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狂桜華《きょうおうか》~亡国の姫は、名を捨て帝を目指す~  作者: 澪
第二章 乾いた地と、雨の記憶【因州祈雨編】

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第十二話 元近衛中将、やっぱり姿は現さない

 同じ頃、朝廷軍の詰所へ一人の兵が駆け込んできた。


「飛燕様」


 兵の声に顔を上げる。


「何だ」


「白砂北西の山中で、不審な者たちが作業をしています」


「作業?」


「はい。数人が山へ入り、地面を掘っています。それと、大きな筒のようなものを運び込んでいる者も」


「水路か」


「分かりません。ただ、朝から何度も山と街を往復しているようです」


 飛燕は卓上に広げていた地図へ目を落とした。


 白砂へ向かう水路。その途中から、疾風が書き足した一本の線が山の方角へ伸びている。


「どの辺りだ」


 兵が地図上を指した。


 ──近い。


 疾風が見つけた新しい水路から、そう離れていない。


「誰の許可でやっている」


「確認できておりません」


「因州府は」


「工事の届けは出ていないとのことです」


 飛燕は紙を置いた。


 ただでさえ、水の流れがおかしい。


 白砂へ三割回すよう堰を動かしても、届く量は増えなかった。そのうえ、地図にない水路が見つかったばかりだ。


 その近くで、今度は無許可の工事。


「何をしているのか確認しろ」


「はっ」


「水路には触れさせるな。作業も、目的が分かるまでは止めろ」


「抵抗した場合は」


 飛燕は一瞬だけ考えた。


「拘束しろ。ただし、先に話を聞け。こちらから剣を抜くな」


「承知しました」


 兵が足早に出ていく。


 飛燕は再び地図へ目を落とした。


 白砂へ伸びる一本の水路。


 疾風が見つけた、地図にはないもう一本。


 そして、その先にある山。


「……何をしている」


 低く呟いた声に、答える者はいなかった。


 ***


 舞が終わると、広場には静かな余韻だけが残った。

 瑛が桜桃のそばに歩み寄り、小声で言った。


「舞姫様、お疲れ様でございました」


「……いいえ」


「後の対応は、私どもと近衛の者たちで行います。亡くなられた方々のご遺族への対応も、引き受けますから」


 桜桃は広場を見渡した。近衛たちが遺族のそばに寄り添い、瑛が薬箱を手に動き始めている。


「……舞姫様は宿へお戻りください。今夜は、ゆっくりお休みになってください」


 桜桃は少しだけ迷ってから、頷いた。


「……ありがとう。お願いします」


 護衛たちは広場に残ったまま、桜桃は一人で宿への道を歩き始めた。


 人々の祈りの灯火が一つ一つ消されていく暗がりの中、桜桃は神祇官の重い衣を纏ったまま、ふらつく足取りで歩いていた。


 身体が鉛のように重い。


 焼き付くような石畳の照り返しが、足の裏からじわりと熱を上げてくる。

 喉はからからに渇ききっていた。いつからこの渇きを覚えているのかさえ、もう分からない。


(水を……)


 そう思いながらも、水筒を掴む手は動かなかった。

 宿の者に頼めばいい。ただそれだけのことなのに、どうしても足が前に進まない。


(若葉……)


 昼間、看取った現地の子供の、小さく乾いた手が、まだ自分の指先に残っている気がした。


 冷たくなっていく直前の、最後にきゅっと握られたあの切ない感触。どんなに振り払おうとしても、脳裏から離れてくれない。


 石畳の継ぎ目に足を取られたとき、視界がぐにゃりと傾いた。


 あ、と思った。


 次の一歩が出ない。地面がひどく遠くに見える。

 視界の端が真っ白に染まっていく。


 硬い石畳に叩きつけられる恐怖を覚悟した瞬間、身体がふわりと宙に浮いた。

 驚くほど強く、けれど壊れ物を扱うように優しい腕が、地面に落ちる寸前の彼女を横抱きにかっさらっていた。


(……温かい)


 安堵とともに意識の糸がぷつりと切れる間際、鼻をくすぐったのは、砂と埃の匂いに混ざった、ひどく懐かしい『香りの記憶』だった。


 ***


 気付いたとき、天井が揺れていた。


 身体はまだ重く、頭も熱を帯びている。だが、あれほど苦しかった喉の渇きは、少しだけ楽になっていた。


 いつの間にか寝着に着替えさせられており、枕元には、小さな水の椀が置かれている。


 水面からは、微かに白い湯気が立っていた。一度沸かして、飲みやすい温度にまで冷まされた白湯だ。


 熱で視界がぼやける中、額に、ひんやりとした心地よい衝撃が降りてきた。

 冷たい水を含んだ手ぬぐいだ。


 それを当ててくれている、大きくて、けれど驚くほど繊細に動く手のひらの温もり。


 桜桃は、ぼんやりと引き上げられそうな意識の底で、その手を知っている気がした。


 知っているどころではない。かつて宮廷で、どんな時も自分を無条件に守り、甘やかしてくれた、大好きな手のひらだ。


「……あさ、なぎ……?」


 熱に浮かされた、掠れた声がこぼれる。


 すると、額の手がぴくりとわずかに震えた。

 影が揺れる。暗がりの中、いつもと変わらない、あの優しくて、甘やかな声が鼓膜を震わせた。


「……夢です。もう少しお休みください」


 その響きがあまりにも優しくて、心地よくて。

 ああ、そっか、と桜桃は安堵に胸をなでおろした。


「夢かぁ……」


 そう小さく呟いて、桜桃は完全に警戒を解き、深い、深い眠りの中へと再び落ちていった。


 ***


 夜深い廊下には、人の気配が完全に絶えていた。


 朝凪は、壊れ物に触れるような手つきで、そっと彼女の頬に指先を滑らせた。


 桜桃が道端で倒れそうになった瞬間、彼の身体は思考を置き去りにして動いていた。一瞬の躊躇もなく足が出た。


 だが、あの時、腕の中に抱きとめた彼女の身体は――あまりにも軽かった。驚くほどに、軽すぎた。


 部屋に運び込んで確かめた彼女の水袋は、ほとんど空だった。この四日間、彼女は過酷な因州の暑さの中で、自分の分の水を削り続けていたのだ。

 あれほど激しく身体を動かし、命を削るような葬送の舞を舞って、それでもなお、自分の命を誰かのために回していた。


(また……そうやって、無理をして……)


 朝凪は、彼女の熱い額に乗せた手ぬぐいを取り替える。


 先ほど、「朝凪」と、自分の名を呼ぶ掠れた声を聞いた瞬間、胸が張り裂けそうになった。


『夢です。もう少しお休みください』


 嘘をつきながら、朝凪の手は、どうしても桜桃の額から離れることができなかった。

「夢かぁ」と無防備に微笑み、再び眠りに落ちていく桜桃。


 しばらくの間、朝凪の手は桜桃の頬に触れたまま、ただじっとその愛おしい寝顔を見つめていた。 


(……生きている)


 当たり前のことだった。

 目の前で呼吸をし、胸を上下させている。けれど、あの謀反の夜から、朝凪は彼女をずっと遠くから見つめることしかできなかった。

 六花という偽名を名乗り、健気に宮廷を歩く姿を。神祇官として、美しくも切ない舞を舞う姿を。因州の渇いた白砂の上を、小さな足で一歩一歩進む姿を。


 近づきたかった。抱きしめて、二度と離したくなかった。

 でも近づけなかった。

 近づいてはいけなかった。


(……これで、いい)


 朝凪は名残惜しさを断ち切るように手を離し、ゆっくりと立ち上がった。


 そのとき、廊下の端から、わざとらしいほど足音を立てて近づいてくる気配があった。


 刹那だった。

 壁に背をもたれ、腕を組んだまま、底の知れない目で朝凪を見つめている。


「ご苦労さん」


 小声だが、全てを見抜いたような響きだった。


 朝凪は表情一つ変えず、何も言わずにただ佇む。

 刹那はしばらく朝凪の固まった横顔を見つめていたが、やがて、ふっと視線を前方に外した。


「俺が残る。お前は休め」


 朝凪はしばらくその場に立ち尽くし、襖の向こうの寝息に耳を澄ませた。

 やがて、諦めたように、一歩だけ後ろへ引く。


「……頼む」


 掠れた声だった。

 廊下を去る間際、朝凪はもう一度だけ、襖を振り返った。


 ***


 目が覚めると、部屋には柔らかな朝の光が差し込んでいた。


 枕元の椀の水は、新しく取り替えられていた。夜の白湯より、少しだけ冷たくて心地よい。

 桜桃はゆっくりと身体を起こした。頭の芯にあった重さは、夜よりもずっと軽くなっている。


 椀の横には、新しく濡らされた布が、端正に畳まれて置かれていた。

 それを手に取った瞬間、桜桃の指先がかすかに震えた。


 四隅が、寸分の狂いもなく、美しく折り畳まれている。水気が一番長持ちするようにと、絶妙な加減で絞られ、端まで一切の乱れがない。


 桜桃は、しばらくその布をじっと見つめていた。

 あの大雑把そうな刹那が、こんなにも繊細で、細やかな畳み方をするとはどうしても思えなかった。

 几帳面な瑛ならやるかもしれない。けれど、瑛の手の感触を、桜桃は知らない。


 この、胸が締め付けられるような優しい手癖を。


(……知っている。私は、知っているわ)


 思いかけて、桜桃は激しく首を振った。


 違う。あの夜から消えてしまったあの人の手を、私の心がまだ恋しがって、幻を見ているだけだ。似ているものを見つければ、すぐに結びつけてしまう。それだけのこと。


 どこにいるかも分からない。生死すら、誰も教えてくれない。


 それなのに。


(朝凪……)


 その名前が、胸の奥底で、ぽつりと涙のように落ちた。声には出さなかった。


 ふと視線をやると、縁側に刹那が腰をかけていた。

 彼は朝の庭を見つめたまま、振り返りもしない。


「……いつから、そこにいたの?」


「さあな。お前が可愛い寝息を立て始めたくらいから、ずっとだよ」


 振り返らずにそう言って、刹那はからからと低く笑った。その声音には、温かさがある。


 桜桃は少しだけ気恥ずかしくなりながら、手元の水を一口含んだ。冷たい水が、渇いた身体に染み渡っていく。


「お前、自分の飲む水を、子どもたちに回してたんだろ」


 刹那の声から、ふっとおちゃらけた響きが消え、静かなものに変わった。相変わらず、庭を見たままこちらを向かない。


 桜桃はきゅっと唇を結び、答えなかった。


「お前が倒れちゃ、意味がないだろ」


「……分かってる」


「分かってたのか」


「分かってたけど……でも、あの子たちの手があまりに冷たくて、手が止まらなかったの」


 刹那はしばらく黙っていた。

 それから、ふっと大きな肩をすくめる。


「本当、お前ってやつは、お人好しが過ぎて危なっかしいお嬢ちゃんだな」


「そうね……」


「だけど、まあ――そういう真っ直ぐなところ、俺は嫌いじゃないぜ?」


 不意打ちの言葉に、桜桃はドクンと胸を突かれた。

 刹那はふっと目を細め、小さくため息をついた。


「次は誰もいないかもしれない。その時に自分がどうなるかを、考えておけ」


「……難しいかもしれないけど、気をつける」


「難しいかもしれないけど、が正直でいいな」


 刹那はまた、遠い庭へ視線を戻した。

 しばらくの間、朝の光の中で、二人の間に静かで穏やかな時間が流れる。


「……あの、刹那」


 桜桃は畳まれた布を指先でなぞりながら、静かに問いかけた。


「私をここまで運んで、看病してくれたの……刹那なの?」


 刹那の背中が、ほんの一瞬だけ、微かに強張った。

 彼は数秒の間のあと、いつも通りの、どこか投げやりで軽い声を出す。


「まあな。お前が羽のように軽くて、助かったぜ」


 桜桃は、手の中の美しく畳まれた布に、もう一度目を落とした。


 やっぱり、刹那はこんな畳み方をしない気がする。


 けれど、それ以上は何も聞かなかった。

 聞いてしまったら、「違う」と残酷な現実を突きつけられる気がしたから。違うと言われたら、もう二度と、あの人の幻を追いかけてはいけない気がしたから。


 だから、まだ、もう少しだけ。

 この優しい嘘に甘えて、夢を見させてほしかった。


(……お願いだから、生きていて。朝凪)


 胸の奥で、祈るように静かに想う。

 その願いは、決して声にはならなかった。


 庭に、さっと朝の風が吹き抜けた。

 からからに渇いた因州の土の匂いが、切なく鼻の奥を通り過ぎていった。

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