第十四話 皇子、白砂に来る
夕刻、広場の準備が進められていた。
昨日と同じように、人が次々と集まってきた。けれど、広場を満たす空気はまるで違っていた。人々は互いに顔を見合わせ、声を潜めて言葉を交わしている。
「……あと二日だな」
「ああ。あと二日で雨が降るんだろう?」
「本当に降るのかね……」
「降るさ。ここまで待ったんだ。あと二日だけ、耐えよう」
誰かがそう言うと、周囲の者たちも小さく頷いた。
縋るためではない。七日目に雨が降るという約束を信じ、何かが起きるのを待つような、張り詰めた空気が広場を包んでいた。
桜桃はその中央に立っていた。
瑛が後ろから衣の裾を整えている。几帳面な手つきで、一度確かめてからもう一度確かめる。
「……帯、もう少し上です」
「はい」
「結び目がほどけやすくなっています。もう一度」
「……すみません」
「いいえ」
瑛は無言で結び直した。桜桃の指先が震えているのを、見ていないふりをした。
呼吸が浅い。整えようとしても、胸の奥がざわつく。
さきほどの感触が、まだ残っている。選んだこと。置いたこと。見なかったこと。それらが、重なっている。
「……」
目を閉じる。
何のために舞うのか。
祈るためか。雨を呼ぶためか。見捨ててないと示すためか。縋るものを与えるためか。
──違う。
それで救えるわけではないと、桜桃はもう分かっていた。
それでも、やらなければならない。
今にも崩れそうな空気の中で、崩さないために。
人々の動きをを止めるために、舞う。もう、それしかない。
「舞姫様」
いつも通り静かな瑛の声が聞こえた。
「記録は、残します」
桜桃は目を開けた。
「今日ここで何があったか。誰が倒れたか。何が足りなかったか。帝都へ戻っても、報告し続けます」
桜桃はしばらくの間、瑛の顔を見た。
「……ありがとうございます」
「それが私にできることですので」
瑛は一礼して、後ろへ下がった。
桜桃は顔を上げ、真っ直ぐ見据えた。
〝救う〟ためではない。ただ、〝止めるために〟。それだけを胸に残す。
少し離れた場所で、刹那はその様子を見ていた。
準備の段階から分かる。昨日とは違う。桜桃の動きが硬い。
昨夜倒れたばかりだ。無理をしているのは明らかだ。それでも立っている。
「……やるのかよ」
誰に向けたわけでもない言葉が漏れる。
死者を送るために心を削って舞っていた彼女の細い背中が、今も刹那の脳裏に焼き付いて消えない。あの形を、もう一度やるのか。
「……ったく」
小さく舌打ちする。納得できない。
それでも。
「やるしかねえ、か」
止めることもできない。代わることもできない。なら、見るしかない。最後まで。
刹那は再び視線を戻す。
意味がなくても、届かなくても、それでも続けるしかないという現実だけが、そこにあった。
***
夜は深く、街のざわめきも遠くに沈んでいた。
人の気配が途切れた外れで、刹那は壁にもたれて立っている。
視線は空に向いているが、何かを見ているわけではない。ただ、考えを止めるためにそこに置いていた。
足音が近づく。軽い。迷いがない。
刹那は振り返らない。
「舞姫は」
朝凪が、刹那に問う。
刹那は、やっぱり知り合いじゃねぇか、とはもう言わなかった。
「万全じゃないだろうが、なんとかもってる」
「そうか」
夜風が一度、低く通り抜けた。
刹那はしばらく黙っていたが、先に口を開いた。
「朝廷軍が来てる」
「ああ。昨日から、山の周りを嗅ぎ回っている」
「今日見たら山道を押さえ始めてたぞ。このままじゃ、明日にはもっと増える」
「そうだろうな」
刹那は横目で朝凪を見る。
「ずいぶん他人事だな」
「止めろと言われて止めるなら、最初からやっていない」
「お前な……」
刹那は額を押さえた。
朝廷軍が動くのも当然だった。
ここ数日、朝凪たちは山へ何かを運び込み、地面を掘り、大きな筒まで組み上げている。事情を知らない者から見れば、怪しいどころの話ではない。
刹那は腕を組んだ。
「……それで、本当に雨を降らせる気か」
「ああ」
「ああって人間にそんなことできるのか。まさか、あの舞に賭けてるわけじゃないよな」
「違う」
「じゃあ、何をする気だ、朝凪」
「爆破する」
刹那は息を呑んだ。一瞬、夜の街が消えた。
『何をする気だ、朝凪』
砂塵の向こうで、自分は同じことを聞いた。
かつて若い朝凪は地図から顔を上げずに、淡々と言った。
『爆破する』
次の瞬間、轟音が大地を揺らし、土煙が噴き上がった。
背後で炎が燃える中、朝凪は赤い髪が靡かせ、静かに命じた。
『第五部隊、東地区を殲滅せよ』
決断にはいつも迷いも恐れもない。
瞳に、紅蓮の炎を宿したような男だった。
刹那はしばらく黙っていた。空を見上げると、星はいつもと変わらず瞬いていた。
目の前にいる朝凪は、もう軍装ではない。
それでも。
「……お前、ほんとに変わらないな」
呆れているのか、安堵しているのか、判別のつかない声だった。
「褒めているのか」
「褒めてない」
刹那は壁から背を離した。腕を組んで、朝凪を見る。
「本気でやる気か」
「やる」
「それで雨は降るのか」
「条件は揃いつつある」
「……揃いつつ」
「可能性はある」
断言ではない。否定でもない。だがそこには、揺れるものが何もなかった。
刹那は苦く笑う。
「……ずいぶん軽いな」
「そうだな。保証はない」
その一言で、すべてが揃う。可能性はある。しかし、確実ではない。外れれば、何も残らない。
「失敗したら、どうなる」
「崩れる」
即答だった。刹那はゆっくりと息を吐く。
「……賭けか」
「そうだ」
「外れたら、終わり」
誰に向けた言葉でもない。
刹那の中で、何かが繋がる。
──戦場。進めと言われ、進んだ先で引き返せなくなったあの瞬間。選択肢があるようで、実際にはなかったあの感覚。それが今、同じ輪郭を持って戻ってくる。
「巻き込むなよ」
「巻き込まない」
「信用ならねえな」
刹那は肩をすくめ、やがて静かに言う。
「……でもな。お前がやるって言うなら、信じるしかない」
朝凪は何も言わなかった。
夜は深い。星は変わらず、空にある。
刹那はもう一度だけ目を閉じた。
戦の記憶は消えない。けれど、それでもここにいる。それが、今の選択だった。
***
乾いた風が街路を抜けたそのとき、空気が揺れた。
配給所の前では水を求める者たちが列をなし、療所には運び込まれた病人が溢れている。日が落ちても暑さは引かず、乾いた風が街路を吹き抜けていた。
その街の入口に、一人の男が立っていた。
濃灰の軍装。腰には刀を佩き、三歩後ろには千弦が控えている。
誰かが男に気づき、道を空けた。それにつられるように、周囲の人々も足を止める。
昊夜はその反応を気にも留めず、街を見渡した。
乾いた地面。水を巡って言い争う人々。療所の前に横たえられた病人たち。
そして、白砂の背後にそびえる山。
山腹には、朝廷軍の篝火が点々と連なっていた。
「……なるほどな」
「昊夜様、斥候からの報告です」
背後に控えた千弦が、寄り添いながら淡々と告げる。
「山中で作業を進めている者の身元が分かりました。朝凪殿です」
「……朝凪?」
その名を聞いて、昊夜は動きを止めた。
(なぜ、ここにいる)
謀反のあと宮廷を去った男が、なぜ因州にいるのか。
しかし、あの男が無意味なことをするはずはない。
けれど、純粋に因州を救うためにわざわざ帝都から来るような男では無い。
他に意図があるはずだ。何のために。……誰のために。
「何をするつもりだ」
「数名とともに大きな筒のようなものを組み上げ、山腹には大量の火薬を運び込んでいるとのことです。朝廷軍は作業の停止を命じていますが、従う様子がないようで」
「大量の火薬……」
土煙の向こうで靡く赤褐色の長い髪が、昊夜の脳裏を掠めた。
昊夜は眉を寄せた。
「千弦。あの山の向こうには何がある」
「白砂の北側へ続く谷があります。山裾には、いくつか集落もございますが」
「街へ流れ込む川は」
「今はほとんど干上がっています。ただ、雨が降れば谷を伝って水が下りてくるはずです」
昊夜は空を見上げた。雲はほとんどない。
「……雨か」
「はい?」
昊夜は答えなかった。
そういえば、白砂では七日間の雨乞いが行われていると聞いた。
神祇官の舞姫が、雨を降らせるために舞い続けているという。
その期限は、明後日。
昊夜は再び山を見上げた。
「山を崩す気か」
千弦が目を見開いた。
「何を考えているのかまでは分からない。だが、あいつならやる」
昊夜は踵を返した。
「彪殿を呼べ。山裾の集落と、谷に沿った低地の住民を避難させる」
「避難、ですか」
「火薬が仕掛けられている以上、山が崩れる可能性がある。土砂がどこへ流れるか分からない。雨まで降れば、川も危険だ」
千弦の表情が引き締まった。
「承知しました。朝廷軍にも知らせますか」
「ああ。山を押さえる兵とは別に、避難の誘導に人を回させろ」
「飛燕殿が応じるでしょうか」
「さぁな。だが、住民の安全が先だ。朝凪を捕らえるのはそのあとでもできる」
千弦が一礼し、足早に立ち去る。
昊夜はその背を見送ったあと、療所の方角へ目を向けた。
微かな灯りの下で、何人もの人影が忙しなく動いている。
その中に、桜桃がいた。
袖をまくり、琥珀とともに病人の世話をしている。疲れ切っているのだろう。時折、額の汗を拭いながらも、その手を休めようとはしなかった。
その姿を見た瞬間、昊夜の胸の奥にあった不穏な熱が、すっと引いていく感覚があった。
どれほど過酷な地であろうと、あの娘は、手を差し伸べるのをやめていなかった。その健気な生存が、なぜだか昊夜の心を安堵させた。
昊夜は桜桃から目を逸らし、避難の手配へ向かった。




