第十五話 皇子、嘘をつく
六日目の朝、朝凪は白砂へ続く水路を辿っていた。
山での作業は、装置を作った男たちに任せてある。明日に備えて確かめておきたいことが、まだ一つ残っていた。
水路に沿って歩き、古い分水堰へ差しかかったところで、朝凪は足を止めた。
朝凪は石垣の陰で足を止めた。
堰の前に、飛燕と疾風が立っていた。
朝凪の視線が、飛燕の横顔に留まる。
謀反が起きる前、まだ中将ではなかったはずの男だ。
朝凪がまだ朝廷軍に属していた頃から、その顔と名前は知っていた。だが、同じ任務に就いたことはほとんどなく、近衛へ移ってからも、合同訓練などで顔を合わせる程度だった。
どのような考えを持ち、何を信じて剣を振るう男なのか、朝凪は知らなかった。
ただ、あの夜も、この男がいた。
炎の中だった。混乱の中だった。
その男の顔だけが、鮮明に焼きついている。
朝凪は脳裏に浮かぶ映像を振り払うように、小さく頭を振った。
それ以上は、思い出したくない。
「……確かに止まってるな」
飛燕が堰を見下ろして言った。
「俺はちゃんと三割まで戻しましたよ」
「分かっている」
疾風はしばらく黙って水路を覗き込んでいたが、ふと思い出したように顔を上げた。
「そもそもなんで減らしたんですか」
「全てに行き渡らせることはできない。どこを優先するかだ」
「えっ。それって白砂を切り捨てるってことですか」
「……お前はもう少し言い方を考えろ」
「でも、そういうことですよね?」
飛燕はすぐには答えなかった。
堰の向こうで、わずかに残った水が石の間を流れている。
「全てを救おうとして、全てを失うわけにはいかない」
朝凪は、その言葉を黙って聞いていた。
飛燕はもう一度堰を見たあと、踵を返した。
「俺は一度、帝都へ戻る」
「えっ!」
疾風が勢いよく振り返る。
「帰っちゃうんですか?」
「帰るんじゃない。民部省から、水量調整の件で説明を求められている」
「それって、怒られるってことですか」
「……まあ、そうだな」
「ええっ。じゃあ俺も一緒に――」
「お前は残れ」
飛燕はぴしゃりと言った。
「山の件がある。あの異常な作業をこれ以上進めさせるな。明日までには止めろ」
「俺が、ですか?」
「ほかに誰がいる」
「いや、でも、飛燕殿がいないと……」
「いつまでも俺がいると思うな」
疾風は口を閉じた。
飛燕はその肩を一度だけ叩く。
「しくじるなよ。なんとしてでも止めろ」
「……はい」
「返事だけはいいな」
「ちゃんとやりますよ!」
飛燕はそれ以上何も言わず、歩き去った。
残された疾風はしばらくその背中を見送っていたが、やがて堰へ向き直った。
「……帰っちゃうのかあ」
小さく呟き、首を傾げる。
「いや、帰るんじゃないって言ってたな」
一人で納得すると、疾風も歩き出した。
二人の姿が見えなくなってから、朝凪も石垣の陰を離れた。
宿に戻った朝凪は宿の机に向かい、文を書いた。
長くは書かなかった。事実だけを、順に置いた。書き終えて封をすると、帝都へ送る文の束に、静かに加えた。
***
まだ人々が起きる前の静けさの中、桜桃は一人で歩いていた。目的はなかった。ただ、足を止める場所が見つからなかっただけだった。
昨日、診療所で残酷な線を引いた。こちらを先に助け、あちらは後に。そう自分で決めて、手を動かした。
後に回した者がどうなったか、分かっていた。分かっていて、それでも線を引いた。
正しかったのかどうか、今も分からない。ただ、その重い感触だけが、指先から離れなかった。
昊夜に「すべてを救うことはできない」と冷たく告げられた、数日前のあの言葉。
分かっていた。分かっていたはずだった。
けれど、極限の状況の中で、自分自身の意思で命を選別し、切り捨てなければならなかった瞬間、桜桃は初めて、あの時昊夜が言った意味の本当の恐怖を理解したのだ。
(全然わかっていなかった)
分かっていると言いながら、どんな命もあきらめないと意固地になっていた。
彼は最初から、この地獄のような現実を知っていたのだ。
「また、無茶をするつもりか」
凍てつくような冷たさを孕んだ声が聞こえたのは、そのときだった。
振り返ると、そこに昊夜がいた。
いつもより、少しだけ距離を置いた場所。
桜桃は何か言おうとして、喉が詰まって言葉が出てこなかった。
「……無茶じゃありません。ただ、少し歩いていただけです」
「そうか」
桜桃は小さく首を傾げた。彼の着物や髪に、朝露がうっすらと光っていることに気づいたからだ。まるで、ずいぶん長い間、ここで誰かを待っていたかのように。
「……なぜ、ここにいらっしゃるのですか」
「通りかかっただけだ」
「この道は、診療所へと続いていますが。他には何もありませんよ?」
「そうか。知らなかったな」
明らかに嘘だった。彼がここの地理を把握していないわけがない。
しかも、彼はわざわざ桜桃の歩調に合わせて、自分の足の歩幅を極端に狭めて隣に並んできた。肩が触れそうなほどに近い。
桜桃はしばらく彼の整った横顔を見てから、諦めて前を向いた。
「……昨夜は、眠れたのか」
「あんまり、眠れませんでした」
昊夜は小さく頷く。少しの間を置いてから続けた。
「ここは、安眠できるような場所ではないからな」
「……私は、どうすればいいんでしょう」
「慣れるしかない。それ以外にない」
「……それ、全然優しくないですね」
いつものように言い返すと、昊夜は一瞬だけ、鋭い目を和らげるように細めた。
「お前に優しくする理由が、私にはないと言いたいところだが」
そこで言葉を区切り、昊夜は視線を桜桃の目元に戻した。
「……そう言うと、お前はまた無理をしてしまいそうだな」
桜桃はそれを聞いて、張り詰めていた心がふっと緩み、少しだけ笑った。
突き放すような正論の裏に、過保護な不器用さが隠されているのか、気づいてしまったから。
「……そういうところ、本当に昊夜様らしいですね」
さっきまで、昨日のことを思い出して泣きそうになっていたはずなのに、なぜか胸がじんわりとあたたかくなった。
「……変ですね、私」
「何がだ」
「慰められたわけでもないのに、なんだか、少しだけ楽になった気がして」
昊夜はすぐには返さなかった。ほんの一瞬だけ、朝の空気の中で間が空く。
「私はただ、事実を言っただけだ」
「それが良かったんだと思います」
綺麗事の慰めや、「お前は悪くない」といった優しい言葉なら、きっと今の自分には毒になっていただろう。
自ら手を汚し、命を切り捨てた罪悪感を知ってしまったからこそ、ただ静かに「慣れるしかない」と残酷な事実だけを共有し、隣で同じ歩調で歩いてくれる彼の在り方が、今の桜桃には何よりもあたたかかった。
しばらくして、昊夜がぼそりと言った。
「昨日よりは、顔色がましだ」
「……それ、一応褒めてますか?」
「事実だ」
「昊夜様の褒め言葉って、全部ただの事実なんですね」
「褒めているつもりはない」
「それが私にとっては、一番の褒め言葉なんです」
昊夜はそれ以上、口を開かなかった。ただ、その視線だけがわずかに桜桃の方へと向けられる。
桜桃は小さく、深く息を吐き出した。
胸の奥にまだ重いものはある。若葉を失った悲しみも、昨日命の線を引いた罪悪感も、何一つ消えてはいない。それでも、今この瞬間だけは、背負う荷物が少しだけ軽かった。
「……ありがとうございます」
「何がだ」
「こうして、私を見つけて、隣にいてくれたことが」
昊夜は答えなかった。ただ、同じ速度で道を歩き続けた。
――通りかかった、と彼は言った。
この道は診療所にしか続かない。
(……嘘つきですね、昊夜様)
けれども桜桃は何も言わなかった。ここにいる理由を知ってしまったら、今この胸にある、心地よい甘さが消えてしまう気がしたから。
乾いた道の上に二人の影が静かに伸びていた。
***
その日、街は殺伐としていた。人の流れが押し合いながらぶつかり合い、声は意味を伝えるためではなく、相手を退けるために発せられている。
わずかに残った水や食料は、もう分けられる形ではない。手にした者が抱え込み、それに視線が集まる。距離が詰まり、奪おうとする。躊躇はほとんど残っていない。
完全には崩れていないが、誰も保とうともしていない。境界だけが残っている。その線が、今にも消えそうになっていた。
風が吹く。乾いたまま。変わらない。
あと一つ。ほんの小さなきっかけで、すべてが崩れる。
その直前で、街はかろうじて踏みとどまっていた。
桜桃は、その只中で、舞をはじめていた。
***
昊夜は広場の外縁に立っていた。
桜桃の舞に、人々の視線が集まる。けれど、それは信じているからではない。ただ、他に向ける先がないだけだ。
昊夜はその様子を一瞥し、すぐに視線を外す。
見るべきものはそこではない。流れだ。人の動き。偏り。崩れ方。
広場の一角で、若者たちが固まっているのが見える。武器を持ち、視線を合わせず、しかし同じ方向を見ている。臨界だ。一つ火が入れば、そこから一気に崩れる。
昊夜はゆっくりと歩き出した。
「見ないんですか」
三歩後ろで、千弦が静かに言った。
「何をだ」
「舞を」
「見に来たわけではないだろう」
昊夜は歩みを止めない。
千弦はそれ以上言わなかった。ただ、わずかに広場の方へ視線を向けてから、また前を向いた。
昊夜は、若者たちの前で足を止めた。
数人が顔を上げる。警戒の目。敵か味方か判断できない相手を見る目だった。
「何をするつもりだ」
昊夜が静かに問う。
責めているわけではないのに、不思議と相手が一瞬怯む。
「見て分かんねえのか」
「分かる。奪う」
その言葉に、場の空気が固まる。はっきりと口にされ、その行為が形を持ったからだ。
「その先は」
若者は答えない。答えられない。
昊夜は一歩、距離を詰める。
「今日を越えた後だ。明日、何を奪う」
誰もすぐには動かない。明日を想像する。だが、像は結ばれない。
「そんな先のこと考えてどうすんだよ」
「考えないなら、ここで終わる」
即答だった。淡々とした言葉には感情はない。場の温度がわずかに下がる。
「分けても足りない。奪っても続かない。どちらも同じだ」
若者たちの間に、動揺が広がった。否定したいのに、材料がない。
「なら、選べ。壊すか、持たせるか」
二つだけを提示する。奪うかどうかではなく、壊すか持たせるか、基準を変える。
若者たちは顔を見合わせる。答えは出ない。だが動きが止まった。
昊夜が踵を返したとき、横から声がかかった。
「あんた、誰だ」
低く、はっきりした声だった。
昊夜は足を止めて振り返る。
(……何だ、この小さいの)
背は低く、年は十三かそこらだろう。だが立ち方だけが、妙に据わっている。顎を上げ、まっすぐにこちらを見ている。
「通りかかった者だ」
「通りかかっただけで、あんな話をするのか」
「必要だったから言ったまでだ」
琥珀は少し間を置いてから、また昊夜を見た。
「……六花の知り合いか」
「そうなる」
「そうなる、って何だ。知り合いか知り合いじゃないかどっちかだろ」
昊夜は少し虚をつかれたような顔をしたが、すぐに表情を戻し、答えた。
「……知り合いだ」
「なら見てやれ」
琥珀はそれだけ言って、広場の方へ戻っていった。
昊夜はわずかな興味を示したように、しばらくその背中を見ていた。
「……小さいな」
「背のことでしたら、本人の前では言わない方がよいかと」
千弦が静かに言う。
昊夜は答えず、視線を広場の方へ向けた。
桜桃が舞っている。動きは揺れているが、止まってはいない。
「……間に合うか」
小さく呟く。誰に向けたものでもない。
彼の後ろで、若者たちはまだ動けずにいる。崩壊は止まっていないが、ほんのわずかだけ遅れた。
その遅れが、どれほどの意味を持つかは、まだ誰にも分からない。




