第十一話 救えないもの
広場の空気は、どこか空回りしていた。
昨日までの流れをなぞるように、人々は井戸の周りへ集まる。器を抱え、列を作り、順番を待つ。その動き自体は変わらない。
けれど、決定的に違うものがあった。
――水を運ぶ車輪の音が、どこからも聞こえてこない。
人々は最初、それを口にしなかった。昨日の余韻がまだ残っている。今日も来るはずだという前提が、簡単には崩れない。
しかし、非情に時間だけが過ぎていく。
日が少し高くなり、地面の影の形が変わる。それでも、来ない。
列の後方で、わずかなざわめきが起き始めた。
「遅れてるだけだ」
「道が悪いんだろ」
理由はすぐに用意される。けれど、そのどれもが確かめられない。
やがて、前の方にいた者たちから、ゆっくりと理解が広がっていった。
(今日の分は、ないんだ――)
声を荒らげる者こそいなかったが、空気は完全に一変した。昨日までの柔らかさは消え、再び鋭く張り詰めた乾きが戻ってくる。
一度得てしまった安堵が裏切られる絶望は、最初から何もなかったときよりも、はるかに深く人々の心を蝕んだ。
列が乱れる。順番を守っていた足が、我先にとわずかに前へ出る。
均衡は、明らかに崩れかけていた。
誰もが同じ恐怖を抱えている。なぜ来ない。明日も来ないのか。しかし、その問いに応える者はどこにもいなかった。
昼を過ぎた頃、街の奥で小さな人だかりができた。
最初は、誰もそれを騒ぎとは思わなかった。ただ人が集まっている、それだけの光景。
しかし、近づいた者の表情が次々と凍りついていく。
一人、また一人と足が止まり、視線がそこから動かせなくなる。
道端に、それが横たわっていた。
動かない身体に布がかけられているが、完全には隠しきれていない。土の色と変わらないほどに乾ききった、人間の手が見えている。
誰かが小さく息を呑んだ。
それが合図のように、周囲の空気が張り詰めていく。
「……いつからだ」
それに答える者はいない。誰もが分かっていたからだ。
昨日から、いや、その前からいたはずのものが、余裕という名の化の皮が剥がれたことで、ようやく『見える形』になっただけなのだと。
これまでは隠していた。見ないようにしていた。運 び、覆い、街の端へ寄せていた絶望が、水が途絶え、心の余裕が消え去った瞬間に、もう隠しきれずに表へ溢れ出してしまったのだ。
見れば、もう一人。さらにその先にも、同じような塊があった。
ざわめきが一気に大きくなる。不安ではない、明らかな動揺と恐怖の音だった。
「どうなってる」
「昨日は来たのに、また来るんじゃないのか」
重なり合う言葉のどれもが、確信を持たずに震えている。水を求める目と、横たわる骸から目を逸らそうとする怯えが、同時に広場を支配していく。
桜桃はその場に立ち尽くしていた。
水を求める人々の手を引き受ける前に、その光景が容赦なく目に入ってしまう。
昨日救えたはずの命。そして今日、届かなかったことで、あまりにもあっけなく失われたもの。
その差が、残酷なほどに境界線を引いていた。
街はまだ、物理的には崩れていない。だが、内側から激しく揺れている。
昨日よりも深く、確実に、人々は限界の崖っぷちへと近づいていた。
◇
白砂の外縁、街を囲むように広がる乾いた地帯に、軍勢は静かに展開していた。
その中心に、飛燕がいた。
動きやすさを優先した略装を纏っている。余計なものを削ぎ落とした装いだったが、その立ち方には隙がない。視線は常に外と内の両方を測っている。街の様子、兵の配置、地形の起伏。すべてを一度に捉えているようだった。
部下が一人、駆け寄る。
「隊列の再配置、完了しました」
飛燕は短く頷く。
「維持しろ。動かすな」
声に抑揚はなく、命令はそれだけだった。
部下は一礼し、すぐに離れた。
飛燕はわずかに視線を山の方へ向ける。
乾いた尾根が連なり、その先は見えない。だがその奥にある流れを、頭の中でなぞっているようだった。
やがて、別の者を呼ぶ。
「地形図を」
差し出された紙を受け取り、広げる。
簡素なものだが、必要な線は揃っている。谷の落ち方、水の通り道、過去に使われていた水路の跡。
飛燕の指が、その一部で止まる。
「ここ」
短く示す。
「確認が必要だ」
近くにいた将校が一歩前に出る。
「水路の痕跡ですか」
飛燕は頷く。
「途切れているはずだが、現状を見ておけ」
淡々とした口調だった。
水の流れを把握し、異常を特定するためのものだ。
将校はすぐに応じる。
「人員を割きますか」
「必要ない。少数でいい」
飛燕は少し間を置いて、再び口を開いた。
「いや俺が行く」
その言葉に、わずかに空気が動いたが、誰も異を唱えない。
飛燕の立場なら、現場確認に出ること自体は不自然ではない。
「供は?」
「いらない」
即答だった。それ以上のやり取りはない。
将校は一礼し、指示を伝えに走る。
飛燕は地図を畳み、視線をもう一度、街へ向ける。
遠目には静かだ。けれど内側がどうなっているかは、想像できる。
やがて、飛燕は踵を返し、山の方へと歩き出す。足取りに迷いはない。
その背はすぐに地形に紛れ、視界から消えた。
残された陣は、変わらず静かに街を囲んでいる。
◇
街の奥に設けられた仮の診療所は、すでに満床だった。
人は絶えず運び込まれる。抱えられ、支えられ、あるいは自らの足で這うようにして辿り着く者もいる。だが、そのどれもが、昨日よりも確実に重症だった。
桜桃はその喧騒の中で、ひたすら機械的に手を動かしていた。
脈を確かめ、呼吸を見て、泥水のような水で布を湿らせる。
「……六花、おねえ……ちゃん」
かすれた、けれど聞き間違えるはずのない声に、桜桃は弾かれたように振り返った。
若葉だった。昨日、「雨が降ったら外に出たい」とはにかんでいた、あの小さな少女だった。
桜桃はすぐにその場に膝をつき、若葉の額に手を当てる。
「っ、熱い……!」
昨日より、ずっと熱い。燃えるような熱が手の平に伝わってくる。呼吸も浅く、胸の上下がせわしない。昨日あれほど落ち着いていたのに、病状は坂道を転げ落ちるように悪化していた。
「水を……琥珀」
「……もう、ほとんど残ってない」
琥珀の声が横から重く落ちた。空に近い桶を抱えて立っている。琥珀は若葉の顔を見ようとしなかった。ただ、前を向いたまま、耐えるように唇を噛んでいる。
「でも、使わないとこの子が…… お願い」
「……分かってる」
琥珀は少し間を置いてから、ゆっくりと桶を傾けた。器の底に、わずかな水が溜まる。
桜桃はそれを受け取り、若葉の唇に含ませた。ほんの数滴の、命の雫。それでも、昨日はこれで持ち直してくれた。今日も、今日もきっと。そう祈りながら若葉の喉を見つめる。
だが――。
喉が、動かなかった。水が唇の端から虚しくこぼれ落ちていく。
「……若葉ちゃん。飲んで。お願いだから、ごくんして」
返事はない。
「ねえ、六花だよ。お姉ちゃんここにいるよ、分かる?」
必死に呼びかけると、若葉の長い睫毛が、かすかに震えた。
光を失いかけた瞳が、薄く開く。
「……おねえちゃん」
「うん、ここにいるよ。ずっと隣にいるからね」
「……あめ」
「うん」
「……ふった?」
桜桃の喉が、ぎゅっと激しく詰まった。涙で視界が歪みそうになるのを、必死で堪える。
「まだだよ。でもね、もうすぐ絶対に降るから。だから、一緒に外に出よう。一緒に雨に触ろうね」
「……うん。わかば……まってる、ね」
満足したように、瞳がまたゆっくりと閉じていく。
呼吸を確かめる。まだ、ある。けれどあまりにも浅い。糸のように細い命の灯火。
「もっと、お水を……」
「これで、本当に全部だ」
琥珀の声は平坦だった。桜桃を責めているのではない。ただ、この場に存在する現実を告げていた。
桜桃は震える手で布を濡らし、若葉の額に当てた。小さな手を両手でぎゅっと握りしめ、何度も名前を呼ぶ。何度も、何度も声をかける。
しかし、二度と返事は戻ってこなかった。
やがて、小さな胸の上下が、静かに止まった。
あまりにも静かな最後だった。悲鳴をあげることもなく、まるで最初からそこに何もなかったかのように、すべての営みがすうっと途切れた。
桜桃の動きが、そのまま凍りつく。
昨日、あんなに嬉しそうに笑っていた。
雨に触ったことがないから、触ってみたいと言っていた。
絶対に降らせるねと、自分がこの口で、確かに約束したのに。
「……どうして」
声にならなかった。
約束したのに。守れなかった。救えなかった。皇女としての誇りも、舞姫としての祈りも、この小さな命ひとつの前になんの役にも立たなかった。
琥珀は何も言わなかった。ただ、空になった木桶を床に静かに下ろした。その渇いた音が、やけに大きく部屋に響いた。
「……次の水、取りに行ってくる」
琥珀はそれだけを絞り出すように言って、立ち上がった。桜桃の返事も待たずに、逃げるように歩き出す。その背中も、静かに震えていた。
悲しみに暮れる時間さえ、与えてくれない。
すぐにまた次の寝台から、水を求める呻き声が上がった。
桜桃は涙を拭うこともできぬまま、冷たくなっていく若葉の手をそっと離し、次の命へと這いつくばるように向かっていった。
「…次」
自分に言い聞かせるように呟く。
膝が、震えていた。
しばらくして、琥珀が水の入った桶を抱えて戻ってきた。どこから持ってきたのか、聞かなかった。
ただ受け取って、また手を動かし始めた。
救うという言葉が、胸の奥で形を変え始めていた。




