第三話 因州へ
出発の準備が進む中、書簡を抱えて廊を歩いていると、貴族が出入りする中庭から聞き覚えのある声が飛んできた。
「六花ちゃん!」
花梨だった。椎香を連れて、こちらへ歩いてくるところだった。
「ちょうどよかった。因州への派遣、本当なの?」
「……はい。神祇官の舞姫として」
「もう!」
椎香が眉を寄せる。
「断ればよかったのに。雨乞いって、失敗したらこっちのせいにされるやつでしょ」
「分かってる」
「分かってて行くの?」
「分かってて行かないのは、もっと嫌だから」
椎香はしばらく黙ってから、ふうとため息をついた。
「……まあ、六花がそう言うなら」
「ありがとう」
「お礼はちゃんと帰ってきてから言って」
そこへ。
「因州なら、今年は九月の初旬まで雨が降らない可能性が八割以上あります」
三人が一斉に振り返った。
廊の壁際に、書類を小脇に抱えた男が立っていた。真顔だ。
「……お兄様、いつからいたの」
花梨が力の抜けた声で問う。
「最初からです」
「最初から」
「廊から見えたので、ついてきました」
「黙ってついてきたの?」
「話しかける頃合いが分からなかったので」
花梨がゆっくり目を閉じた。椎香はすでに遠い目をしている。
桜桃は、二人のやりとりを見ながら思い出した。宴の前に一度だけ見た顔だ。花梨の兄だ。
「……柳様」
桜桃が恐る恐る問い返す。
「八割というのは」
「今年の水不足の状況と、過去十年の降水記録を照らし合わせました。さらに現地からの報告と地形の特性を考慮すると、舞姫が雨乞いをしても降らない確率の方が高い。念のため申し上げておいた方がよいと思いまして」
沈黙が落ちた。
「……そういうこと、なんで言えるんだろう」
椎香がぽつりと言う。
「普通、黙ってない?」
「正確な情報を共有することが最善だと判断しました」
「共有しなくていい情報もあるの!!」
「そうなんですか」
柳が少し首を傾げた。本気で分からないらしい。
花梨が桜桃の腕をそっと掴んで、小声で言った。
「気にしないで。多分、心配して言ってる。これでも」
「そうです」
柳がすかさず返す。
「心配しているから申し上げました。行くのを止めたい気持ちはありますが、止めても無駄だと分かっているので言いません」
「……今、ものすごく複雑なことを言いましたね」
「そうですか」
椎香が額に手を当てる。
「……ねえ花梨、前から思ってたんだけど」
「何?」
「柳様って、清明様に似てない?」
花梨の手が止まった。
「……似てる?」
「なんか、こう。真顔でとんでもないことを言うところが」
「……言われてみれば」
花梨が少し遠い目をした。
「お祖父様もそういうところ、ありますよね」
「あるある。葛饅頭の一番大きいのを笑顔でさらっと取るとことか」
「それは違う気がするけど……でも確かに、雰囲気は」
「何の話をしているんですか」
柳が真顔のまま二人を見る。
「お兄様は少し黙っていてください」
花梨がきっぱりと言った。
「……承知しました」
柳が素直に口を閉じたので、椎香が吹き出した。
「ほら、そこも似てる。清明様もああいうふうにするっと引くよね」
桜桃は笑いをこらえながら、花梨を見た。
「花梨様って、清明様のお孫さんだったんですか」
「ええ」
花梨が少し苦笑する。
「祖父のことは……察していただければ」
「すごく穏やかな方だと思っていました」
「穏やかなんですよ、本当に」
花梨はそう言ったあと、少し考える顔をした。
「……穏やかなんですけど、何を考えているのかは全然分からないんですよね」
椎香がうんうんと頷く。
「にこにこしてるのに、核心ついてくるような感じがするよね」
「そうなの。でも怖いわけじゃなくて、なんか……」
「なんか見透かされてる気がするのよね」
花梨が少し驚いたように椎香を見た。
「……そうなの」
「六花もそう思わない?」
桜桃は少し考えた。
「……そうですね。でも、あの方がいると、足元が確かになる気がします」
三人でしばらく、廊の向こうを見た。
「清明様、今ごろ葛饅頭食べてそう」
椎香がぽつりと言う。
「絶対食べてる」
花梨が即答した。柳が静かに口を開く。
「今朝、食べていました」
「見てたんですか」
「政務室の前を通ったら聞こえました」
「……食べる音が聞こえるんですか」
「茶を飲む音です。あの音で分かります」
また沈黙が落ちた。
「柳様」
「はい」
「やっぱり似てる」
「そうですか」
柳は少しだけ首を傾げた。どこか、悪くはなさそうな顔で。
花梨がくすりと笑って、桜桃の方を向いた。
「六花ちゃん。無事に帰ってきたら、またこうして話しましょう。お兄様も含めて」
「え、俺も?」
柳が驚いたように目を丸くする。
「当然でしょう」
「……それは、光栄です」
珍しく少しだけ、柳の声が柔らかくなった。
「……ありがとうございます」
「帰ってから言って」と椎香。
「お気をつけて」と柳。
「待ってるわね」と花梨。
三者三様で、桜桃は今度こそ笑った。
廻廊の柱の影に、ひとりの姿がある。
清明だった。こちらに向かう足音に気づいたのか、静かに顔を上げる。
桜桃はその佇まいに、そっと一礼した。
「……行って参ります」
報告の形を取りながら、自らの覚悟を刻むように告げる。
清明は、すぐには応じなかった。ただ、すべてを見透かすような穏やかな瞳で、しばらく桜桃をじっと見つめている。
やがて、ゆっくりと、静かに口を開いた。
「怖くないわけでは、ありませんね」
それは問いではなかった。
否定を許さぬためでも、確かめるためでもなく、ただ彼女が一人で抱え込んでいる震えを、そのままそこに置いてやり、分かち合うための声音だった。
桜桃は、答えなかった。否定もできなかった。
その代わり、張り詰めていた胸の奥が、脆くもわずかに緩んでいく。
さきほど無理やり押さえつけたはずの恐怖や孤独が、一気に形を取りそうになる。ほんの少しだけ、視界が滲んだ。
だが、涙がこぼれる前にぐっと顎を引き、呼吸を整える。
清明はそれ以上、余計な慰めも、引き止める言葉も口にしない。ただ、彼女の覚悟のすべてをそのまま正面から受け止め、やがて、静かに一歩身を引いた。
「ご無事で」
落とされたのは、短い言葉だった。けれどそこには、形なき祈りのような重みがあった。
桜桃は、ゆっくりと顔を上げる。
「行ってまいります」
深く一礼し、今度こそ背を向けた。
歩き出す足に、もう迷いはない。
――自分を心配する者は、もう誰もいなくなったのだと思っていた。
けれど、そうではなかった。
背中に受ける清明の眼差しと、中庭の三人の温もりが、独りではないのだと静かに教えてくれていた。
廊を抜け、渡り廊へ出たとき、桜桃は少しだけ歩みを緩めた。
ここ数日、この道を使うのをやめていた。
近衛の詰所に近い。昊夜と鉢合わせする可能性がある。そう思って、わざわざ遠回りをしていた。
今日は構わない。しばらくここを歩くことはないのだから。
そう思いながら歩いていると、廊の向こうから人が歩いて来た。
桜桃は一瞬だけ足が止まった。
昊夜だった。書類を手にした千弦を連れ、こちらへ向かって歩いている。まだ距離がある。視線は手元の何かに落ちていて、桜桃には気づいていない。
(……行こう)
頭で思うより先に、体が横の小廊へ逸れていた。
角を曲がって、壁に背を預ける。
心臓が、少し速い。足首のせいでも、暑さのせいでもない。
(……馬鹿みたい)
誰に言うわけでもなく、胸の中で呟く。
もう因州へ行く。この宮廷を出る。しばらく会うことも、会わないようにすることもなくなる。それなのに。
廊の向こうで、衣の裾が風を含む音がした。通り過ぎていく気配。足音が、遠ざかっていく。
桜桃はしばらく、そのまま壁に背をつけていた。
やがて、ゆっくりと息を吐き、前を向いた。
***
門の外は、強い光に満ちていた。
白く乾いた地面が、照り返しを上げる。
風はあるが、熱を運ぶだけで、軽さはない。
朝凪は、門番として定位置に立っていた。
(因州、か)
門の前では、荷を積んだ馬車が出入りしている。いつも通りの光景だった。
朝凪の中で、静かに思考が動く。
雅という神祇官長官に呼び出されたのを確認したのは、少し前のことだ。
戻ってきたときの顔が、行くときより少し困っていた。何かを引き受けたらしい。
その翌日には清明と廊下で話していた。ほんの僅かな時間だった。覚悟を固めている顔だった。
そして、因州行きということを耳にした。
(……因州は遠い)
朝凪は門の外へ視線を向けた。
街道が続いている。その先に、因州がある。
干ばつの報告は朝廷中に出回っている。
水がない。人が死んでいる。もっと悪くなるかもしれない。
(そこへ、一人で行く)
近づくつもりはなかった。
今もそのつもりは変わっていない。あの姿を壊してはいけない。六花という形を、守らなければいけない。
だから門に立っていた。
(だが)
水がない土地だ。
人が倒れている土地だ。
侍女一人が行って、どうなる。舞を舞って、何が変わる。
朝凪はしばらく門の外を見ていた。
馬車が一台、通り過ぎる。風が吹く。
「――行くか」
声に出たのは、自分でも気づかなかった。
近づかず、見える位置に立つために門番になったのだ。
因州まで見える位置というのは、因州にいるしかない。
(……それだけのことだ)
朝凪は静かに踵を返した。
次の当番に引き継ぎの文を書かなければならない。
門番を続けている理由が一つ減ったので、辞めどきでもあった。




