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狂桜華《きょうおうか》~亡国の姫は、名を捨て帝を目指す~  作者: 澪
第二章 乾いた地と、雨の記憶【因州祈雨編】

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第十三話 舞姫、救えない

 五日目。夜明けとほぼ同時に、千弦が昊夜の元へ新たな報告を持ってきた。


 いつもならば静かに現れる男が、今朝はわずかに足を速めている。


「昊夜様。昨日の火薬ですが、行き先が分かりました」


 昊夜が顔を上げる。


「どこだ」


「白砂です。正確には、その北西にある山へ運び込まれています」


「山?」


「はい。それと、もう一つ」


 千弦は手にしていた書付を差し出した。


「昨日の夕刻、朝廷軍が同じ山で無許可の作業を確認しています。地面を掘り、大きな筒のようなものを運び込んでいる者がいると」


 昊夜は書付へ目を落とした。


 大量の火薬。


 山中で進められている、正体の分からない作業。


 二つの点が、ようやく一つの場所で重なった。


「朝廷軍は」


「すでに周辺を封鎖し始めています。作業を止め、関係者を拘束する方針のようです」


「当然だな」


 昊夜は書付を畳んだ。


「誰が火薬を買った」


「それが、まだ。店主は何も話しません」


「……」


「ただ、白砂には六花さんもいらっしゃいます」


 昊夜の目が千弦へ向いた。


 千弦はいつもと変わらない顔で続ける。


「あれだけの火薬です。もし何かあれば、山だけでは済まないかもしれません」


 短い沈黙のあと、昊夜は立ち上がった。


「馬を用意しろ」


「白砂へ?」


「他にどこがある」


 千弦はその冷たさを孕んだ声に、ふっと口元を緩めた。


「承知しました」


 昊夜はすでに外へ向かって歩き始めている。


 千弦はすぐにその主の後を追った。


 ***


 朝凪は山裾から白砂へ続く水路を見下ろしていた。


 昨日まで、分水堰の周囲には朝廷軍の兵がいた。


 水不足が深刻になってからというもの、勝手に水門を動かす者が出ないよう、主要な水路には兵が置かれている。朝凪も何度か近くまで来たが、そのたびに引き返していた。


 だが、今朝は違った。兵が少ない。


 昨夕、山中で作業をしていた者たちのもとへ、朝廷軍が動いたためだ。


 朝凪はしばらく水路を見下ろしていたが、やがて斜面を下りた。


 雨を降らせるだけでは、その場しのぎにしかならない。


 一度水を落としたところで、それが白砂に残らなければ、数日も経たずに元へ戻る。降った水を受け、街へ繋げる流れが必要だった。


 朝凪は水路に沿って歩いた。


 やがて、本流から流れてきた水を、いくつかの地域へ分けるためのもの分水堰が見えた。


 朝凪は周囲を確かめてから、堰へ近づいた。


 水門そのものは壊れていない。白砂へ向かう側にも、細いながら水は流れている。


 朝凪はしゃがみ込み、水門の柱へ目を向けた。


 新しい擦れ跡が残っていた。


 一つではない。


 高さの違う位置に、いくつもの跡がある。


 最近になって、何度か水門を動かしている。


 朝凪は指先でその跡をなぞった。


「……水量を変えたのか」


 今は開いているが、白砂へ届いている水は少なすぎる。


 朝凪は立ち上がり、巨大筒を製作中の男がいる山裾へ戻った。


「水路は使える」


 男が手を止めて、朝凪を見た。


「繋がるのか」


「ああ。ただ、途中で水量を絞った跡がある」


「誰かがやったのか」


「おそらくな」


「戻すのか」


「今は触らない。誰が、何のために動かしたのか分からない。勝手に戻せば、別の場所に影響が出るかもしれない」


「……なるほどな」


「雨を受ける流れだけ確保する。それでいい」


 朝凪は組み上げかけの大きな筒へ視線を移した。


「装置は」


「形にはなる。ただし、何度も言うが、これで雨が降るとは限らない」


「分かっている」


 男は山を見上げた。


「なら時間だ。ずれれば終わる」


「合わせよう」


 それ以上は言わない。


 水路に残された人の手の痕跡も、その理由も、今はまだ分からない。


 ただ一つ確かなのは、白砂の水が、旱魃だけで失われたわけではないということだった。


 ***

 

 昼を過ぎた頃、街の奥で小さな人だかりができた。

 最初は、誰もそれを騒ぎとは思わなかった。ただ人が集まっている、それだけの光景だった。


 しかし、近づいた者の表情が次々と凍りついていく。

 一人、また一人と足が止まり、視線がそこから動かせなくなる。


 道端に、それが横たわっていた。

 動かない身体に布がかけられているが、完全には隠しきれていない。土の色と変わらないほどに乾ききった、人間の手が見えている。


 誰かが小さく息を呑んだ。

 それが合図のように、周囲の空気が変わっていく。


「……いつからだ」


 それに答える者はいない。


 誰もが分かっていたからだ。昨日から、いや、その前からいたはずのものが、『見える形』になっただけなのだと。


 これまでは隠していた。見ないようにしていた。運び、覆い、街の端へ寄せていた絶望が、水が途絶え、心の余裕が消え去った瞬間に、もう隠しきれずに表へ溢れ出してしまったのだ。


 水は底をつきかけていた。配るための器は並んでいるが、中身はほとんど残っていない。


 食料も同じだった。乾いた穀がわずかに残るだけで、それをどう分けるかで小さな言い争いが起きる。


「少しでいい」


「こっちもだ」


 言葉は短く、譲る余地がない。


 その端で、若い者たちが固まっていた。手には棒や折れた農具。

 

 守るためか、奪うためか。本人たちにもまだ定まっていない。それでも、握っている。

 その事実だけが、空気を重くする。


 まだ誰も踏み出していないが、それは一歩で崩れる。その境界が、はっきりと見えてしまっていた。

 

 ***


 療所の中は、もう流れとして成立していなかった。

 運び込まれる者の数に対して、手が足りないのではない。何をどうすれば繋がるのか、その順序そのものが崩れている。


 桜桃は一人の傍に膝をつく。脈を取る。弱い。呼吸も浅い。

 すぐ隣で、別の者が呻く。さらに奥から、呼び声が上がる。


「こちらを――」


 声が重なる。同時に三つ。すべてが切迫している。


 桜桃は顔を上げる。一瞬だけ、視線が彷徨う。

 誰を先に見るべきか。昨日までなら迷わなかった。

 順に手を伸ばせば、どこかで繋がった。

 

 けれど、今は違う。


 一つを選べば、他が落ちる。


 桜桃は手元に視線を戻す。


 目の前の者。まだ、繋がる可能性がある。


 だが隣の者はどうか。その先は。


 頭の中で、秤が動く。数でも重さでもない。


 ただ、“届くかどうか”。


 その一点で選ばなければならない。


「……」


 声にならない。

 指先が、わずかに震える。


「……こちらは、あとに」


 口をついて出た言葉は、あまりにも小さかった。

 しかし、桜桃は、確かに線を引いた。


 見ないことにした。後に回す。


 それはつまり、優先しないということだ。


 桜桃は自分の手を動かす。


 目の前の者へ。布を当て、水を含ませる。やるべきことをやる。

 けれど、意識の一部がどうしても離れない。


 隣に置いたままの存在から、やがて、声が止まる。

 気配が消える。そうなると分かっていた。

 それでも、目を向けることができない。


 手は止めない。止めれば、今度は目の前の者が落ちる。


「……違う」


 小さく呟いた。


 何が違うのか、自分でも分かっている。


 これまでのやり方では、もう救えない。

 同じように手を伸ばしても届かない。


 選ばなければならない。

 切り捨てなければならない。


 それが、現実として目の前にある。


『全ては救えない』


 昊夜の声が頭に響いた。


 桜桃は唇を噛んだ。血の味が広がる。


 “救う”という言葉が、形を失っていく。


 残るのは、ただ――

 何かをしなければ、という衝動だけだった。


 ***


 昼頃、刹那は街の外れに立っていた。


 何気なく山の方角へ目を向け、ふと眉を寄せる。


 街道から外れた山道の入口に、数人の兵が立っていた。


 少し離れた場所にもいる。土の色に紛れるように配置された人影。その一つ一つを拾っていくうちに、表情からいつもの軽さが消えていった。


 旗はほとんど出ていない。


 だが、風に揺れた布の隙間から、左右の麒麟が中央の橘を掴む紋が一瞬だけ覗いた。


 橘《き》麟《りん》紋《もん》。


「朝廷軍……」


 刹那の目が見開かれる。


 一隊は山道の入口。もう一隊は、その東側。


 さらに遠く、街から山へ抜ける細い道にも兵がいる。


 押さえているのは、山へ通じる道だ。


 しかも、少しずつ人数が増え、山へ入ろうとしている。


「……あいつか」


 刹那は額を押さえた。


 思い当たる男は、一人しかいなかった。


 朝凪がここ数日、山へ出入りしていることは知っている。何をするつもりなのか聞いても、地形だの風だのと言うばかりで、肝心なことは何一つ話さなかった。


 その結果がこれか。


「何やったんだよ、あいつ……」


 呟きながら、もう一度兵の配置を見る。


 正面から山道へ入れば、まず止められる。


 脇から回っても、すでに兵がいる。


 まだ完全に塞がれてはいないが、このまま増えれば、じきに山への出入りは難しくなる。


 刹那はしばらく黙ってそれを眺めていた。


 やがて、乾いた風の向こうで新たな一隊が山道へ向かうのを見て、嘆息を漏らす。


「戦はごめんだっての」


 そう言いながらも、その目はもう、兵の数と位置を数えていた。


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