第十三話 全ては救えない
夜深い廊には、人の気配が完全に絶えていた。
朝凪は、壊れ物に触れるような手つきで、そっと彼女の頬に指先を滑らせた。
桜桃が道端で倒れそうになった瞬間、彼の身体は思考を置き去りにして動いていた。一瞬の躊躇もなく足が出た。
だが、あの時、腕の中に抱きとめた彼女の身体は――あまりにも軽かった。
驚くほどに、軽すぎた。
部屋に運び込んで確かめた彼女の水袋は、ほとんど空だった。この四日間、彼女は過酷な因州の暑さの中で、自分の分の水を削り続けていたのだ。
あれほど激しく身体を動かし、命を削るような葬送の舞を舞って、それでもなお、自分の命を誰かのために回していた。
(また……そうやって、無理をして……)
朝凪は、彼女の熱い額に乗せた手ぬぐいを取り替える。
先ほど、「朝凪」と、自分の名を呼ぶ掠れた声を聞いた瞬間、胸が張り裂けそうになった。
『夢です。もう少しお休みください』
嘘をつきながら、朝凪の手は、どうしても桜桃の額から離れることができなかった。
「夢かぁ」と無防備に微笑み、再び眠りに落ちていく桜桃。
しばらくの間、朝凪の手は桜桃の頬に触れたまま、ただじっとその愛おしい寝顔を見つめていた。
(……生きている)
当たり前のことだった。
目の前で呼吸をし、胸を上下させている。けれど、あの謀反の夜から、朝凪は彼女をずっと遠くから見つめることしかできなかった。
六花という偽名を名乗り、健気に宮廷を歩く姿を。神祇官として、美しくも切ない舞を舞う姿を。因州の渇いた白砂の上を、小さな足で一歩一歩進む姿を。
近づきたかった。抱きしめて、二度と離したくなかった。
でも近づけなかった。近づいてはいけなかった。
(……これで、いい)
朝凪は名残惜しさを断ち切るように手を離し、ゆっくりと立ち上がった。
そのとき、廊の端から、わざとらしいほど足音を立てて近づいてくる気配があった。
刹那だった。
壁に背をもたれ、腕を組んだまま、底の知れない目で朝凪を見つめている。
「ご苦労さん」
小声だが、全てを見抜いたような響きだった。
朝凪は表情一つ変えず、何も言わずにただ佇む。
刹那はしばらく朝凪の固まった横顔を見つめていたが、やがて、ふっと視線を前方に外した。
「俺が残る。お前は休め」
朝凪はしばらくその場に立ち尽くし、扉の向こうの寝息に耳を澄ませた。
やがて、諦めたように、一歩だけ後ろへ引く。
「……頼む」
低く、掠れた声だった。
廊を去る間際、朝凪はもう一度だけ、扉を振り返った。
***
目が覚めると、部屋には柔らかな朝の光が差し込んでいた。
枕元の椀の水は、新しく取り替えられていた。夜の白湯より、少しだけ冷たくて心地よい。
桜桃はゆっくりと身体を起こした。頭の芯にあった重さは、夜よりもずっと軽くなっている。
椀の横には、新しく濡らされた布が、端正に畳まれて置かれていた。
それを手に取った瞬間、桜桃の指先がかすかに震えた。
四隅が、寸分の狂いもなく、美しく折り畳まれている。水気が一番長持ちするようにと、絶妙な加減で絞られ、端まで一切の乱れがない。
桜桃は、しばらくその布をじっと見つめていた。
あの大雑把そうな刹那が、こんなにも繊細で、細やかな畳み方をするとはどうしても思えなかった。
几帳面な瑛ならやるかもしれない。けれど、瑛の手の感触を、桜桃は知らない。
この、胸が締め付けられるような優しい手癖を。
(……知っている。私は、知っているわ)
思いかけて、桜桃は激しく首を振った。
違う。あの夜から消えてしまったあの人の手を、私の心がまだ恋しがって、幻を見ているだけだ。似ているものを見つければ、すぐに結びつけてしまう。それだけのこと。
どこにいるかも分からない。生死すら、誰も教えてくれない。
それなのに。
(朝凪……)
その名前が、胸の奥底で、ぽつりと涙のように落ちた。
声には出さなかった。
ふと視線をやると、縁側に刹那が腰をかけていた。
彼は朝の庭を見つめたまま、振り返りもしない。
「……いつから、そこにいたの?」
「さあな。お前が可愛い寝息を立て始めたくらいから、ずっとだよ」
振り返らずにそう言って、刹那はからからと低く笑った。その声音には、温かさがある。
桜桃は少しだけ気恥ずかしくなりながら、手元の水を一口含んだ。冷たい水が、渇いた身体に染み渡っていく。
「お前、自分の飲む水を、子どもたちに回してたんだろ」
刹那の声から、ふっとおちゃらけた響きが消え、静かなものに変わった。相変わらず、庭を見たままこちらを向かない。
桜桃はきゅっと唇を結び、答えなかった。
「お前が倒れちゃ、意味がないだろ」
「……分かってる」
「分かってたのか」
「分かってたけど……でも、あの子たちの手があまりに冷たくて、手が止まらなかったの」
刹那はしばらく黙っていた。
それから、ふっと大きな肩をすくめる。
「本当、お前ってやつは、お人好しが過ぎて危なっかしいお嬢ちゃんだな」
「そうね……」
「だけど、まあ――そういう真っ直ぐなところ、俺は嫌いじゃないぜ?」
不意打ちの言葉に、桜桃はドクンと胸を突かれた。
刹那はふっと目を細め、小さく息を吐いた。
「次は誰もいないかもしれない。その時に自分がどうなるかを、考えておけ」
「……難しいかもしれないけど、気をつける」
「難しいかもしれないけど、が正直でいいな」
「嘘をついても仕方ないから」
刹那はまた、遠い庭へ視線を戻した。
しばらくの間、朝の光の中で、二人の間に静かで穏やかな時間が流れる。
「……あの、刹那」
桜桃は畳まれた布を指先でなぞりながら、静かに問いかけた。
「私をここまで運んで、看病してくれたの……刹那なの?」
刹那の背中が、ほんの一瞬だけ、微かに強張った。
彼は数秒の間のあと、いつも通りの、どこか投げやりで軽い声を出す。
「まあな。お前が羽のように軽くて、助かったぜ」
それだけだった。
桜桃は、手の中の美しく畳まれた布に、もう一度目を落とした。
やっぱり、刹那はこんな畳み方をしない気がする。
けれど、それ以上は何も聞かなかった。
聞いてしまったら、「違う」と残酷な現実を突きつけられる気がしたから。違うと言われたら、もう二度と、あの人の幻を追いかけてはいけない気がしたから。
だから、まだ、もう少しだけ。
この優しい嘘に甘えて、夢を見させてほしかった。
(……お願いだから、生きていて。朝凪)
胸の奥で、祈るように静かに想う。
その願いは、決して声にはならなかった。
庭に、さっと朝の風が吹き抜けた。
からからに渇いた因州の土の匂いが、切なく鼻の奥を通り過ぎていった。
五日目。
朝、街の空気はもはや別のものになっていた。
死が隠されなくなっている。布をかける手すら足りず、横たえられたまま端へ寄せられることもない。誰かがそれを見て顔を逸らす。しかし、それが視界に入る。それが当たり前になりつつあった。
水は底をつきかけていた。配るための器は並んでいるが、中身はほとんど残っていない。前へ出る者が増え、互いの距離が近すぎる。押し合いにはまだ至らないが、均衡は限界だった。
食料も同じだった。乾いた穀がわずかに残るだけで、それをどう分けるかで小さな言い争いが起きる。
「少しでいい」
「こっちもだ」
言葉は短く、譲る余地がない。
その端で、若い者たちが固まっていた。手には棒や折れた農具。武器と呼べるほどではない。だが、持つという行為そのものが意味を変えている。
守るためか、奪うためか。本人たちにもまだ定まっていない。それでも、握っている。
その事実だけが、空気を重くする。
まだ誰も踏み出していないが、それは一歩で崩れる。その境界が、はっきりと見えてしまっていた。
◇
療所の中は、もう流れとして成立していなかった。
運び込まれる者の数に対して、手が足りないのではない。何をどうすれば繋がるのか、その順序そのものが崩れている。
桜桃は一人の傍に膝をつく。脈を取る。弱い。呼吸も浅い。
すぐ隣で、別の者が呻く。さらに奥から、呼び声が上がる。
「こちらを――」
声が重なる。同時に三つ。すべてが切迫している。
桜桃は顔を上げる。一瞬だけ、視線が彷徨う。
誰を先に見るべきか。昨日までなら迷わなかった。
順に手を伸ばせば、どこかで繋がった。
けれど、今は違う。
一つを選べば、他が落ちる。
それが分かる。はっきりと。
桜桃は手元に視線を戻す。
目の前の者。まだ、繋がる可能性がある。
だが隣の者はどうか。その先は。
頭の中で、秤が動く。数でも重さでもない。
ただ、“届くかどうか”。
その一点で選ばなければならない。
「……」
声にならない。
指先が、わずかに震える。
「……こちらは、あとに」
口をついて出た言葉は、あまりにも小さかった。
しかし、桜桃は、確かに線を引いた。
見ないことにした。後に回す。
それはつまり、優先しないということだ。
桜桃は自分の手を動かす。
目の前の者へ。布を当て、水を含ませる。やるべきことをやる。
けれど、意識の一部がどうしても離れない。
隣に置いたままの存在から、やがて、声が止まる。
気配が消える。そうなると分かっていた。
それでも、目を向けることができない。
手は止めない。止めれば、今度は目の前の者が落ちる。
「……違う」
小さく呟いた。
何が違うのか、自分でも分かっている。
これまでのやり方では、もう救えない。
同じように手を伸ばしても、届かない。
選ばなければならない。
切り捨てなければならない。
それが、現実として目の前にある。
『全ては救えない』
昊夜の声が頭に響く。その通りだった。
桜桃は唇を噛む。血の味が広がる。
それでも、動きを止めない。止めることができない。
“救う”という言葉が、形を失っていく。
残るのは、ただ――
何かをしなければ、という衝動だけだった。




