第八話 守護の気配
二日目。
夜が明けると同時に、白砂の空気はさらに乾いていた。わずかな湿り気すら削ぎ落とされたような朝で、息を吸うたびに喉の奥がひりつく。
それでも人々は動き出していた。昨日と同じように井戸へ並び、同じように器を差し出す。だがその動きには、わずかな変化があった。七日という言葉が、まだ消えていない。
その街外れで、小さな騒ぎが起きていた。
人だかりというほどではない。だが数人が足を止め、遠巻きに見ている。
その中心に、一人の男がいた。
痩せている。衣は擦り切れ、まともな身なりとは言えない。だがその手元にあるものだけが、場違いなほど異質だった。
奇妙な装置だった。
木と金属を組み合わせた、簡素でありながら用途の読めない構造。管のようなものが組まれ、布で覆われた部分から、ぽたり、と音がする。
水だった。一滴、また一滴と、確かに水が落ちている。
それは井戸から汲み上げる量には遠く及ばない。だが確実に、そこに“生まれている”。
人々は近づかない。目は離せないが、信じきれない。
その空気の中で、男は何も言わず、ただ手を動かしている。
やがて、小さな器に水が溜まる。
男はそれを、近くにいた老人に差し出した。
「飲め」
老人は一瞬ためらい、それでも受け取る。唇をつけるまでに少し時間がかかるが、やがて一口飲む。
その瞬間、周囲の空気がわずかに変わる。
水だ。確かに水だった。男はそれ以上何も言わない。対価も求めない。
誰かに説明するでもなく、ただ同じ作業を繰り返す。その異質さが、逆に人を戸惑わせる。
だが一人、また一人と、距離が縮まっていく。
完全な信頼ではない。
それでも、“試す価値があるもの”として、そこに受け入れられ始めていた。
その頃、桜桃は街の療所で動いていた。
倒れた者のそばに膝をつき、呼吸を確かめ、布を濡らして額に当てる。水は限られている。無駄にはできない。しかし使わなければ間に合わない。その判断を、何度も繰り返していた。
そのとき、足音が近づいてきた。
琥珀だった。桶を両手で抱えている。中には水が入っていた。
「持ってきた」
「どこから」
「街の外れに変な男がいて」
琥珀は桶を置きながら続ける。
「山の方から水を引いてた。何をしてるのか聞いたら、流れを作ってると言って、それだけだった」
「……それだけ?」
「それだけ。名前も教えてくれなかった」
桜桃は少し考えた。
「怪しくなかった?」
「怪しかった。でも水は本物だったから持ってきた」
「……そう」
桜桃はためらわずに水を受け取った。
唇を乾かせた子どもの口に水を含ませる。わずかな量でも、確実に変化がある。呼吸が落ち着き、意識が戻る。昨日なら間に合わなかったはずの命が、繋がる。
奥の寝台では、若葉が目を開けていた。
昨日まで閉じたままだった瞳が、今日は部屋の中を忙しなく動く桜桃の姿を、じっと追いかけている。
桜桃が冷たい水で濡らした布を持って近づくと、若葉は小さな手を伸ばし、自分でそれを受け取ろうとした。
まだ力は弱い。それでも、確かに手が動いている。
「……六花、おねえちゃん」
小さな、掠れた声だった。けれど、昨日よりずっとはっきりしている。
「若葉ちゃん、目が覚めたのね。気分はどう?」
桜桃が視線を合わせて優しく微笑むと、若葉は額に布を当ててもらいながら、小さくはにかんだ。
「……おねえちゃん、ずっと、ここにいてくれたの?」
「ええ、ずっといたわよ。若葉ちゃんが頑張って眠っていたから。お水を用意してもらったわよ」
「お水……つめたい。きもちいい」
若葉が小さく息を吐き、桜桃の服の袖をごく弱い力で、きゅっと握りしめてきた。
「あのね、夢をみたの。おねえちゃんが、お空からいっぱい雨を降らせてくれる夢。……だから、わかば、もう痛くないよ」
その健気な言葉に、桜桃の手が一瞬だけ止まる。胸の奥が、ぎゅっと熱くなった。
(まだ、救える――)
その確かな手応えが、胸の奥にしっかりと芽を出す。昨日までは絶望に押し潰されそうで、どこにもなかった感覚だった。
「ありがとう、若葉ちゃん。いい子ね。……もう少しだけ、待っていてね」
若葉の薄い布団を優しく整え、桜桃は自分に言い聞かせるように呟いて、再び力強く立ち上がった。
水がある。それだけで、できることが圧倒的に増える。運べる命が増える。
これまで目の前に迫っていた限界の線が、ほんの少しだけ後ろへ下がっていくのが分かった。
それは桜桃だけでなく、街の空気も同じだった。
『七日後に雨を降らせる』という猶予に加えて、今、目の前の渇きを繋ぐ手段が現れたのだ。
それだけで、絶望していた人々は、生きるためにもう少しだけ踏みとどまることができる。
桜桃は若葉の小さな寝顔をもう一度振り返り、固く拳を握りしめた。
◇
山裾の外れ、街からわずかに離れた場所で、装置は静かに水を落としていた。
人の輪は距離を保ちながら、目だけが集まっている。
その外側に、朝凪は立っていた。
気配を消しているわけではない。ただ、視線の流れから外れているだけだ。装置の動き、管の配置、水の落ち方。すべてを一度で把握するように見ている。
やがて、男がふと手を止めた。顔を上げることなく言う。
「見てるだけで分かるのか」
「概ねは」
男はそこで初めて顔を上げる。どこまで見えているかを測るような視線だった。
「なら話は早い。単体じゃ足りない。もっと大きな流れが要る」
朝凪は足元の土、遠くの山、風の通り道を一度だけ見た。
「山から引くしかない」
「時間が要る」
「七日で合わせる」
男は少しだけ考えてから、頷いた。
「……賭けだな」
「最初からそうだ」
それ以上は言わない。互いに、必要なことだけが共有されていた。
朝凪はゆっくりと踵を返す。背後で、水の音が続いている。命を繋ぐ音であり、同時に、限界を告げる音でもあった。
七日。その一点に、すべてを合わせる。成立させるしかない。その結論だけが、すでに定まっていた。
朝凪はゆっくりと踵を返し、人の輪の外へと歩き出す。気配を消し、山裾の木々の影へと紛れ込もうとした、その時だった。
「……あなたが作ったのですか」
背後から響いたその声に、朝凪の足が完全に止まった。
聞き間違えるはずのない、少女の声。
(姫様……!? なぜここに――)
朝凪は咄嗟に身を翻し、生い茂る低木の陰へと身を潜めた。息を殺し、木の葉の隙間から視線を走らせる。
そこにいたのは、看病の合間を縫って街の外れへ足を運んできた、まぎれもない桜桃の姿だった。
都を離れ、因州の過酷な環境に身を置きながらも、その瞳の芯にある清らかさは変わっていない。
朝凪は唇を噛み締めた。今すぐその前に姿を現したいという衝動が、身体の奥底から激しく突き上げてくる。
だが、今は、雨を降らせるための過酷な謀略の渦中にいる身だ。ここで自分に気づかれれば、彼女をさらなる危険に巻き込むことになる。
(絶対に、気づかれてはならない)
朝凪は拳を握りしめ、自身の気配を完全に「無」へと沈めた。ただ、男の前に立つ桜桃の姿を、見つめ続けることしかできない。
男は顔を上げない。
「水が欲しいなら並べ」
ぶっきらぼうだったが、拒絶ではない。
「そうではなくて。この水が、どうやって……」
そこで言葉を止める。
どうやって、という問いは、あまりに軽い気がした。この状況で、仕組みを問うことに意味があるのか。
男はそこでようやく手を止めた。顔を上げる。
視線が合う。濁っていない目だった。ただ、何かを深く見続けてきた者の静けさがある。
「仕組みが知りたいのか」
「はい」
「空気と地熱と、残ってる湿り気を使ってるだけだ」
簡単に言う。だがその「だけ」が、常識から外れている。
桜桃は装置を見た。
確かに水は出ている。しかし周囲に水源はない。井戸でもない。流れもない。それでも生まれている。
「……ずっと出続けますか」
男はすぐに首を振る。
「無理だな。壊れる」
「壊れる?」
「均衡が持たない。どこかが先に限界になる」
説明は簡潔だった。だがその言葉の重さは簡潔ではない。
作れば終わりではない。使い続ければ、必ずどこかが崩れる。
それは、この街と同じ構造だった。
助かる命が増えたと思った先に、限界があると示される。
陰で見守る朝凪は、男の言葉を静かに噛み締めていた。
(分かっている。だからこそ、山から引く。この男の装置の限界が来る前に、すべてを繋ぎ止めてみせる)
桜桃の憂いを含んだ横顔を見つめた。
男はそれ以上語らない。再び手を動かし、同じ作業に戻る。まるでそれが当然であるかのように。
桜桃はしばらくその場に立ち尽くした。
水は確かにある。だが続くものではない。
その事実が、頭の隅に引っかかったまま、離れなかった。
ふと、桜桃は視線を感じて、装置から少し離れた山裾の木々へと目を向けた。
ざあ、と乾いた風が草むらを揺らす。
誰もいない。だが、そこにはなぜか、都の宮廷でいつも自分のすぐ後ろに控えていた、あの懐かしい「守護の気配」が揺らめいている気がした。
桜桃は胸元を小さく押さえ、見えない影に向かってそっと呟く。
「……朝凪?」
その呟きは風に消えたが、木陰の闇の中で、朝凪は、静かに目を閉じた。
桜桃が諦めたように踵を返し、街の方へと歩き去っていく。
その背中が完全に小さくなって見えなくなるまで、朝凪はその場から一歩も動くことができなかった。
◇
少し離れた場所で、刹那はその様子を見ていた。
近づきはしない。しかし、目は離さない。装置の動き、人の流れ、水の量。すべてをまとめて見ている。
一人の男が、水を生んでいる。それは事実だ。だが。
装置はあまりにも簡素だ。空気、地熱、湿り気。言葉としては成立しているが、それだけでこの安定は出ない。どこかに繋がっている。そうでなければ、均衡が保てない。
「……面倒なことしてるな」
小さく呟く。
しかし、刹那の目が本当に釘付けになっていたのは、装置の仕組みそのものよりも、その周囲で繰り広げられていた奇妙な人間模様の方だった。
(……あいつら、一体何やってんだ?)
山裾の低木の陰で、気配を完璧に殺して硬直している朝凪。
そしてそのすぐ近くで、誰もいないはずの空間に向かって「朝凪?」と切なげに呟いた、あの都から来た舞姫。
刹那は小さく眉をひそめ、顎に手を当てた。
いつも淡々と任務をこなすだけのあの朝凪が、あの少女の声を聞いた瞬間、見たこともないほど動揺して物陰に飛び込んだのだ。しかも、少女の方も姿の見えない朝凪の気配を正確に察知して、その名前を呼んだ。
(通りかかっただけ、ねえ……。嘘つけ。あいつが因州の雨にここまで固執してるのも、あの舞姫が理由か?……いや、それにしたってあいつのあの必死さは何なんだ。まるで、絶対に自分が見つかっちゃいけない理由でもあるみたいに)
どう見ても、ただの偶然の居合わせではない。
(やっぱり、あの二人、最初から知り合いだろ)
確信に近い不審が頭をもたげる。だが、二人がどういう関係なのか、なぜ朝凪がこれほど頑なに姿を隠そうとするのか、その理由はいくら考えても全く分からなかった。
刹那は腑に落ちないものを感じながらも、ただ不思議そうに肩をすくめてその場を後にした。




