底知れない静けさがあった。


 桜桃は視線を合わせないよう、細心の注意を払いながら手際よく茶器を置く。

 長居は禁物だ。早く部屋を出よう。

 そう思い、気配を消して一歩下がった時だった。


「……待ちなさい」


 不意に、鈴を転がすような声がかかる。

 どくん、と心臓が跳ねた。

 最悪の想像が頭をよぎるが、侍女の仮面は剥がさない。桜桃は優雅に、ゆっくりと振り返った。


「はい。何か、お気に召さない点でもございましたでしょうか」


「いいえ、お茶は完璧よ。……ただ、あなた」


 未散は書物を閉じ、じっとこちらを見つめてきた。品のある瞳に射すくめられ、背筋に冷たいものが走る。


「前から思っていたけど、誰かに似ているわね」


 鼓動の音が耳の奥でうるさく跳ね上がる。

 前帝の娘である自分と、現在の皇后。かつてどこかですれ違っていてもおかしくはない。


「……そうでございますか? このような平凡な顔立ち、都にはいくらでもおりましょう」


 あえて自嘲気味に微笑み、すんなりと話を流そうとした。

 しかし、未散は小さく首を傾げ、桜桃の顔の輪郭をなぞるようにじっと目を細めたままだ。その沈黙が、恐ろしく長い時間に感じられる。


 やがて、未散はふっと、どこか意味深に口元を綻ばせた。


「……そうね。私の気のせいかしら。下がって良いわ」


 すっと視線が書物に戻される。

 桜桃は胸の奥の激しい動揺を完璧に押し隠し、美しい一礼をして部屋を後にした。


 一歩外へ出て、静かに戸が閉まった途端、張り詰めていた息が「はぁ……」と漏れた。

 壁に背中を預けたい衝動を堪え、何食わぬ顔で歩き出す。けれど、衣服の中の背中は冷や汗でぐっしょりと濡れていた。


 ――誰かに似ているわね。


 未散の声が耳について離れない。

 あれは本当にただの気まぐれな雑談だったのだろうか。それとも、こちらの動揺を誘うための罠だったのか。


(考えすぎよ。そうでなければ困る……)


 もし完全に正体を見破られているのなら、あんな引き際で終わるはずがない。きっと偶然だ、そう自分に言い聞かせようとする。

 けれど、あの皇后の、すべてを見透かすような微笑みが脳裏に焼き付いて消えなかった。


 正体を疑われているのかどうかは、まだ分からない。

ただ一つ確かなのは、あの皇后の前に引きずり出されると、蛇に睨まれた蛙のような、恐ろしい居心地の悪さを覚えるということだけだった。


 桜桃は胸のざわめきを振り払うように、お盆を抱き直して歩みを速めた。


 焦るあまり、周囲への警戒が完全に疎かになっていた。

曲がり角を勢いよく曲がった、その瞬間。


「あ――」


 視界に飛び込んできた大きな影を避けきれず、桜桃は正面からその胸元へとぶつかった。

 衝撃でお盆が手元から滑り落ち、短い悲鳴とともに身体が後ろへ傾く。


(転ぶ――)


 そう覚悟して目を瞑った瞬間、視界がぐらりと反転した。

 細い手首を男の大きな手がしっかりと掴み、驚くほど確かな力で引き戻される。気がついた時には、桜桃の身体は、ぶつかった相手の胸の中にすっぽりと収まっていた。


 鼻腔をくすぐったのは、あの冷たくも気高い白檀の香り。

 恐る恐る視線を上げると、そこには、あの切れ長の美しい瞳が自分を見つめていた。


「……昊夜、様」


 声が震えた。

 昊夜は掴んだ彼女の手首をすぐには離さず、ただ静かに、桜桃を見下ろしている。その目は相変わらず鋭い光を帯びている。書庫のときと同じ大人の男の体温が至近距離から伝わってきて、桜桃の心臓は跳ね上がる。


「前を見て歩け。……いつも慌ただしいな、お前は」


 降ってきたのは、呆れたような、けれどどこか響きが柔らかい声音だった。


「申し、訳ありません……! 急いでおりましたので、つい……っ」


 あの書庫でイノシシの嘘をついて逃げ出した気まずさもあり、桜桃は顔を真っ赤にしながら、そっと手首をひねって彼の拘束を逃れた。床に落ちたお盆を慌てて拾い上げ、一刻も早くこの場を立ち去ろうと足早に駆け抜けようとする。


「待て、六花」


 背後から掛けられた、自分の偽名を呼ぶ静かな声。桜桃はぴたりと足を止めて振り返った。


 昊夜は少しだけ口元を緩め、あの書庫で桜桃の動揺を楽しんでいた時のような、悪戯っぽい双眸を向けていた。


「文官の書類仕分け、引き続き、お前に手伝ってほしい」


「え……?」


「急ぎの案件が増えている。明日からは書庫ではなく、朝堂院の政務室へ来い」


 桜桃は、胸の奥が熱くなるようなドキドキを必死に抑えながら、小さく声を絞り出した。


「……承知、いたしました」


 昊夜は満足したように小さく頷くと、音もなく廊の奥へと歩き去っていった。


 その後ろ姿を見送りながら、桜桃は掴まれていた手首をそっと押さえた。肌に残る熱が心地よくて、でも正体がバレる恐怖もあり、頭の中はすっかりかき乱されていた。


 言われた通り朝堂院へ向かうと、政務室はいつもより人が多かった。

 室内の隅に、見慣れない男が一人控えていた。


 文官たちに混じって立っているのに、明らかに違う。朝廷軍の直垂をきっちりと纏い、一目で武官と知れる。

 けれどそれ以上に、無駄を削ぎ落とした体躯が衣の上からでも分かり、文官の柔らかな立ち方とは根本から異なっていた。書類を扱う人間のものではない。


 桜桃は、何となくその人物を見たことがあると思った。

 けれど、どこで見たのかは思い出せなかった。


 桜桃は書簡の仕分けをしながら壁際に控えた。

 やがて、一枚の封が机の上へ置かれる。


「因州より再報」


 その言葉が落ちた瞬間、室内の空気がわずかに凝固した。続く報せは短く、乾いていた。


「水は未だ届かず」


「井戸は枯渇」


「死者、増加中」


 余計な情緒は削ぎ落とされ、事実だけが並ぶ。

 桜桃は、手元に積まれた書簡の一つに視線を落とした。指先で紙の端を押さえ、そのまま動きを止める。


 ――この並び。どこかで見た覚えがある。


 水が来ない、井戸が枯れた、死者が増えている。

 同じように無駄を削ぎ落とした報告。同じように、最悪の事態を前提に組まれた指示の順序。


 まだ起きていない事象を、すでに起きたものとして扱う。そうでなければ、手遅れになるからだ。起こるかどうかではなく、起こった時にどう動くか。その思想の順で物事が並べられていた。


 だからこそ、最初に置かれるべき場所は決まっている。被害が広がりきる前に、真っ先に抑えるべき急所。


 それが、ここだった。


 ──因州。


「輸送路の安全確保を急ぎましょう」


 雲英きらが鋭く言った。


翠陰すいいんえん殿」


 部屋の隅に控えていた男が、その名を受けて一歩前に出た。

 飛燕――その名には聞き覚えがあった。以前、椎香たちと話していたときに出た名だ。『お父様がね』『飛燕様が』と、彼女たちは言っていた。


「輸送路の管理は、そちらで」


「承知している」


 低く、短い返答だった。直垂をまとった男――飛燕は、迷いなく口を開く。


「通行制限をしている区間がある。治安維持の判断だ。確認が取れ次第、順次解除する」


「いつになりますか」


「……事実の確認が必要だ」


 やり取りはそれだけだった。飛燕はそのまま室を出ていき、静かな足音が廊の奥へ消えた。


 桜桃は再び手元の書類に視線を滑らせる。初期の報せは、ここまで重くはなかった。雨の遅れ、水量の減少、作物の不安。


 けれど、次の書簡で桜桃の指が止まった。


 その先が、薄い。

 本来なら続いているはずの、次の一手の指示が見当たらないのだ。

 水の手配はある。

 だが、あまりに遅い。いや、遅いのではない。

 その前にあるはずの「最悪を前提にした布石」が、ごっそりと抜け落ちている。


 静かに息を吸い、書簡をもう一枚めくった。

 そこにあるのは、決断なきまま、ただ後を追いつこうとする記録だけだった。


 桜桃は、ゆっくりと目を伏せた。

 ――これは、如月きさらぎのやり方だ。

 そうであったはずのものだ。最悪を前提に動き、先手を打って災厄をねじ伏せる。

 だが、その先を決める者が、もうこの宮廷にはいない。残された歪な形だけが惰性で動き、肝心の判断だけが手遅れになっていく。


 ぽつりと、誰かが呟いた。


「……如月様がいれば」


 返す声はなかった。

 しばらくの重苦しい沈黙ののち、別の誰かが投げ出すように言う。


「いっそ、雨乞いでもするか」


 諦めとも冗談ともつかない自嘲の言葉だった。


 そこへ、遅れて扉が開いた。


 深黎しんれいだった。書類を小脇に抱え、特に急いでいる様子もなく入ってくる。

 いつもなら首元にあるはずの飾りがない。それだけが、いつもと違っていた。


「……あ」


 室内を見渡して、深黎が小さく声を上げる。

 雲英が冷ややかに振り返った。


「遅いですよ。会議はもう終わりです」


「すみません」


「どこにいたんですか」


「……いろいろと」


「いろいろと、では困ります」


「そうですね」


 深黎は困った顔もせず、すんなり頷いた。


 室内が解散のざわめきに包まれ、人が動き始める。桜桃も書簡を整えながら出口へ向かいかけた。


 そのとき、雲英の声が聞こえた。


 さほど大きくはない。だが、静かに落とされた言葉は、人の動きの隙間を正確にすり抜けて耳に届いた。


「深黎」


「はい」


「如月殿が亡くなったあの日――あなた、どこにいましたか」


 一瞬の間。


「さあ」


 深黎の声は、いつも通りだった。


「覚えていません」


 それだけだった。

 桜桃は足を止めないまま、廊へ出た。


 背後のざわめきが遠のいていく。

 深黎のあの平坦な言葉だけが、桜桃の胸の奥にいつまでも残っていた。


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