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狂桜華《きょうおうか》~亡国の姫は、名を捨て帝を目指す~  作者:
第二章 乾いた地と、雨の記憶

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第二話 雨乞いの舞姫

 桜桃は廊下を進み、ひとつの扉の前で足を止めた。

 控えめに叩くと、間を置かず声が返る。


「はい、どうぞ」


 穏やかな声だった。

 戸を開くと、清明は机に向かったまま書簡をめくっていた。視線だけをちらりと上げ、すぐに手元へ戻す。


「珍しい。どうぞ、座ってください」


 机の前の椅子を顎で示す。

 桜桃は一礼してから腰を下ろした。


「因州の件について、お伺いしたく」


 清明の手がわずかに止まる。

 それだけだった。すぐにまた書簡をめくり始める。


「……どこまでご覧になりましたか」


「報告の順を」


「そうですか」


 清明はようやく書簡から目を上げた。やがて、小さく頷く。


「では、もったいぶっていても仕方ありませんな」


 椅子の背にゆっくりともたれる。


「では、お話しいたしましょう。因州の件ですが――」


 そこから先の言葉は、穏やかな口調のままで、しかし重かった。

 予測はされていたこと。雨に頼る判断があったこと。本来はもっと早く動くべきであったこと。


「如月殿が健在であれば、太政官の最高位として、強引にでも最初に動かしたのはあの地でしょう。如月殿には、その強引さを押し通せるだけの地位と、何より民を想う熱量があった」


 清明が少し間を置く。


「ですが、組織の頭を失った今、その先を独断で決める者がおりません。私は左大弁として事態を把握しておりましたが、朝廷の予算を動かすような特例措置は、事務方の長たる私の権限で動かせる規模ではないのです。無理に通せば、それこそ二官八省の官僚たちが『不正』を疑って動きが止まる。先の書類の混乱が、その良い例です」


 言い訳ではない。ただの朝廷の構造だった。手順を重んじる清明だからこそ、制度を無視した暴走がどれほどの機能不全を招くかを知り尽くしている。


「結果として、私の立場からは『順を追う』以上のことができず、致命的な遅れが生じております」


 桜桃は静かにその言葉を受け止めた。清明が怠慢だったのではない。如月という大黒柱を失った官僚機構そのものが、硬直して麻痺しているのだ。


「……加えて」


 清明は茶碗を置く。


「因州へ至る水の流れに、不可解な点がございます。単なる干ばつとは思えぬ、人為的な滞りがあります」


 それ以上は踏み込まない。


「では」


 桜桃は顔を上げる。


「これから、どのように。このまま朝廷の仕組みが動き出すのを待つというのですか」


 清明は少し間を置いた。

 机上の書簡に視線を落とし、ぽつりと言う。


「……既存の仕組みが死んでいるのなら、それ以外の者に、動いてもらうしかあるまい」


 その視線が、真っ直ぐに桜桃を射抜いた。


 それだけだった。穏やかな顔は変わらない。だが桜桃には、その言葉がどれほどの重さを持っているか、十分に伝わった。


***


 呼び出しを受けたのは、政務室から戻ってすぐのことだった。


 案内の者についていくと、廊の奥、朝堂院からわずかに外れた静かな一室に通された。


 余計な装飾はなく、香も薄く、音も抑えられている。人の感情だけが薄く削ぎ落とされたような場所だった。


「よくいらっしゃいました」


 先に座っていた人物が、ゆるやかに目を細めた。

 神祇官伯・八意雅である。


 男でありながら輪郭のどこかが曖昧で、声は柔らかく、近づけば優しさを感じさせるのに、その距離は決して縮まらない。穏やかな微笑みが、整えられた静けさそのものだった。


「……お呼びでしょうか」


「ええ」


 雅は机上の巻紙に指先を滑らせながら答えた。


「宴での舞を見ました」


「……あれは、その、成り行きで」


「よい舞でしたよ」


「……ありがとうございます」


「憂いを帯びていましたね。珍しい形です」


 否定でも称賛でもない。ただ観察があるだけだった。


「それで」


 雅は穏やかに続ける。


「因州へ行っていただこうと思いまして」


 桜桃は少し間を置いた。頭の中で言葉を処理する。


「……今、ずいぶん話が飛びませんでしたか」


「そうですか? 私には一本の線に見えますが」


「どういう線ですか」


「舞がよかった。だから派遣する。至極まっすぐです」


「まっすぐではないと思います」


「そうですか」


 雅は微笑んだまま、少しも動じない。


「因州の干ばつは深刻です。水路は枯れ、民は疲弊しています。そこへ神祇官は舞姫を派遣します。この国がまだ見捨てていないと示すための形として」


「……つまり、雨乞いの舞を、ということですか」


「そうです」


「あの」


 桜桃は少し言葉を選んだ。


「政務室で、さっき誰かが『いっそ雨乞いでもするか』と言っていたのを聞いたのですが」


「ええ」


「冗談ではなかったのですか」


「もちろん本気ですよ。私はいつでも、神頼みには大真面目です」


「……そうですか」


 桜桃はしばらく黙った。目の前の男の、底のなさに目眩がしそうになる。


「あの、率直に聞いてもいいですか」


「どうぞ」


「舞で、本当に雨が降るんですか」


「降ったら素敵ですね」


「降らなかったら」


「民の心が、舞を見ている間だけは少し保たれます」


「……それだけですか」


「十分ではないですか」


 桜桃は言葉に詰まった。

 十分かどうかで言えば、十分ではない気がする。でも間違ってもいない気がする。


「……そんなことで雨が降ったら」


 思わず、お腹の底から言葉が出た。


「必死に治水をしている文官の皆さん、いりませんよね」


 雅はわずかに目を細めた。愉しそうに喉を鳴らす。


「あら、鋭い」


「違うんですか」


「神祇官は意味を作る仕事です。雨が降っても降らなくても、意味さえ正しければ仕事をしたことになります」


「…………」


「ですから、汗水垂らして働く文官の方々とは競合しません。職域は荒らしませんので、ご安心を」


 全然安心できなかったが、なぜか反論できなかった。


「あなたがよいでしょう」


「……理由を聞いても」


「舞がよかったので」


「それだけですか」


「それに加えて、お優しそうなので、頼めば断らなそうでしたから」


 桜桃は少し黙った。要するに、押し付けやすかったと言われている。


「……務まるか分かりません」


「務まるかどうかは関係ありません」


「え」


「務めるのです」


 あまりにも穏やかに、春の風のような声で言い切るので、桜桃はしばらく返す言葉を失った。


 反論したい気持ちはある。だが、どこから反論すればいいのか分からない。

 扉はある。帰ることもできる。


 でも。


 なぜか、それができない気がした。目の前の男の笑顔に、じわじわと外堀を埋められている。


「……分かりました」


「ありがとうございます」


 雅はにこやかに頷いた。


「では、道中の準備を」


 それだけを残して、視線は手元の巻紙へ戻っていく。

 完全に、会話が終わった。


 廊に出てから、桜桃はふと思った。

 『断らなそうだったので』と言われた。


 ――最初から自分がこうして引き受ける形に誘導されていたのだろう。


 振り返ると、部屋の扉は音もなく静かに閉まっている。

 やはり、最初から終わりが決まっていたような、不思議な煙に巻かれたような気がして、桜桃は小さくため息をついた。


 でも。


 ため息をついてから、気づいた。


 誘導されたとしても。煙に巻かれたとしても。

 因州のことは、気になっていた。


 報告書では、水が足りない。民が死んでいる。そう書いてあった。


 誰かが助けに行かなければならない。

 それは、ずっと思っていた。


 背中を押されただけで、足はもとから、そちらへ向いていた気がする。


 桜桃は廊の先を見た。


 煙に巻かれた、でいい。

 誰かが行かなくてはならないのだから。


***


 欄干の向こうに、遠くの空が見えた。

 青いはずの色が、どこか白く霞んでいる。熱が立ち上り、景色を歪ませていた。


「……乾いている」


 昊夜が小さく呟く。


 後ろに控えていた千弦が、一歩だけ進み出る。


「因州の件にございます。被害は広がっております。死者も……」


 言葉は最後まで続かなかった。それ以上を並べる意味がないと悟ったのだろう。


 昊夜は視線を動かさない。遠くを見たまま、静かに問う。


「水は」


「手配はされておりますが、到着が遅れております」


「足りると思うか」


 千弦は一瞬だけ間を置く。


「……難しいかと」


「だろうな」


 軽い調子だった。それ以上は聞かない。状況はすでに見えている。


 昊夜は欄干から視線を戻す。


「見に行くしかないだろう」


「……昊夜様は近衛このえでいらっしゃいますが」


「ああ」


「近衛中将がわざわざ出向くのですか」


「有事の際は出る」


「有事、でございますか」


「そうだ」


「……これは有事、でございますか」


「そうだ」


 千弦はしばらくの間、昊夜の顔を無表情で見つめた。


「……御身直々に、でございますか」


「他に適任がいるなら任せる」


「……そのような方は」


「いないだろう」


「おります」


 昊夜がわずかに目を向けると、千弦は表情を変えないまま言葉を続けた。


「六花さんが、神祇官の舞姫として因州へ派遣されることになりました」


 昊夜は何も言わなかった。


「……そうか」


「はい。先ほど正式に決まったと聞きました」


 昊夜は少しの間、再び欄干の外を見ていた。

 千弦は何も言わない。ただ、その横顔をわずかに観察している。


 やがて、昊夜が口を開く。


「やはり、見に行くしかないだろう」


「……そうですね」


 千弦は静かに頷いた。

 一拍置いて、問いを重ねる。


「だからですか」


「何が」


「六花さんが行くからですか」


 昊夜は千弦を見た。千弦はいつも通りの淡々とした顔をしている。


「関係ない」


「左様でございますか」


「ない」


「承知いたしました」


「……何か言いたそうだな」


「………………いいえ、何も」


 千弦は小さく一礼した。その顔には何もない。ただ、「間」が、ほんの少しだけ長かった。


 昊夜は少しの間千弦を見てから、不機嫌そうに視線を外した。


「救える数を、見誤るな。手配を急げ」


「承知いたしました」


 千弦はもう一度一礼して下がった。

 廊を歩き出しながら、千弦は誰にも気づかれないほど、ほんの小さく息を吐いた。


 表情は変わらない。

 ただ、主君の分かりやすい頑なさに、少しだけ思うところがあった。ただ、それだけだった。


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