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狂桜華《きょうおうか》~亡国の姫は、名を捨て帝を目指す~  作者:
第二章 乾いた地と、雨の記憶

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第十五話 六日目の朝

 朝凪は夜明け前から山にいた。


 崩す場所は決まっている。水路の線も頭に入っている。あとは時を合わせるだけだ。


 山肌に手を当てて、硬さを確かめる。風を読む。空気の流れを測る。

 爆ぜさせたとき、どこへ抜けるか。どこまでなら被害を抑えられるか。


 完全な線は引けない。それでも、引ける範囲で選び続けるしかない。


 空を見上げる。色の変わり方。風の切り替わり。夜と朝の境目。そのわずかな揺らぎを、何度も確かめる。


「……ここだ」


 この時刻に合わせる。ずらせば、崩れる。


 あとは七日目を待つだけだった。 


 そのとき、視界の端に動きが入った。


 遠く、山の外縁。軍の配置がさらに寄せられている。

 朝凪はわずかに目を細める。


 昨日までとは違い、動きが揃っている。個々の判断ではなく、一本の線で引かれているような配置だった。


「……統一されている」


 誰かが調整している。そうでなければ、この動きにはならない。


 視線を追う。距離は遠いが、指示の流れだけは見える。命令が無駄なく通っている。

 その中に、わずかに異質な点がある。動きの中心にいる者。


 朝凪はその位置を目で追う。一瞬だけ、視線が合う。


 見覚えがあった。


 謀反が起きる前、まだ役職はついていなかったはずの男だ。


 近衛と朝廷軍は、同じ帝国軍でも所属が違う。

 合同の訓練で顔を見たことがある程度で、名前も、どういう人物かも、知らなかった。


 ただ。


 あの夜も、この男がいた。


 炎の中だった。混乱の中だった。

 その男の顔だけが、鮮明に焼きついている。


 朝凪は脳裏に浮かぶ映像を振り払うように、小さく頭を振った。

 それ以上は、思い出したくない。


「……随分出世したものだな」


 水の流れを押さえ、軍の動きを整え、全体を崩さずに維持している。その存在が、初めて輪郭を持つ。


 けれど、違和感が残る。全体を見ている者の動きではない。

 与えられた範囲を、完璧に処理している動き。その印象が残った。


 朝凪はそれ以上考えない。今は関係がない。


 視線を山へ戻す。水路。爆発。時間。すべてが揃う位置を、最後にもう一度なぞる。


 迷いはない。あるのは、選んだ結果だけだ。


 朝凪は静かに息を整えた。


 宿に戻った朝凪は宿の机に向かい、文を書いた。


 長くは書かなかった。事実だけを、順に置いた。書き終えて封をすると、帝都へ送る文の束に、静かに加えた。



 まだ人々が起きる前の静けさの中、桜桃は一人で歩いていた。目的はなかった。ただ、足を止める場所が見つからなかっただけだった。


 若葉の、あの冷たくなっていく手の感触が、まだ指先に残っている気がした。


 昨日、診療所で残酷な線を引いた。こちらを先に助け、あちらは後に。そう自分で決めて、手を動かした。

 後に回した者がどうなったか、分かっていた。分かっていて、それでも線を引いた。


 正しかったのかどうか、今も分からない。ただ、その重い感触だけが、指先から離れなかった。


 昊夜に「すべてを救うことはできない」と冷たく告げられた、数日前のあの言葉。


 分かっていた。分かっていたはずだった。


 けれど──。


 極限の状況の中で、自分自身の意思で命を選別し、切り捨てなければならなかった瞬間、桜桃は初めて、あの時昊夜が言った意味の本当の恐怖を理解したのだ。


(全然わかっていなかった)


 分かっていると言いながら、どんな命もあきらめないと意固地になっていた。

 彼は最初から、この地獄のような現実を知っていたのだ。


 凍てつくような冷たさを孕んだ声が聞こえたのは、そのときだった。


「また、無茶をするつもりか」


 振り返ると、そこに昊夜がいた。


 いつもより、少しだけ距離を置いた場所。

 桜桃は何か言おうとして、喉が詰まって言葉が出てこなかった。


「……無茶じゃありません。ただ、少し歩いていただけです」


「そうか」


 それだけだった。否定もしないし、引き止めもしない。


 けれど、桜桃は小さく首を傾げた。彼の着物や髪に、朝露がうっすらと光っていることに気づいたからだ。まるで、ずいぶん長い間、ここで誰かを待っていたかのように。


「……なぜ、ここにいらっしゃるのですか」


「通りかかっただけだ」


「この道は、診療所へと続いていますが。他には何もありませんよ?」


「そうか。知らなかったな」


 明らかに嘘だった。彼ならここの地理を把握しているはずだ。

 しかも、彼はわざわざ桜桃の歩調に合わせて、自分の長い足の歩幅を極端に狭めて隣に並んできた。肩が触れそうなほどに近い。


 桜桃はしばらく彼の整った横顔を見てから、諦めて前を向いた。


「……昨夜は、眠れたのか」


「あんまり、眠れませんでした」


 昊夜は小さく頷く。少しの間を置いてから続けた。


「ここは、安眠できるような場所ではないからな」


 冷たく突き放すのではない。厳しい事実を、ただ静かに渡すような言い方だった。


「……私は、どうすればいいんでしょう」


「慣れるしかない。それ以外にない」


「……それ、全然優しくないですね」


 いつものように言い返すと、昊夜は一瞬だけ、鋭い目を和らげるように細めた。


「お前に優しくする理由が、私にはないと言いたいところだが」


 そこで言葉を区切り、昊夜は視線を桜桃の目元に戻した。


「……そう言うと、お前はまた無理をしてしまいそうだな」


 桜桃はそれを聞いて、張り詰めていた心がふっと緩み、少しだけ笑った。


 突き放すような正論の裏に、過保護な不器用さが隠されているのか、気づいてしまったから。


「……そういうところ、本当に昊夜様らしいですね」


 さっきまで、若葉のことを思い出して泣きそうになっていたはずなのに、なぜか胸がじんわりとあたたかくなった。


「……変ですね、私」


「何がだ」


「甘い言葉で慰められたわけでもないのに、なんだか、少しだけ楽になった気がして」


 昊夜はすぐには返さなかった。ほんの一瞬だけ、朝の空気の中で間が空く。


 彼は歩きながら、自分の大きな手のひらを、桜桃の小さな手のすぐ近くへと動かした。触れそうで触れない距離。


「私はただ、事実を言っただけだ」


「それが良かったんだと思います」


 綺麗事の慰めや、「お前は悪くない」といった優しい言葉なら、きっと今の自分には毒になっていただろう。


 自ら手を汚し、命を切り捨てた罪悪感を知ってしまったからこそ、ただ静かに「慣れるしかない」と残酷な事実だけを共有し、隣で同じ歩調で歩いてくれる彼の在り方が、今の桜桃には何よりもあたたかかった。


 しばらくして、昊夜がぼそりと言った。


「昨日よりは、顔色がましだ」


「……それ、一応褒めてますか?」


「事実だ」


「昊夜様の褒め言葉って、全部ただの事実なんですね」


「褒めているつもりはない」


「それが私にとっては、一番の褒め言葉なんです」


 昊夜はそれ以上、口を開かなかった。ただ、その視線だけがわずかに桜桃の方へと向けられる。


 桜桃は小さく、深く息を吐き出した。


 胸の奥にまだ重いものはある。若葉を失った悲しみも、昨日命の線を引いた罪悪感も、何一つ消えてはいない。それでも、今この瞬間だけは、背負う荷物が少しだけ軽かった。


「……ありがとうございます」


「何がだ」


「こうして、私を見つけて、隣にいてくれたことが」


 昊夜は答えなかった。ただ、同じ速度で道を歩き続けた。

 今度はしっかりと彼女の小さな手を自分の大きな手で包み込んで。


 ――通りかかった、と彼は言った。


 この道が診療所にしか続かないことを、桜桃は指摘した。昊夜は「そうか」とだけ言って、それ以上は何も語らなかったし、桜桃もそれ以上は追及しなかった。


(……嘘つきですね、昊夜様)


 けれども桜桃は何も言わなかった。理由を知ってしまったら、今この胸にある、心地よい甘さが消えてしまう気がしたから。


 繋いだ手の温もりだけが、乾いた道の上に静かに並んで伸びる二人の影を、いっそう近くへと手繰り寄せていた。



 その日、街はもはや昨日までの形を保っていなかった。

 人の流れが押し合いながらぶつかり合い、声は意味を伝えるためではなく、相手を退けるために発せられている。


 わずかに残った水や食料は、もう分けられる形ではない。手にした者が抱え込み、それに視線が集まる。距離が詰まり、奪おうとする。躊躇はほとんど残っていない。


 完全には崩れていないが、誰も保とうともしていない。境界だけが残っている。その線が、今にも消えそうになっていた。


 風が吹く。乾いたまま。変わらない。


 あと一つ。ほんの小さなきっかけで、すべてが崩れる。

 その直前で、街はかろうじて踏みとどまっていた。


 桜桃は、その只中で、舞をはじめていた。



 昊夜は広場の外縁に立っていた。


 桜桃の舞に、人々の視線が集まる。けれど、それは信じているからではない。ただ、他に向ける先がないだけだ。


 昊夜はその様子を一瞥し、すぐに視線を外す。


 見るべきものはそこではない。流れだ。人の動き。偏り。崩れ方。


 広場の一角で、若者たちが固まっているのが見える。武器を持ち、視線を合わせず、しかし同じ方向を見ている。臨界だ。一つ火が入れば、そこから一気に崩れる。


 昊夜はゆっくりと歩き出した。


「見ないんですか」


 三歩後ろで、千弦が静かに言った。


「何をだ」


「舞を」


「見に来たわけではないだろう」


 昊夜は歩みを止めない。


 千弦はそれ以上言わなかった。ただ、わずかに広場の方へ視線を向けてから、また前を向いた。


 昊夜は、若者たちの前で足を止めた。

 数人が顔を上げる。警戒の目。敵か味方か判断できない相手を見る目だった。


「何をするつもりだ」


 昊夜が静かに問う。

 責めているわけではないのに、不思議と相手が一瞬怯む。


「見て分かんねえのか」


「分かる。奪う」


 その言葉に、場の空気がわずかに固まる。言い当てられたからではない。はっきりと口にされ、その行為が形を持ったからだ。


「その先は」


 若者は答えない。答えられない。

 昊夜は一歩、距離を詰める。


「今日を越えた後だ。明日、何を奪う」


 誰もすぐには動かない。明日を想像する。だが、像は結ばれない。何もないからだ。


「そんな先のこと考えてどうすんだよ」


「考えないなら、ここで終わる」


 即答だった。淡々とした言葉には感情はない。断定だけがある。場の温度がわずかに下がる。


「分けても足りない。奪っても続かない。どちらも同じだ」


 若者たちの間に、わずかな揺れが生まれる。否定したいのに、材料がない。


「なら、選べ。壊すか、持たせるか」


 二つだけを提示する。奪うかどうかではない。壊すか、持たせるか。基準を変える。


 若者たちは顔を見合わせる。答えは出ない。だが動きが止まった。


 昊夜が踵を返したとき、横から声がかかった。


「あんた、誰だ」


 低く、はっきりした声だった。


 昊夜は足を止めて振り返る。

 小さい。背は低く、年は十三かそこらだろう。だが立ち方だけが、妙に据わっている。顎を上げ、まっすぐにこちらを見ている。


(……何だ、この小さいの)


「通りかかった者だ」


「通りかかっただけで、あんな話をするのか」


「必要だったから言ったまでだ」


 琥珀は少し間を置いてから、また昊夜を見た。


「……六花の知り合いか」


「そうなる」


「そうなる、って何だ。知り合いか知り合いじゃないかどっちかだろ」


 昊夜は少し虚をつかれたような顔をしたが、すぐに表情を戻し、答えた。


「……知り合いだ」


「なら見てやれ」


 琥珀はそれだけ言って、広場の方へ戻っていった。

昊夜はわずかな興味を示したように、しばらくその背中を見ていた。


「……小さいな」


「背のことでしたら、本人の前では言わない方がよいかと」


 千弦が静かに言う。

 

 昊夜は答えず、視線を広場の方へ向けた。


 桜桃が舞っている。動きは揺れているが、止まってはいない。


「……間に合うか」


 小さく呟く。誰に向けたものでもない。


 彼の後ろで、若者たちはまだ動けずにいる。崩壊は止まっていないが、ほんのわずかだけ遅れた。


 その遅れが、どれほどの意味を持つかは、まだ誰にも分からない。


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