第十二話 元近衛中将、やっぱり姿は現さない
同じ頃、朝廷軍の詰所へ一人の兵が駆け込んできた。
「飛燕様」
兵の声に顔を上げる。
「何だ」
「白砂北西の山中で、不審な者たちが作業をしています」
「作業?」
「はい。数人が山へ入り、地面を掘っています。それと、大きな筒のようなものを運び込んでいる者も」
「水路か」
「分かりません。ただ、朝から何度も山と街を往復しているようです」
飛燕は卓上に広げていた地図へ目を落とした。
白砂へ向かう水路。その途中から、疾風が書き足した一本の線が山の方角へ伸びている。
「どの辺りだ」
兵が地図上を指した。
──近い。
疾風が見つけた新しい水路から、そう離れていない。
「誰の許可でやっている」
「確認できておりません」
「因州府は」
「工事の届けは出ていないとのことです」
飛燕は紙を置いた。
ただでさえ、水の流れがおかしい。
白砂へ三割回すよう堰を動かしても、届く量は増えなかった。そのうえ、地図にない水路が見つかったばかりだ。
その近くで、今度は無許可の工事。
「何をしているのか確認しろ」
「はっ」
「水路には触れさせるな。作業も、目的が分かるまでは止めろ」
「抵抗した場合は」
飛燕は一瞬だけ考えた。
「拘束しろ。ただし、先に話を聞け。こちらから剣を抜くな」
「承知しました」
兵が足早に出ていく。
飛燕は再び地図へ目を落とした。
白砂へ伸びる一本の水路。
疾風が見つけた、地図にはないもう一本。
そして、その先にある山。
「……何をしている」
低く呟いた声に、答える者はいなかった。
***
舞が終わると、広場には静かな余韻だけが残った。
瑛が桜桃のそばに歩み寄り、小声で言った。
「舞姫様、お疲れ様でございました」
「……いいえ」
「後の対応は、私どもと近衛の者たちで行います。亡くなられた方々のご遺族への対応も、引き受けますから」
桜桃は広場を見渡した。近衛たちが遺族のそばに寄り添い、瑛が薬箱を手に動き始めている。
「……舞姫様は宿へお戻りください。今夜は、ゆっくりお休みになってください」
桜桃は少しだけ迷ってから、頷いた。
「……ありがとう。お願いします」
護衛たちは広場に残ったまま、桜桃は一人で宿への道を歩き始めた。
人々の祈りの灯火が一つ一つ消されていく暗がりの中、桜桃は神祇官の重い衣を纏ったまま、ふらつく足取りで歩いていた。
身体が鉛のように重い。
焼き付くような石畳の照り返しが、足の裏からじわりと熱を上げてくる。
喉はからからに渇ききっていた。いつからこの渇きを覚えているのかさえ、もう分からない。
(水を……)
そう思いながらも、水筒を掴む手は動かなかった。
宿の者に頼めばいい。ただそれだけのことなのに、どうしても足が前に進まない。
(若葉……)
昼間、看取った現地の子供の、小さく乾いた手が、まだ自分の指先に残っている気がした。
冷たくなっていく直前の、最後にきゅっと握られたあの切ない感触。どんなに振り払おうとしても、脳裏から離れてくれない。
石畳の継ぎ目に足を取られたとき、視界がぐにゃりと傾いた。
あ、と思った。
次の一歩が出ない。地面がひどく遠くに見える。
視界の端が真っ白に染まっていく。
硬い石畳に叩きつけられる恐怖を覚悟した瞬間、身体がふわりと宙に浮いた。
驚くほど強く、けれど壊れ物を扱うように優しい腕が、地面に落ちる寸前の彼女を横抱きにかっさらっていた。
(……温かい)
安堵とともに意識の糸がぷつりと切れる間際、鼻をくすぐったのは、砂と埃の匂いに混ざった、ひどく懐かしい『香りの記憶』だった。
***
気付いたとき、天井が揺れていた。
身体はまだ重く、頭も熱を帯びている。だが、あれほど苦しかった喉の渇きは、少しだけ楽になっていた。
いつの間にか寝着に着替えさせられており、枕元には、小さな水の椀が置かれている。
水面からは、微かに白い湯気が立っていた。一度沸かして、飲みやすい温度にまで冷まされた白湯だ。
熱で視界がぼやける中、額に、ひんやりとした心地よい衝撃が降りてきた。
冷たい水を含んだ手ぬぐいだ。
それを当ててくれている、大きくて、けれど驚くほど繊細に動く手のひらの温もり。
桜桃は、ぼんやりと引き上げられそうな意識の底で、その手を知っている気がした。
知っているどころではない。かつて宮廷で、どんな時も自分を無条件に守り、甘やかしてくれた、大好きな手のひらだ。
「……あさ、なぎ……?」
熱に浮かされた、掠れた声がこぼれる。
すると、額の手がぴくりとわずかに震えた。
影が揺れる。暗がりの中、いつもと変わらない、あの優しくて、甘やかな声が鼓膜を震わせた。
「……夢です。もう少しお休みください」
その響きがあまりにも優しくて、心地よくて。
ああ、そっか、と桜桃は安堵に胸をなでおろした。
「夢かぁ……」
そう小さく呟いて、桜桃は完全に警戒を解き、深い、深い眠りの中へと再び落ちていった。
***
夜深い廊下には、人の気配が完全に絶えていた。
朝凪は、壊れ物に触れるような手つきで、そっと彼女の頬に指先を滑らせた。
桜桃が道端で倒れそうになった瞬間、彼の身体は思考を置き去りにして動いていた。一瞬の躊躇もなく足が出た。
だが、あの時、腕の中に抱きとめた彼女の身体は――あまりにも軽かった。驚くほどに、軽すぎた。
部屋に運び込んで確かめた彼女の水袋は、ほとんど空だった。この四日間、彼女は過酷な因州の暑さの中で、自分の分の水を削り続けていたのだ。
あれほど激しく身体を動かし、命を削るような葬送の舞を舞って、それでもなお、自分の命を誰かのために回していた。
(また……そうやって、無理をして……)
朝凪は、彼女の熱い額に乗せた手ぬぐいを取り替える。
先ほど、「朝凪」と、自分の名を呼ぶ掠れた声を聞いた瞬間、胸が張り裂けそうになった。
『夢です。もう少しお休みください』
嘘をつきながら、朝凪の手は、どうしても桜桃の額から離れることができなかった。
「夢かぁ」と無防備に微笑み、再び眠りに落ちていく桜桃。
しばらくの間、朝凪の手は桜桃の頬に触れたまま、ただじっとその愛おしい寝顔を見つめていた。
(……生きている)
当たり前のことだった。
目の前で呼吸をし、胸を上下させている。けれど、あの謀反の夜から、朝凪は彼女をずっと遠くから見つめることしかできなかった。
六花という偽名を名乗り、健気に宮廷を歩く姿を。神祇官として、美しくも切ない舞を舞う姿を。因州の渇いた白砂の上を、小さな足で一歩一歩進む姿を。
近づきたかった。抱きしめて、二度と離したくなかった。
でも近づけなかった。
近づいてはいけなかった。
(……これで、いい)
朝凪は名残惜しさを断ち切るように手を離し、ゆっくりと立ち上がった。
そのとき、廊下の端から、わざとらしいほど足音を立てて近づいてくる気配があった。
刹那だった。
壁に背をもたれ、腕を組んだまま、底の知れない目で朝凪を見つめている。
「ご苦労さん」
小声だが、全てを見抜いたような響きだった。
朝凪は表情一つ変えず、何も言わずにただ佇む。
刹那はしばらく朝凪の固まった横顔を見つめていたが、やがて、ふっと視線を前方に外した。
「俺が残る。お前は休め」
朝凪はしばらくその場に立ち尽くし、襖の向こうの寝息に耳を澄ませた。
やがて、諦めたように、一歩だけ後ろへ引く。
「……頼む」
掠れた声だった。
廊下を去る間際、朝凪はもう一度だけ、襖を振り返った。
***
目が覚めると、部屋には柔らかな朝の光が差し込んでいた。
枕元の椀の水は、新しく取り替えられていた。夜の白湯より、少しだけ冷たくて心地よい。
桜桃はゆっくりと身体を起こした。頭の芯にあった重さは、夜よりもずっと軽くなっている。
椀の横には、新しく濡らされた布が、端正に畳まれて置かれていた。
それを手に取った瞬間、桜桃の指先がかすかに震えた。
四隅が、寸分の狂いもなく、美しく折り畳まれている。水気が一番長持ちするようにと、絶妙な加減で絞られ、端まで一切の乱れがない。
桜桃は、しばらくその布をじっと見つめていた。
あの大雑把そうな刹那が、こんなにも繊細で、細やかな畳み方をするとはどうしても思えなかった。
几帳面な瑛ならやるかもしれない。けれど、瑛の手の感触を、桜桃は知らない。
この、胸が締め付けられるような優しい手癖を。
(……知っている。私は、知っているわ)
思いかけて、桜桃は激しく首を振った。
違う。あの夜から消えてしまったあの人の手を、私の心がまだ恋しがって、幻を見ているだけだ。似ているものを見つければ、すぐに結びつけてしまう。それだけのこと。
どこにいるかも分からない。生死すら、誰も教えてくれない。
それなのに。
(朝凪……)
その名前が、胸の奥底で、ぽつりと涙のように落ちた。声には出さなかった。
ふと視線をやると、縁側に刹那が腰をかけていた。
彼は朝の庭を見つめたまま、振り返りもしない。
「……いつから、そこにいたの?」
「さあな。お前が可愛い寝息を立て始めたくらいから、ずっとだよ」
振り返らずにそう言って、刹那はからからと低く笑った。その声音には、温かさがある。
桜桃は少しだけ気恥ずかしくなりながら、手元の水を一口含んだ。冷たい水が、渇いた身体に染み渡っていく。
「お前、自分の飲む水を、子どもたちに回してたんだろ」
刹那の声から、ふっとおちゃらけた響きが消え、静かなものに変わった。相変わらず、庭を見たままこちらを向かない。
桜桃はきゅっと唇を結び、答えなかった。
「お前が倒れちゃ、意味がないだろ」
「……分かってる」
「分かってたのか」
「分かってたけど……でも、あの子たちの手があまりに冷たくて、手が止まらなかったの」
刹那はしばらく黙っていた。
それから、ふっと大きな肩をすくめる。
「本当、お前ってやつは、お人好しが過ぎて危なっかしいお嬢ちゃんだな」
「そうね……」
「だけど、まあ――そういう真っ直ぐなところ、俺は嫌いじゃないぜ?」
不意打ちの言葉に、桜桃はドクンと胸を突かれた。
刹那はふっと目を細め、小さくため息をついた。
「次は誰もいないかもしれない。その時に自分がどうなるかを、考えておけ」
「……難しいかもしれないけど、気をつける」
「難しいかもしれないけど、が正直でいいな」
刹那はまた、遠い庭へ視線を戻した。
しばらくの間、朝の光の中で、二人の間に静かで穏やかな時間が流れる。
「……あの、刹那」
桜桃は畳まれた布を指先でなぞりながら、静かに問いかけた。
「私をここまで運んで、看病してくれたの……刹那なの?」
刹那の背中が、ほんの一瞬だけ、微かに強張った。
彼は数秒の間のあと、いつも通りの、どこか投げやりで軽い声を出す。
「まあな。お前が羽のように軽くて、助かったぜ」
桜桃は、手の中の美しく畳まれた布に、もう一度目を落とした。
やっぱり、刹那はこんな畳み方をしない気がする。
けれど、それ以上は何も聞かなかった。
聞いてしまったら、「違う」と残酷な現実を突きつけられる気がしたから。違うと言われたら、もう二度と、あの人の幻を追いかけてはいけない気がしたから。
だから、まだ、もう少しだけ。
この優しい嘘に甘えて、夢を見させてほしかった。
(……お願いだから、生きていて。朝凪)
胸の奥で、祈るように静かに想う。
その願いは、決して声にはならなかった。
庭に、さっと朝の風が吹き抜けた。
からからに渇いた因州の土の匂いが、切なく鼻の奥を通り過ぎていった。




