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狂桜華《きょうおうか》~亡国の姫は、名を捨て帝を目指す~  作者: 澪
第二章 乾いた地と、雨の記憶【因州祈雨編】

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第八話 元近衛中将、また逃げる

 二日目。夜が明けると同時に、白砂の空気はさらに乾いていた。わずかな湿り気すら削ぎ落とされたような朝で、息を吸うたびに喉の奥がひりつく。


 それでも人々は動き出していた。昨日と同じように井戸へ並び、同じように器を差し出す。


「本当に、七日で雨が降るのかね」


「さあな。だが、舞姫様が雨乞いをしてくださっているんだろう」


「あと六日か……」


「七日だけ耐えよう。それで雨が降るなら、もう少しの辛抱だ」


 そう言って、男は汲み上げたわずかな水を大切そうに抱え、列を離れていった。


 誰もが雨を信じているわけではなかった。それでも、七日という言葉は、乾ききった土地に小さな希望を与えていた。いつまで続くとも知れなかった日々に、ようやく終わりが見えたような気がしていた。


 その街外れで、小さな騒ぎが起きていた。


 人だかりというほどではないが、数人が足を止め、遠巻きに見ている。


 その中心に、一人の男がいた。


 痩せている。衣は擦り切れ、まともな身なりとは言えない。だがその手元にあるものだけが、場違いなほど異質だった。


 奇妙な装置だった。


 木と金属を組み合わせた、簡素でありながら用途の読めない構造。管のようなものが組まれ、布で覆われた部分から、ぽたり、と音がする。


 水だった。一滴、また一滴と、確かに水が落ちている。


 それは井戸から汲み上げる量には遠く及ばない。だが確実に、そこに“生まれている”。


 人々は近づかない。目は離せないが、信じきれない。

 その空気の中で、男は何も言わず、ただ手を動かしている。


 やがて、小さな器に水が溜まる。

 男はそれを、近くにいた老人に差し出した。


「飲め」


 老人は一瞬ためらい、それでも受け取る。唇をつけるまでに少し時間がかかるが、やがて一口飲む。


 水だ。確かに水だった。男はそれ以上何も言わない。対価も求めない。


 誰かに説明するでもなく、ただ同じ作業を繰り返す。その異質さが、逆に人を戸惑わせる。


 だが一人、また一人と、距離が縮まっていく。


 それは、“試す価値があるもの”として、そこに受け入れられ始めていた。


 その頃、桜桃は街の療所で動いていた。


 倒れた者のそばに膝をつき、呼吸を確かめ、布を濡らして額に当てる。水は限られている。無駄にはできない。しかし使わなければ間に合わない。その判断を、何度も繰り返していた。


 足音が近づいてきた。琥珀が桶を両手で抱えている。


「持ってきた」


「どこから」


「街の外れに変な男がいて」


 琥珀は桶を置きながら続ける。


「山の方から水を引いてた。何をしてるのか聞いたら、流れを作ってると言って、それだけだった」


「……それだけ?」


「それだけ。名前も教えてくれなかった」


 桜桃は桶を覗き込んだ。確かに透明の水だ。


「怪しくなかった?」


「怪しかった。でも水は本物だったから持ってきた」


「……そう」


 桜桃はためらわずに水を受け取った。


 唇を乾かせた子どもの口に水を含ませる。わずかな量でも、確実に変化がある。呼吸が落ち着き、意識が戻る。昨日なら間に合わなかったはずの命が、繋がる。


 奥の寝台では、若葉が目を開けていた。

 昨日まで閉じたままだった瞳が、今日は部屋の中を忙しなく動く桜桃の姿を、じっと追いかけている。


 桜桃が冷たい水で濡らした布を持って近づくと、若葉は小さな手を伸ばし、自分でそれを受け取ろうとした。

 まだ力は弱い。それでも、確かに手が動いている。


「……六花、おねえちゃん」


 小さな、掠れた声だった。けれど、昨日よりずっとはっきりしている。


「若葉ちゃん、目が覚めたのね。気分はどう?」


 桜桃が視線を合わせて優しく微笑むと、若葉は額に布を当ててもらいながら、小さくはにかんだ。


「……おねえちゃん、ずっと、ここにいてくれたの?」


「ええ、ずっといたわよ。若葉ちゃんが頑張って眠っていたから。お水を用意してもらったわよ」


「お水……つめたい。きもちいい」


 若葉がかすかに笑うと、桜桃の服の袖をごく弱い力で、きゅっと握りしめてきた。


「あのね、夢をみたの。おねえちゃんが、お空からいっぱい雨を降らせてくれる夢。……だから、わかば、もう痛くないよ」


 その健気な言葉に、桜桃の手が一瞬だけ止まる。胸の奥が、ぎゅっと熱くなった。


(まだ、救える――)


 その確かな手応えが、胸の奥にしっかりと芽を出す。昨日までは絶望に押し潰されそうで、どこにもなかった感覚だった。


「ありがとう、若葉ちゃん。いい子ね。……もう少しだけ、待っていてね」


 若葉の薄い布団を優しく整え、桜桃は自分に言い聞かせるように呟いて、再び力強く立ち上がった。


 水がある。それだけで、できることが圧倒的に増える。運べる命が増える。


 これまで目の前に迫っていた限界の線が、ほんの少しだけ後ろへ下がっていくのが分かった。


 それは桜桃だけでなく、街の空気も同じだった。


 『七日後に雨を降らせる』という猶予に加えて、今、目の前の渇きを繋ぐ手段が現れたのだ。


 それだけで、絶望していた人々は、生きるためにもう少しだけ踏みとどまることができる。


 桜桃は若葉の小さな寝顔をもう一度振り返り、固く拳を握りしめた。


 ***


 山裾の外れ、街から離れた場所で、装置は静かに水を落としていた。


 人の輪は距離を保ちながら、目だけが集まっている。


 その外側に、朝凪は立っていた。


 装置の動き、管の配置、その中を抜けていく空気と、先端から落ちる水滴。すべてを一度で把握するように見ている。


 やがて、男がふと手を止めた。顔を上げることなく言う。


「見てるだけで分かるのか」


 朝凪はそれには答えず、装置から伸びる管へ手を触れた。


「ここへ空気を入れているのは、何のためだ」


 男はそこで初めて顔を上げた。どこまで見えているかを測るような視線だった。


「湿った空気を集めるためだ。中を通して冷やせば、水になる」


「空気は、勝手に入るのか」


「多少はな。中の空気が上へ抜ければ、その分だけ下から入ってくる。ただ、この大きさじゃ大した流れにはならない」


 朝凪は管の先から落ちる雫を見つめた。


「この装置を、大きくできるか」


「できなくはないが、大きくしたところで取れる水には限界がある。街一つ救えるほどの水なんて作れないぞ」


「水の量を増やしたいわけじゃない」


 男の眉が寄った。


 朝凪はしばらく装置を見つめていたが、やがてその向こうにそびえる山へ視線を移した。


「一度に大量の空気を下から入れれば、もっと強く上へ抜けるだろう」


 男も朝凪の視線を追い、山を見る。


「理屈だけならな。だが、こんな筒をいくら大きくしたところで限界がある」


「装置だけなら、な」


 その言葉に、男が怪訝な表情で朝凪を見る。しかし、表情の乏しい朝凪からは、言葉の意図を読むことができない。


「五日で、大きくできるか」


「……五日?」


「五日後に、雨を降らせる」


「お前、さっき俺の話を聞いてたか? こいつを大きくしたところで、雨なんか降らない」


「分かっている」


「じゃあ、何に使う」


 朝凪は遠くの山を見た。


「風を上へ送る」


 男の顔から、呆れた色が消えた。


 しばらく装置と山を見比べていたが、やがて低く息を吐く。


「……五日では無理だ」


 朝凪は乾いた街へ視線を移した。


「七日が、民を持たせられる限界だ。もう二日使った」


 この二日、朝凪は因州の井戸を見た。川を見た。干上がった水路を歩き、山へ入り、地形と風の流れを確かめてきた。


 そして辿り着いたのが、この男の装置だった。


「だから、五日でやる」


 朝凪はそれだけ言うと、ゆっくりと踵を返し、人の輪の外へと歩き出した。


 気配を消し、山裾の木々の影へ紛れ込もうとした、その時だった。


「……あなたが作ったのですか」


 背後から響いたその声に、朝凪の足が完全に止まった。

 聞き間違えるはずのない、愛おしい少女の声。


(姫様……!? )


 朝凪は咄嗟に身を翻し、生い茂る低木の陰へと身を潜めた。息を殺し、木の葉の隙間から視線を走らせる。


 そこにいたのは、看病の合間を縫って街の外れへ足を運んできた、まぎれもない桜桃の姿だった。


 都を離れ、因州の過酷な環境に身を置きながらも、その瞳の芯にある清らかさは変わっていない。


 朝凪は唇を噛み締めた。一歩、足が動きかけたが踏みとどまる。


 今は、雨を降らせるための過酷な謀略の渦中にいる身だ。ここで自分に気づかれれば、彼女をさらなる危険に巻き込むことになる。


(絶対に、気づかれてはならない)


 朝凪は拳を握りしめ、自身の気配を完全に「無」へと沈めた。ただ、男の前に立つ桜桃の姿を、見つめ続けることしかできない。


 男は顔を上げない。


「水が欲しいなら並べ」


 ぶっきらぼうだったが、拒絶ではない。


「そうではなくて。この水が、どうやって……」


 そこで桜桃は言葉を止めた。

 どうやって、という問いは、あまりに軽い気がした。この状況で、仕組みを問うことに意味があるのか。


 男はそこでようやく手を止めた。顔を上げる。


 視線が合う。濁っていない目だった。ただ、何かを深く見続けてきた者の静けさがある。


「仕組みが知りたいのか」


「はい」


「空気と地熱と、残ってる湿り気を使ってるだけだ」


 簡単に言う。だがその「だけ」が、常識から外れている。


 桜桃は装置を見た。


 確かに水は出ている。しかし周囲に水源はない。井戸でもない。流れもない。それでも生まれている。


「……ずっと出続けますか」


 男はすぐに首を振る。


「無理だな。壊れる」


「壊れる?」


「均衡が持たない。どこかが先に限界になる」


 説明は簡潔だった。だがその言葉の重さは簡潔ではない。

 作れば終わりではない。使い続ければ、必ずどこかが崩れる。


 それは、この街と同じ構造だった。

 助かる命が増えたと思った先に、限界があると示される。


 陰で見守る朝凪は、男の言葉を聞きながら、桜桃の横顔へ視線を移した。


 水はある。だが、足りない。七日後までに、それを変える。


 桜桃はしばらくその場に立ち尽くした。


 男はそれ以上語らない。再び手を動かし、同じ作業に戻る。まるでそれが当然であるかのように。


 ふと、桜桃は視線を感じて、装置から少し離れた山裾の木々へと目を向けた。


 ざあ、と乾いた風が草むらを揺らす。


 誰もいない。だが、そこにはなぜか、都の宮廷でいつも自分のすぐ後ろに控えていた、あの懐かしい「守護の気配」が揺らめいている気がした。


 桜桃は胸元を小さく押さえ、見えない影に向かってそっと呟く。


「……朝凪?」


 その呟きは風に消えたが、木陰の中で、朝凪は、静かに目を閉じた。


 桜桃が諦めたように踵を返し、街の方へと歩き去っていく。

 その背中が完全に小さくなって見えなくなるまで、朝凪はその場から一歩も動くことができなかった。


 ◇


 少し離れた場所で、刹那はその様子を見ていた。


 一人の男が、水を生んでいる。それは事実だ。


 だが、刹那の目が本当に釘付けになっていたのは、装置の仕組みそのものよりも、その周囲で繰り広げられていた奇妙な人間模様の方だった。


(……あいつら、一体何やってんだ?)


 山裾の低木の陰で、気配を完璧に殺して硬直している朝凪。

 そしてそのすぐ近くで、誰もいないはずの空間に向かって「朝凪?」と切なげに呟いた、あの都から来た舞姫。


 刹那は小さく眉をひそめ、顎に手を当てた。


 いつも淡々と任務をこなすだけだったあの朝凪が、あの少女の声を聞いた瞬間、見たこともないほど動揺して物陰に飛び込んだのだ。


 しかも、少女の方も姿の見えない朝凪の気配を正確に察知して、その名前を呼んだ。


(通りかかっただけ、ねえ……。嘘つけ。あいつが因州の雨にここまで固執してるのも、あの舞姫が理由か?……いや、それにしたってあいつのあの必死さは何なんだ。まるで、絶対に自分が見つかっちゃいけない理由でもあるみたいに)


 どう見ても、ただの偶然の居合わせではない。


(やっぱり、あの二人、最初から知り合いだろ)


 確信に近い不審が頭をもたげる。だが、二人がどういう関係なのか、なぜ朝凪がこれほど頑なに姿を隠そうとするのか、その理由はいくら考えても全く分からなかった。


 刹那は腑に落ちないものを感じながらも、ただ不思議そうに肩をすくめてその場を後にした。


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