第四話 郷司会議
重厚な扉の内側には、静かな緊張が満ちていた。
四大貴族当主・郷司の会議の間。
この会議はこの国の地方支配の仕組みを体現した場である。
郷司とは、各地に代々根を張る貴族や豪族が世襲で任じられる地方官のことで、名目上は中央から派遣された州司の下に置かれる。
しかし実際の地方行政は郷司が取り仕切っており、土地の実情も人心も郷司が握っていた。
その郷司の中でも、州都を治める者は格が違う。
そこには四大貴族の当主が就くと決まっており、会議の間に集まるのはその面々または代理の者である。
上座は空いていた。帝は臥せっている。それでも、会議は開かれる。
遅れて、一人が入る。
雲英だった。纏う文官服の色が変わっていた。藤色の地に、袖には右大臣の紋。
つい先頃まではなかった色だ。それだけで、この場の誰もが何かを察する。その姿を見て、低く笑う声が落ちた。
「如月に代わり、新参の大臣のおでましか」
玄英銀牙が、肘をついたまま口を開く。束ねた黒髪はくせ毛で、きっちり整える気がないらしく、後れ毛が顎のあたりまで落ちている。羽織の表は落ち着いた色だが、裏地だけが目を引くほど鮮やかだった。
雲英は何も返さない。ただ静かに席に着く。
すぐに別の声が響いた。
「我ら白蔵家は、如月殿が殺されて黙っているつもりはない」
白蔵彪だった。四十に届くかという年頃の男で、華やかさはないが場を制する静けさがある。この場で最も地に足のついた立ち方をしていた。
「速やかに犯人を捕らえ、この場に引き出せ。でなければ――帝の首を刎ねる」
その言葉に、一瞬空気が凍る。
「不敬だぞ、白蔵彪」
朱明暁の声が静かに割り込む。
直垂の武官服をきっちりと纏い、髪を後ろへ撫でつけている。背が高く、立っているだけで場の空気を区切るような男だった。
この男は郷司ではなく、代理で出席している。
彪は一切ひるまない。
「如月殿のことだけではない。因州は水不足だ。今年を越えられるかも怪しい。それを知りながら朝廷が何もせぬというのなら――我らも帝を見捨てる。本日をもって、郷司の任を降りる」
玄英銀牙が鼻で笑う。
「さすがだな。裏切りは白蔵家のお家芸か」
「黙れ」
短く返す。空気が張り詰める。
そのときだった。扉が開いた。
ほとんど音がしなかった。
遅れて入ってきたのは清明だった。
部屋に入りながら、場を見渡す。
「お待たせして申し訳ありませんな。少し足が遅くて」
誰も答えない。
清明はそのまま自分の席へ向かい、腰を下ろす。
机の上に用意されていた茶を一口飲んだ。
「……随分と、賑やかだったようですな」
「今さら来て、のんきなことを言うな」
彪が短く返す。
「まあまあ」
清明は穏やかに微笑んだまま、ゆっくりと書類に目を落とす。
「因州への水の供給について、いまだ安定していないようですが」
「分かっているなら早く動け」
「どの段階で差が生じているか、現状を教えていただけますか」
雲英が静かに書類を揃えながら答える。
「天澄からの輸送記録上は正常です。ただし因州側の受領量には明確な減少が見られます」
清明はふむ、と頷く。
朝廷軍の大将兼兵部卿の暁が口を開いた。
「輸送路の安全確保は維持している。一部区間で通行制限をしているが、治安維持の判断だ」
「水路そのものは」
「維持されている。ただし流通区間の一部で運用を停止している」
「誰の判断で」
「現場判断だ」
清明は少しだけ間を置いた。
机上の書類をめくる音だけが続き、やがてゆっくりと顔を上げた。
笑みが、ない。
先ほどまでの穏やかな表情が、きれいさっぱり消えていた。
「水路は連続しています。部分的な停止は、本来あり得ない構造です」
声音は変わらない。柔らかいままだ。
だが、その目が違った。
暁の視線がわずかに揺れる。
「地形の問題や治安状況により、迂回と封鎖を――」
「つまり」
清明が静かに遮る。
「水は止まっているのではなく、"流れ方を変えられている"、ということですかな」
誰も否定しない。誰も肯定しない。
清明はしばらく地図を見ていた。
線としての水路ではなく、制御される流れとして見ている目だった。
やがて顔を上げる。
「ならば、備州から水を送りましょう」
備州は玄英家の統治領だ。
玄英銀牙の口の端が、わずかに動いた。笑ったのか、それとも別の何かか、判別のつかない動きだった。
清明はその視線を受け、穏やかに微笑む。いつもの顔だ。
「銀牙殿」
「……何だ」
「手配をお願いできますか」
命令だった。口調は柔らかかったが、拒否を前提としていない。
場の空気が、わずかに変わる。
動きが生まれる。
止まっていたものが、再び流れ始めていた。
会議の間を出た清明は、足を止めなかった。
廊は長く、静かだった。
背後で、もう一つの足音が続いてくる。
清明は振り返らない。ただ、少し歩みを緩めた。
「彪殿」
先に声をかけたのは清明だった。
彪が並ぶ。
「舞姫が派遣されると聞きました」
「神祇官の判断ですな」
「雨乞いで水が出るなら、こちらは最初から苦労していない」
声は平坦だった。怒っているわけではない。ただ、事実を言っている。
「そのために派遣するわけではありませんよ」
「では何のために」
「民の心が保てますでしょう」
「……保ったところで、水は増えない」
「増えませんな」
清明はにこやかに頷いた。
彪はわずかに眉を寄せる。
「それで足りると?」
「足りません」
「では意味がない」
「意味はあります」
清明は歩みを止めずに続ける。
「崩れるのが一日遅れれば、その分だけ手が届く命が増えます。舞姫はそのための一日を作るものです」
「一日で何ができる」
「備州からの水が届くのに、あと何日かかりますか」
彪は答えない。計算しているのだろう。
清明は柔らかく微笑んだまま待っている。
やがて彪が静かに言った。
「……四日から五日、というところだ」
「ならば十分ではないですか」
廊の先で、光が差し込んでいる。
彪はしばらく前を向いたまま何も言わなかった。
「……舞姫は誰を送る」
「六花、という侍女です。宴で舞った娘です」
「侍女が」
「ええ」
「場違いではないか」
「雅殿がよいと言ったのですから、きっとよいのでしょう」
「その根拠は」
「あの方の目は確かですよ。私は信用しています」
彪は短く息を吐いた。
納得したわけではないらしい。けれど、それ以上は言わない。
「……水は必ず届かせろ」
「もちろんです」
「舞で誤魔化して終わり、というのは許さない」
「それはこちらも同じ気持ちです」
清明は穏やかに笑った。
彪はその顔を一度だけ見て、先に廊を曲がっていった。
その背中を見送りながら、清明は小さく息を吐く。
笑みは変わらない。
だが、その目だけが、わずかに遠くを見ていた。
***
重い扉が、軋む音とともに開いた。
差し込む光に、男はゆっくりと目を細めた。
しばらく、その光を見ていた。
眩しいわけではない。ただ、久しぶりだった。
立ち上がる。足元は問題ない。思ったより体は動く。
部屋の隅に、いくつかの道具が置かれていた。
金属の管、布、木片。雑多に見えるが、必要なものは揃っている。
誰かが用意したものだ。
男はそれを一つずつ手に取り、確かめる。
指先が、自然と動き始めた。
組み合わせる。
試しては、外し、また組む。
考えることは、ずっとしていた。
手が追いつくかだけだ。
やがて、粗い形ができあがる。
男はそれを見て、小さく息を吐いた。
「……まあ、これでいい」
誰にともなく呟く。完成ではないが、動く。
なら、今はそれでいい。
***
一行は、因州の白砂の街へ向かう道の途中、小さな町で足を止めた。
休息と補給のためだったが、馬車を降りてみると想像以上に静かだった。
もとは往来の要所だったのだろう、立派な建物は残っているが活気が完全に抜けている。水場は干上がり、開いている店も少ない。
神祇官の従者たちが手際よく馬の世話をする傍ら、桜桃も馬車を降りて足を伸ばした。
「舞姫様」
後ろから声がかかる。神祇官の従者の一人、東城瑛だ。几帳面な男で、出発前も荷の数を三回確認していた。
「あまり遠くへは行かないでください。昊夜様の一行が、すでにこの先に入られているようなので」
桜桃の足が、ぴたりと止まった。心臓が嫌な音を立てて跳ねる。
「……昊夜様が?」
「はい。現地視察とのことで、ほぼ同じ時期に都を出立されたようです」
「そう、なんですね」
「はい」
瑛はそのまま帳面を開いた。
「念のため、水の残量も確認しておきます」
「……ありがとうございます」
「舞姫様」
「はい」
「気になりますか」
「気になりません」
「そうですか」
瑛は帳面に何かを書き込みながら、至って真面目な顔で続けた。
「因州はさらに暑いので、お気をつけください」
「……分かりました」
「昊夜様の一行と合流される場面もあるかもしれませんが、その際も体調管理を優先してください」
「合流はしません」
「はあ」
「するつもりは、全くないです」
「はあ」
瑛は帳面から顔を上げた。
(どうしてあの人がここに……!?)
都から離れた因州へ来れば、しばらくはあの鋭い目から逃れられると思っていたのに。
あのすべてを見透かすような眼差しが脳裏をよぎる。
もしこの旅先で鉢合わせて、また距離を詰められたら、今度こそボロを出してすべてが破綻してしまうかもしれない。
あの端正な顔を思い出して胸がドキドキとするのと、正体がバレる恐怖の冷や汗とで、桜桃はひどく落ち着かない心地になった。
「分かりました。では、日除けをどうぞ」
瑛が袖から、綺麗に折り畳んだ布を取り出す。
「……用意がいいですね」
「こういうこともあろうかと」
一体どういうこともあろうと思っていたのか、桜桃は少し突っ込みたくなったが、これ以上会話を続けると自分の動揺が几帳面な彼にまで伝わりそうでやめておいた。
布を受け取って、頭の中のざわめきを隠すように、少し熱を帯びた通りを足早に歩き始めた。
人はいる。ただ、動きが重い。立ち止まったまま、時間だけが過ぎているような光景だった。
「ここも、だいぶ厳しいですね」
瑛が帳面を持ったまま追いついてきた。
「あの、遠くへ行かないようにと申し上げたのですが」
「少しだけです」
「舞姫様が倒れると困りますので。水はお持ちですか」
「持っています」
「よかったです」
――ザッ、と砂を踏む足音が近づいてきたのは、そのときだった。
顔を上げて、その人物を捉えた桜桃の目が、大きく見開かれた。
そこに立っていたのは、まぎれもない昊夜だった。




