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狂桜華《きょうおうか》~亡国の姫は、名を捨て帝を目指す~  作者:
第二章 乾いた地と、雨の記憶

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第十六話 七日目の誤算

 刹那は広場の端で桜桃を見つけた。


 舞を終えたばかりなのだろう。衣の裾を押さえたまま、しばらく動かずに立っている。周囲には人々の殺気立った気配があるが、彼女の周りだけが、静まり返っていた。


 桜桃は、毎日死に向き合い、舞っている。その心は、もういつ砕け散ってもおかしくないほどに磨り減っているはずだった。


 それなのに、目の前の民衆の乾ききった殺気は、容赦なく彼女の小さな肩にのしかかっている。


 刹那は、いつもの軽薄さを完全に消し去った、重く低い足取りで彼女に近づく。


「……姫」


 いつもの呼び方だったが、その声には、底知れない重さが混じっていた。

 桜桃がゆっくりと振り返る。


「刹那」


 言葉はそれだけだったが、互いに分かっている。これが、ただの挨拶で終わるわけではないことを。


 刹那は周囲を一瞥する。

 暗がりに潜む、暴徒と化す寸前の人々のギラついた目。抑えきれない怒号寸前のざわめき。


『七日後に雨を降らせる。それまで耐えろ』


 ――そう言って民衆を煽り、ここまで踏みとどまらせたのは刹那自身だった。


 裏を返せば、明日雨が降らなかった時に起きる大暴動の引き金を引いたのも、他ならぬ刹那ということになる。


 その約束の「七日後」が、明日だった。


「……明日、動く」


 桜桃は問い返さなかった。その言葉が、目の前の民衆の限界を意味していることを、肌に刺さる空気ですでに感じ取っていたからだ。


「雨が降る可能性はある」


「……可能性、なのね」


「ああ」


 桜桃はきつく目を伏せる。降るかもしれない。だが、降らないかもしれない。


「降らなければ――」


 言葉が喉に詰まる。


「持たねえよ」


 刹那が、遮るようにその言葉を引き取った。


「明日雨が降らなきゃ、この広場は完全に崩れる。民衆の絶望は怒りに変わって、デタラメを言った俺や、お前にまで牙を剥く」


 大げさな言い方ではない。ただ、明日起きる現実をそのまま置く。


 桜桃は何も言えない。その現実から逃げるなと突きつけられているようで、小さく拳を握りしめた。


 だが、刹那がわざわざこんな話を彼女にしに来たのは、彼女を脅すためではなかった。

 自分が背負うべき責任の、その身代わりを彼女にさせるわけにはいかないからだ。


 刹那はもう一歩、彼女に触れそうなほどに距離を詰めた。声を限界まで落とす。


「いいか。雨が降れば、全部止まる。……だが、降らなきゃ終わる」


 一瞬の間。


「だから、お前は目の前のやつらがどんなに荒れようが、そいつらの『怒り』まで背負い込もうとするな。全部、俺が始めたことだ」


「え……?」


 桜桃がゆっくりと顔を上げる。その目の奥にある揺れを、刹那の鋭い双眸が真っ直ぐに射抜いた。


「もし明日雨が降らなくて、ここが戦場になったとしても、そいつはお前のせいじゃない。俺のせいだ。……だから、最悪の事態になった時の泥仕事は全部俺が引き受ける。どんなになろうが、お前には指一本、誰にも触れさせねぇよ」


 それは、自分が煽った責任をすべて一人で背負い、何が何でも彼女の手を引いて守り抜くという、逃げ場のない男の覚悟だった。


 桜桃はすぐには答えない。だが視線は逸らさなかった。あまりにも重い彼の優しさが、砕けかけていた胸の奥にじわじわと染み渡っていく。


「……ええ。分かったわ」


 短いが、それだけで十分だった。

 刹那はそれ以上何も言わず、一歩下がり、踵を返す。


「……姫」


 去り際、もう一度だけ背中で呼びかける。桜桃が視線を向けると、刹那は振り返らないまま、どこかいつものように少しだけ笑ったような気配を見せた。だが、その背中には、退路を断った男の決意があった。


「お前は、お前の舞うべきことだけに集中しろ。後は俺がどうにかしてやる。……だから、ここは任せたぞ」


 それだけ言って、彼は闇の向こうへと歩き去っていった。

 桜桃はその背中をじっと見送った。引き止めない。それぞれが命を懸けて立つべき場所が、もう決まっているからだ。


 風が吹く。まだ乾いたままの、けれど、嵐の前触れのような不穏な風。


 明日。その一日で、すべてが決まる。

 桜桃はゆっくりと深く息を吸い、静かに吐き出した。


***


 七日目の朝は妙に静かだった。

 夜のあいだに何かが変わったわけではない。水も増えていないし、食料もない。人々の顔色も、昨日までと同じように疲れ切っている。それなのに、空気だけが爆発寸前のように張り詰めていた。


 何かが起きるのを息を潜めて待つ、異様な静寂だった。


 広場の中央に、桜桃は立つ。

 衣を整え、ゆっくりと視線を落とした。周囲には、すでに溢れんばかりの民衆が集まっている。だが押し合いへし合いはない。互いに一定の距離を保ったまま、ただじっとそこに佇んでいる。


 控えの外では、舞姫を護衛する近衛たちが、周囲へ鋭い視線を巡らせている。


 桜桃たちが白砂に到着した翌日、刹那は民衆の前に立って大見栄を切った。


『こちらは神祇官の舞姫だ』


『七日後に、雨を降らせる』


 今日が、その七日後だった。

 民衆の目に宿るのは、期待ではない。しかし、純粋な疑いでもない。生死を懸けて、「その瞬間」を見届けるために集まっているのだ。


「舞姫様」


 瑛が後ろから声をかけた。帯の結び目を最後にもう一度確かめながら言う。


「きっと大丈夫です。信じましょう」


 桜桃は小さく頷いた。


「ありがとうございます」


「それだけです」


 瑛は一礼して、静かに下がった。

 少し間を置いて、今度は横から別の声が落ちてきた。


「……六花」


 琥珀だった。桜桃の隣に並び、前を向いたまま腕を組んでいる。


「雨が降っても、……もし降らなくても、俺はここにいるからな」


「琥珀……」


「それだけだ」


 琥珀の視線は、頑なに広場の向こうを向いていた。

 桜桃はその横顔を見つめてから、正面を向いた。


 胸の奥のざわめきは消えない。それでも、もう手は止まらない。ここまで来て、引くという選択肢はなかった。


 舞う。自分には、それしか残されていない。

 桜桃はゆっくりと、深く息を吸った。


 腕を上げる。足を運ぶ。

 その最初の動きに合わせ、場の空気がわずかに軋んだ。


 すう、と風が通る。乾ききっていたはずの空気が、ほんの少しだけ湿り気を帯びて動いた。

 誰かが弾かれたように顔を上げる。理由は分からない。だが、何かが決定的に違うと本能で感じ取っていた。


 雨乞いの舞が、始まった。見えない変化が、確かにこの白砂の地に刻まれようとしていた。


***


 その裏で、街の外縁でも不穏な動きが加速していた。


 外を囲む軍が、さらに一歩前へ出る。

 昨日までの封鎖線を越え、明確に内側へと踏み込む配置。だが彼らの隊列は一切乱れない。武を誇示する動きもない。


 進む理由は、戦のためではなかった。暴動、そして山の異常行動を「止める」ためだ。


「これ以上の進行は許可されていない」


 前線の将が、低く告げる。声は抑えられているが、有無を言わせぬ威圧感があった。

 その言葉は、街の民衆へ向けられたものではない。山の内側にいる、何かへ向けられている。


「命令は封鎖の維持、および異常行為の中止だ」


 兵たちはその言葉に従い、機械的に位置を固めていく。包囲網を広げるのではない。ぎりぎりと力で押さえる。内側からの崩壊を食い止めるための配置だった。


「対象は特定されているのか」


「不明だが、確実に動きはある」


 何が起きるかは分からない。だが、何かが起きようとしていることだけは分かる。だから、芽のうちに摘み取る。それが軍の役目だった。


 街の内側では、まだ暴動は起きていない。武器を持つ者はいるが、誰も最初の一歩を踏み出してはいなかった。均衡は、かろうじて保たれている。


 だが、そのか細い均衡の上に、さらなる圧力がのしかかる。


 外からの軍による封鎖。内からの民衆の飢え。その二つの間で、空気が軋んでいた。


 刹那は、山から吹き降ろす風の向きを確かめながら、街の外へ鋭い視線を走らせる。

 その目が、驚愕に見開かれた。


(――早い……っ!)


 軍の動きが、想定よりも半刻は早い。

 広場ではまだ桜桃の舞が始まったばかりだ。


 これでは、水路が完全に繋がる前に、すべてが中途半端なままで力尽くで止められてしまう。そうなれば、民衆の怒りは頂点に達し、本当の地獄が始まる。


「……ちっ!」


 余裕はなかった。考える時間すらない。


 刹那は踵を返し、軍の進軍を阻むために外縁へと全力で走り出した。乾いた大地を激しく蹴る音が、やけに大きく響く。


 視界の先に、迫り来る軍の陣が見えた。非情なほどに整い、一切の隙がない。それが逆に、刹那の焦りを爆発させる。


(止めるしかねえ……! だが、どうやって!?)


 ここで軍と戦えば、その瞬間にすべてが終わる。そんなことは百も承知だった。けれど、あいつに「俺がどうにかしてやる」と大口を叩いて誓ったのだ。 


「……くそったれが……っ!」


 刹那はただ一人、牙を剥く軍勢に向かって、突っ走った。


***


 山の上では、すでにすべてが整っていた。

 朝凪は剥き出しの岩肌に手を置き、仕掛けの最終位置を確かめる。水路も繋がり、流れは受けられる形になっている。あとは時を合わせて動かすだけだった。


 そのはずだった。


 ふと、山の上から眼下へ視線を向けた瞬間、朝凪の動きが止まる。


 軍の列が、想定よりもはるかに深く山に入り込んでいる。計算していた範囲の、内側にまで。


「……入っている」


 ここで動かせば、巻き込む。被害が出るどころでは済まない。意図した範囲を越えて、崩れる。


 朝凪は微動だにせず、風の流れをもう一度読み、地形をなぞる。だが、導き出される結論は変わらない。


「……発動できない」


 指先にかけていた力を、わずかに緩める。


 朝凪はきつく目を閉じた。

 その間にも、軍は動く。さらに内へ。境界が、少しずつ削られていく。


***


 同じ頃、刹那は無茶苦茶に走っていた。


 軍の前衛が目前に迫る。

 突っ込んでくる影に気づき、兵たちの槍の穂先がわずかに上がった。


「止まれ!」


 刹那は制止を無視して数歩踏み込み、槍の刃先が届く陣の真正面で急停止した。


「これ以上の進行は許可されていない。退け」


 前に出た将が鋭く告げる。その声に揺らぎはない。


 刹那は息を整えながら、将の目を真っ直ぐに見据えた。


「分かってるよ」


 肩を荒く揺らしながらも、刹那は不敵に唇を歪めた。


「だが、こっちだってな……ここを通す気も、これ以上お前らを前に行かせる気もさらさらねぇんだわ」


 兵たちの空気が一瞬で変わった。戦う構えではないが、明確な衝突の予兆が音を立てる。


「貴様の目的は何だ」


 刹那は即答しなかった。一瞬だけ、背後の街へ意識を飛ばす。桜桃の舞が続いているはずの広場。そして見上げる、朝凪がいるはずの山。


 今お前らがここにいるせいで、全ての歯車が狂っている。だから。


「時間だ」


「時間?」


「少しでいい、下がって時間をくれ。今お前らがそこにいると、全部が無駄になるんだよ!」


 それは説明でも懇願でもなかった。だが、軍が退くわけがない。


 将の沈黙の間に、後方の兵たちがわずかに動き出す。間合いを詰めるべきか、保つべきか。


(まずい、このままじゃ数の圧力で押し切られる。言葉じゃもう止まらねぇ……。だけど、ここでこいつらを殺せば本当の戦争だ)


 刹那は、腰の刀の柄に手をかけた。抜かない。ただ、触れるだけ。

 それだけで、場の空気が張り詰める。兵たちの全視線が、彼の右手に集中した。


 刹那は低く、薄く笑った。


「やりたくねえよ、あんな面倒なこと……」


 けれど、柄を握る手に凄まじい力がこもる。


「だが……ここは、死んでも一歩も進ませねぇ」


 退路を断った重い一言。その瞬間、かろうじて保たれていた均衡が引きちぎれた。


「退けと言っている! ――前へ!」


 将の鋭い怒号が飛ぶ。


「――止まれって言ってんだろ!」


 刹那は咆哮とともに一歩前へ踏み込み、ついに刀を抜いた。キィンと鋭い金属音が乾いた空気を引き裂く。

 振るわない。斬るためではない。ただ、進路を塞ぐ強固な壁として、刀身をそこに置く。


 殺到する槍の穂先が、刹那の刀に触れた。もの凄い重量が押し寄せる。刹那はそれを力で受け止めず、絶妙な角度で受け流し、弾く。


 しかし、数が多すぎる。一歩でも下がれば、軍はさらに深部へと侵入してしまう。あいつの誓いを、山の上の作戦を、ここで無に帰すわけにはいかない。


 その瞬間──遠く、空気が揺れる。ほんのわずかに。

 刹那の目がそちらへ動く。


(来るか。まだか)


 分からない。だが、もう後には引けない。


 刹那は足を踏みしめる。地に根を張るように。戦わずに、ここで止める。それがどれほど綱渡りでも。


***


 その頃、広場では桜桃の舞が続いていた。


 空は、非情なほどに青い。雲ひとつなく、風も乾ききったままだ。何も変わらないその天が、逆に絶望となって肩に重くのしかかる。


 桜桃の動きが、わずかに乱れた。呼吸が浅くなり、胸の焦りが抑えきれなくなる。


(――降らない……っ)


 まだ時間ではないと、頭では分かっている。だが限界を迎えた身体が先に反応してしまう。一歩がわずかに遅れ、翻る袖が弱々しく揺れた。


 けれど、絶対に止めない。ここで止めれば、すべてが終わる。


『降らなきゃ終わる』


『お前は舞うべきことだけに集中しろ』


 昨夜の刹那の言葉が、耳の奥で響いていた。

だから、舞う。意味があるかどうかではない。ここで足を止めれば、刹那が命懸けで繋いでいる時間も、すべてが水泡に帰す。


 桜桃はきつく歯を食いしばった。重い足を引きずり、腕を上げ、天を仰ぐ。

 空は、まだ青いままだ。


「……っ!」


 声にならない悲痛な息が漏れた。


 その瞬間――、張り詰めた風が、わずかに不規則に揺れた。


 ほんの、爪の先ほどの違和感。だが確かに空気が動いた。桜桃の目が見開かれる。気のせいかもしれない、それでも彼女は、縋るようにその風を掴んで舞い続けた。


*** 


 同じ頃、山の中腹で朝凪は立ち尽くしていた。

視線の先、軍の列が容赦なく踏み込んでくる。近い。


 仕掛けを握る指先に力をかけるが、どうしても引き金が引けない。このままいけば、前線の将兵を確実に巻き込む。


 朝凪は地を蹴って一歩ずらし、角度を変えて測り直す。


(違う……足りない、これじゃ範囲が広すぎる!)


 さらに位置をずらすが、時間は一刻を争っていた。眼下では軍がさらに一歩、深部へと踏み込んでいく。距離が、完全に消える。


「……っ!」


 呼吸が完全に乱れた。待てば広場が暴動で崩れる、今動かせば軍に被害が出ることになる。


 軍の先頭が、さらに内部へと侵入する。


「――まずい!」


 もう、猶予はない。

 朝凪の指が、恐怖と覚悟に激しく震えた。


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