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狂桜華《きょうおうか》~亡国の姫は、名を捨て帝を目指す~  作者: 澪
第二章 乾いた地と、雨の記憶【因州祈雨編】

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第十一話 危うい硝子

 昊夜が因州に入ってから数日が経っていた。


 白砂から離れた街では、水の配給を巡る小競り合いが起きていた。


「押すな! 順に並べ!」


 怒号の飛び交う配給所へ昊夜が姿を現した途端、騒ぎがぴたりと静まった。


 昊夜は倒れた桶と、地面へ流れ出した水を一瞥した。


「何があった」


 役人が慌てて頭を下げる。


「配給が、昨日より減りまして……後ろの者まで回らぬのではないかと、不安が広がったようで」


「昨日より? 予定量は変わっていないはずだ」


「帳簿の上では、そのはずなのですが」


 またか。


 昊夜は何も言わず、差し出された帳簿を受け取った。


 因州へ入ってから、似たような食い違いを何度も見ている。


 記録では送られている。途中の役所でも、受領したことになっている。


 だが、実際に末端へ届く量は、それより少ない。


 そして、その差は白砂へ近づくほど大きくなっていた。


「……昊夜様、妙なものがありました」


 背後に控えていた千弦が、一枚の書付を差し出した。


「何だ」


「今朝、火薬が買われています。それも、相当な量が」


 昊夜は眉根を寄せ、書付に視線を落とした。


「誰が買った」


「まだ分かりません。店主も口が堅く、買い手については話そうとしません」


「どこへ向かっている」


「荷はすでに店を出ています。西へ向かったところまでは確認できました」


 昊夜は卓上の地図を開いた。


 因州府から西へ延びる道を目で追う。その先には、いくつもの村や街がある。


 そしてさらにその先。


 白砂。


 今、あの舞姫――桜桃が派遣されている、もっとも過酷な地域だった。


「行き先を追え」


「はい」


「買った者も調べろ。何に使うつもりなのか、分かるまで戻ってくるな」


 千弦が一礼し、その場を離れる。


 昊夜はその背を見送ったあと、もう一度地図へ視線を落とした。


 水は消えている。


 その一方で、大量の火薬が動いている。


 今のところ、二つを結びつけるものは何もない。


 それでも昊夜は、白砂の名からしばらく目を離さなかった。


 ◇


 街の奥に設けられた仮の診療所は、すでに満床だった。

 人は絶えず運び込まれる。抱えられ、支えられ、あるいは自らの足で這うようにして辿り着く者もいる。だが、そのどれもが、昨日よりも確実に重症だった。


 桜桃はその喧騒の中で、ひたすら機械的に手を動かしていた。

 脈を確かめ、呼吸を見て、泥水のような水で布を湿らせる。


「……六花、おねえ……ちゃん」


 かすれた、けれど聞き間違えるはずのない声に、桜桃は弾かれたように振り返った。

 若葉だった。昨日、「雨が降ったら外に出たい」とはにかんでいた、あの小さな少女だった。


 桜桃はすぐにその場に膝をつき、若葉の額に手を当てる。


「っ、熱い……!」


 昨日より、ずっと熱い。燃えるような熱が手の平に伝わってくる。呼吸も浅く、胸の上下がせわしない。昨日あれほど落ち着いていたのに、病状は坂道を転げ落ちるように悪化していた。


「水を……琥珀」


「……もう、ほとんど残ってない」


 琥珀の声が横から重く落ちた。空に近い桶を抱えて立っている。琥珀は若葉の顔を見ようとしなかった。ただ、前を向いたまま、耐えるように唇を噛んでいる。


「でも、使わないとこの子が…… お願い」


「……分かってる」


 琥珀は少し間を置いてから、ゆっくりと桶を傾けた。器の底に、わずかな水が溜まる。


 桜桃はそれを受け取り、若葉の唇に含ませた。ほんの数滴の、命の雫。それでも、昨日はこれで持ち直してくれた。今日も、今日もきっと。そう祈りながら若葉の喉を見つめる。


 だが――。

 喉が、動かなかった。水が唇の端から虚しくこぼれ落ちていく。


「……若葉ちゃん。飲んで。お願いだから、ごくんして」


 返事はない。


「ねえ、六花だよ。お姉ちゃんここにいるよ、分かる?」


 必死に呼びかけると、若葉の長い睫毛が、かすかに震えた。

 光を失いかけた瞳が、薄く開く。


「……おねえちゃん」

「うん、ここにいるよ。ずっと隣にいるからね」

「……あめ」

「うん」

「……ふった?」


 桜桃の喉が、ぎゅっと激しく詰まった。涙で視界が歪みそうになるのを、必死で堪える。


「まだだよ。でもね、もうすぐ絶対に降るから。だから、一緒に外に出よう。一緒に雨に触ろうね」


「……うん。わかば……まってる、ね」


 満足したように、瞳がまたゆっくりと閉じていく。

 呼吸を確かめる。まだ、ある。けれどあまりにも浅い。糸のように細い命の灯火。


「もっと、お水を……」


「これで、本当に全部だ」


 琥珀の声は平坦だった。桜桃を責めているのではない。ただ、この場に存在する現実を告げていた。


 桜桃は震える手で布を濡らし、若葉の額に当てた。小さな手を両手でぎゅっと握りしめ、何度も名前を呼ぶ。何度も、何度も声をかける。


 しかし、二度と返事は戻ってこなかった。


 やがて、小さな胸の上下が、静かに止まった。


 あまりにも静かな最後だった。悲鳴をあげることもなく、まるで最初からそこに何もなかったかのように、すべての営みがすうっと途切れた。


 桜桃の動きが、そのまま凍りつく。


 昨日、あんなに嬉しそうに笑っていた。

 雨に触ったことがないから、触ってみたいと言っていた。

 絶対に降らせるねと、自分がこの口で、確かに約束したのに。


「……どうして」


 声にならなかった。

 約束したのに。守れなかった。救えなかった。皇女としての誇りも、舞姫としての祈りも、この小さな命ひとつの前になんの役にも立たなかった。


 琥珀は何も言わなかった。ただ、空になった木桶を床に静かに下ろした。その渇いた音が、やけに大きく部屋に響いた。


「……次の水、取りに行ってくる」


 琥珀はそれだけを絞り出すように言って、立ち上がった。桜桃の返事も待たずに、逃げるように歩き出す。その背中も、静かに震えていた。


 悲しみに暮れる時間さえ、与えてくれない。

 すぐにまた次の寝台から、水を求める呻き声が上がった。桜桃は涙を拭うこともできぬまま、冷たくなっていく若葉の手をそっと離し、次の命へと這いつくばるように向かっていった。


「…次」


 自分に言い聞かせるように呟く。

 膝が、震えていた。

 しばらくして、琥珀が水の入った桶を抱えて戻ってきた。どこから持ってきたのか、聞かなかった。


 ただ受け取って、また手を動かし始めた。

 救うという言葉が、胸の奥で形を変え始めていた。


***


 その日の夕刻、広場に人が集められた。


 ──雨乞いの舞。


 それが告げられると、行き場を失った人々は、吸い寄せられるように自然とその場に集まってきた。


 誰もが何かに縋(すが)りたかった。奇跡でも、嘘でもいい、目に見える『救いの形』を必要としていた。


 桜桃は熱を孕んだ広場の中央に立つ。神祇官の舞姫として。

 背負わされたその役割の重さを噛み締めながら、深く、深く息を吸い込んだ。


 ――足を踏み出す。


 舞は静かに始まった。

 天への祈りを形にする動き。空へと真っ直ぐに伸ばされる手。ひび割れた大地へと戻る足。一つひとつの所作に、ありったけの意味を込めていく。


 人々は、息を詰めてそれを見つめていた。言葉はない。ただ、熱を帯びた視線だけが桜桃に突き刺さる。


 時間が流れる。容赦のない陽光の下、同じ動きを幾度も繰り返す。

 祈りは続く。だがその途中で、不穏な音が混じった。


 何かが崩れ落ちるような、鈍い音。


 人々の視線が揺れた。群衆の端の方で、一人の男が糸が切れたように膝をつく。隣の者が支えようと手を伸ばしたが、間に合わない。男は砂埃を上げてそのまま倒れ伏した。


 悲鳴とも地鳴りともつかないざわめきが走る。


 それでも、舞は止まらない。止めてはいけない。

 ここで舞を止めた瞬間に、人々を繋ぎ止めている最後の希望の糸が途切れてしまう。桜桃は、指先さえ震わせることなく正確に動きを続けた。


 視界の端で、倒れた者が引きずられるように運ばれていく。

 ……もう一人。

 さらに、一人。


 胸の奥が、引き裂かれるように激しく痛んだ。


 つい数日前まで、「おねえちゃん、雨、ほんとに降る?」と無邪気に笑っていた若葉の顔が、どうしても頭から離れない。

 あの子が命を繋ぐための、たった一杯の水さえ守れなかった。そんな無力感が、悔しさが、喉の奥をきつく締め付ける。


 倒れる人の音が増える。周囲の空気が絶望に染まっていく。

 しかし、その中心で、桜桃の舞だけは美しく続いていた。祈りの形を頑なに保ったまま、やがて、桜桃の中で舞の意味が変わり始めた。


 空へ向けた手は、もう雨を乞うものではなかった。奪われた命を届けるために決して届かない天へと伸ばされていた。


 桜桃の胸に、言葉にならない熱いものが激しく込み上げてくる。


(ただ雨を待つだけなんて、もう嫌だ。そんな祈りじゃ、足りない――)


 この乾いた大地で、渇きに苦しみながら死んでいったあの子たちを。

 せめて、せめて優しく送ってあげたい。美しい世界へ還してあげたい。


 そのな『願い』が、彼女の指先の一つひとつに、命を吹き込むように宿っていく。



 広場の外れ、石段の影に身を寄せるようにして、刹那はその舞を見ていた。


 最初は、ただの雨乞いだった。

 だが、時間が経つにつれて、広場の均衡が少しずつ崩れていく。

 人々の視線が揺れる。気配が変わる。

 端の方で誰かが倒れ、運ばれていく。そのたびに、その場の空気がわずかに歪んだ。


 祈りは何も変えていない。

 雨は一滴も降らないが、それでも舞は続く。


 刹那は小さな声で呟いた。


「……祈り、か?」


 問いの形をしているが、答えを求めてはいない。ただ、自分の中で確かめているだけだった。


 手の動き、足の運び、その一つひとつは変わっていない。だが、明らかに込められた意味が変わっている。

 これは本当に祈りなのか。救うためのものなのか。それとも――。


「……これは」


 刹那は小さく息を吐いた。胸の奥が、ざらざらと擦れる。


 あのときもそうだった。戦のあと、名前も知らない誰かを静かに土に返していったとき。消えてしまった命の重みに、ただじっと耐えるしかなかったあの瞬間。胸を抉られるような、あの感覚に酷似している。


 ふいに、すぐ隣に気配が来た。

 琥珀だった。刹那の隣に、音もなく並び立つ。

 二人はしばらく、何も言わずにただ舞を見つめていた。


「……変わった」


 琥珀がぽつりと言った。


「前と違う」


「ああ」


 刹那はそれ以上言わなかった。また沈黙が落ちる。

 舞は続いている。足音だけが規則正しく響く。


「……あれは祈りじゃない」


 琥珀が静かに、自分に言い聞かせるように言う。


「今は、送ってる」


 刹那の瞳が、わずかに揺れた。

 琥珀は少し間を置いてから、ぽつぽつと言葉をこぼした。


「……今日、死んだ子がいた」


「知ってる」


「六花が、ずっと手を握ってた」


「知ってる」


「……それでも、あいつは舞ってる」


 刹那は答えない。ただ重い沈黙だけを返した。

 琥珀は真っ直ぐに広場の中央で舞い続ける桜桃を見つめていた。


「……強いな」


 ぼそりと呟いた。

 届かなかった命を前に、誰もが絶望に立ち尽くす中で、一人だけ毅然と袖を翻している桜桃は、確かに強く、気高く見えた。


 けれど、刹那の目に映るものは違っていた。


 じっと見つめるその視線の先で、夕暮れの砂塵に揺れる彼女の背中は、あまりにも細い。


(強い、か……)


 刹那は心の中で思った。

 無理をしていることなんて、見れば分かる。

 いや、無理という言葉すら生ぬるい。彼女は今、崩れ落ちてしまいそうな自らの心を必死に縛りつけ、形を保つために、胸の奥の何かを削りながら舞っているのだ。


 戦場で、そうやって自分の命や心を切り売りしながら、強くあろうとした人間が、最後にどうなるか。刹那は嫌というほど見てきた。


 決して崩れないのではない。崩れることを自分に許さない不器用な歪さを、刹那は知っていた。それはただの強さなどではない。いつ砕けてもおかしくない、危うい硝子のようなその姿を、彼は苦い痛みを伴って見つめていた。

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