第十八話 知らないままではいられない
遠くでは、白砂の空気が少しずつ変わり始めている。
崩れかけていた白砂の街が、辛うじて、まだ崩れきっていない状態へと踏みとどまっていく。
激しかった雨は夜半まで続き、やがて嘘のように静かにやんだ。
湿った土の匂いが街を満たし、昼間の凄惨な混乱が幻だったかのように、人々はそれぞれの場所で安堵の息をついている。
暗がりに灯る小さな焚き火の周りでは、わずかな食と水が分け合われ、人々の声からは鋭さが消え、確かな柔らかさを取り戻していた。
桜桃はその一角に静かに座り、手の中の器を見つめていた。
温かい湯気が白く立ち上る。ただそれだけのことが、今の彼女には現実離れして感じられた。
器を持つ指先が、かすかに震えている。自分では気づかないふりをしていたが、もう隠しきれないほどに、細かく、激しく。
「……震えてるぞ」
琥珀だった。前に回り込んで、すとんと目の前にしゃがみ込む。
桜桃の手元をじっと見つめ、それから、その青白い顔を覗き込んだ。
「気づいてた?」
「なんで震えてるんだ」
「止まったら、……動くのをやめたら、震えが来ちゃったの」
琥珀は少し黙った。
「そういうもんか」
「そういうもんだと思う。……気が張っていたから」
「……俺は来なかったな」
「え?」
「震えが。いくら待っても、来なかった」
琥珀は膝に肘をつき、静かに火の粉を散らす炎を見つめた。
「なんでだろうな」
桜桃はその横顔を痛々しく見つめた。
十三の、まだ子どもだ。だがその小さな横顔は、今日あった凄惨な出来事のすべてを、あまりにも静かに飲み込んでしまっている。修羅場に慣れているのか、それとも処理が追いついていないのか、桜桃には判別がつかなかった。
「……怖くなかった?」
「怖かった」
即答だった。
「でも、怖いのはいつものことだからな」
その一言が、夜の静寂に重く落ちた。
桜桃は、言葉を失った。
「水がなくて、人が倒れて、どうしようもない感じは毎年あった。……まぁ、今年が一番ひどかったけどな」
「……毎年」
「ああ。だから、慣れてるのかもしれない」
慣れている、と琥珀はあっさりと言った。だが、十三の少年が口にするその言葉の重さは、少しもあっさりなどしていなかった。
「琥珀」
「何だ」
「これから先は……毎年こうじゃなくなると、いいね」
琥珀は少し間を置いてから、ぽつりと言った。
「……なるといいな」
断言ではなかった。でも、決して否定でもなかった。
それだけ言うと、琥珀は気恥ずかしさを隠すように勢いよく立ち上がり、「飯、持ってきてやる」とだけ残して火の方へ歩いていった。
振り返りもしない。でも必ずここへ戻ってくるだろうと、桜桃には分かっていた。
「……姫」
今度は、頭上から別の低い声が落ちてきた。
刹那が桜桃の隣にごく自然に腰を下ろし、ちらりとその横顔を見た。
「……まだ濡れたままだぞ、お前」
「雨が、気持ちよくて」
「風邪ひくだろ」
呆れたように呟きながら、刹那は何気ない動作で、自分の大きな外套を桜桃の細い肩にふわりとかけた。
男の体温が残る圧倒的な重みと温かさに、桜桃が驚いて目を瞬かせると、刹那はとっくに視線を外の暗闇へ向けている。
「……ありがとな」
「何がですか」
「色々とな。……お前が舞をそうそうに止めてりゃ、今頃ここはなかった」
短く、噛み締めるような刹那の言葉に、桜桃は一瞬、息が詰まった。
「……私は」
口を開きかけて、押し黙る。私は何も出来ていない。結局、雨が降るまで舞を途切れさせてしまった。そう自嘲しようとした言葉が、彼の横顔を見て喉の奥に消えた。
刹那は彼女の言葉を遮らず、ただ、静かに次の言葉を待ってくれている。
桜桃は膝の上で視線を落とした。器を持つ手が、さっきよりも強く、カタカタと音を立てて震えだす。
「……今になって、全部来たの」
ぽつりぽつりと、掠れた声がこぼれ落ちる。
「震えが止まらないの。さっきまでは……雨が降るまでは、とにかく動いていないといけなかったから。足を止めたら、その瞬間に何かが全部終わってしまう気がして……」
刹那は何も言わない。ただ静かに、大きな影のように隣にいてくれる。だからこそ、桜桃は堰を切ったように本音を重ねることができた。
「……もし、あのまま、本当に雨が降らなかったら」
喉がひゅっと鳴る。恐ろしい想像が頭をよぎるが、もう止められなかった。
「本当に暴動が起きて、みんなが刃物を剥き出しにして押し寄せていたらって思ったら……」
一瞬、深い沈黙が二人の間に落ちた。
桜桃はゆっくりと、自分の愚かさを噛み締めるように首を振る。
「怖かった。……私、こんなに怖いものだとは、知らなかったの」
飾りのない、むき出しの告白だった。気高くあろうとした舞姫ではなく、ただの一人の少女としての、本当の実感だった。
刹那は少しだけ視線を外す。火の揺らぎを見る。
その向こうに、別の景色が重なる。焼けた地。崩れた村。叫び。血の匂い。
「……そんなの」
低く言う。
「知らなくていいんだ」
静かな声だった。強くはないが、揺れもない。
桜桃はすぐには返さない。その言葉の意味を、確かめるように受け止める。
「……でも知らなかったままではいられない」
小さく言う。桜桃はそこで、膝の上で無造作に組まれた刹那の手に、視線を落とした。
剣を握り続けてきた、武人の手。無数の古傷が刻まれ、節くれ立ったその手の平の佇まいは――どこか、朝凪の手の記憶と重なった。
「刹那のその手の傷……昔から剣を握ってたの?」
刹那は自分の拳を、他人のものを見るようにじっと見つめた。それから、ゆっくりと手を解く。
「……そんな、大層なもんじゃない」
短く言う。火のはぜる音だけが、二人の間を埋める。
「ただ、昔ちょっと、因州の外までな」
「因州の、外……」
「狄族との戦だ」
その言葉に、桜桃の目がわずかに揺れる。深黎は狄族出身だと言っていた。
「最初はただの小競り合いを止めに行くだけだと思ってたんだがな。あっという間に、戦と呼ばれる規模になっちまった」
淡々と、他人事のように言う。
桜桃は器を握る手に力を込めた。
「狄族と、戦……」
信じられない心地でその言葉をなぞる桜桃に、刹那はそれ以上、当時の状況を詳しく語ろうとはしなかった。
「……その戦は、どうなったの」
刹那はふっと視線を落とした。火が爆ぜる。
「全滅させるしかなかった」
「全滅……」
「そう、一人残らずな。『殲滅戦』って言われてたよ」
さらりと、あまりにも軽い調子で、刹那は言った。
その軽さが、かえって桜桃の背筋を凍らせる。手元の器の中の水面が、自分の震えのせいで小さく揺れていた。
そんな非道なことを、刹那が見てきたというのか。
桜桃は乾いた喉を震わせ、ゆっくりと顔を上げた。
「……それを、誰が決めたの?」
刹那は一瞬、答えなかった。
だが、隠し通すには、あの戦場の血の匂いはあまりにも重すぎた。
「上だよ」
肩をすくめるようにして、刹那は首を振った。
「星河帝の命令だった」
その一言で、空気が変わる。桜桃の動きが止まる。呼吸すら忘れて、ただ目を見開いた。
自分の、父。優しかったはずの、あの帝が。
刹那は桜桃から視線を外す。
あえて聞かれたことに答えただけだという顔をしていたが、これ以上思い出せば、今ここに戻ってこられなくなるのを、自分が一番よく分かっていた。
桜桃はしばらく何も言えない。ただ、手の中の器を強く握る。
「……そう」
やっとのことで、言葉が落ちる。
そこへ、琥珀が戻ってきた。小さな椀を二つ持っている。
「飯、持ってきた」
桜桃と刹那を見比べて、空気が重いことに気づいたのだろう。少し間を置いてから、黙って椀を差し出した。
「……ありがとう」
「食え」
それだけだった。
三人は並んで、しばらく火を見ていた。
夜は静かだった。だがその静けさは、先ほどまでとは違う重さを持っていた。
***
雨が上がったあと、装置はそのまま残されていた。
細い管がいくつも連なり、わずかな水を生み出していたそれは、今は役目を終えたように静かだった。
管の一部が外れ、布は濡れてたわんでいる。動いていた頃の整然さは消え、ただの部品の集まりに戻っていた。
男はその前にしゃがんで、壊れた箇所を一つずつ確かめていた。
直すためではない。どこから崩れたかを見ている。
「……思ったより持ったな」
独り言だった。
外れた管を手に取り、断面を見る。想定より早く限界が来た箇所と、予想以上に保った箇所がある。
面白い、と思った。
「次は」
声にならないまま、頭の中で組み直しが始まる。
この条件なら、ここをこう変えれば。あの失敗を踏まえれば、次はもう少し長く保てる。
壊れたものを前にして、男の目だけが生き生きとしていた。
「……また作るか」
誰に言うでもなく呟く。
どこで、とは考えない。
ただ、次がある。
男は外れた管を丁寧に布で包み、懐に入れた。
そのとき、朝凪が、男に近づいた。
「……清明様の命令だったのか」
探るようでもあり、確かめるようでもある。
男は手を止める。わずかに肩が揺れる。だが振り返らない。
朝凪が男を見る。
「何者だ」
間が落ちる。風が抜ける音だけが、二人の間を通る。
やがて男は、小さく息を吐く。
「……発明家だ」
簡潔で、曖昧で、それ以上を拒む響きだった。
朝凪はしばらくその背を見ている。その答えが答えになっていないことを理解しながら。
「……捕らえられていたな」
「危険なものを作った、と」
男はわずかに笑う。振り返らないまま。
「危険かどうかは、使う側が決める」
淡々とした声音だった。
「それを、解いたのが清明様か」
問いではなく、ほとんど確信だった。
男は答えない。だが沈黙が、それを肯定している。
朝凪は視線を空へ向ける。雨の去った空は、まだ低く雲を残している。
「……らしくないな」
小さく呟く。
使えるものは使う。その結果がどう転ぶかも含めて。
──それは如月のやり方だった。
朝凪はそれ以上問わない。必要なことは、すでに揃っている。
男もまた、何も言わない。ただ再び装置へと向き直った。
***
昊夜が水路の装置を見つけたのは、二人が去った後だった。
辺りにはまだ水の匂いが漂っている。大地はしっとりと湿り、遠く広場の方からは、地獄の終わりを喜ぶ人々の微かな歓声や笑い声が風に乗って聞こえてきた。
千弦が、いつものように三歩後ろに音もなく立った。
「……六花さん、すごいですね」
静かな、けれどどこか本当に心の底から感服しているような響きだった。
だが、昊夜は答えない。
千弦は淡々と、しかし言葉を重ねる。
「民はみな、舞姫が天に祈りを届け、雨を呼んだと信じて疑っていません。あれだけの絶望の中で、あの場を繋ぎとめ、やり遂げた」
「違う」
昊夜は短く、冷たく遮った。
千弦はわずかに間を置く。
「……六花さんのお陰ではない、と?」
「あの舞が、雨を降らせたわけではない」
昊夜は目の前の装置に視線を向けた。細い管が幾重にも複雑に連なり、役目を終えて今は静かに佇んでいる。
先ほど軍の前で「ここより先は神域だ」と言い放った男の目とは到底思えない、冷え切った眼差しだった。
「この装置と、山での爆発。それこそが、この雨の正体だ」
「……存じております」
「では、なぜすごいなどという言葉が出る」
千弦は少し考えてから、静かに答えた。
「たとえからくりがあろうとも、あの暴動寸前の殺気の中で、ただ一人舞台に立ち続けた彼女の意志は、装置とは別の話だと思いましたので」
昊夜は何も言わない。千弦もそれ以上は追及しなかった。
雨上がりの湿った沈黙が、二人の間に深く落ちていく。
昊夜は装置を見つめたまま、ぽつり、と低く理知的な声をこぼした。
「雨は、空から突然生まれるものではない」
山に残る雪、地に染みる水、風に混ざる湿り。それらは本来、長い時間をかけて世界を巡り、やがて雲となり、落ちるべき場所へ落ちていくものだ。
「この装置がやっているのは、その自然な時間を待たないことだ」
散っている水分に道を与え、無理やり一つの流れに束ねる。山から、地から、空気から、無理にでも引き寄せる。本来なら遠くへ分かれていくはずの水を、ここへ引き戻しているだけだ。朝凪の爆発も同じだ。
「熱と衝撃で空気を一気に持ち上げ、上昇気流を作り、地上に散っていた湿りを引き寄せた」
「……つまり」
千弦が言葉を引き取る。
「雨を作ったのではない。周囲から集めたのですね」
「そうだ」
昊夜は淡々と続ける。
「これは奇跡ではない。本来ばらばらであるはずの水分を、一箇所に強制召喚するだけの仕組みだ」
「条件が完璧に揃わなければ、何も起きなかったと」
「その通りだ。空気の湿度、地の水分、そして空へ持ち上げる爆発の熱量。どれか一つでも欠ければ、ただの生温かい湿った空気で終わっていた」
昊夜は視線を装置から、どんよりと曇った空へ向ける。
「これは天候の再現ではない。ただの……『再配分』だ」
本来なら、時期をかけて別の場所へ降るはずだった雨を、ここに一気に前借りして集めている。誰かの土地に降るはずだった恵みを、因州が横取りしているのだ。
「……それはつまり、別の場所から雨を『奪っている』ということですか」
千弦の問いに、昊夜はわずかに目を細めた。
「そうなる」
短い肯定。その声は酷く冷たい。
「歪な、再配分だ」
否定ではなく、事実の確認だった。
神に祈り、自然を動かしているようでいて、その中身は最も自然から遠い行為。極めて人工的な操作だ。
「だから、壊れやすい」
誰に向けた言葉でもなかった。
千弦はしばらく黙って、主君の横顔を見つめていた。
「……六花さんには、言いますか」
「何を」
「この雨が、彼女の舞の力などではなかったという事実を」
昊夜はすぐには答えなかった。
さっきまで軍勢をハッタリだけで震え上がらせていたその鋭い瞳を、今はただ、低く垂れ込める雲へと向けている。
「……それを言って、何が変わる」
千弦は答えない。昊夜も、それ以上は何も言わなかった。
因州の雨上がりの空には、奇跡の代償を物語るように、重く、どす黒い雲がまだ低く残っていた。




