第十四話 止めるために
夕刻、広場の準備が進められていた。
昨日と同じように、人が次々と集まる。けれど空気はまるで違った。縋るためではない。何かが起きるのを待つような、張り詰めた沈黙だった。
桜桃はその中央に立っていた。
瑛が後ろから衣の裾を整えている。几帳面な手つきで、一度確かめてからもう一度確かめる。
「……帯、もう少し上です」
「はい」
「結び目がほどけやすくなっています。もう一度」
「……すみません」
「いいえ」
瑛は無言で結び直した。桜桃の指先が震えているのを、見ていないふりをした。
呼吸が浅い。整えようとしても、胸の奥がざわつく。
さきほどの感触が、まだ残っている。選んだこと。置いたこと。見なかったこと。それらが、重なっている。
「……」
目を閉じる。
何のために舞うのか。
祈るためか。雨を呼ぶためか。見捨ててないと示すためか。縋るものを与えるためか。
──違う。
それで救えるわけではないと、桜桃はもう分かっていた。
それでも、やらなければならない。
今にも崩れそうな空気の中で、崩さないために。
人々の動きをを止めるために、舞う。もう、それしかない。
「舞姫様」
瑛の声が落ちた。静かだが、いつもより少しだけ低い。
「……はい」
「記録は、残します」
桜桃は目を開けた。
「今日ここで何があったか。誰が倒れたか。何が足りなかったか。帝都へ戻っても、報告し続けます」
それだけだった。励ましではない。ただの事実だった。
桜桃はしばらくの間、瑛の顔を見た。
「……ありがとうございます」
「それが私にできることですので」
瑛は一礼して、後ろへ下がった。
桜桃は顔を上げ、真っ直ぐ見据えた。
〝救う〟ためではない。ただ、〝止めるために〟。それだけを胸に残す。
少し離れた場所で、刹那はその様子を見ていた。
準備の段階から分かる。昨日とは違う。桜桃の動きがわずかに硬い。
昨夜倒れたばかりだ。無理をしているのは明らかだ。それでも立っている。
「……やるのかよ」
誰に向けたわけでもない言葉が漏れる。
死者を送るために心を削って舞っていた彼女の細い背中が、今も刹那の脳裏に焼き付いて消えない。あの形を、もう一度やるのか。
「……分かんねえな」
意味が見えない。やる理由も、結果も。けれど、目を離せない。
桜桃は立っている。倒れずに。逃げずに。それだけは、はっきりしている。
刹那は空を一度見る。雲はない。変わらない。
「……ったく」
小さく舌打ちする。理解できない。納得もできない。
それでも。
「やるしかねえ、か」
止めることもできない。代わることもできない。なら、見るしかない。最後まで。
刹那は再び視線を戻す。
意味がなくても、届かなくても、それでも続けるしかないという現実だけが、そこにあった。
夜は深く、街のざわめきも遠くに沈んでいた。
人の気配が途切れた外れで、刹那は壁にもたれて立っている。
視線は空に向いているが、何かを見ているわけではない。ただ、考えを止めるためにそこに置いていた。
足音が近づく。軽い。迷いがない。
刹那は振り返らない。
「六花は」
朝凪が、刹那に問う。
刹那は、やっぱり知り合いじゃねぇか、とはもう言わなかった。
「万全じゃないだろうが、なんとかもってる」
「そうか」
刹那はしばらく黙っていた。夜風が一度、低く通り抜けた。
「本気でやる気か」
「やる」
刹那は小さく息を吐く。
「……あの舞に賭けてるわけじゃないよな」
「違う」
「じゃあ、何だ」
朝凪はすぐには答えない。視線を空へ上げ、それから戻す。
「条件は揃いつつある」
「……降らせるつもりか」
「降らせる」
迷いはない。その一言が、夜の空気に静かに沈んでいく。
「できるのか」
「可能性はある」
断言ではない。否定でもない。だがそこには、揺れるものが何もなかった。
刹那は苦く笑う。
「……ずいぶん軽いな」
「そうだな。保証はない」
その一言で、すべてが揃う。可能性はある。しかし、確実ではない。外れれば、何も残らない。
「失敗したら、どうなる」
「崩れる」
街が。人が。均衡が。すべて。
短い一言が、その全部を指していた。
刹那はゆっくりと息を吐く。
「……賭けか」
「そうだ」
「外れたら、終わり」
誰に向けた言葉でもない。
自分の中で、何かが繋がる。
──戦場。進めと言われ、進んだ先で引き返せなくなったあの瞬間。選択肢があるようで、実際にはなかったあの感覚。それが今、同じ輪郭を持って戻ってくる。
「朝廷軍も来てる」
ぽつりと漏れる。
「ああ」
「お前たちの動き気づかれてるんじゃねぇのか」
「……警戒されてる」
「山をうろついてる怪しい奴がいるってことか」
「ああ」
「それで軍が来た、と」
「たぶんな」
苛立ちが混じる。だが怒りではない。それよりも深いところから来ている。
「戦になるかもしれねえって話だろ、それ」
朝凪は否定しない。
刹那は少し間を置いてから、低く笑った。笑いというより、息が漏れた、という感じだった。
「……またか」
独り言のように言う。
「剣振って、何か守った気になって、気づいたら全部壊れてる。そういう流れ、何度見たと思ってんだ」
声は静かだった。怒っているわけではない。ただ、知っているから言っている。
「同じにはならない」
朝凪が言う。
「なるだろ」
即答だった。理屈ではない。経験から出ている言葉だから、重い。
「お前がそう思ってなくても、なる。状況ってのはそういうもんだ。押して、ぶつかって、気づいたときには引き返せなくなってる」
朝凪はそれを受け止める。否定はしない。
「それでもやる」
刹那はしばらく黙っていた。空を見上げると、星はいつもと変わらず瞬いていた。
「……お前、ほんとに変わらないな」
呆れているのか、安堵しているのか、判別のつかない声だった。
「褒めているのか」
「褒めてない」
間を置く。
「……褒めてないけど、まあ」
刹那は壁から背を離した。腕を組んで、朝凪を見る。
「巻き込むなよ」
「巻き込まない」
「信用ならねえな」
そう言いながら、その場を離れない。
完全には拒んではいない。
夜風が一度、低く通り抜けた。
◇
乾いた風が街路を抜けたそのとき、空気がわずかに揺れた。
人の流れは止まっていない。争いも沈黙も、先ほどまでと変わらず続いている。だがその中に、異なるものが入り込む。音ではない。匂いでもない。ただ、流れの向きが変わるような違和だった。
街の入口に、一人の影が立っていた。濃灰の軍装。目立つ装いではないが、民の装いとは明らかに違う。そこにあるだけで、周囲の空気がわずかに引かれる。
昊夜は、ゆっくりと一歩を踏み出した。
三歩後ろに、千弦がいる。
視線が集まる。誰かが昊夜を見て、何かを言いかけ、言葉を失う。理由は分からない。だが直感的に、同じではないと感じる。
昊夜はその反応を気にも留めない。
街を見渡す。乾いた地面、濁った水、押し合う人の群れ、遠くに横たえられたままの者たち。すべてを一度で受け取り、すぐに整理する。感情は挟まない。ただ現状として捉える。
そして、白砂の背後にそびえる山を見上げた。
「……なるほどな」
見上げた山に、数多の篝火と松明の光が、網の目のように連なって山肌を包囲している。朝廷軍だ。
「昊夜様、斥候からの報告です」
背後に控えた千弦が、寄り添いながら淡々と告げる。
「山に潜伏し、火薬を仕掛けているのは朝凪殿。朝廷軍はそれを『異常行動』と断定し、一網打尽にする構えです」
「朝凪が?……正気か」
その名を聞いて、昊夜は動きを止めた。
(なぜ、ここにいる)
謀反後、宮廷から去ったはずの男だ。
ここにいること自体不思議だった。
しかし、あの男が無意味なことをするはずはない。
考えを巡らせ、あの男が何をしようとしているのかを、昊夜は理解する。
けれど、その行動には違和感が残る。
純粋に因州を救うためにわざわざ帝都から来るような男では無い。
他に意図があるはずだ。何のために。……誰のために。
昊夜はふと視線を療所の敷地へと目を向けた。
軍の包囲網がすぐそこまで迫る中、そこだけは不気味なほど静まり返っている。けれど、昊夜は、療所の裏手、微かな灯りの下で必死に動く小さな影を捉えた。
桜桃だった。
髪が汗で張り付き、砂で汚れるのも厭わず、彼女は琥珀と共に患者のため手を動かしている。その表情には疲労が濃く滲んでいたが、怯えはない。ただひたむきに、目の前の命を救おうと動いている。
その姿を見た瞬間、昊夜の胸の奥で、張り詰めていた不穏な熱が、すっと引いていく感覚があった。
(……生きていたか)
どれほど過酷な地であろうと、どれほど不条理な軍に囲まれようと、あの娘は、手を差し伸べるのをやめていなかった。その健気な生存が、なぜだか昊夜の心を安堵させた。
昊夜は、桜桃から目を逸らした。
療所には入らず、街の様子を静かに見渡した。
近くで、小さな諍いが起きる。水を巡る言い合い。互いに引かない。今にも崩れそうな均衡。
昊夜は一歩、近づく。
「無駄だ」
静かに言う。声は大きくないはずなのに、その場にいる者すべてに届く。
動きが止まる。
「それでは足りない」
淡々と告げる。非難でも慰めでもない。ただ事実を示すだけの言葉。しかし、その一言が、場の前提を崩す。分けるか、奪うか。その二択で回っていた空気に、別の軸が差し込まれる。
「均せば持たない。偏れば崩れる」
誰も理解しきれてはいないが、何かが変わった。言葉の意味ではなく、その置き方が、空気を変える。
昊夜はそれ以上語らず、歩き出した。
真っ直ぐ歩いているはずなのに、誰にも触れず、人の間を抜ける。自然と道が開く。
千弦がその後に続く。
通り過ぎ際、千弦はわずかに周囲を見渡した。
水の残量、人の配置、諍いの起きた場所。すべてを静かに確かめている。
昊夜が立ち止まり、空を見上げる。雲はない。
「……さて」
感情はない。あるのは、判断だけだ。
街の空気が、もう一度揺れる。先ほどまでとは違う方向へ。誰も気づかないまま、基準がずれる。同じ状況のはずなのに、見え方が変わる。
崩れかけていた均衡が、ほんの少しだけ形を取り戻していた。




