第十話 救えないもの
朝廷軍の詰所では、朝から各地の水量を記した報告が飛び交っていた。
飛燕は卓上に地図を広げ、その脇に積まれた報告書を一枚ずつ確認していた。
そこへ、疾風が入ってきた。
「飛燕殿! 白砂の報告、持ってきました」
「ああ。そこへ置け」
疾風は言われた通り、報告書を卓上へ置いた。
白砂へ流れる水の量は、昨日よりさらに減っていた。
「……少ないな」
その言葉を聞いて、疾風も紙を覗き込む。
「少ないというか、もうほとんどないじゃないですか。大丈夫なんですか」
飛燕は答えず、地図へ目を移した。
上流の水量に、大きな変化はない。途中の堰についても、異常があったという報告は上がっていない。
それでも、白砂へ届く水は減り続けている。
「おかしい。白砂へ回す水は減らした。だが、ここまで減らせとは命じていない」
「えっ、減らしたんですか。まずくないですか」
「だから、ここまで減らしてはいないと言っている」
疾風は報告書と地図を交互に見た。
「じゃあ、水はどこへ行ったんですか」
「それが分かれば、こうして見ていない」
「なるほど。分からないんですね」
疾風が素直に頷くと、飛燕は呆れたようにため息をついた。
「……そう言っている」
飛燕は地図の上を指で辿り、上流にある一つの分水堰で指を止めた。
「上流から白砂まで、もう一度確認してこい。途中の堰も、水門も、分かれる水路も全部だ」
「俺ですか」
「ああ。それから――」
飛燕の指が、地図上の堰をとんと叩いた。
「ここの分水を変えろ。白砂へ三割回せ」
「増やすんですか」
「このままでは持たん。ただし、触るのはそこだけだ。それ以外に異常があっても勝手に動かすな。場所を覚えて、戻って報告しろ」
「はっ!」
疾風は瞬時に姿勢を正すと、そのまま部屋を出ていった。
飛燕は閉じた扉から目を戻し、白砂の数字をもう一度見た。
三割まで戻せば、少なくとも今よりは増える。
それでも足りないだろうが、今日を凌ぐだけの水にはなるはずだった。
日が傾き始めた頃、疾風は戻ってきた。
裾は泥に汚れ、片方の袖まで濡れている。
飛燕はその姿を見るなり眉を寄せた。
「何をした」
「水路を見てきました」
「それは分かっている」
疾風は卓まで来ると、折り畳んでいた紙を広げた。
「言われたところは変えました。白砂へ三割です。ですが水は増えてません」
飛燕の手が止まった。
「……何?」
「俺もおかしいと思って、何度か見たんですけど。堰を動かした直後は、ちゃんと白砂の方へ水が増えてました。でも、下まで行くと増えてないんです」
飛燕の目が鋭くなる。
「途中で漏れているのか」
「それが、壊れてるところは見つかりませんでした。見える堰も水門も、全部見ました」
「全部?」
「全部見ろって言ったじゃないですか。だから全部見ました」
飛燕は虚をつかれたように疾風を見たが、やがて「……そうだったな」と呟いた。
疾風は広げた紙の一点を指した。
「ただ、一つ変なのがあって……ここで、水路が枝分かれしてました」
疾風の指が示しているのは、白砂へ向かう水路の途中だった。
飛燕は卓上の地図へ目を移し、同じ場所を探した。
一本の水路が、白砂へ向かって伸びている。枝分かれなど、どこにも描かれていない。
「古い水路か」
「いや、新しいと思います。石もそんなに傷んでなかったし、水門もありました」
「水門?」
「はい。水も流れてました」
「どの程度だ」
「そこまでは分かりません。ただ、俺が三割に増やしたあとも流れてました」
飛燕は黙って地図を見つめた。
地図にはない水路が現地にはある。
「その先は」
「途中まで追いました。でも、山の方へ入っていってて。全部見ろって言われたのは白砂までだったので、そっちは途中で戻りました」
飛燕は疾風が描き込んだ紙を手元へ引き寄せた。
字はところどころ歪み、地図とも呼べないような簡素なものだったが、確認した場所だけは妙に細かく記されている。
「他に異常は」
「ありません。見落としがなければ、ですけど」
飛燕が顔を上げる。
「それはないだろう」
疾風が目を丸くした。
「信用してるんですか、俺のこと」
「今さら何を言っている」
「いや、飛燕殿、いつも俺に馬鹿って言うから」
「馬鹿なのと信用できるかどうかは別だ」
「そうなんですか」
疾風は少しだけ口元を緩めた。
飛燕はもう一度、二枚の地図を見比べた。
一方には、白砂へ続く一本の水路。もう一方には、その途中から伸びる、名もない一本の線。
「疾風、今日はもう休め」
「分かりました。飯、まだありますかね」
「お前の分は残してある」
「本当ですか!」
「さっさと行け」
今度こそ疾風は笑顔になって出ていった。
飛燕はその背を見送ることもなく、報告書へ目を落とした。
白砂へ三割、分水を増やしたはずなのに、白砂へ届く水は増えていない。
飛燕は地図にない一本の線へ、ゆっくりと指を置いた。
***
日が落ちた街の外れに、人の気配はなかった。
刹那は壁に背をもたれて空を見上げていた。特に何をするでもない。ただ、街の中にいる気分ではなかっただけだ。
しばらくして、足音が近づいてきた。
軽い。迷いがない。地を踏む音が、妙に少ない。
振り返らないまま、刹那は言った。
「……お前か」
近づいてきた朝凪へ、刹那はちらりと視線を向けた。
「相変わらずだな。気配が軽すぎる」
朝凪は刹那の数歩手前で足を止め、その暗い双眸を向けた。
刹那は壁から背を離し、にやりと笑みを浮かべる。女性に見せる甘く柔らかな空気は完全に引っ込め、男には容赦なく、直球を放り投げた。
「お前、あの舞姫と、本当はどんな関係だ?」
朝凪の眉が、微かに動いた。だが、それだけだった。
「何の話だ」
「しらばっくれるなよ。街外れの装置のところで、あいつがお前の名前を呼んだ。お前、それを聞いて隠れただろ」
「空耳だろう。私がその女を知るはずがない」
「空耳なわけあるか。あいつ、今にも泣きそうな顔して『朝凪』って言ってたぞ」
「気のせいだ。その舞姫が、私の名を口にする理由がない」
あまりにも平然と言い切るので、刹那はしばらくその顔を見つめた。
どう見ても嘘なのだが、この男が口を割る気がないことだけは分かる。
「……分かったよ。お前がそこまでしらを切り通すなら、もう聞かねえ」
刹那はぽりぽりと首筋を掻くと、朝凪の衣の裾へ目を落とした。
土がついている。靴にも、街中を歩いただけではつかない赤茶けた泥がこびりついていた。
「山にいたのか」
「ああ」
「昨日の装置と関係があるのか?」
「ある。地形と風の流れを見ていた」
「水を探してたんじゃなかったのか」
「水だけでは足りない」
「……何する気だ、お前」
朝凪は黙って山の方へ視線を向けた。
「あと四日だぞ」
「ああ」
「お前が七日後に降らせるって言ったんだからな。俺はそれを信じて、広場で言ったんだぞ」
「お前が勝手に宣言したんだろう」
「失敗したら、俺まで石を投げられるんじゃないか?」
「避ければいい」
「そういう話じゃねえよ」
刹那は呆れたように息を吐いた。
残された時間は、あと四日。
装置はまだ小さく、雨が降る気配もない。
それでも朝凪は、何かを確かめるように、じっと山を見つめていた。
刹那もその視線を追った。暮れ残った空を背に、黒い稜線が長く横たわっている。
なぜか、胸の奥に小さな引っかかりを覚えた。だが、それが何なのかまでは分からなかった。
***
四日目。夜が明けて間もない頃、朝凪は因州府の外れにある一軒の店を訪ねていた。
表通りから外れた細い道の先に、古びた木造の建物がひっそりと建っている。看板らしいものはなく、軒下には縄や油紙に包まれた荷が雑然と積まれていた。
朝凪は閉ざされた戸の前に立つと、二度叩いた。
しばらくして、内側から物音がした。
「……まだ開けてないぞ」
眠気を含んだ声とともに戸がわずかに開く。
中から顔を出した男は朝凪を見るなり、言葉を止めた。
朝凪も何も言わない。
男はしばらくその顔を眺めていたが、やがて目を細めた。
「……随分、久しぶりだな」
「覚えていましたか」
「忘れるものか。あの時、あれだけの火薬を用意させた方を」
男は戸をもう少し開き、朝凪の姿を上から下まで眺めた。
「前に来た時は、そんな格好じゃなかったけどな。出仕はやめたのか?」
朝凪は答えなかった。男もそれ以上は聞かず、戸から手を離した。
「それで。こんな朝早くに何の用だ」
「火薬が欲しい」
男はぴたりと動きを止めた。
「……どれくらい」
「今回は、あの時ほどはいりません」
男は深く息を吐き、頭を掻いた。
「嫌な予感しかしないな。……一応聞くが、何に使う」
朝凪は遠くに見える山へ目を向けた。
「山を崩す」
「……帰れ」
沈黙が落ちた。
朝凪は何事もなかったようにもう一度、男を見た。
「火薬を」
「帰れ」
***
広場では、昨日までの流れをなぞるように、人々は井戸の周りへ集まっていた。器を抱え、列を作り、順番を待つ。その動き自体は変わらない。
けれど、決定的に違うものがあった。
――水を運ぶ車輪の音が、どこからも聞こえてこない。
人々は最初、それを口にしなかった。昨日の余韻がまだ残っている。今日も来るはずだという前提が、簡単には崩れない。
しかし、非情に時間だけが過ぎていく。
日が少し高くなり、地面の影の形が変わる。それでも、来ない。
列の後方で、わずかなざわめきが起き始めた。
「遅れてるだけだ」
「道が悪いんだろ」
理由はすぐに用意される。けれど、そのどれもが確かめられない。
やがて、前の方にいた者たちから、ゆっくりと理解が広がっていった。
(今日の分は、ないんだ――)
声を荒らげる者こそいなかったが、空気は完全に一変した。昨日までの柔らかさは消え、再び鋭く張り詰めた乾きが戻ってくる。
一度得てしまった安堵が裏切られる絶望は、最初から何もなかったときよりも、はるかに深く人々の心を蝕んだ。
昼を過ぎた頃、街の奥で小さな人だかりができた。
最初は、誰もそれを騒ぎとは思わなかった。ただ人が集まっている、それだけの光景だった。
しかし、近づいた者の表情が次々と凍りついていく。
一人、また一人と足が止まり、視線がそこから動かせなくなる。
道端に、それが横たわっていた。
動かない身体に布がかけられているが、完全には隠しきれていない。土の色と変わらないほどに乾ききった、人間の手が見えている。
誰かが小さく息を呑んだ。
それが合図のように、周囲の空気が変わっていく。
「……いつからだ」
それに答える者はいない。誰もが分かっていたからだ。
昨日から、いや、その前からいたはずのものが、余裕という名の化の皮が剥がれたことで、ようやく『見える形』になっただけなのだと。
これまでは隠していた。見ないようにしていた。運び、覆い、街の端へ寄せていた絶望が、水が途絶え、心の余裕が消え去った瞬間に、もう隠しきれずに表へ溢れ出してしまったのだ。
見れば、もう一人。さらにその先にも、同じような塊があった。
ざわめきが一気に大きくなる。明らかな動揺と恐怖の音だった。
「どうなってる」
「昨日は来たのに、また来るんじゃないのか」
重なり合う言葉のどれもが、確信を持たずに震えている。水を求める目と、横たわる骸から目を逸らそうとする怯えが、同時に広場を支配していく。
桜桃はその場に立ち尽くしていた。
水を求める人々の手を引き受ける前に、その光景が容赦なく目に入ってしまう。
昨日救えたはずの命。そして今日、届かなかったことで、あまりにもあっけなく失われたもの。
その差が、残酷なほどに境界線を引いていた。
街はまだ、物理的には崩れていない。だが、内側から激しく揺れている。
昨日よりも深く、確実に、人々は限界の崖っぷちへと近づいていた。




