第十三話 舞姫、救えない
五日目。夜明けとほぼ同時に、千弦が昊夜の元へ新たな報告を持ってきた。
いつもならば静かに現れる男が、今朝はわずかに足を速めている。
「昊夜様。昨日の火薬ですが、行き先が分かりました」
昊夜が顔を上げる。
「どこだ」
「白砂です。正確には、その北西にある山へ運び込まれています」
「山?」
「はい。それと、もう一つ」
千弦は手にしていた書付を差し出した。
「昨日の夕刻、朝廷軍が同じ山で無許可の作業を確認しています。地面を掘り、大きな筒のようなものを運び込んでいる者がいると」
昊夜は書付へ目を落とした。
大量の火薬。
山中で進められている、正体の分からない作業。
二つの点が、ようやく一つの場所で重なった。
「朝廷軍は」
「すでに周辺を封鎖し始めています。作業を止め、関係者を拘束する方針のようです」
「当然だな」
昊夜は書付を畳んだ。
「誰が火薬を買った」
「それが、まだ。店主は何も話しません」
「……」
「ただ、白砂には六花さんもいらっしゃいます」
昊夜の目が千弦へ向いた。
千弦はいつもと変わらない顔で続ける。
「あれだけの火薬です。もし何かあれば、山だけでは済まないかもしれません」
短い沈黙のあと、昊夜は立ち上がった。
「馬を用意しろ」
「白砂へ?」
「他にどこがある」
千弦はその冷たさを孕んだ声に、ふっと口元を緩めた。
「承知しました」
昊夜はすでに外へ向かって歩き始めている。
千弦はすぐにその主の後を追った。
***
朝凪は山裾から白砂へ続く水路を見下ろしていた。
昨日まで、分水堰の周囲には朝廷軍の兵がいた。
水不足が深刻になってからというもの、勝手に水門を動かす者が出ないよう、主要な水路には兵が置かれている。朝凪も何度か近くまで来たが、そのたびに引き返していた。
だが、今朝は違った。兵が少ない。
昨夕、山中で作業をしていた者たちのもとへ、朝廷軍が動いたためだ。
朝凪はしばらく水路を見下ろしていたが、やがて斜面を下りた。
雨を降らせるだけでは、その場しのぎにしかならない。
一度水を落としたところで、それが白砂に残らなければ、数日も経たずに元へ戻る。降った水を受け、街へ繋げる流れが必要だった。
朝凪は水路に沿って歩いた。
やがて、本流から流れてきた水を、いくつかの地域へ分けるためのもの分水堰が見えた。
朝凪は周囲を確かめてから、堰へ近づいた。
水門そのものは壊れていない。白砂へ向かう側にも、細いながら水は流れている。
朝凪はしゃがみ込み、水門の柱へ目を向けた。
新しい擦れ跡が残っていた。
一つではない。
高さの違う位置に、いくつもの跡がある。
最近になって、何度か水門を動かしている。
朝凪は指先でその跡をなぞった。
「……水量を変えたのか」
今は開いているが、白砂へ届いている水は少なすぎる。
朝凪は立ち上がり、巨大筒を製作中の男がいる山裾へ戻った。
「水路は使える」
男が手を止めて、朝凪を見た。
「繋がるのか」
「ああ。ただ、途中で水量を絞った跡がある」
「誰かがやったのか」
「おそらくな」
「戻すのか」
「今は触らない。誰が、何のために動かしたのか分からない。勝手に戻せば、別の場所に影響が出るかもしれない」
「……なるほどな」
「雨を受ける流れだけ確保する。それでいい」
朝凪は組み上げかけの大きな筒へ視線を移した。
「装置は」
「形にはなる。ただし、何度も言うが、これで雨が降るとは限らない」
「分かっている」
男は山を見上げた。
「なら時間だ。ずれれば終わる」
「合わせよう」
それ以上は言わない。
水路に残された人の手の痕跡も、その理由も、今はまだ分からない。
ただ一つ確かなのは、白砂の水が、旱魃だけで失われたわけではないということだった。
***
昼を過ぎた頃、街の奥で小さな人だかりができた。
最初は、誰もそれを騒ぎとは思わなかった。ただ人が集まっている、それだけの光景だった。
しかし、近づいた者の表情が次々と凍りついていく。
一人、また一人と足が止まり、視線がそこから動かせなくなる。
道端に、それが横たわっていた。
動かない身体に布がかけられているが、完全には隠しきれていない。土の色と変わらないほどに乾ききった、人間の手が見えている。
誰かが小さく息を呑んだ。
それが合図のように、周囲の空気が変わっていく。
「……いつからだ」
それに答える者はいない。
誰もが分かっていたからだ。昨日から、いや、その前からいたはずのものが、『見える形』になっただけなのだと。
これまでは隠していた。見ないようにしていた。運び、覆い、街の端へ寄せていた絶望が、水が途絶え、心の余裕が消え去った瞬間に、もう隠しきれずに表へ溢れ出してしまったのだ。
水は底をつきかけていた。配るための器は並んでいるが、中身はほとんど残っていない。
食料も同じだった。乾いた穀がわずかに残るだけで、それをどう分けるかで小さな言い争いが起きる。
「少しでいい」
「こっちもだ」
言葉は短く、譲る余地がない。
その端で、若い者たちが固まっていた。手には棒や折れた農具。
守るためか、奪うためか。本人たちにもまだ定まっていない。それでも、握っている。
その事実だけが、空気を重くする。
まだ誰も踏み出していないが、それは一歩で崩れる。その境界が、はっきりと見えてしまっていた。
***
療所の中は、もう流れとして成立していなかった。
運び込まれる者の数に対して、手が足りないのではない。何をどうすれば繋がるのか、その順序そのものが崩れている。
桜桃は一人の傍に膝をつく。脈を取る。弱い。呼吸も浅い。
すぐ隣で、別の者が呻く。さらに奥から、呼び声が上がる。
「こちらを――」
声が重なる。同時に三つ。すべてが切迫している。
桜桃は顔を上げる。一瞬だけ、視線が彷徨う。
誰を先に見るべきか。昨日までなら迷わなかった。
順に手を伸ばせば、どこかで繋がった。
けれど、今は違う。
一つを選べば、他が落ちる。
桜桃は手元に視線を戻す。
目の前の者。まだ、繋がる可能性がある。
だが隣の者はどうか。その先は。
頭の中で、秤が動く。数でも重さでもない。
ただ、“届くかどうか”。
その一点で選ばなければならない。
「……」
声にならない。
指先が、わずかに震える。
「……こちらは、あとに」
口をついて出た言葉は、あまりにも小さかった。
しかし、桜桃は、確かに線を引いた。
見ないことにした。後に回す。
それはつまり、優先しないということだ。
桜桃は自分の手を動かす。
目の前の者へ。布を当て、水を含ませる。やるべきことをやる。
けれど、意識の一部がどうしても離れない。
隣に置いたままの存在から、やがて、声が止まる。
気配が消える。そうなると分かっていた。
それでも、目を向けることができない。
手は止めない。止めれば、今度は目の前の者が落ちる。
「……違う」
小さく呟いた。
何が違うのか、自分でも分かっている。
これまでのやり方では、もう救えない。
同じように手を伸ばしても届かない。
選ばなければならない。
切り捨てなければならない。
それが、現実として目の前にある。
『全ては救えない』
昊夜の声が頭に響いた。
桜桃は唇を噛んだ。血の味が広がる。
“救う”という言葉が、形を失っていく。
残るのは、ただ――
何かをしなければ、という衝動だけだった。
***
昼頃、刹那は街の外れに立っていた。
何気なく山の方角へ目を向け、ふと眉を寄せる。
街道から外れた山道の入口に、数人の兵が立っていた。
少し離れた場所にもいる。土の色に紛れるように配置された人影。その一つ一つを拾っていくうちに、表情からいつもの軽さが消えていった。
旗はほとんど出ていない。
だが、風に揺れた布の隙間から、左右の麒麟が中央の橘を掴む紋が一瞬だけ覗いた。
橘麟紋。
「朝廷軍……」
刹那の目が見開かれる。
一隊は山道の入口。もう一隊は、その東側。
さらに遠く、街から山へ抜ける細い道にも兵がいる。
押さえているのは、山へ通じる道だ。
しかも、少しずつ人数が増え、山へ入ろうとしている。
「……あいつか」
刹那は額を押さえた。
思い当たる男は、一人しかいなかった。
朝凪がここ数日、山へ出入りしていることは知っている。何をするつもりなのか聞いても、地形だの風だのと言うばかりで、肝心なことは何一つ話さなかった。
その結果がこれか。
「何やったんだよ、あいつ……」
呟きながら、もう一度兵の配置を見る。
正面から山道へ入れば、まず止められる。
脇から回っても、すでに兵がいる。
まだ完全に塞がれてはいないが、このまま増えれば、じきに山への出入りは難しくなる。
刹那はしばらく黙ってそれを眺めていた。
やがて、乾いた風の向こうで新たな一隊が山道へ向かうのを見て、嘆息を漏らす。
「戦はごめんだっての」
そう言いながらも、その目はもう、兵の数と位置を数えていた。




