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狂桜華《きょうおうか》~亡国の姫は、名を捨て帝を目指す~  作者:
第二章 乾いた地と、雨の記憶

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第六話 雨乞いと、七日間

 白砂に入って二日目の朝、桜桃は水の配給を手伝っていた。


 列は長い。日が高くなる前から人が並んでいる。

 器を受け取り、次へ。器を受け取り、次へ。その繰り返しだった。


「……少ないですね」


 瑛が桜桃の隣で小声で言った。


「桶の中身、もう半分以下です」


「まだ列は続いているのに」


「はい」


 二人で顔を見合わせる。


 おかしい。


 備州から水は送られているはずだった。彪の話でも、記録の上では輸送は続いている。なのに、実際に届いている量が少なすぎる。

 

 桶の底が見え始めた頃、列の後ろの方でざわめきが起きた。


「また足りないのか」


「昨日もそうだった」


「どこで消えてるんだ」


 声は荒げないが、押し殺した怒りが滲んでいる。


 桜桃は配給の手を止めずに、そのざわめきを聞いていた。


 記録では届いているが、実際には届いていない。

 昨日も、その前の日も、毎回、同じ場所で減る。


(どこかで、止まっている)


 確信ではない。でも、偶然だとも思えない。

 そのとき、琥珀が桶を担いで戻ってきた。


「次の分、持ってきた」


「ありがとう。……それ、どこから」


「州都。ここから三つ先の街だ。彪の家から運んでる」


「彪様の家から……」


「毎日こうだ。白砂がいちばん酷くて、彪が自分の家の分を削って補填してる」


 琥珀は桶を置きながら、小声で続けた。


「最初は暴動寸前だった。水がなくて村同士で殴り合いになったこともある」


 桜桃は息を呑む。


「でも彪が全部抑えた」


 琥珀は後ろまで長く続く列を見た。


「彪は家族を残してここに来てる。それでも文句を言わない。でも顔を見てれば分かる」


 桜桃はそっと彪の方を見た。少し離れた場所で、彪は役人と短く話している。表情は変わらないが、目の下の疲れが、昨日より濃い気がした。

 

 その日の夕刻、桜桃は広場の端で舞の準備をしていた。


 初めての雨乞いだ。

 瑛が衣の裾を整えながら言う。


「緊張していますか」


「少し」


「当然です。でも舞姫様は宴でも立派でしたから」


「あれとこれは違います」


「まあ、そうですね」


 瑛がすんなり認めたので、桜桃は少し脱力した。


 人が集まってきている。期待している目ではない。縋るものが他にないから来ている、という顔だった。


 琥珀が桜桃の隣に来た。


「やるのか」


「やります」


「降らなくても、文句は言わない」


「……ありがとう」


「ただ」


 琥珀は少し間を置いて、やがて桜桃を真っ直ぐ見上げた。


「ちゃんと見てるから」


 それだけ言って、人の輪の中に戻っていく。


 桜桃は息を整えた。

 降らせる、という確信はない。雨乞いで雨が降るとも思っていない。


 でも、雅はこう言っていた。

 

 この国がまだ見捨てていないと示すための形だ、と。


 それだけでいい。

 今日は、それだけでいい。


 桜桃は一歩、前へ出た。


 腕を上げる。足を運ぶ。


 乾いた空の下で、舞が始まった。


***


 同じ頃。

 白砂の外れ、かつて見張りに使われていたであろう高台に、風だけが通っていた。


 草は短く刈られたまま枯れ、土はひび割れている。

遠くに街の輪郭が見えるが、その色はどこか淡く、霞んでいるようだった。


 刹那はそこに立ち、街を見下ろしていた。背は高く、衣は着崩している。整えようとした形跡はあるが、最後まで整えきる気がないらしい。ただ立っているだけなのに、妙に目を引く。


 街には人の動きはある。煙も上がっている。


 だが活気はない。

 すべてが抑えられ、踏みとどまっている。

 崩れる一歩手前で、どうにか均衡を保っているような光景だった。


 ふいに、その背後に気配が落ちる。

 足音はほとんどなかった。思わず刹那は振り返り、その人物を見て刹那は目を瞠った。


「……お前は……!」


 言葉はそこで途切れ、空気が張り詰める。


 互いの間に、数歩分の距離だけが残る。

 風が通り抜ける音だけが、やけに大きく感じられた。


◇◆◇


『俺はもう、戦はごめんだ』


かつて、そう言った男がいた。


血の匂いがまだ抜けきらない戦場のあと。


剣を下ろしたまま、空を見ていた。


『誰かが死ぬのは、もう見たくない』


その声は、決して弱くはなかった。

ただ、これ以上進むことを拒む静かな意志だった。


◇◆◇


 空気が、わずかにほどけた。


「朝凪……!」


 思わず落ちた声に、朝凪が視線を上げる。

 一瞬の間があり、確かめるように目を眇めた。


「刹那か?」


 短く返る声には、驚きが混じっていた。


「こんな場所にいたのか」


 互いに距離を測るような沈黙が落ちる。

 その沈黙の向こうで、遠く、人のざわめきがかすかに響いていた。


 街の中心では、舞が始まっている。


 雨乞いの舞。意味を信じている者はいない。

 それでも、縋るものはそれしかない。


 刹那は、その方向を一瞥する。


「……無駄なことを」


 低く呟いた。


 救いにもならない光景だった。

 あそこに立たされている、先程会った舞姫を思い出し、声を落とした。


「可哀想に」


 言葉はそれだけだった。


 朝凪は、視線を舞の方に向けた。わずかに眉が寄る。


 刹那は朝凪を見た。


「……お前、帝都にいたはずじゃ……。中央の命令か」


「違う」


「単独か」


「そうなるな」


 刹那はしばらく黙った。この男が命令ではなく個人で動いていることに、違和感を覚えた。


「舞姫を追ってきたのか?」


「違う。たまたまだ」


「たまたま同じ時期に、同じ場所に、帝都から、こんなところへ」


「そうだ」


 刹那はしばらく黙った。


「……それを世間では跡をつけると言うんだが」


「言わない」


「言う」


「そういう意図はない」


「意図がない方が問題だろ」


 朝凪は少し間を置いた。


「……結果として、同じ方向に進んだだけだ」


「それを言い訳というんだよ」


 朝凪は何も言わなかった。

 刹那は天を仰いでから、息を吐いた。


「……まあいい」


 それ以上は追わない。追っても変わらないと分かっているからだ。

 朝凪は刹那の隣には立たない。少しだけ距離を保ち、天を仰いだ。


「雨を降らせる」


 その言葉は、説明ではなく前提のように置かれた。

 刹那の眉がわずかに動く。


「本気か」


「七日後に降らせる」


 揺らぎはない。確信でもなく誇示でもない。ただ決まっていることを述べる調子だった。

 刹那は一度だけ息を吐く。


「……神にでもなったつもりか」


「そんな非科学的なものは信じない」


 朝凪はゆっくりと周囲を見る。視線の先には山があった。高く、地形が変わるほどの起伏。空気の流れが、はっきりと変わっている。


 風が一度、強く吹いた。乾いた土がわずかに舞い、視界を薄く濁す。

 刹那は片手で目元を庇いながら、朝凪を見た。


「……何をやるつもりだ」


「地形と、気流と、ほんの少しの衝撃が引き金を引く。それだけだ」


「分かりにくいな」


「これ以上分かりやすくは言えない」


 刹那はそれ以上聞くのをやめる。

 再び沈黙が落ちる。二人は同じ方向を見ている。


 その先にある街で 舞姫が舞っている。


 朝凪は遠くを見るように目を細めた。


(神が雨を降らせるのではない)


 雨が降らなければ、因州の民の怒りはすべて、祈りを捧げたあの舞姫へと向かう。彼女はすべての責を負わなければならない。


 そんなことは、絶対にさせない。


 朝凪は強く拳を握りしめた。


 干ばつに苦しむ民を救いたい気持ちももちろんある。

 だが、そのために彼女が命を落とすような理不尽だけは、何があっても認められなかった。


 因州を救う。けれど、その前提には、あの人の安全がなければならない。そのためなら、この白砂の山ごと爆破してでも気流を変えてみせる。


***


 舞が終わって、桜桃は周りを見渡した。


 静かだった。しかし、穏やかと呼ぶにはあまりにも張り詰めた空気だった。声はあるのに広がらず、人の動きはあるのに流れにならない。息を止めているような静けさが街全体に満ちている。


 井戸の周りには列ができていた。押し合うこともなく、誰も声を荒げない。ただ順番を守り、器にわずかな水を受け取っては離れていく。崩れないために無理に整えられている均衡だった。


 桜桃はその光景を見つめたまま、言葉を失う。


 この場所では、祈りも舞も、意味を持つ前に乾いてしまいそうだった。


「……終わったか」


 隣から声がした。

 琥珀だった。腕を組んで、桜桃と同じ方向を見ている。


「うん」


「雨、降りそうか」


「……分からない」


 琥珀は少し黙った。


「正直に言うんだな」


「嘘をついても仕方ないから」


「そうだな」


 琥珀はそれだけ言って、また前を向いた。

 責める気配はなく、ただ隣にいる、という感じだった。

 桜桃にはそれがありがたかった。


 そのとき、前方に動きが生まれた。


 人の流れの中に、刹那がいた。刹那は一度だけ、確認するような目で桜桃を見た。それ以上は何も言わないまま、広場の中央へ歩み出る。


 人々の間に、わずかな揺れが走る。


「聞け」


 低く、よく通る声だった。ざわめきが自然と引いていく。


「こちらは神祇官の舞姫だ」


 視線が一斉に桜桃へと集まる。桜桃はほんのわずかに息を詰めた。


「七日後に、雨を降らせる」


 空気が固まる。誰もすぐには動かない。信じることも否定することもできず、その言葉をどこに置けばいいのか分からないまま時間だけが止まる。


 桜桃は思わず刹那を見る。その横顔には迷いがない。だが、何かを知っている顔でもなかった。分からないまま、それでも言い切っている。


「方法は問うな。だが七日だ。それまで耐えろ」


 命令でも願いでもない。ただ現実として置かれる言葉。


 人々の間に、ざわめきが戻る。先ほどまでの沈んだ空気とは違う。


 七日。それは曖昧な未来ではない。具体的な時間だ。終わりではない時間。


 それだけで、人は踏みとどまれる。


 刹那はそれ以上言葉を重ねない。一歩だけ下がる。そのとき、桜桃をもう一度見る。


「姫」


 小さく呼ぶ。先ほどと同じ呼び方。でも今は違う。この場に立たせるための言葉だった。


 桜桃は何も返せない。ただ、その呼び方だけが胸に残る。


「心配すんな」


刹那はぽんと桜桃の頭に手を置いた。

そしてそれ以上何も言わず、人の流れの中へ戻っていく。


琥珀が小さく息を吐いた。


「……またやってる」


「ああいうことよくあるの?」


「たまにな。人が落ちそうになってるとどこからか来て一声かける」


 桜桃は刹那の背中を見た。人の流れの中に溶け込んで、もう振り返らない。


「あの人らしいな」


 琥珀は少し呆れたような顔をしたが、広場の方を見るとまた表情が変わった。


 人々が空を見上げ始めていた。


 雲はない。それでも七日という時間だけが、確かにそこに置かれていた。


「……持つといいな」 


 琥珀が静かに言った。


 誰に向かって言ったのか、桜桃には分からなかった。


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