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狂桜華《きょうおうか》~亡国の姫は、名を捨て帝を目指す~  作者:
第二章 乾いた地と、雨の記憶

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第七話 水は誰が止めた

 その夜、桜桃は彪を探した。


 役所代わりに使われている建物の一室へ向かうと、彪はまだ書類を広げていた。灯は小さく、机の上には帳簿が何冊も重なっている。


「まだ起きていたんですね」


「郷司の仕事は夜でも終わらない」


 彪は顔を上げないまま言った。桜桃が次の言葉を探していると、彪が書類から手を離した。


「座れ」


 促される形で、桜桃は机の前の椅子に腰を下ろした。


「聞きたいことがあるのだろう」


「……はい」


「水のことか」


「そうです。どこで止まっているのか、分かっていますか」


 彪は少し間を置いてから答えた。


「分かっていたら、もうとっくに動いている」


 声は平坦だったが、その奥に疲労が滲んでいた。


「記録では正常に届いている。だが実際には来ない。その差を埋めるものが、どこにも見えない」


「誰かが間に入っている、ということですか」


「そう考えるのが自然だ。だが証拠がない」


 彪は机の上の地図を指先でたどった。


「水路の管理は民部省が握っている」


「民部省……」


「如月殿が民部卿を兼任していたが……今は別の者が担っている」


 桜桃は地図を見つめた。線が何本も引かれ、いくつかの箇所に印がついている。


「ここが、届かない地点だ」


 彪が指す。


「毎回、同じ場所で減る。一度ならともかく、こうも揃っているのは偶然じゃない」


「意図的に」


「そうだ」


「民部卿の後任の方は」


「そこまで把握できていないだろう」


 彪は帳簿を閉じた。


「毎日、被害報告は上がってくる。枯れた畑。空になった井戸。村を離れる者……目を覆いたくなる数字だ。だが」


 彪は地図に目を落とす。


「見えている苦しみまで隠すつもりはない」


 その声は静かだった。


 彪は地図から視線を外し、桜桃を見た。


「神祇官の人間が来れば、少しは注目が集まる。記録がおかしいと感じる者が増えれば、動きにくくなる」


「……だから雅様は私を」


「おそらく」


 桜桃は少し考えた。

 

「彪様は、ずっとここにいたのですか」


「因州で生まれた。因州で育った。今も因州にいる。故郷が、こうなっているのは、見ていて、気持ちのいいものではない」


 彪はそれだけ言って、また書類に目を落とした。

 それ以上は言わない。


 静かな人だ、と思った。

 感情をあらわにしない。けれど、無関心でもない。


 この土地のために、誰にも聞こえない場所で帳簿と向かい合っている。


「……ありがとうございました」


 桜桃が席を立とうとすると、彪が小さく声をかけた。


「明日、旧水路の確認に行く。一つ、頼みがある」


「はい」


「西端の療所に、薬材が届いた。仕分けが追いついていない。手が空いている者に手伝わせてくれ」


「分かりました」


「それと」


 彪はわずかに口元を動かした。笑ったかどうか、判別が難しいほど小さな変化だった。


「琥珀に苦労させられたなら、謝っておく」


「いいえ。気が強くて、いい子だと思いました」


「……そうか」


 短い返答。


 桜桃が扉を出ようとしたとき、後ろで紙をめくる音がした。

 彪はもう机に向かっていた。


 窓の外には、因州の夜が続いている。


***


 一日目。

 朝、琥珀は療所の前で待っていた。


「薬の仕分けだろ。手伝う」


 桜桃が声をかける前に、先に言われた。


「彪様に聞いたの?」


「昨夜の話が筒抜けだっただけだ。あそこの壁、薄いから」


 悪びれない顔だった。


「……聞こえていたの」


「全部」


「盗み聞きは感心しないわ」


「盗み聞きじゃない。隣にいたら聞こえた」


「隣にいた理由は」


「……なんとなく」

 

 少しだけ視線が逸れた。

 桜桃は笑いをこらえながら、仕分けの箱を持ち上げた。


「ならよろしく、琥珀」


「ああ」


 短い返事だったが、琥珀は桜桃の横に並んで、迷いなく一緒に歩き出した。


 その日、琥珀は一日中、療所の手伝いをした。


 薬の仕分け、布の運搬、水桶の移動。


 頼んだわけではない。ただいつの間にか、動いていた。


 倒れそうになっている老人を支えたり、泣いている子どもに無言で乾餅を差し出したり。口は多くないが、必要なところに必要なだけいる。


「……器用ね」


 休憩の合間に桜桃が言うと、琥珀は少し考えてから答えた。


「慣れてるだけだ。因州はずっとこういう感じだったから」


「ずっと?」


「去年も一昨年も。水が足りなくて、倒れる人は毎年いた」


 それは知らなかった、と桜桃は思った。


「なんで中央は動かないんだろうな」


 琥珀が独り言のように言う。


「遠いから、分からないのか。それとも分かっていても関係ないと思ってるのか」


 桜桃は答えなかった。答えが出ないことを、琥珀はすでに知っているような口ぶりだった。


 琥珀が先に立って歩き出す。桜桃はその背中を追いかけようとして――ふと、熱を帯びた風が吹いた気がして、足を止めた。


 よく知っている、けれど今はここにいないはずの、静かな気配。


 桜桃は、数日前に街で見かけた昊夜の近衛の軍装姿をふと思い出した。


 帝都から遠い因州で、あれほど強烈に帝都を、そして自分の大切な護衛を思い出させるものはなかった。


「六花、次の薬材の箱、これで全部?」


 端正な顔立ちにきりりとした大人びた瞳で琥珀が桜桃を覗き込んでいた。


「あ、うん。ありがとう、琥珀」


 桜桃は微笑み、手渡された箱を抱え直した。けれど、胸の奥からせり上がる寂しさは隠しきれない。


 帝都の宮廷で、いつも三歩後ろから自分を真っ直ぐに見つめてくれていた、あの眼差しがなぜだか無性に恋しくなった。


 と同時に、心が冷えるような恐ろしい思考が頭をもたげた。


(朝凪は生きているのだろうか。生きているなら、真っ先に会いに来るはずだ。来ないということは……)


 最悪の結末を。彼の死を。

 そこまで考えかけて、桜桃は激しく首を振って思考を停止させた。だめだ、それ以上考えてはいけない。


 誰にも聞こえないほどの小さな声で、ぽつりと、祈るようにその名を溢した。


「……朝凪」


 きゅっと胸を締め付けられるような痛みに睫毛を揺らし、桜桃は小さく息を吐く。


「待って、琥珀。今行く」


 疲れた足取りのまま、けれど前を向いて、桜桃は琥珀の後を追って療所の中へと消えていった。


***


 街外れの薄暗い路地の端に、朝凪は立っていた。


 目的があってそこにいるわけではない。山の調査の帰り道、たまたま療所の方向を通っただけだった。

 ……そのはずだった。


 だが、朝凪の足は完全に止まっていた。

 療所の入口に立つ桜桃が見えた。


 ただ、元気な姿を一目見られればそれでいい。踵を返そうとした、そのときだった。


 熱い風に乗って、あまりにも聞き慣れた、けれど二度と自分を呼ぶことはないと思っていた響きが、鼓膜を震わせた。


『……朝凪』


 声としては届かないほど微かな、ただの息の漏れだったかもしれない。

 だが、たしかに彼女の唇が、自分の名前を形作った。寂しさに耐えるように、切なげに。


「――!」


 驚きのあまり、朝凪の息が止まる。

 心臓を掴まれたかのような、激しい動揺。指先が、じわじわと熱を帯びていく。



 自分を求めてくれている。その事実が、重く胸に突き刺さった。今すぐその細い肩を抱きしめに行きたいという衝動を、握りしめた拳で必死に抑え込む。


「珍しいな」


 背後から声が落ちた。

 いつからそこにいたのか、壁に背をもたれて腕を組んでいる刹那が、面白そうに目を細めている。


「何が」


 朝凪は声を絞り出したが、わずかに呼吸が乱れているのを隠せなかった。


「そっちの方向に用はないだろ、お前」


「通りかかっただけだ」


「そうか」


 刹那はそれ以上追わない。ただ、どこか楽しそうな顔をして、朝凪の顔を覗き込んできた。


「……何か言いたいことがあるなら言え」


「別に。ただ、顔が分かりやすかっただけだ」


 朝凪は少し間を置いてから、必死に平静を装って言った。


「分かりやすくはない」


「いや、俺には分かる。今すぐあそこへ飛んでいきたいって顔に書いてあるぞ。……まあ、せっかく同じ場所にいるんだから、もう少し近くで見ればいいんじゃないか。遠くから見てても、疲れるだろ」


「余計なことだ」


「そうかもな」


 刹那は肩を竦め、ゆっくりと歩き出した。

 去り際、一度だけ振り返る。


「……ちなみに、あっちには気づかれてたぞ」


「何?」


「あの、姫の手伝いをしてる子。琥珀。あいつが一回、鋭い目でこっちを見てた」


 朝凪はハッとしてそちらの方向を見た。

 もう桜桃の姿はない。琥珀の姿もなかった。


「……いつからだ」


「最初から。お前のその視線、子供にすら隠しきれてねえんだよ」


 刹那は笑いながら、今度こそ歩き去った。


 静まり返った路地で、朝凪は一人、立ち尽くしていた。

 琥珀に見つかっていたことなど、もうどうでもよかった。


(姫様……)


 彼女が呟いた瞬間の、切なげな表情が頭から離れない。

 朝凪は固く唇を結び、熱を帯びた街の空気を深く吸い込んだ。


***


 療所は慌ただしかった。


 奥の寝台でかすかな声がした。

 壁際の隅、布をかけられたまま横たわっていた小さな影が、わずかに動いている。


 桜桃は膝をついた。子供だった。七つか八つ、そのくらいだろうか。唇は白くひび割れ、頬はこけているのに、目だけが不釣り合いなほど大きく見えた。


「……のど、かわいた」


 砂を噛んだような、かすれた声だった。

 桜桃は震える手で水袋を取り、若葉の頭をそっと支える。


「大丈夫よ、ゆっくり飲んで」


 水を含んだ布で唇を湿らせてから、少しずつ口に含ませる。ごくり、と細い喉が動いた。飲んでいる。


 もう少し。また少し。生きるための水を、吸い込むように。


 やがて若葉の目が、はっきりと桜桃を捉えた。その瞳に、ほんのりと生気が戻る。


「……おいしい」


 掠れた声で、ぽつりと呟かれたその一言に、桜桃の手が止まる。胸の奥が、ぎゅっと締め付けられた。


 おいしい、と言える力がまだ残っている。それだけで、この子がまだこの世界に踏みとどまっていると分かって、涙が溢れそうになるのを必死に堪えた。


「名前は、なんていうの?」


「……わかば」


「若葉ちゃん。……とても、綺麗な名前ね」


 桜桃は、砂に汚れた若葉の小さな手を、自分の両手でそっと包み込んだ。驚くほど細く、熱を持った手だった。


「私は六花。若葉ちゃん、もう少しだけ、飲める?」


 若葉は小さく、頼りなげに頷いた。


 琥珀が、いつの間にか隣に来ていた。黙って水桶を傾け、空になった器に水を足す。それだけで、何も言わない。けれど、その差し出された琥珀の手もまた、かすかに震えていた。


 しばらくして、水を飲み干した若葉の呼吸が落ち着いた。安心したように、ゆっくりと目を閉じる。そのまま、深い眠りに落ちていった。


 桜桃はその眠り顔を、愛おしさと切なさが入り混じった眼差しで、しばらく見つめていた。砂に汚れた若葉の髪を、そっと撫でる。


 どうかこの温もりが、消えてしまわないようにと、ただそれだけを強く願いながら。


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