第九話 舞姫、約束する
三日目。遠くから車輪の音が聞こえたとき、最初に気づいたのは子どもたちだった。乾いた道に新しい音が混じる。それだけで、人の視線が自然とそちらへ向く。
やがて列が見える。
水を運ぶ車だった。備州からの輸送。
樽の脇には、わずかながら穀袋も積まれている。飢えを癒やすには到底足りない。それでも、何もないよりはずっとよかった。
それが分かった瞬間、誰かが小さな声を上げた。歓声は上がらないが、張った空気がほんのわずかに緩む。
水が配られる。器に注がれる音が、いつもよりはっきりと響く。
穀袋も、子どもや年寄りのいる家から順に渡されていく。
ほんの一時のことだと、誰もが分かっている。それでも、その一時があるかないかで、人の顔に険しさが薄れる。目の奥にあった硬さが、少しだけほどける。
街はまだ危ういが今は、確かに持ち直していた。
診療所の喧騒がわずかに落ち着いた頃、寝台の若葉がゆっくりと目を開けた。
「……六花、おねえちゃん」
「起きていたの? 起こしてしまったかしら」
「ううん、自分で起きたの」
若葉は天井をじっと見つめたまま、小さな耳を澄ませるように少し間を置いた。
「ここ……なんだか、うるさくなったね」
「そうね」
桜桃は少し考えてから、その言葉の意味に気づいた。
部屋の中に、声が増えているのだ。昨日までは、ただ死を待つような絶望的な静寂に包まれていた。
けれど今日は、苦しげな呻き声や、互いを呼び合う声が上がっている。
動けるようになった者が増えた証でもあり、同時に、水があると聞いて運び込まれる者が増えた証でもあった。
「……若葉ちゃんは、ここに来る前はどこにいたの?」
「街の端っこ。大きな井戸の近くだよ」
「ご家族と一緒にいたの?」
「お母さんと、ふたりでいた」
少しの間が空いた。若葉の声は、ぽつり、ぽつりと淡々と続く。
「でも、お母さんはもう、いないの」
その声はあまりにも平坦だった。あまりに過酷な現実の前に、泣くという感覚そのものを失くしてしまったかのような言い方だった。
「……いつから、いないの?」
「水がなくなってから、すぐだよ。お母さんね、自分は飲まないで、私にばっかりお水を飲ませてたの。……だから私、いま生きてるんだと思う」
若葉は、それを誰のせいにするわけでも、悲劇ぶるわけでもなく言った。ただ大切な思い出をなぞるように話している。
「……お父さんは?」
「知らない。私が生まれる前からいないんだって」
「そっか……」
「うん」
しばらく、二人の間に静かな沈黙が流れた。
遠くで誰かが必死に水を求める声が聞こえる。瑛が慌ただしく薬箱を動かす音が響いている。
「……ねえ、六花おねえちゃん」
「なあに?」
「雨、ほんとに降るのかな」
「降るよ。絶対に降る」
「ほんとに、ほんとに?」
「ええ。ほんとに降らせるわ」
若葉は少しだけ安心したように視線を揺らし、それから、また天井を見上げた。
「お空からお水がいっぱい降ってきたらね、外に出たいな」
「そうね、一緒に出ようね」
「うん。わかばね、雨に触ったことがないの」
桜桃は、胸を突かれたように思わず若葉の顔を見た。
「……触ったことがない?」
「うん。ずっとずーっと、降らなかったから。私が覚えてる限り、お空はずっとこの色だよ」
それがどれほど異常で、残酷なことか。桜桃の喉が、きゅっと詰まって言葉が出なかった。この子が物心ついてからの数年間、まともな雨を一度も知らないのだ。この乾いた砂の世界しか、彼女の記憶にはない。
「……絶対に降らせるね」
気づいたら、祈るような、誓うような言葉が口から飛び出していた。舞姫としてだけではない。桜桃という一人の人間としての、切実な願いだった。
「……うん! 約束だよ、おねえちゃん」
若葉は今日一番の、本当に嬉しそうな顔で小さく笑った。そして、満足したように、再びゆっくりと瞼を閉じた。
その小さな胸の上下を見つめながら、桜桃は若葉の手を強く、強く握りしめた。
***
その日、朝廷軍の詰所では、朝から各地の水量を記した報告が飛び交っていた。
飛燕は卓上に地図を広げ、その脇に積まれた報告書を一枚ずつ確認していた。
そこへ、第二皇子である疾風が入ってきた。
「飛燕殿! 白砂の報告、持ってきました」
「ああ。そこへ置け」
疾風は言われた通り、報告書を卓上へ置いた。
白砂へ流れる水の量は、昨日よりさらに減っていた。
「……少ないな」
その言葉を聞いて、疾風も紙を覗き込む。
「少ないというか、もうほとんどないじゃないですか。大丈夫なんですか」
飛燕は答えず、地図へ目を移した。
上流の水量に、大きな変化はない。途中の堰についても、異常があったという報告は上がっていない。
それでも、白砂へ届く水は減り続けている。
「おかしい。白砂へ回す水は減らした。だが、ここまで減らせとは命じていない」
「えっ、減らしたんですか。まずくないですか」
「だから、ここまで減らしてはいないと言っている」
疾風は報告書と地図を交互に見た。
「じゃあ、水はどこへ行ったんですか」
「それが分かれば、こうして見ていない」
「なるほど。分からないんですね」
疾風が素直に頷くと、飛燕は呆れたようにため息をついた。
「……そう言っている」
飛燕は地図の上を指で辿り、上流にある一つの分水堰で指を止めた。
「上流から白砂まで、もう一度確認してこい。途中の堰も、水門も、分かれる水路も全部だ」
「俺ですか」
「ああ。それから――」
飛燕の指が、地図上の堰をとんと叩いた。
「ここの分水を変えろ。白砂へ三割回せ」
「増やすんですか」
「このままでは持たん。ただし、触るのはそこだけだ。それ以外に異常があっても勝手に動かすな。場所を覚えて、戻って報告しろ」
「はっ!」
疾風は瞬時に姿勢を正すと、そのまま部屋を出ていった。
飛燕は閉じた扉から目を戻し、白砂の数字をもう一度見た。
三割まで戻せば、少なくとも今よりは増える。
それでも足りないだろうが、今日を凌ぐだけの水にはなるはずだった。
日が傾き始めた頃、疾風は戻ってきた。
裾は泥に汚れ、片方の袖まで濡れている。
飛燕はその姿を見るなり眉を寄せた。
「何をした」
「水路を見てきました」
「それは分かっている」
疾風は卓まで来ると、折り畳んでいた紙を広げた。
「言われたところは変えました。白砂へ三割です。ですが水は増えてません」
「……何?」
「俺もおかしいと思って、何度か見たんですけど。堰を動かした直後は、ちゃんと白砂の方へ水が増えてました。でも、下まで行くと増えてないんです」
飛燕の目が鋭くなる。
「途中で漏れているのか」
「それが、壊れてるところは見つかりませんでした。見える堰も水門も、全部見ました」
「全部?」
「全部見ろって言ったじゃないですか。だから全部見ました」
飛燕は虚をつかれたように疾風を見たが、やがて「……そうだったな」と呟いた。
疾風は広げた紙の一点を指した。
「ただ、一つ変なのがあって……ここで、水路が枝分かれしてました」
疾風の指が示しているのは、白砂へ向かう水路の途中だった。
飛燕は卓上の地図へ目を移し、同じ場所を探した。
一本の水路が、白砂へ向かって伸びている。枝分かれなど、どこにも描かれていない。
「古い水路か」
「いや、新しいと思います。石もそんなに傷んでなかったし、水門もありました」
「水門?」
「はい。水も流れてました」
「どの程度だ」
「そこまでは分かりません。ただ、俺が三割に増やしたあとも流れてました」
飛燕は黙って地図を見つめた。地図にはない水路が現地にはある。
「その先は」
「途中まで追いました。でも、山の方へ入っていってて。全部見ろって言われたのは白砂までだったので、そっちは途中で戻りました」
飛燕は疾風が描き込んだ紙を手元へ引き寄せた。
字はところどころ歪み、地図とも呼べないような簡素なものだったが、確認した場所だけは妙に細かく記されている。
「他に異常は」
「ありません。見落としがなければ、ですけど」
「それはないだろう」
疾風が目を丸くした。
「信用してるんですか、俺のこと」
「今さら何を言っている」
「いや、飛燕殿、いつも俺に馬鹿って言うから」
「馬鹿なのと信用できるかどうかは別だ」
「そうなんですか」
疾風は少しだけ口元を緩めた。
飛燕はもう一度、二枚の地図を見比べた。
一方には、白砂へ続く一本の水路。もう一方には、その途中から伸びる、名もない一本の線。
「疾風、今日はもう休め」
「分かりました。飯、まだありますかね」
「お前の分は残してある」
「本当ですか!」
「さっさと行け」
今度こそ疾風は笑顔になって出ていった。
飛燕はその背を見送ることもなく、報告書へ目を落とした。
白砂へ三割、分水を増やしたはずなのに、白砂へ届く水は増えていない。
飛燕は地図にない一本の線へ、ゆっくりと指を置いた。
***
同じ頃、療所の仕事が一段落して、桜桃は街の外れで休憩を取っていた。
長く伸びた影が、乾いた土を赤黒く染めていく。
刹那が石段に腰を下ろしていた。特に何をするでもなく、長い足を一段下に投げ出して、遠くの赤く燃える山並みを見ている。
「お疲れさん、姫」
「……疲れているように見えますか」
「見える」
「そうですか」
桜桃も少し離れた隣に、そっと腰を下ろした。膝を抱えると、じんわりとした疲れが体に染み渡っていく。
刹那は遠くを見つめたまま、隣に座る少女の横顔を横目で静かに観察していた。
――朝凪とどういう関係だ? あいつがこの土地の雨に異常に執着してるのは、姫が原因か。
喉元まで出かかったその問いを、刹那は夕闇の中に溶かすように、そっと飲み込んだ。
ここで勝手に詮索するのは、大人げない。
それに、この少女はまだ自分を完全に信用しているわけではないし、何より、あの朝凪が必死に姿を隠してまで裏で動いているのだ。自分が不用意にその境界線に踏み込めば、朝凪の計画を狂わせることになりかねない。
(……まあ、あいつが隠したがってるんだ。ここで俺が突っつくのは野暮ってなもんだろ)
あえて知らないフリをしてやるのが、今のこの状況における、一番賢く、かつ彼なりの配慮というものだった。
刹那は組んでいた腕を解いて、ふっといつも通りの気怠げで、どこか甘い笑みを浮かべた。
「……何を見てるんですか」
隣から視線を感じたのか、桜桃が不思議そうに刹那を見上げてくる。
刹那はふっと目を細め、彼女の頬に触れるか触れないかの距離で、からかうように指先を揺らした。
「いや? 一生懸命な姫が、夕日に映えて随分と可愛いな、と思ってさ」
「な……っ、からかわないでください」
ふいに飛んできた直球な言葉に、桜桃は頬を夕暮れ以上の赤さに染めて、慌てて視線を逸らした。
「はは、照れるなって。頑張ってるのは本当だろ」
刹那はそれ以上、彼女の心を揺さぶるような核心には、何も触れなかった。
ただ、その赤くなった横顔をもう一度だけ見つめ、再び静かに遠くの山並みへと視線を戻した。
七日という時間。街の均衡。水。そして、この少女。
まだ一本の線にはならないが、自分がその糸を無理に手繰り寄せる必要はない。
二人の間に、また夕暮れの静寂が戻ってきた。刹那はただ、静かにその不穏な均衡を、大人の余裕で見守ることに決めていた。




