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狂桜華《きょうおうか》~亡国の姫は、名を捨て帝を目指す~  作者:
第二章 乾いた地と、雨の記憶

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第五話 白砂の街


 昊夜の三歩後ろに千弦を従えている。

 まさか、先ほど噂に聞いたばかりの男が、今この瞬間に目の前に現れるなんて思ってもみなかった。


 近衛の軍装を纏っていた。毅然とした姿。朝凪が以前着ていたものと同じ衣。

 心臓が、また鳴った。


「……六花」


 声は静かだった。


「やはり、お前だったか。都を出たと聞いていたが、因州への道中だったのだな」


「こ、昊夜様……。お久しぶり、です」


 緊張のあまり声が震えてしまう。昊夜はそんな桜桃を一歩、距離を詰めて見つめた。


 大きな身体がすぐ近くにあるだけで、曲がり角でぶつかった時のことが蘇って、桜桃の心臓はうるさいほどに跳ね上がった。


「顔が赤いな。……ここの暑さにやられたか」


 そう言って、昊夜は躊躇いなく大きな手を伸ばした。

 そっと桜桃の額に触れた。


「……熱はないようだが。無理はするな。お前はこれから、この地で舞う大事な役目があるのだろう」


「っ、はい……。大丈夫、です……」


 至近距離で見つめ合う。正体を怪しまれている恐怖なのか、それとも別の感情のせいなのか、頭の中が真っ白になっていく。


 真っ直ぐな彼の気遣いが、あまりにも優しくて、桜桃は息をすることさえ忘れてしまいそうだった。


 そのとき。

 緊迫した空気を破るように、すぐ近くの崩れかけの壁の影から、小さく掠れた声が聞こえた。


「う……ぁ……」


 はっとして二人が視線を向けると、そこには座り込んでいる小さな影があった。


 子供だった。まだ幼い。服は汚れ、唇は白くひび割れ、呼吸も浅い。動けなくなっている。


「……っ、大丈夫!?」


 桜桃は昊夜の前であることを忘れ、慌ててその場に膝をついた。子供の身体は驚くほど軽かった。抱き起こすと、骨ばった感触がそのまま腕に伝わる。


「薬箱を取ってきます」


 瑛が、踵を返した。


 桜桃は急いで水筒の紐を解き、少しだけ口に含ませた。こぼれないように、ゆっくりと、慎重に。ごくりと喉が動き、わずかだが、確かに飲み込んでいる。


「もう少しだけね。ゆっくり、大丈夫だから」


 桜桃が必死に声をかけていると、後ろから、静かな影が落ちた。

 昊夜が、その深い目をわずかに細めて、腕の中の子供を見下ろしていた。


「……やめておけ」


 その声は、ひどく静かだった。怒っているのではなく、悲しいほどに淡々と、桜桃に現実を諭すような響きだった。


「なぜ、ですか……。この子は、今にも死んでしまいそうなのに……」


「その子を今救って、その後はどうする。同じように飢えて倒れる子は、この先いくらでもいる。一人拾って、それで満足か」


「満足など、していません!」


 桜桃は強く首を振る。けれど、言葉が続かない。


「全ては救えない」


「……分かってます」


「救うなら最後まで面倒を見ろ。出来ないなら、最初から手を出すな」


 それは、正しい言葉だった。分かっている。その通りだ。今ここで一時しのぎの水を飲ませたところで、この子は明日どこへ行くのか。

 今の自分に、一人の人間の人生を背負うことなど出来るはずがない。


 それでも。

 あまりに軽くて、生きている熱さえほとんど感じられないこの冷たい手を、今放せばどうなるかは分かっている。


「……分かっています」


 顔を上げ、すぐ近くにある昊夜の目を、まっすぐに見据えた。


「でも、目の前で倒れているこの子を、今は見過ごせません」


 昊夜は何も言わなかった。ただ、その深い目が、わずかに色を変えた。


「勝手にしろ」


 短い言葉を残し、昊夜は踵を返した。数歩進んだところで、彼は後ろを歩く千弦に、低く声を落とす。


「……余計なことはするな」


「はい、分かっております」


 昊夜はそのまま、長い髪を揺らして歩き去っていった。

 だが、千弦は少しだけその場に残り、桜桃の方へ向き直った。


「気になさらなくていいですよ」


 いつも通りの、さらりとした淡々たる声だった。


「あの方が本当に止める気があれば、あなたを引っ張ってでももう動いています。ああやって『勝手にしろ』とおっしゃる時は、止める気がない時です」


 それだけを密やかに告げて、千弦もまた、主君の後を追うように歩き去っていった。


 桜桃は去りゆく二人の背中を呆然と見送りながら、ぎゅっと腕の中の子供を抱き直した。


 相変わらず冷たさはあるのに、けれどどこか掴めない。言葉の切り口は鋭いのに、なぜか「勝手にしろ」の声が、そして先ほど額に触れたあの手の温もりが、妙に胸に残った。


(……この人は)


 宴の夜も、今日も。会うたびに何かを置いていく。名前だけ知っていた人が、少しずつ輪郭を持ち始めている気がした。

 それが何を意味するのか、今の桜桃にはまだ分からなかった。


 瑛が薬箱を抱えて戻ってきた。


「お待たせしました。預けられる場所、近くで見つけてきました」


「……もう?」


「はい。この先の建物に、同じような子が何人かいるようで。そちらに」


 桜桃は少し黙った。

 同じような子が、何人か。


「……お願いします」


 子供をそっと瑛に預ける。

 瑛は慣れた手つきで受け取り、建物の方へ歩いていった。

 あっさりしていた。あまりにも、あっさりしていた。


 桜桃はしばらく、その背中を見ていた。


 預けた。それだけだ。


 この子が今夜どうなるか、明日どうなるか、自分には分からない。顔も名前も知らないまま、誰かに渡しただけだ。


 昊夜の言葉が、ゆっくりと戻ってくる。


『全ては救えない』


『救うなら、最後まで面倒を見ろ』


 そうだ。その通りだ。

 分かっていた。それでも手を伸ばした。


「……正しかったのかな」


 声にならなかった。

 乾いた風が、通りを抜けていく。

 答える者は、いない。


***


 白砂の街に入った瞬間、空気が変わった。


 道は乾き、かつて水を運んでいたはずの流路は傷跡のように大地に残っている。風は吹いているのに流れがない。


「ここまで、か」


 誰かの呟きが、車輪の音に消えた。

 馬車が止まる。


 桜桃は一度だけ息を整え、地へ足を下ろした。


 踏みしめても応答しない土だった。井戸の前、崩れかけた水路の跡。誰もこちらを歓迎してはいない。ただ、何かが来たことを見ているだけだった。 


 この土地はもう、待つ力すら残っていない。


 桜桃は視線を前に戻し、白砂の中へと足を踏み出した。


 街の入口に、一人の男が立っていた。


 腕を組み、こちらを見ている。出迎えというより、値踏みしているような立ち方だった。

 白蔵彪だった。


「……来たか」


 第一声がそれだった。


 歓迎ではない。だが、拒んでもいない。ただ現実として受け取っている、という声だった。


 桜桃は一礼する。


「神祇官より参りました」


「知っている」


 彪は一行をざっと見渡した。人数、荷の量、馬の状態。すべてを一度で確かめているような目だった。


「少ないな」


「申し訳ありません」


「お前に謝られても困る」


 短く言って、彪は視線を桜桃に戻す。


「舞姫を寄越すというから、どんな者が来るかと思っていた」


「……期待外れでしたか」


「まだ分からない」


 正直な答えだった。


「雨乞いで水が出るなら、最初から苦労していない。そこは理解しているか」


「はい」


「ならいい」


 彪は踵を返しかけて、少し間を置いた。


「民の気持ちが保てれば、それでいい。それだけでも、今は十分だ」


「尽力します」


「結果を見る」


 それだけ言って歩き出す。桜桃は後に続こうとした。


 そのとき、神祇官の荷が崩れた。

 積み直そうとした瑛が荷を抱えたまま足をもつれさせ、書簡の束が地面に散らばる。


「す、すみません……!」


 桜桃もしゃがもうとした、その瞬間。

 風のように割り込んできた影があった。


 小さい。背は桜桃より頭一つ低い。だが動きに迷いがない。


 散らばった書簡をあっという間にまとめ、立ち上がって桜桃に差し出す。


「ほら」


 見上げてくる目が、まっすぐだった。

 年は十三かそこらだろう。体は細いが、立ち方だけが妙に据わっている。


「……ありがとう」


「気をつけろよ」


 そっけない言い方だった。それでも視線は外さない。


「あんたが舞姫か」


「そうです」


 少年はしばらく桜桃を見た。


「雨、降らせられるか」


「それを目指して参りました」


「目指す、ってことは確実じゃないんだな」


「……正直に言えば、そうです」


 少年は少し考えてから言った。


「まあ、いい」


「いいんですか」


「降らなくても、来てくれた方がましだ。誰も来ないよりは」


 大人びたことを言う琥珀に、桜桃は思わず視線を向けた。

 彪が踵を返して戻ってくる。


「琥珀、またそこにいたのか」


「いたら悪いか」


「悪くはない」


 彪は桜桃を見て、琥珀を紹介する。


「うちで名前だけつけてやった子だ。因州に住んでいて身寄りがない。琥珀という」


「白虎から取った名前だろ」


 琥珀が補足する。


「因州のしるしと、白蔵の家紋が白虎だから。彪がつけた」


「お前が気に入ったんだろう」


「彪が先に言い出した」


「お前が選んだ」


「……まあ」


 琥珀は少しだけ恥ずかしそうに視線を逸らした。

 桜桃は自然と笑みが出るのを感じた。


「よろしく、琥珀」


 琥珀はまた桜桃を見た。


「……ああ」


 短い返事。でも今度は、最初より少しだけ柔らかかった。


 街の中を歩いていると、人だかりがあった。


 野次馬というほどではないが、何人かが足を止めて同じ方向を見ている。

 桜桃も自然と視線を向けた。


 路地の入口に、一人の男が座り込んでいた。

 前には足をひきずっている老人がいる。男は特に声もかけず、老人の足元に屈んで、黙って草鞋の紐を結び直していた。


 それだけだった。


 頼まれた様子も礼を求める様子もない。結び終わると、何事もなかったように立ち上がり、老人の背中を軽く叩く。老人が頭を下げる。男は手を振った。


「あれが刹那だ」


 隣で声がした。琥珀だった。いつの間にか並んでいる。


「知り合いなの?」


「まあな。因州をうろうろしてる。ああいうことをよくやってる、誰にも頼まれてないのに」


「理由は聞いた?」


「暇だっただけだって言う」


 桜桃はまた男を見た。刹那はもう別の方向を歩いている。街の様子を確かめながら、特に急がず。

そのとき、刹那が振り返った。


 視線が桜桃の装いを一度だけ確かめ、それから琥珀を見る。


「……また連れてきたのか」


「違う。向こうから来た」


「神祇官の舞姫か」


「はい。派遣されて参りました」


「雨乞いに」


「……はい」


 刹那は少し黙って、桜桃の喉元から、土埃で汚れた足先までをゆっくりと見た。警戒でも敵意でもない、ただ確かめるような目だった。


「雨が降るといいな」


「……はい」


 刹那は乾いた街の方へ視線を戻しながら、軽く言う。


「まあ、来てくれたのはいいことだ。目の保養になるし舞姫なんざそうそう拝めないからな」


 そのまま歩き出しかけて、ふと足を止めた。


「舞姫さん、名前は」


「六花と申します」


「六花ね」


 刹那は一度だけ繰り返した。それから、何でもないように続けた。


「じゃあ、姫だな」


「……姫?」


「舞姫さん、は長い。姫でいいだろ」


 桜桃は少しだけ間を置いた。


 姫、という呼び方は知っている。

 宮中では何度も呼ばれた。けれどそこにあったのは、距離と形式と、時に飾りとしての意味だった。


 立場や役割を示す言葉。


 今のは違う。


 理由も敬意もなく、ただ呼びやすいから、そう呼ぶ。それだけの、軽い言葉だった。


「……はい」


 思ったより素直に答えていた。

 刹那はそれを聞いて、特に何も言わず歩き出した。


 琥珀が桜桃を見上げる。


「あんな感じの人だ」


「そうね」


「悪い人じゃない」


 少し間を置いて、付け加える。


「たぶん」


 桜桃は刹那の背中を見送った。


 姫、という言葉が、まだ耳の奥に残っている。

 何の重さもない、軽い呼び方だった。

 なのになぜか、それが心地よかった。


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