第五話 白砂の街
昊夜の三歩後ろに千弦を従えている。
まさか、先ほど噂に聞いたばかりの男が、今この瞬間に目の前に現れるなんて思ってもみなかった。
桜桃の護衛に当たっていた近衛たちは、その姿を認めるや否や、一斉に姿勢を正した。右手が寸分違わず刀の柄へ添えられる。
「近衛中将」
深く一礼する。
昊夜は小さく頷くだけで、そのまま桜桃へ歩み寄った。
「……六花」
昊夜の声は静かだった。
「やはり、お前だったか。都を出たと聞いていたが、因州への道中だったのだな」
「こ、昊夜様……。お久しぶり、です」
緊張のあまり声が震えてしまう。昊夜はそんな桜桃を一歩、距離を詰めて見つめた。
大きな身体がすぐ近くにあるだけで、曲がり角でぶつかった時のことが蘇って、桜桃の心臓はうるさいほどに跳ね上がった。
「顔が赤いな。……ここの暑さにやられたか」
そう言って、昊夜は躊躇いなく大きな手を伸ばした。
そっと桜桃の額に触れた。
「……熱はないようだが。無理はするな。お前はこれから、この地で舞う大事な役目があるのだろう」
「っ、はい……。大丈夫、です……」
至近距離で見つめ合う。正体を怪しまれている恐怖なのか、それとも別の感情のせいなのか、頭の中が真っ白になっていく。
真っ直ぐな彼の気遣いが、あまりにも優しくて、桜桃は息をすることさえ忘れてしまいそうだった。
そのとき。
緊迫した空気を破るように、すぐ近くの崩れかけの壁の影から、小さく掠れた声が聞こえた。
「う……ぁ……」
はっとして二人が視線を向けると、そこには座り込んでいる小さな影があった。
子供だった。まだ幼い。服は汚れ、唇は白くひび割れ、呼吸も浅い。動けなくなっている。
「……っ、大丈夫!?」
桜桃は昊夜の前であることを忘れ、慌ててその場に膝をついた。子供の身体は驚くほど軽かった。抱き起こすと、骨ばった感触がそのまま腕に伝わる。
「薬箱を取ってきます」
瑛が、踵を返した。
桜桃は急いで水筒の紐を解き、少しだけ口に含ませた。こぼれないように、ゆっくりと、慎重に。ごくりと喉が動き、わずかだが、確かに飲み込んでいる。
「もう少しだけね。ゆっくり、大丈夫だから」
桜桃が必死に声をかけていると、後ろから、静かな影が落ちた。
昊夜が、その深い目をわずかに細めて、腕の中の子供を見下ろしていた。
「……やめておけ」
その声は、ひどく静かだった。怒っているのではなく、悲しいほどに淡々と、桜桃に現実を諭すような響きだった。
「なぜ、ですか……。この子は、今にも死んでしまいそうなのに……」
「その子を今救って、その後はどうする。同じように飢えて倒れる子は、この先いくらでもいる。一人拾って、それで満足か」
「満足など、していません!」
桜桃は強く首を振る。けれど、言葉が続かない。
「全ては救えない」
「……分かってます」
「救うなら最後まで面倒を見ろ。出来ないなら、最初から手を出すな」
それは、正しい言葉だった。分かっている。その通りだ。今ここで一時しのぎの水を飲ませたところで、この子は明日どこへ行くのか。
今の自分に、一人の人間の人生を背負うことなど出来るはずがない。
それでも。
あまりに軽くて、生きている熱さえほとんど感じられないこの冷たい手を、今放せばどうなるかは分かっている。
「……分かっています」
顔を上げ、すぐ近くにある昊夜の目を、まっすぐに見据えた。
「でも、目の前で倒れているこの子を、今は見過ごせません」
昊夜は何も言わなかった。ただ、その深い目が、わずかに色を変えた。
「勝手にしろ」
短い言葉を残し、昊夜は踵を返した。数歩進んだところで、彼は後ろを歩く千弦に、低く声を落とす。
「……余計なことはするな」
「はい、分かっております」
昊夜はそのまま、長い髪を揺らして歩き去っていった。
だが、千弦は少しだけその場に残り、桜桃の方へ向き直った。
「気になさらなくていいですよ」
いつも通りの、さらりとした淡々たる声だった。
「あの方が本当に止める気があれば、あなたを引っ張ってでももう動いています。ああやって『勝手にしろ』とおっしゃる時は、止める気がない時です」
それだけを密やかに告げて、千弦もまた、主君の後を追うように歩き去っていった。
桜桃は去りゆく二人の背中を呆然と見送りながら、ぎゅっと腕の中の子供を抱き直した。
相変わらず冷たさはあるのに、けれどどこか掴めない。言葉の切り口は鋭いのに、なぜか「勝手にしろ」の声が、そして先ほど額に触れたあの手の温もりが、妙に胸に残った。
(……この人は)
宴の夜も、今日も。会うたびに何かを置いていく。名前だけ知っていた人が、少しずつ輪郭を持ち始めている気がした。
それが何を意味するのか、今の桜桃にはまだ分からなかった。
瑛が薬箱を抱えて戻ってきた。
「お待たせしました。預けられる場所、近くで見つけてきました」
「……もう?」
「はい。この先の建物に、同じような子が何人かいるようで。そちらに」
桜桃は少し黙った。
同じような子が、何人か。
「……お願いします」
子供をそっと瑛に預ける。
瑛は慣れた手つきで受け取り、建物の方へ歩いていった。
あっさりしていた。あまりにも、あっさりしていた。
桜桃はしばらく、その背中を見ていた。
預けた。それだけだ。
この子が今夜どうなるか、明日どうなるか、自分には分からない。顔も名前も知らないまま、誰かに渡しただけだ。
昊夜の言葉が、ゆっくりと戻ってくる。
『全ては救えない』
『救うなら、最後まで面倒を見ろ』
そうだ。その通りだ。
分かっていた。それでも手を伸ばした。
「……正しかったのかな」
声にならなかった。
乾いた風が、通りを抜けていく。
答える者は、いない。
***
白砂の街に入った瞬間、空気が変わった。
道は乾き切って白く、かつて豊かな水を運んでいたはずの水路の跡が生々しい傷跡のように大地に残っている。風は吹いているのに、湿り気も流れも感じられない。
「ここまで、か」
誰かの呟きが、車輪の軋む音にかき消されるようにして消えた。
馬車が、重い音を立てて止まる。
桜桃は一度だけ深く息を整え、乾き切った大地へと足を下ろした。
踏みしめても微かな手応えすら返してこない土だった。井戸の前、崩れかけた水路の脇。行き交う村人たちは誰一人としてこちらを歓迎しようとはせず、ただ、何者かがやって来たという現実だけを虚ろな目で眺めている。
この土地にはもう、誰かを迎える力すら残っていないのだ。
桜桃は前へと視線を戻し、深い白砂の中へとしっかりと足を踏み出した。
街の入口には、一人の男が静かに立っていた。
腕を組み、冷徹にこちらを見据えている。歓迎というよりは、得体の知れない来訪者の価値を値踏みしているような佇まいだった。
白蔵彪――その人だった。
「……来たか」
絞り出すような、しかし揺るぎない第一声だった。
拒絶でもなければ、歓迎でもない。ただ目の前の現実を淡々と受け止めている、そんな響きのある声だった。
桜桃は静かに一礼する。
「神祇官より参りました」
「知っている」
彪は一行をざっと見渡した。人数、荷の量、馬の状態。そのすべてを一度の視線で値踏みするように捉える。
「少ないな」
「……申し訳ありません」
「お前に謝られても困る」
短く言い捨ててから、彪は再び視線を桜桃に戻した。
「舞姫を寄越すというから、いったいどんな大層な者が来るかと思っていたが」
「……期待外れでしたか」
「まだ分からない」
飾らない、正直な答えだった。
「雨乞いで水が湧き出るなら、最初からこんな苦労はしていない。そのくらいは理解しているか」
「はい」
「ならいい」
彪は踵を返しかけて、ふと少しだけ間を置いた。
「民の心が少しでも保てれば、それでいい。それだけでも、今のこの街には十分に救いだ」
「尽力します」
「……結果を見せてもらう」
それだけを残して彪が歩き出そうとしたその時、神祇官の荷の積み方が崩れた。
慌てて積み直そうとした瑛が荷を抱えたまま足をもつれさせ、持っていた書簡の束が乾いた地面に盛大に散らばる。
「す、すみません……!」
桜桃も慌ててしゃがみ込もうとした、その瞬間。
まるで風のように、小さな影が素早く割り込んできた。
小柄だった。背は桜桃より頭一つ低い。だがその動きに迷いや無駄な焦りはない。
散らばった書簡をあっという間に綺麗にまとめ上げると、すっと立ち上がって桜桃に差し出した。
「ほら」
見上げてくるその瞳は、濁りがなくまっすぐだった。
年は十三かそこらだろうか。体つきは細いが、地に足の着いた立ち姿だけが妙に据わっている。
「……ありがとう」
「気をつけろよ」
そっけない言い方だった。それでも、桜桃から視線を外そうとはしない。
「あんたが、噂の舞姫か」
「そうです」
少年はしばらくじっと桜桃を見た。
「で、雨、本当に降らせられるのか?」
「それを目指して、ここまで参りました」
「目指す、ってことは確実じゃないんだな」
「……正直に言えば、そうです」
少年は少しだけ考え込むような仕草を見せてから言った。
「まあ、いい」
「いいんですか」
「雨が降らなくたって、来てくれた方がましだ。誰も来ないよりは、ずっといい」
子供とは思えない大人びた物言いに、桜桃は思わず目を丸くした。
そこへ、少し離れたところで足を止めていた彪が踵を返して戻ってくる。
「琥珀、また勝手にそこにいたのか」
「いたら悪いか」
「悪くはないが」
彪は桜桃の方へ視線を向け、その少年の名を告げた。
「うちで、勝手に名前だけつけてやった子だ。因州の生まれだが、今は身寄りがない。名前は琥珀という」
「白虎から取った名前だろ」
琥珀がすかさず不満そうに補足する。
「因州のしるしと、白蔵の家紋が白虎だからって……彪が勝手につけたんだ」
「お前が気に入ったんだろうが」
「彪が先に言い出した」
「いや、お前が選んだ」
「……まあ」
琥珀は少しだけ気恥ずかしそうに視線を逸らした。
そのやり取りを見ているうちに、桜桃の胸のつかえが少しだけ解け、自然と柔らかな笑みがこぼれる。
「よろしくね、琥珀」
名前を呼ばれた琥珀は、再びまっすぐ桜桃を見上げた。
「……ああ」
短い、ぶっきらぼうな返事。だがその響きは、最初に出会ったときよりもほんの少しだけ、温かみを帯びていた。
街の中を歩いていると、少しだけ人だかりができている場所に行き当たった。
野次馬というほどあさましい空気ではないが、何人かの村人たちが足を止め、同じ方向を見つめている。
桜桃も自然とそちらへ視線を向けた。
路地の入口に、一人の男が腰を下ろしている。
その前には、疲れた様子で足をひきずっている老人がいた。男は特に声をかけるわけでもなく、老人の足元に静かに屈み込むと、黙って擦り切れた草鞋の紐を結び直していた。
誰かに頼まれた風でもなく、謝礼を求める様子もない。手際よく結び終えると、何事もなかったように立ち上がり、老人の背中を軽く叩いた。老人が深く頭を下げる。男は面倒そうに片手をひらりと振った。
「あれが、刹那だ」
隣で声がした。振り返ると、いつの間にか並んで歩いていた琥珀だった。
「知り合いなの?」
「まあな。この因州をいつもふらふら歩き回ってる。ああいうお節介をよくやってる。誰にも頼まれてないのに」
「理由は聞いたの?」
「暇だったからだって言う」
桜桃は再び男の姿を目で追った。刹那はすでに別の方向へと歩き始めている。街の様子を一つひとつ確かめるように、急ぐこともなく、ただ淡々と。
そのとき、不意に刹那が振り返った。
その視線が、桜桃の旅装を一度だけ値踏みするように確かめ、それから傍らの琥珀をとらえる。
「……また、妙なものを連れてきたのか」
「違う。勝手に来たんだ」
「神祇官の舞姫か」
刹那は桜桃を見て言った。桜桃はわずかに身なりを正し、一礼する。
「はい。都より派遣されて参りました」
「雨乞いに、か」
「……はい」
刹那は少しの間黙り込み、桜桃の喉元から、旅の土埃に汚れた足先までをゆっくりと見つめた。警戒でも敵意でもない、ただ目の前の現実を確かめるような深い目だった。
「……雨が、降るといいな」
「はい。全力を尽くします」
刹那は乾き切った街の空へと視線を戻しながら、軽い調子で言った。
「まあ、来てくれただけでもよしとするか。目の保養になるし、都の舞姫なんざそうそう生で拝めるもんじゃないからな」
そのまま歩き出しかけて、刹那はふと足を止めた。
「そういえば、舞姫さん。名前は」
「六花、と申します」
「六花、ね」
刹那は一度だけその名を繰り返す。それから、気負いのない声音で続けた。
「じゃあ、姫だな」
「……姫?」
「『舞姫さん』じゃ長い。姫でいいだろ、その方が早い」
桜桃はほんのわずかに間を置いた。
「姫」というその呼び方は、今まで嫌というほど耳にしてきた。
宮中では幾度となくそう呼ばれた。けれど、そこにあったのはいつだって厳かな距離感であり、形式であり、時には飾りとしての重苦しい意味合いだけだった。
身分や立場を縛るための言葉。
だが、今の響きは違っていた。
特別な理由も、恭しい敬意もない。ただ呼びやすいから、そう呼ぶ。それだけの、どこまでも軽い言葉だった。
「……はい」
思ったよりも素直に、声が出ていた。
刹那はそれを聞くと、特に深く追及もせず、片手を軽く上げて歩き出す。
琥珀が、小さく見上げてきた。
「あんな感じの人だ」
「そうね」
「……悪い人じゃない」
少しだけ言葉を濁し、琥珀は付け足す。
「たぶん」
桜桃は遠ざかっていく刹那の背中を見送った。
――姫。
その呼び名が、妙に耳の奥に残っている。
何の重さもない、風のように軽い響きだった。
なのになぜか、その軽さが、少しだけ心地よかった。




