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狂桜華《きょうおうか》~亡国の姫は、名を捨て帝を目指す~  作者: 澪
第二章 乾いた地と、雨の記憶【因州祈雨編】

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第十五話 皇子、嘘をつく

 六日目の朝、朝凪は白砂へ続く水路を辿っていた。


 山での作業は、装置を作った男たちに任せてある。明日に備えて確かめておきたいことが、まだ一つ残っていた。


 水路に沿って歩き、古い分水堰へ差しかかったところで、朝凪は足を止めた。


 朝凪は石垣の陰で足を止めた。


 堰の前に、飛燕と疾風が立っていた。


 朝凪の視線が、飛燕の横顔に留まる。


 謀反が起きる前、まだ中将ではなかったはずの男だ。


 朝凪がまだ朝廷軍に属していた頃から、その顔と名前は知っていた。だが、同じ任務に就いたことはほとんどなく、近衛へ移ってからも、合同訓練などで顔を合わせる程度だった。


 どのような考えを持ち、何を信じて剣を振るう男なのか、朝凪は知らなかった。


 ただ、あの夜も、この男がいた。

 炎の中だった。混乱の中だった。


 その男の顔だけが、鮮明に焼きついている。

 朝凪は脳裏に浮かぶ映像を振り払うように、小さく頭を振った。


 それ以上は、思い出したくない。


「……確かに止まってるな」


 飛燕が堰を見下ろして言った。


「俺はちゃんと三割まで戻しましたよ」


「分かっている」


 疾風はしばらく黙って水路を覗き込んでいたが、ふと思い出したように顔を上げた。


「そもそもなんで減らしたんですか」


「全てに行き渡らせることはできない。どこを優先するかだ」


「えっ。それって白砂を切り捨てるってことですか」


「……お前はもう少し言い方を考えろ」


「でも、そういうことですよね?」


 飛燕はすぐには答えなかった。


 堰の向こうで、わずかに残った水が石の間を流れている。


「全てを救おうとして、全てを失うわけにはいかない」


 朝凪は、その言葉を黙って聞いていた。


 飛燕はもう一度堰を見たあと、踵を返した。


「俺は一度、帝都へ戻る」


「えっ!」


 疾風が勢いよく振り返る。


「帰っちゃうんですか?」


「帰るんじゃない。民部省から、水量調整の件で説明を求められている」


「それって、怒られるってことですか」


「……まあ、そうだな」


「ええっ。じゃあ俺も一緒に――」


「お前は残れ」


 飛燕はぴしゃりと言った。


「山の件がある。あの異常な作業をこれ以上進めさせるな。明日までには止めろ」


「俺が、ですか?」


「ほかに誰がいる」


「いや、でも、飛燕殿がいないと……」


「いつまでも俺がいると思うな」


 疾風は口を閉じた。


 飛燕はその肩を一度だけ叩く。


「しくじるなよ。なんとしてでも止めろ」


「……はい」


「返事だけはいいな」


「ちゃんとやりますよ!」


 飛燕はそれ以上何も言わず、歩き去った。


 残された疾風はしばらくその背中を見送っていたが、やがて堰へ向き直った。


「……帰っちゃうのかあ」


 小さく呟き、首を傾げる。


「いや、帰るんじゃないって言ってたな」


 一人で納得すると、疾風も歩き出した。


 二人の姿が見えなくなってから、朝凪も石垣の陰を離れた。


 宿に戻った朝凪は宿の机に向かい、文を書いた。


 長くは書かなかった。事実だけを、順に置いた。書き終えて封をすると、帝都へ送る文の束に、静かに加えた。


 ***


 まだ人々が起きる前の静けさの中、桜桃は一人で歩いていた。目的はなかった。ただ、足を止める場所が見つからなかっただけだった。


 昨日、診療所で残酷な線を引いた。こちらを先に助け、あちらは後に。そう自分で決めて、手を動かした。

 後に回した者がどうなったか、分かっていた。分かっていて、それでも線を引いた。


 正しかったのかどうか、今も分からない。ただ、その重い感触だけが、指先から離れなかった。


 昊夜に「すべてを救うことはできない」と冷たく告げられた、数日前のあの言葉。


 分かっていた。分かっていたはずだった。


 けれど、極限の状況の中で、自分自身の意思で命を選別し、切り捨てなければならなかった瞬間、桜桃は初めて、あの時昊夜が言った意味の本当の恐怖を理解したのだ。


(全然わかっていなかった)


 分かっていると言いながら、どんな命もあきらめないと意固地になっていた。

 彼は最初から、この地獄のような現実を知っていたのだ。


「また、無茶をするつもりか」


 凍てつくような冷たさを孕んだ声が聞こえたのは、そのときだった。


 振り返ると、そこに昊夜がいた。


 いつもより、少しだけ距離を置いた場所。

 桜桃は何か言おうとして、喉が詰まって言葉が出てこなかった。


「……無茶じゃありません。ただ、少し歩いていただけです」


「そうか」


 桜桃は小さく首を傾げた。彼の着物や髪に、朝露がうっすらと光っていることに気づいたからだ。まるで、ずいぶん長い間、ここで誰かを待っていたかのように。


「……なぜ、ここにいらっしゃるのですか」


「通りかかっただけだ」


「この道は、診療所へと続いていますが。他には何もありませんよ?」


「そうか。知らなかったな」


 明らかに嘘だった。彼がここの地理を把握していないわけがない。


 しかも、彼はわざわざ桜桃の歩調に合わせて、自分の足の歩幅を極端に狭めて隣に並んできた。肩が触れそうなほどに近い。


 桜桃はしばらく彼の整った横顔を見てから、諦めて前を向いた。


「……昨夜は、眠れたのか」


「あんまり、眠れませんでした」


 昊夜は小さく頷く。少しの間を置いてから続けた。


「ここは、安眠できるような場所ではないからな」


「……私は、どうすればいいんでしょう」


「慣れるしかない。それ以外にない」


「……それ、全然優しくないですね」


 いつものように言い返すと、昊夜は一瞬だけ、鋭い目を和らげるように細めた。


「お前に優しくする理由が、私にはないと言いたいところだが」


 そこで言葉を区切り、昊夜は視線を桜桃の目元に戻した。


「……そう言うと、お前はまた無理をしてしまいそうだな」


 桜桃はそれを聞いて、張り詰めていた心がふっと緩み、少しだけ笑った。


 突き放すような正論の裏に、過保護な不器用さが隠されているのか、気づいてしまったから。


「……そういうところ、本当に昊夜様らしいですね」


 さっきまで、昨日のことを思い出して泣きそうになっていたはずなのに、なぜか胸がじんわりとあたたかくなった。


「……変ですね、私」


「何がだ」


「慰められたわけでもないのに、なんだか、少しだけ楽になった気がして」


 昊夜はすぐには返さなかった。ほんの一瞬だけ、朝の空気の中で間が空く。


「私はただ、事実を言っただけだ」


「それが良かったんだと思います」


 綺麗事の慰めや、「お前は悪くない」といった優しい言葉なら、きっと今の自分には毒になっていただろう。


 自ら手を汚し、命を切り捨てた罪悪感を知ってしまったからこそ、ただ静かに「慣れるしかない」と残酷な事実だけを共有し、隣で同じ歩調で歩いてくれる彼の在り方が、今の桜桃には何よりもあたたかかった。


 しばらくして、昊夜がぼそりと言った。


「昨日よりは、顔色がましだ」


「……それ、一応褒めてますか?」


「事実だ」


「昊夜様の褒め言葉って、全部ただの事実なんですね」


「褒めているつもりはない」


「それが私にとっては、一番の褒め言葉なんです」


 昊夜はそれ以上、口を開かなかった。ただ、その視線だけがわずかに桜桃の方へと向けられる。


 桜桃は小さく、深く息を吐き出した。


 胸の奥にまだ重いものはある。若葉を失った悲しみも、昨日命の線を引いた罪悪感も、何一つ消えてはいない。それでも、今この瞬間だけは、背負う荷物が少しだけ軽かった。


「……ありがとうございます」


「何がだ」


「こうして、私を見つけて、隣にいてくれたことが」


 昊夜は答えなかった。ただ、同じ速度で道を歩き続けた。


 ――通りかかった、と彼は言った。


 この道は診療所にしか続かない。


(……嘘つきですね、昊夜様)


 けれども桜桃は何も言わなかった。ここにいる理由を知ってしまったら、今この胸にある、心地よい甘さが消えてしまう気がしたから。


 乾いた道の上に二人の影が静かに伸びていた。


 ***


 その日、街は殺伐としていた。人の流れが押し合いながらぶつかり合い、声は意味を伝えるためではなく、相手を退けるために発せられている。


 わずかに残った水や食料は、もう分けられる形ではない。手にした者が抱え込み、それに視線が集まる。距離が詰まり、奪おうとする。躊躇はほとんど残っていない。


 完全には崩れていないが、誰も保とうともしていない。境界だけが残っている。その線が、今にも消えそうになっていた。


 風が吹く。乾いたまま。変わらない。


 あと一つ。ほんの小さなきっかけで、すべてが崩れる。

 その直前で、街はかろうじて踏みとどまっていた。


 桜桃は、その只中で、舞をはじめていた。


 ***


 昊夜は広場の外縁に立っていた。


 桜桃の舞に、人々の視線が集まる。けれど、それは信じているからではない。ただ、他に向ける先がないだけだ。


 昊夜はその様子を一瞥し、すぐに視線を外す。


 見るべきものはそこではない。流れだ。人の動き。偏り。崩れ方。


 広場の一角で、若者たちが固まっているのが見える。武器を持ち、視線を合わせず、しかし同じ方向を見ている。臨界だ。一つ火が入れば、そこから一気に崩れる。


 昊夜はゆっくりと歩き出した。


「見ないんですか」


 三歩後ろで、千弦が静かに言った。


「何をだ」


「舞を」


「見に来たわけではないだろう」


 昊夜は歩みを止めない。


 千弦はそれ以上言わなかった。ただ、わずかに広場の方へ視線を向けてから、また前を向いた。


 昊夜は、若者たちの前で足を止めた。

 数人が顔を上げる。警戒の目。敵か味方か判断できない相手を見る目だった。


「何をするつもりだ」


 昊夜が静かに問う。

 責めているわけではないのに、不思議と相手が一瞬怯む。


「見て分かんねえのか」


「分かる。奪う」


 その言葉に、場の空気が固まる。はっきりと口にされ、その行為が形を持ったからだ。


「その先は」


 若者は答えない。答えられない。

 昊夜は一歩、距離を詰める。


「今日を越えた後だ。明日、何を奪う」


 誰もすぐには動かない。明日を想像する。だが、像は結ばれない。


「そんな先のこと考えてどうすんだよ」


「考えないなら、ここで終わる」


 即答だった。淡々とした言葉には感情はない。場の温度がわずかに下がる。


「分けても足りない。奪っても続かない。どちらも同じだ」


 若者たちの間に、動揺が広がった。否定したいのに、材料がない。


「なら、選べ。壊すか、持たせるか」


 二つだけを提示する。奪うかどうかではなく、壊すか持たせるか、基準を変える。


 若者たちは顔を見合わせる。答えは出ない。だが動きが止まった。


 昊夜が踵を返したとき、横から声がかかった。


「あんた、誰だ」


 低く、はっきりした声だった。


 昊夜は足を止めて振り返る。


(……何だ、この小さいの)


 背は低く、年は十三かそこらだろう。だが立ち方だけが、妙に据わっている。顎を上げ、まっすぐにこちらを見ている。


「通りかかった者だ」


「通りかかっただけで、あんな話をするのか」


「必要だったから言ったまでだ」


 琥珀は少し間を置いてから、また昊夜を見た。


「……六花の知り合いか」


「そうなる」


「そうなる、って何だ。知り合いか知り合いじゃないかどっちかだろ」


 昊夜は少し虚をつかれたような顔をしたが、すぐに表情を戻し、答えた。


「……知り合いだ」


「なら見てやれ」


 琥珀はそれだけ言って、広場の方へ戻っていった。

 昊夜はわずかな興味を示したように、しばらくその背中を見ていた。


「……小さいな」


「背のことでしたら、本人の前では言わない方がよいかと」


 千弦が静かに言う。

 

 昊夜は答えず、視線を広場の方へ向けた。


 桜桃が舞っている。動きは揺れているが、止まってはいない。


「……間に合うか」


 小さく呟く。誰に向けたものでもない。


 彼の後ろで、若者たちはまだ動けずにいる。崩壊は止まっていないが、ほんのわずかだけ遅れた。


 その遅れが、どれほどの意味を持つかは、まだ誰にも分からない。


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