第一話 水が来ない
宮中の夏は、静けさの中に熱を孕んでいる。
石畳は昼の陽を吸い込み、夜になってもなお、じわりと足裏に残る温もりを返していた。風はあるが弱く、池の水面もわずかに揺れるのみで、涼を運ぶには足りない。
桜桃は、名を六花と偽り、宮廷で侍女として働いていた。
今日の担当は、皇后・未散の居室である。
皇女として過ごしていた頃なら、こうして皇后の部屋に出入りすることなど珍しくもなかった。だが、今は違う。些細な仕草ひとつで正体を疑われるかもしれないと思うと、自然と肩に力が入った。
「失礼いたします」
静かに茶器を運び入れる。
室内では未散が書物を読んでいた。新帝の即位に伴い、皇后となった女性。穏やかな顔立ちの奥に、何を考えているのか分からない底知れない静けさがあった。
桜桃は視線を合わせないよう、細心の注意を払いながら手際よく茶器を置く。
長居は禁物だ。早く部屋を出よう。
そう思い、気配を消して一歩下がった時だった。
「……待ちなさい」
不意に、鈴を転がすような声がかかる。
どくん、と心臓が跳ねた。
最悪の想像が頭をよぎるが、侍女の仮面は剥がさない。桜桃は優雅に、ゆっくりと振り返った。
「はい。何か、お気に召さない点でもございましたでしょうか」
「いいえ、お茶は完璧よ。……ただ、あなた」
未散は書物を閉じ、じっとこちらを見つめてきた。品のある瞳に射すくめられ、背筋に冷たいものが走る。
「前から思っていたけど、誰かに似ているわね」
鼓動の音が耳の奥でうるさく跳ね上がる。
前帝の娘である自分と、現在の皇后。かつてどこかですれ違っていてもおかしくはない。
「……そうでございますか? このような平凡な顔立ち、都にはいくらでもおりましょう」
あえて自嘲気味に微笑み、すんなりと話を流そうとした。
しかし、未散は小さく首を傾げ、桜桃の顔の輪郭をなぞるようにじっと目を細めたままだ。その沈黙が、恐ろしく長い時間に感じられる。
やがて、未散はふっと、どこか意味深に口元を綻ばせた。
「……そうね。私の気のせいかしら。下がって良いわ」
すっと視線が書物に戻される。
桜桃は胸の奥の激しい動揺を完璧に押し隠し、美しい一礼をして部屋を後にした。
一歩外へ出て、静かに戸が閉まった途端、張り詰めていた息が「はぁ……」と漏れた。
壁に背中を預けたい衝動を堪え、何食わぬ顔で歩き出す。けれど、衣服の中の背中は冷や汗でぐっしょりと濡れていた。
――誰かに似ているわね。
未散の声が耳について離れない。
あれは本当にただの気まぐれな雑談だったのだろうか。それとも、こちらの動揺を誘うための罠だったのか。
(考えすぎよ。そうでなければ困る……)
もし完全に正体を見破られているのなら、あんな引き際で終わるはずがない。きっと偶然だ、そう自分に言い聞かせようとする。
けれど、あの皇后の、すべてを見透かすような微笑みが脳裏に焼き付いて消えなかった。
正体を疑われているのかどうかは、まだ分からない。
ただ一つ確かなのは、あの皇后の前に引きずり出されると、蛇に睨まれた蛙のような、恐ろしい居心地の悪さを覚えるということだけだった。
桜桃は胸のざわめきを振り払うように、お盆を抱き直して歩みを速めた。
焦るあまり、周囲への警戒が完全に疎かになっていた。
曲がり角を勢いよく曲がった、その瞬間。
「あ――」
視界に飛び込んできた大きな影を避けきれず、桜桃は正面からその胸元へとぶつかった。
衝撃でお盆が手元から滑り落ち、短い悲鳴とともに身体が後ろへ傾く。
(転ぶ――)
そう覚悟して目を瞑った瞬間、視界がぐらりと反転した。
細い手首を男の大きな手がしっかりと掴み、驚くほど確かな力で引き戻される。気がついた時には、桜桃の身体は、ぶつかった相手の胸の中にすっぽりと収まっていた。
鼻腔をくすぐったのは、あの冷たくも気高い白檀の香り。
恐る恐る視線を上げると、そこには、あの切れ長の美しい瞳が自分を見つめていた。
「……昊夜、様」
声が震えた。
昊夜は掴んだ彼女の手首をすぐには離さず、ただ静かに、桜桃を見下ろしている。その目は相変わらず鋭い光を帯びている。書庫のときと同じ大人の男の体温が至近距離から伝わってきて、桜桃の心臓は跳ね上がる。
「前を見て歩け。……いつも慌ただしいな、お前は」
降ってきたのは、呆れたような、けれどどこか響きが柔らかい声音だった。
「申し、訳ありません……! 急いでおりましたので、つい……っ」
あの書庫でイノシシの嘘をついて逃げ出した気まずさもあり、桜桃は顔を真っ赤にしながら、そっと手首をひねって彼の拘束を逃れた。床に落ちたお盆を慌てて拾い上げ、一刻も早くこの場を立ち去ろうと足早に駆け抜けようとする。
「待て、六花」
背後から掛けられた、自分の偽名を呼ぶ静かな声。桜桃はぴたりと足を止めて振り返った。
昊夜は少しだけ口元を緩め、あの書庫で桜桃の動揺を楽しんでいた時のような、悪戯っぽい双眸を向けていた。
「文官の書類仕分け、引き続き、お前に手伝ってほしい」
「え……?」
「急ぎの案件が増えている。明日からは書庫ではなく、朝堂院の政務室へ来い」
桜桃は、胸の奥が熱くなるようなドキドキを必死に抑えながら、小さく声を絞り出した。
「……承知、いたしました」
昊夜は満足したように小さく頷くと、音もなく廊の奥へと歩き去っていった。
その後ろ姿を見送りながら、桜桃は掴まれていた手首をそっと押さえた。肌に残る熱が心地よくて、でも正体がバレる恐怖もあり、頭の中はすっかりかき乱されていた。
言われた通り朝堂院へ向かうと、政務室はいつもより人が多かった。
室内の隅に、見慣れない男が一人控えていた。
文官たちに混じって立っているのに、明らかに違う。朝廷軍の直垂をきっちりと纏い、一目で武官と知れる。
けれどそれ以上に、無駄を削ぎ落とした体躯が衣の上からでも分かり、文官の柔らかな立ち方とは根本から異なっていた。書類を扱う人間のものではない。
桜桃は、何となくその人物を見たことがあると思った。
けれど、どこで見たのかは思い出せなかった。
桜桃は書簡の仕分けをしながら壁際に控えた。
やがて、一枚の封が机の上へ置かれる。
「因州より再報」
その言葉が落ちた瞬間、室内の空気がわずかに凝固した。続く報せは短く、乾いていた。
「水は未だ届かず」
「井戸は枯渇」
「死者、増加中」
余計な情緒は削ぎ落とされ、事実だけが並ぶ。
桜桃は、手元に積まれた書簡の一つに視線を落とした。指先で紙の端を押さえ、そのまま動きを止める。
――この並び。どこかで見た覚えがある。
水が来ない、井戸が枯れた、死者が増えている。
同じように無駄を削ぎ落とした報告。同じように、最悪の事態を前提に組まれた指示の順序。
まだ起きていない事象を、すでに起きたものとして扱う。そうでなければ、手遅れになるからだ。起こるかどうかではなく、起こった時にどう動くか。その思想の順で物事が並べられていた。
だからこそ、最初に置かれるべき場所は決まっている。被害が広がりきる前に、真っ先に抑えるべき急所。
それが、ここだった。
──因州。
「輸送路の安全確保を急ぎましょう」
雲英が鋭く言った。
「翠陰飛燕殿」
部屋の隅に控えていた男が、その名を受けて一歩前に出た。
飛燕――その名には聞き覚えがあった。以前、椎香たちと話していたときに出た名だ。『お父様がね』『飛燕様が』と、彼女たちは言っていた。
「輸送路の管理は、そちらで」
「承知している」
低く、短い返答だった。直垂をまとった男――飛燕は、迷いなく口を開く。
「通行制限をしている区間がある。治安維持の判断だ。確認が取れ次第、順次解除する」
「いつになりますか」
「……事実の確認が必要だ」
やり取りはそれだけだった。飛燕はそのまま室を出ていき、静かな足音が廊の奥へ消えた。
桜桃は再び手元の書類に視線を滑らせる。初期の報せは、ここまで重くはなかった。雨の遅れ、水量の減少、作物の不安。
けれど、次の書簡で桜桃の指が止まった。
その先が、薄い。
本来なら続いているはずの、次の一手の指示が見当たらないのだ。
水の手配はある。
だが、あまりに遅い。いや、遅いのではない。
その前にあるはずの「最悪を前提にした布石」が、ごっそりと抜け落ちている。
静かに息を吸い、書簡をもう一枚めくった。
そこにあるのは、決断なきまま、ただ後を追いつこうとする記録だけだった。
桜桃は、ゆっくりと目を伏せた。
――これは、如月のやり方だ。
そうであったはずのものだ。最悪を前提に動き、先手を打って災厄をねじ伏せる。
だが、その先を決める者が、もうこの宮廷にはいない。残された歪な形だけが惰性で動き、肝心の判断だけが手遅れになっていく。
ぽつりと、誰かが呟いた。
「……如月様がいれば」
返す声はなかった。
しばらくの重苦しい沈黙ののち、別の誰かが投げ出すように言う。
「いっそ、雨乞いでもするか」
諦めとも冗談ともつかない自嘲の言葉だった。
そこへ、遅れて扉が開いた。
深黎だった。書類を小脇に抱え、特に急いでいる様子もなく入ってくる。
いつもなら首元にあるはずの飾りがない。それだけが、いつもと違っていた。
「……あ」
室内を見渡して、深黎が小さく声を上げる。
雲英が冷ややかに振り返った。
「遅いですよ。会議はもう終わりです」
「すみません」
「どこにいたんですか」
「……いろいろと」
「いろいろと、では困ります」
「そうですね」
深黎は困った顔もせず、すんなり頷いた。
室内が解散のざわめきに包まれ、人が動き始める。桜桃も書簡を整えながら出口へ向かいかけた。
そのとき、雲英の声が聞こえた。
さほど大きくはない。だが、静かに落とされた言葉は、人の動きの隙間を正確にすり抜けて耳に届いた。
「深黎」
「はい」
「如月殿が亡くなったあの日――あなた、どこにいましたか」
一瞬の間。
「さあ」
深黎の声は、いつも通りだった。
「覚えていません」
それだけだった。
桜桃は足を止めないまま、廊へ出た。
背後のざわめきが遠のいていく。
深黎のあの平坦な言葉だけが、桜桃の胸の奥にいつまでも残っていた。




